「写真・ルーブルで彫刻と遊ぶシリーズ」
同じ香りを嗅いでも、ひとそれぞれの感じ方があります。
同じものを観ても、それぞれの見え方があります。
自分の体験している感覚は、自分のものであって他人のものではありません。
他人の感性に翻弄され、自分の五感を大切にできなくなってくると自分が意識していないところでアイデンティティの不統合が起きてくるようです。
だからこそ、自分の五感を大切にしてほしい、、と常々思います。
さて、昨日は金剛流の家元が「花軍(はないくさ)を舞われました」金剛流では百年ぶりの演目だそうです。
地謡には、私達の師も入り、能の始まりから、すでに整われている空気に衝撃を受けました。
「静」の空気を乱すことのない「動」は、エネルギーが宇宙に放出するような永遠の広がりとなって観ている私自身を自由にしていきます。
白菊の精(シテ)の佇まいと所作の連動が「在るもの」即ち「無きもの」として観えてきたのです。
地謡の響きも同じです。「在るもの」即ち「無きもの」なのです。
「存在であり非存在」において、自然界と精神の融合を目的とするならば、その存在そのものが人の窮みのように思えてきました。
普遍性という鋼ではなく柵も無い軸の美しさを、自分の眼で観たような気がしました。満足感とはこのことかもしれません。
明日は腰越の勉強会です。自分の五感と体感を大切にしつつ、和気あいあいと楽しみましょう。
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