「ルーブルで彫刻と遊ぶ」
何故、国語の教科書に能の謡曲が取り上げられないのでしょう・・・
学校の課外教室では、能や狂言、歌舞伎鑑賞が行われているにも関わらず、教科書の中で学ぶ機会がありません。
頭から「難しいもの」と有識者までもが決めつけているような節もあるかもしれません。
でも、実際能楽に触れてみると、決めつけた思い込みが違う事がよく解るのです。
国語の中には「古典」という教科があります。
私達は、その古典を文法含めて、作品のあれこれの概要を学んでいます。
でも、それらは受験を意識したつまらないものになっているような気がしてなりません。
能のひとつの演目の謡曲をきちっと読んでみると、世阿弥の頃に既に古典であった古今和歌集や伊勢物語、万葉集、平家物語や源氏物語の一節がが時空を超えて登場し、ひとつの言い回しに「比喩」として描かれていることに気付きます。
どの時代でも文学に親しんでいる人であれば、謡曲は古典のパズルを組み立てるような気持になり、それがいつしか古典の知識と繋がり、気が付くと謡曲の内容を知るために古典を読んでいる自分がいます。
謡曲を読み解くには古典の知識が必要で、知識が繋がると謡曲の面白が倍増します。
古典とはいえ、それらは時代時代に即した言葉の連なりです。私達の祖先である大和人が描いた人の「思考と感情と行動」は現代に生きる私達となんら変わりはありません。
それらを比較考察しながら、日本人の感性の美しさを堪能し、自分自身の在り様と重ね合わせていくことができるのが謡曲の魅力だと思うのです。
謡曲の謡い本を一冊読めば、古典のエッセンスを学びとること間違いなしです。
長く伝えられている芸能には、伝わる意味があるから伝承されているのです。
「神話を持たない民族は滅びる」言葉は、後世の神話とも成りうる今を見据えていく上で意識しておかなくてはならない大事な言葉ではないかと、つらつら思います。
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