五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

歌舞伎座

2009年06月13日 | 第3章 無意識の世界
来年、東銀座の歌舞伎座が取り壊されます。

久しぶりに歌舞伎を観ました。

お目当ては、金太郎さん、4歳の初舞台。
お父さんの染五郎さん、おじいちゃまの幸四郎さん、三代での連獅子です。

見得を切る手さばきなんぞは、もうすっかり一人前の歌舞伎役者です。
親の後を継ぐ金太郎さんの存在は、次の時代を継いでいく確かな道筋。

思えば、昭和54年の染五郎さんの初舞台の連獅子が私の初歌舞伎体験でした。学生の頃です。
懐かしさと、時の早さを感じつつ、お江戸の時代に旅した気分を存分に味わいました。

話は変わり、幕間に頂くお弁当は、歌舞伎ならではの風景ですが、アメリカ人の観光客のおばちゃん達が、びっくりしたようで、皆が座席で頂くお弁当を写真に撮っちゃったり、まるで、宇宙人に遭ったかのようなサプライズだ!と興奮気味。逆に、それを眺める日本人のお客さんたちが、「あら~、立ってバナナなんて食べちゃってぇ~、クッキーだけじゃ、おなかすくわよねぇ~」などと、ひそひそ・・・

どっちが動物園の檻の中の動物か分からない状態・・・

風習から見える比較文化。異文化交流と外交は、庶民の触れ合いから始まるものなのだ・・・と、しみじみ実感いたしました。

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止めずに続ける

2009年06月12日 | 第2章 五感と体感
諸々の忙しさとお天気の関係で、久しぶりにテニスをしました。

このテニスの会は、なんと今年で15年になるそうです。
途中から参加した私も、10年以上やっているという計算になります。

週に一度、テニスコートを抽選で取り合い、調整していきます。
それぞれの事情をいちいち聞かず、できる人のみ淡々と続けていることが、続いているコツでもあるのでしょう。

ただ、皆さんと話すことは「やめちゃうと、もう、やらないもんね~」、「ともかく続けよう」、、、よいうようなことです。

実際、私たちのコートの隣では、やはり、長年続けていらっしゃる人生の先輩方が張り切ってコートを駈けています。中には80代の方もいらっしゃいます。

休みがちなテニスですが、他には替え難いスポーツです。

止めずに続けることだけを目標に、楽しもうと思います。

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夏の気配

2009年06月11日 | 第2章 五感と体感
ニ、三日前の朝、最寄駅の前にあるお寺の門前に植えられている沙羅双樹(夏椿)に花が咲いていることに気づきました。
夕方、家に帰ると、我が家の沙羅双樹も花が咲いていました。
植わっている場所が違うのに、同じ日に花咲くとは、見えない糸電話が張り巡らされているのかしら?

自然の摂理を想います。

昨日は、気になっていたひまわりの双葉の植え替えをしました。
プランターから、ひとつひとつ間を開けて地面に植えかえたのですが、お隣のおじさんが、二階から眺め、「間隔、せまいんじゃない?、北竜町のひまわりは大きくなるよ~」と冷やかされ、手狭になったら、また植え替える覚悟で作業は終了。

天国に召された大切な人への想いを「ひまわり」に託し、大切に育てるつもりです。

梅雨の雨に打たれた双葉は、そろそろ土に馴染んでシャンとすることでしょう。

先日の展覧会で掛けた御絵(悲しみの聖母)は、亡くなった親しい人たちのためのものです。六月は私にとって死者の月です。夏至に向かう頂上へのラストスパート。地上から天に向かう分岐点の一番の輝きだとも解釈しています。

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生涯の課題

2009年06月10日 | 悔いのない人生とは?
「受容」という言葉。
勉強会などで、安易にこの言葉を使っていますが、実は大きな大きな人間のテーマです。

倫理道徳に関係なく、自己の湧き出す感情を大切にしたいものですが、湧き出す想いを意識化するのは、訓練が必要なようです。
母親だからこんなことを思ってはいけない、とか上司だからこう思わなくてはいけない、、、とか、、、
自分でも気づかないうちに、枠の中に概念を押し込めていることは、当たり前のことだと思います。

「自由に、あるがままに、自己受容して生きていこう!」
などと言われたところで、戸惑うばかりです。

人の本質は「不安」だそうです。

不安感が湧きあがるからこそ、自分をどうやったら守れるか、成育史の中で知恵を身につけていきます。
でも、その知恵は人によって違います。

自分を守る術「知恵」には、傾向があります。

思うようにならないと人のせいにしたがる人・・・笑ってごまかす人・・・雲隠れする人、自分がやらなくては何も動かない!と思い、全部仕切っちゃう人・・・
静かに時を待とうとする人、、、自分のせいにしてしまう人、、

何も自分を守る術が「元気よくポジティブに戦うこと」ばかりではありません。

自分の傾向を知ることは、同時に自分の中で腑に落ちる体験へと導いていきます。

不安感を持ちながら、どのように自分の傾向と向き合っていくか?
これは、生涯の課題と云えそうです。

昨晩のカエルは、どこかに雲隠れです。

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牛ガエル

2009年06月09日 | 第2章 五感と体感
台所の生ゴミを捨て忘れていたら、ゴキブリが。。。。

玄関を開けて、外のゴミ箱に向かおうとしたら、玄関のまん前に牛ガエルが。。。

現在、我が家に住みついているカエルは、たぶん三、四代目です。
、というか、私たちのほうが、カエルよりも居住の歴史が浅いかも・・・
毎年この季節になると、我が家の中で人間以外の気配が気になりだします。

当分の間、玄関のドアを開けて、驚かないよう意識するしかありません。

昨日のブログではありませんが、福の神だと思って、今年も大切にいたしましょう。。。
解釈次第で、カエルもカワル。

しかし。。。本音を言えば、大きいカエルはやっぱり苦手。。。

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どう解釈する?

2009年06月08日 | 第3章 無意識の世界
世田谷美術館での江戸表具の会は、おかげ様で700人近い方に見て頂き、無事終了いたしました。この場を借りて、御礼申し上げます。

さて、
その展覧会に出品されたニ副で対の表具の本紙(作品)解釈で最終日は大いに盛り上がりました。

本紙は、「福の神」と「貧乏神」
掛け軸作者の方は、家では「福の神」だけ掛けて「貧乏神」は縁起が悪いので掛けないそうです。

私たちは、そんな説明を受けながら、じっくりと二人の神様を眺めました。


福の神と云われている神様は、浅黒い顔に、バラバラひあごひげを生やし、だらりとした着物は腹まで下がり、床の上にアグラを掻いています。
肩には、袋を担いでいます。

貧乏神と云われている神様は、白い肌です。着物もきちっと着ていて上質な感じがします。右手に金の打ち出の小槌を持ち、俵の上にアグラを掻いています。
肩には、接ぎを当てた袋を担いでいます。

鑑賞者の皆さんと腕を組み、唸り出しました。

「貧乏神だと解釈しているのは、実は、福の神では?」
「接ぎ当ての袋に惑わされたか???」

言葉で神様の説明をすると、小槌と俵という「言葉が目に入る」わけですが、絵で見ると、瞬間、「袋の接ぎ当てに目がいきます」。

さてさて、どちらの解釈がしっくりくるんでしょうねぇ~

今日から家に掛けるのであれば、両方掛けてあげた方が、福を呼びそうな気がします。

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どこまで喋るか?

2009年06月07日 | 第2章 五感と体感
カウンセリングの勉強会は、エンカウンター(自己開示)はどうしても避けられません。

蓋をしている思いや感情をどこまで抑えるか?
それとも、抑えていることに気づかないで生活しているか?

それは、人それぞれですし、私自身もあけっぴろげな性格だと言いながらも、無意識に抑えているものは意識していることよりもはるかに多いと推察しています。

勉強会に出たての方の中には、始めの頃は、自分を理解してもらいたいという意識が働き、言わなくてもいいようなことまで喋り、勉強会が終わってから反省とともに自己嫌悪に陥るひとも少なくありません。

でも、そんな経験を積みながら、「どこまで喋るか?」とか「どう意識化するか?」の体感が自分のスケールにかみ合ってくるのです。

やってみなければ、わからない体感、直感かもしれません。

私の場合、いつまでたっても、「あーーーー、ちょっと喋りすぎた感があるなぁ~」と反省することはしばしばです。
でも、その時に、湧きだした感情を抑えてしまうことに、「悔い」を残すことを考えたら、言ってしまったほうが楽になり、「次に進みます」。

そして、その場の雰囲気、傾向への現実吟味力と配慮が必要だということが、だんだんとわかってくれば、また一歩、学びが進んで行きます。

私たちの学びの場は、発言者への否定的な言葉は、慎む努力をしていただいています。

ロジャーズの6条件、この条件を満たすことが最低のルールであり、最高の訓練のようです。

「否定も肯定もせず・・・」

とても難しいことかもしれませんが、ひたすら学びを続けるしか術はありません。

勉強仲間の皆様、末永く、天国に逝くまで宜しくお付き合いくださいませ。

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感情の投影

2009年06月06日 | 第2章 五感と体感
只今、表装展の真っ最中です。
世田谷美術館の区民ギャラリーにて、「江戸表具を愛する会」を開催しております。

雨降る天候の中、お越しいただいている皆様に深く感謝いたします。

土、日はしっかりとおります。日曜日は4時終了です。

私と関わる親しい皆様や課外学習でやってくる子供たち、他の展覧会を見るため、ふらりと寄られた方、砧公園お散歩の方、、、駅から遠いところですが、区民ギャラリーはけっこう賑やかです。

表装は、とても地味な作業です。
本紙(作品)との調和を優先しながらも、仕立てる人の個性は充分発揮することは可能です。

表装は、日本人にとって馴染みのあるものなのですが、住まい方の変化によって最近は、目にはしていても触れていない人が多いようです。

表装を展覧会場で目に触れる来場者の皆様のコメントは、私にとっての大きな宝物となっています。
目にする人の成育史から表現される言葉は、私に対してではなく、見る人の心の投影なのです。
その投影するものを聴いているひとときが、なんとも楽しいのです。

五感の言語化は、いつも目に触れているものとは違うものに接することで、ちょっとした刺激が与えられます。それによって、より一層、湧き出す感情が自分の心を投影していくようです。

音楽を聴いたり、絵を見たり、お香を愉しんだり、雨降る公園の緑の匂いを嗅いだり・・・

昨日の美術館のレストランのランチの時間帯、親しい方々が楽しそうに食事をしている風景を眺めながら、幸福感が湧き出してきました。

感情の投影。まずは、身近な楽しみから意識してみると、一日が幸せになるのではないでしょうか?

今日の私はどんな幸せをいただくのか、楽しみです。

一日の楽しみは、人生の楽しみ

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本音の感情

2009年06月05日 | 第2章 五感と体感
「自分の本音の感情は?」

と、急に問われても、即答できるものではありません。

「感情?」と問われ、しかも「本音は?」と問われようものなら、考え込んでしまうほうが素直な本音の感情かもしれません。

とくに、人生経験の浅い子供は、言葉で感情を表すことに慣れていません。
・・・というか、言葉を知りません。
お母さんの一言に、怒ったり、拗ねたり、黙りこんだり、泣いたり・・・

そんな現象を経験するたびに「思春期よね~」と過ぎ越すよりもそれ以上に戸惑うほうが現実的のように思います。

怒ったり、拗ねたりしたときに、心の中にどんな「もやもやした感情」があるでしょう。

「いらいら?」「バタバタしてる?」それとも「べとべとしてる?」
「石が詰まってるような?」
「頭に重りを乗せられているような?」
「紙をくちゃくちゃにしたい気分?」

具体的な言葉を出すだけが、本音の感情の言語表現とは限りません。

感情を擬音にしてみたり、何かに例えてみたり、色にしてみたりすると、言葉で具体的に表すよりもスッキリする場合もあるようです。

互いに眉間に皺を寄せ、怖い顔をして深刻になっていたら、ますます固まります。

赤ちゃんが初めて言葉を発する言葉は、「まんまーー」とか「あーー」です。
親は、自分の子が言葉を発した時の感動体験があります。
赤ちゃんが「あー~ー~」と言うだけで、大人は大喜びです。

なんで、そんなに嬉しいのか。。。。
人は感情を言葉で出し合って意思疎通を図っているようです。
だから親の顔を見て「あー~ー~」と言われようものなら、我が子との初めての感情交流に親は嬉しくてとろけそうな気分になります。

その感動体験を思い出しつつ、感情の言語化を試してみるのも一つの方法かも・・・

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湧きだす感情の処理

2009年06月03日 | 第2章 五感と体感
初めて出会う人との関わりは、直感から始まります。

私の直感は、案外当たらないので、あまり強気なことは最近言わないように心がけていますが・・・親しい人には、ずいぶん甘えているので、なんとも言えません。

そうはいっても、直感とは、自分が瞬間に湧きだす感情なので、自分の内で阻止しすぎることはしないほうが良さそうです。

思ってはいけない、感じてはいけない、と自分の湧き出す感情をとめてしまったら、だんだんと我慢が重なり、感じることを放棄してしまうことになってしまうかもしれません。

不安な感情がどんどん広がり、怒りっぽくなったり、眠れなくなったり、気分が沈みこんでしまったり、放っておくといろいろな現象として表れてきます。

そんなわけですから、
自分の湧きだす感情を聞いてくれる「人」を大事にしたいものです。

「自分が自分でいる」ことができるのは、自分を大切にしてくれる「人」の存在があるからこそかもしれません。

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一日ひとつ

2009年06月02日 | 第2章 五感と体感
世田谷美術館の区民ギャラリーにて「表装展・江戸表具を愛する会」が始まりました。
先輩方のお仲間に入れて頂き、今回も技術と知識を一気に習得するつもりです。

当たり前だと思ってやっていたことが実は違ったり、面倒くさい工程を省いた簡単な秘密のやり方、とか。。。

どうも今年は、自分でも作業に集中力を欠ける傾向を感じています。

仕事との両立は、なかなか難しいものです。どちらかを一所懸命やると、相対することはおろそかになります。

すべてを同じモチベーションで。。。。と思うのは無理なことなのでしょう。

作品展の一週間、みなさんから一日一つ学ばせていただければ、充分です。

時間に追われ、無理しながらの学びも時には必要ですが、手を動かし、自分の時間をん大切にする。。。


私の体感は、いつもの通り。

違う方向やいつもとは違った人間関係からひとつひとつ丁寧に解きほぐしたり、ひとつひとつ学ぶ時間は、私にとってとても貴重なものです。

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弥勒菩薩の指先

2009年06月01日 | 第2章 五感と体感
フランシスコザビエルが日本で布教を始めたときに、「イエス キリスト」を大日如来と置き換え解釈した日本人がたくさん居たようです。

フランシスコザビエルが日本に初めてキリスト教を伝来したわけではありません。その前に「景教」として日本に入ってきています。

だから、勘違いしたことが真理だったりすることもあるわけです。

東大寺を建立した聖武天皇の妻、光明皇后は、景教徒といわれています。

京都の太秦にある「広隆寺」は、養蚕、絹織物に携わる秦一族の秦河勝が建立しました。聖徳太子ゆかりのお寺です。

別名「太秦寺」は、中国では景教の教会を指したそうです。

何が始まりか、何が一番最初なのか、そんなことを考えていると歴史の興味は尽きません。

そこにいらっしゃる弥勒菩薩の美しいこと・・・

先日、中学の修学旅行以来、立ち寄ってみました。

お寺の境内には苔むした庭園が広がり、そこからどこから香るのか芳しい香りが漂い、不思議な気(け)を感じ、中に入りました。明らかに何かの「香」の香りです。
でも、国宝を安置する場所に香を焚く習慣があるとも思えず、首をかしげたまま、今だに謎です。

30年以上の歳月は、弥勒菩薩にとってみたら、そう長いものではありません。
でも、私の姿は、ずいぶん変りました。

美しい姿はそのままです。

右手親指と薬指を丸く指先で合わせ、人差し指と中指と小指は立っています。
この形は、キリスト教=景教の三位一体を表していると聞いたことがあります。

弥勒菩薩始まりはインドです。それが、いつしかミロク思想として景教と融合していきます。

始まりの前には、それより以前の始まりがあります。

しなやかな指先に見とれる人は、指先に籠められた神の愛、仏の慈悲をきっと誰しも感じるはずです。

美しい姿は、自然と手を合わせる人の情動を導きます。

人は、見えるものだけを見て暮らしているわけではありません。
見えているものか見えてくるものは、始まりの始まりを体感するところから始まるのです。

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