〔以下、「待合室」第108回の「2001年冬の長崎市(その5)」(2004年8月6日から19日まで掲載)の再掲載です。なお、今回の写真は、全て2001年12月24日に撮影したものです。〕
大分市内のかつての自宅から長崎へ飛び、しばらくそこにいたと思ったら渋谷へ移り、長崎に戻って原爆投下地や出島を歩いていたと思ったら、いつの間にか東京都世田谷区奥沢にいました。「一体何なんだ」と思われる方もおられるでしょう。気が向けば、一人でどこかの街へ行って歩きまわるというのが私の性格でもあり、趣味でもあります。そのため、進行に特別な規則はありません。
さて、長崎へ戻り、出島から長崎駅の裏のほうに行きましょう。長崎市は、地図で見るとかなり広い領域を有するのですが、市街地は狭く、主な観光スポットは路面電車でまわれます。長崎駅付近にも、歴史的に著名な場所があります。
日本史の教科書には必ず登場するはずの、豊臣秀吉によるキリシタン26名の処刑(殉教)の場所です。長崎駅前の裏通りから、かなりきつい坂道を歩いていくと、程なく到着します。
上の写真は、入口付近にある案内板です。織田信長はキリスト教の布教を容認し、九州をはじめとした各地にキリスト教徒が増えました。九州には、大友宗麟のようなキリシタン大名も登場します。しかし、豊臣秀吉は、ポルトガルが日本を侵略しようとしているという情報を耳にしたこともあって、キリスト教の布教などを禁止します。当時、ポルトガルは、キリスト教の布教と海外の貿易拠点の確保(占領)などを行っており、スペインと世界の勢力圏分割などを行っていたので、侵略という話もまんざら嘘ではないでしょう。後のことになりますが、哲学者のカントは、日本の鎖国政策を高く評価しています。
イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの石碑です。彼は、西欧人で最初に日本史の著作を残しました。それは、おそらく、大部分が長崎で書かれたことでしょう。
上下の写真に人影が写っています。他ならぬ私です。
これも、ルイス・フロイスの生涯を記した石碑です。今の大分県で活動していたことがわかります。1565年に京都を訪れていますが、応仁の乱から100年ほど経ち、足利幕府の権威も地に落ち、幕府の滅亡も近かったことから、あまり意味のある結果を残さなかったようです。1569年に織田信長に謁見した後、しばらくしてから大分県に移り、臼杵などで活動したようです。その後に長崎へ移っています。
私が日本二十六聖人殉教地を訪れたのはクリスマス・イヴの日の午後でした。非常に静かな一時です。撮影をしてから、私は、奥の建物に入り、様々な展示物を見たりしていました。
ごらんのように、二十六聖人の姿がレリーフとなっています。日本人が20名、外国人が6名だったとのことです。これは、実際に見ると目を見張ります。
日本二十六聖人殉教地の敷地から撮影しました。長崎駅の裏のほうなのですが、ごらんのように、かなり急な勾配で、丘陵地帯にも多くの家が建て込んでいることがわかります。左側手前のほうに階段が見えますが、この辺りは、車が入れないような坂道が非常に多いのです。実際、仮に階段状になっていなくとも、自動車が登れないのではないかと思えるような勾配がありますし、道幅も狭いのです。
奥には観音様(と思われる)の像があります。地図などには掲載されていないと思います。ふと、東海道本線の大船駅付近にある観音様を思い出しました。