ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

さとり世代

2013年03月19日 12時06分01秒 | 社会・経済

 昨日の朝日新聞朝刊39面14版に「さとり世代浸透中 車乗らない 恋愛は淡泊… 若者気質、ネットが造語」という記事が掲載されていました。大学に勤める私は18歳以上の若者と触れ合う機会の多い仕事に就いている訳で、気にはなるので読んでみました。

 私自身は、いわゆる若者論や世代論に対して批判的な態度をとるほうです。基本的に私的印象論に過ぎないものが多く、単に論者(これが相応しい表現であるかどうかも疑問ですが)が若者世代を理解できないことによる言いがかり的なものも目立ちます。老人の繰言というやつです。これを最近では中年が口にしたりするようで、進歩がないので面白くもなく、むしろ不愉快さすら感じられることがあります。

 ただ、消費活動、つまり経済活動につながるとなれば、話は少しばかり変わってきます。

 上の朝日新聞記事に登場するのが山岡拓『欲しがらない若者たち』(日経プレミアシリーズ)ですが、私は読んだことがありません。同じようなテーマの本である松田久一『「嫌消費」世代の研究』(東洋経済新報社)のほうなら、確か発売されたばかりの時に「クルマ買うなんてバカじゃないの?」という言葉が書かれた帯にひかれて買いました。「嫌消費」という言葉がどこまで当てはまっているのか、疑問もあるのですが、たしかにクールな感じはします。それどころか、バブル世代の連中よりもよほど賢いのではないか、とも思えてきます。

 私が20歳となったのが1988年で、その翌年がバブル経済最高潮期ですので、私はバブル世代の一人と言えます。実のところ、そんな私は、今の「さとり世代」を見ていて「利口だな」と思い、うらやましく感ずることも多いのです。

 朝日新聞記事に戻りますと、「さとり世代」は「ゆとり教育」を受けた世代とほぼ重なるそうですが、次のような特徴があるそうです。

 ①「車やブランド品に興味がない」

 ②「必要以上に稼ぐ意欲はない」

 ③「パチンコなど賭け事をしない」

 ④「海外旅行への興味が薄い」

 ⑤「地元志向が強い」

 ⑥「恋愛に淡泊」

 ⑦「過程より結果を重視」

 ⑧「主な情報源はインターネット」

 ⑨「読書も好きで物知り」

 いずれも記事に書かれていたことですが、他には「酒は飲まない(飲み会にもいかない)」などという点もあげられるでしょうか。私の学生時代には、酒は飲むのが当たり前だというような風潮があり、一気飲みも当たり前だったという状況ですが、こんな馬鹿なことをやっていた世代だと思うと恥ずかしくなります。今の若い人たちのほうがよほど利口です。

 勿論、世代と一括りにすること自体に問題はあり、10代から20代前半(ということは、今の高校生から大学生にかけてということです)の全員がこうした特徴を持っている訳ではないでしょう。全部に該当する者は何割いるか、という程度のはずです。

 しかも、上の①~⑨をよく見ると、当たり前のこともあります。例えば⑧ですが、これは「さとり世代」に限られた話ではありません。世代に関係なく、「主な情報源はインターネット」という人は多いのではないでしょうか。但し、何でもインターネットによって知識なり知恵なりを得られる訳ではないので、④および⑤とつながるならば困った話にはなります。体験、経験を軽視するという帰結に至るからです。

 また、⑦も、今の高校生や大学生が生きてきた環境を考えれば当然のことです。経済、雇用などの情勢を見ていれば、結果重視にならざるをえないでしょう。そもそも、企業の業績などについて、短期的に結果重視を広めてきたのは誰なのでしょうか、と問いたいところです。

 一見すると⑦とつながらないかもしれませんが、⑥も根底で⑦と結びつきます。今後がどうなるかわからないのに恋愛なんて…、という部分はあるはずです。

 ①も、バブル世代の多くの人には理解できないでしょうが、私の学生時代にはこの傾向がありました。あの頃を思い出すと、ブランド物だの何だのと、やたら高級志向だったという側面もあり(グルメもこの頃あたりからでしょうか)、「馬鹿か?」と思っていたものです。①については、私も共感を覚えるのです。

 ③も、我々の世代からは理解できないかもしれませんが、当然でしょう。この点も「さとり世代」に当てはまる人は優れている、と思えます。勝てないことがわかっているならば、やらないのが一番であるからです。パチンコや競馬などで身を滅ぼした人の話を何度も聞けば、手を出さないに決まっています。⑦の変形といえるかもしれません。

 記事には旅行者数の減少、自動車販売台数の減少も書かれています。自動車会社の人のコメントに「車を持つことがステータスだった時代は終わった」という言葉もあります。但し、記事には「20代の人口は減り続けているし、若者の所得も下落傾向だ」という(おそらくは)正当な指摘もあります。これを忘れてはいけないのです。

 人口もそうですが、所得も問題です。所得が低いのに気概も覇気も生まれるのか。よく「今時の若者には覇気がない」と言われますが、過程よりも結果が重視され、失敗すれば大きな責任を、しかもトカゲの尻尾切りのような形で負わされることがわかっていて、合理的な思考を持つ者のうちの誰が上を目指そうとするでしょうか。

 若い人たちを見れば、今の社会の問題がわかる。あるいは、今に至るまで抱え続け、膨らみ続けた問題がわかる。

 このように言えないのでしょうか。

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三岐鉄道北勢線に乗る(その2)

2013年03月19日 10時07分31秒 | 旅行記

 西桑名駅を14時5分に発車したクモハ273+クハ142+サハ136+クハ141は、ゆっくりと走ります。現在、高速化事業を行っている最中らしいのですが、最高速度は時速45キロメートルです。単線なのは当然として、非常にカーブが多く、速度制限の箇所も多く、吊り掛け駆動のモーター音だけが高く響きます。

 内部線・八王子線と比べるならば、路線距離の関係もあるのでしょうが、住宅地はそれほど多くないようです。農地、丘、雑木林が増えてきました。乗客は、蓮花寺などの駅で減り、東員駅(2005年に六把野と北大社を統合して誕生した駅)でクモハ273の客は私だけとなりました。楚原で小学生たちが大勢乗ってきました。引率の教員がいるので、何かの課外活動でしょう。メゾン・レ・スポワールという、へーベルハウス風のアパートがありますが、楚原駅周辺の風景から浮いたような名前です。雑木林の中を走ることが多くなり、久大本線の鬼瀬あたりや豊肥本線の竹中あたりを思い起こさせるような光景が展開します。勾配とカーブがやたらと多くなりました。

 麻生田(「おうだ」と読みます)を発車し、しばらくすると25パーミルの坂を下ります。小さな街が目に入ってきました。終点の阿下喜に到着です。有人駅(但し、駅員配置の時間帯は限られます)で、自動券売機、自動改札機が設置されています。西桑名と違い、ホームは島式でのりばが二つあります。

 懐かしい近鉄色の車両が置かれています。戦前に製造されたモニ226で、荷物室もある車両です。その後には腕木式信号機も置かれています。

 阿下喜駅の南側には「軽便鉄道博物館」があり、線路も敷かれています。「北勢線とまち育みを考える会」という市民団体が運営しており、毎月第1・第3日曜日に公開されるとのことです。モ270形(クモハ270形)を模したミニ電車も走りますので、モニ226の周囲にはそのための線路も敷かれています。

私が先程まで乗っていた電車が駅に停車しています。写っているのはクハ141とサハ136です。14時56分に到着し、15時1分には発車します。

現在は柵のこちら側と向こう側とで違う立場にありますが、何年か前まではどちらも北勢線の線路を走っていました。塗装の違いも時代の流れを感じさせます。

モニ226の側面です。乗務員室の扉はないようです。

 客室用の扉と荷物室用の扉があります。北勢鉄道時代に製造された車両ですが、270系の登場とともに何両かが内部線・八王子線に移っています。このモニ226もその1両でした。1982年には260系の登場に伴い、廃車となります。モニ220形の中にはサ120形に改造されたものもあり、現在も内部線・八王子線で運用されていますが、北勢線では走っていません。

 廃車となったモニ226ですが、解体を免れました。これは、近鉄の車両としてはあまり例がないそうです。言われてみれば、近鉄線を走行してきた電車で、他社に譲渡されたものと言えば、路線そのものが移管された北勢線、養老鉄道養老線、および伊賀鉄道伊賀線の車両を除けば、大井川鉄道に譲渡された16000系(南大阪線・吉野線特急用)、6421系(大井川鉄道では421系)くらいしか思い当たりません。関東の大手私鉄、たとえば東急、小田急、京王、西武で使用された車両は、他の私鉄へ譲渡されて第二(場合によっては第三)の活躍をしますが、関西の大手私鉄や西鉄の車両については、最近、あまり譲渡例がありません。近鉄と西鉄はその代表格になっています(関東では京成が近い例でしょうか)。

モニ226に話を戻しますと、同車は長らく四日市市内で保存されてきました。2008年に阿下喜駅構内へ移され、2011年から公開されています。

 軽便鉄道博物館には転車台もあります。これは実際に阿下喜駅で使用されていたものだそうです。ただ、いつ頃までのことかはわかりません。北勢線が電化されたのは1931年で、その後にも蒸気機関車が使用されたのでしょうか。電車には転車台など不要です。ともあれ、ここに移設されました。

 転車台の周りにはミニ電車用の線路も敷かれています。公開日にはこの線路の上を走るのでしょう。

 (2013年2月6日から14日まで、「待合室」に第512回として掲載。一部修正。)

コメント (4)
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