ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

春の多摩川、兵庫島 その2

2015年04月08日 22時09分15秒 | まち歩き

前回に引き続き、二子玉川駅の近くにある兵庫島です。夏には世田谷区花火大会の会場ともなります。

 兵庫島という名称ではありますが、現在は二子玉川緑地・多摩川二子橋公園と陸続きになっています。奥の茂みの辺りはバードウォッチングに最適の場所らしく、時折、望遠レンズを取り付けた一眼レフカメラを構える人々を見かけます。 

 兵庫島から二子玉川駅を眺めます。手前(左側)には富士観会館がありましたが、現在は高層マンションになっています。駅の向こう側には二子玉川ライズが見えます。2011年3月19日にショッピングセンターがオープンしてからというもの(当初は12日の予定でしたが、東日本大震災の影響で一週間延びました)、私も何かとよく寄るようになりました。今月、109シネマズ、アトリオデューエなどがオープンし、完成となります。

 一方で、再開発より前の、どちらかと言えば鄙びたような二子玉川駅東口が懐かしく思われることもあります。

多摩川ドナウ川友好河川記念碑(1986年10月1日)です。

 写真は兵庫島公園の案内図です。

 この島の名前ですが、世田谷区が設置している案内板によれば、次の通りです。

 時は正平13年、西暦に直せば1358年、新田義貞の子である義興(よしおき)は足利基氏を討ち、従者13人とともに上野国、つまりは今の群馬県から兵を進めました。目的は新田家再興です。彼らは多摩川にたどり着き、稲城矢口の渡しで船に乗ります。ところが、この船はただの渡し船ではなかったのでした。渡し守は、船底の栓を抜いて逃げ去りました。これでは船が沈んでしまいますが、同時に両岸から敵の軍勢が矢を射かけました。渡し船は最初から敵の策略であった訳です。義興らは身動きがとれません。そこで義興は自害します。従者たちの中に由良兵庫助という人物がおり、彼は敵と戦った末に殺され、遺体が多摩川の中州である島に流れ着きました。それこそが今の兵庫島であった、というのです。

 ここで問題なのが、矢口の渡しの場所です。いくつかの説があり、よくわかっていないのです。

 稲城市には矢野口(やのくち)という地名があり、現在は多摩川原橋も架けられています。しかも中州もあります。ここからどこかまで流されて、二子の渡しの近くにたどり着いたのでしょうか。

 一方、大田区には矢口渡という駅があります。所在地は大田区多摩川になりますが、その隣に武蔵新田(むさしにった)駅があり、所在地が大田区矢口です。ここには駅名の由来ともなっている新田神社があり、祀られているのが新田義興です。彼がこの地で謀殺されたということで、神社が建てられたというのです。今の大田区の地域に稲城という場所があったのかどうかわかりませんが、同一氏名の人間が二人いたのであればともあれ、一人しかいないのであれば、彼は稲城で自害したのか大田区矢口で謀殺されたのか、わからなくなります。大田区のほうで謀殺されたとすれば、由良兵庫助の遺体が今の兵庫島に流されたのではなく、彼が上流に向かって逃げ、島で倒れて死んだ、ということにならざるをえません(但し、14世紀の多摩川がどのような川であったのかを検証する必要もあります。何せ、暴れ川だったという伝説には尽きません)。

 兵庫島の由来について他の説がないのか、よくわからないのですが、最も有力な説が由良兵庫助に由来するということに変わりはないようです。 


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