日本評論社から、村上順・白藤博行・人見剛編『新基本法コンメンタール 地方自治法』(別冊法学セミナーNo. 211)が刊行されました。
不肖の私も、地方自治法の第208条から第222条まで、解説を担当させていただきました。
御一読をいただければ幸いです。
11月1日、朝刊とともに「きょういく朝日」の神奈川版11月号が入っていました。今回はトップ記事が「公立小中学校の『選択制』曲がり角 自治体に見直しや廃止の動き」でしたので、切り抜いておこうと思い、残しておきました。
この学校選択制は、規制緩和(現在の民主党政権では規制改革)の一環として、1997年、当時の文部省が「通学区域制度の弾力的な運用について」と題する通知を発したことに始まります。1998年、三重県の紀宝町が小学校について導入し、2000年に東京都の品川区が導入したことによって有名になりました。2003年度に学校教育法が改正されたことにより、地方自治体の独自の判断で導入することが可能となり、採用例が増えていきました。
もっとも、現在まで、例はそんなに多くありません。神奈川県では逗子市の例が目立ちますが、2011年度から2013年度まで休止しています。川崎市は導入していないはずです。
きょういく朝日11月号の記事によると、小学校および中学校に学校選択制を導入していた栃木県の鹿沼市は2010年度に廃止しています。これが最初の例かどうかはわかりませんが、逗子市が休止、2011年度に群馬県の前橋市が廃止しており、埼玉県の三郷市も2012年度に廃止する方向にあるということです。また、東京都の江東区は、2009年度に「徒歩で通学できる学校(―小学校。引用者注)に限定しています(徒歩圏内にいくつも小学校があるような地区は少ないと思うのですが)。
規制緩和の一環とはいえ、導入する市町村が多くないということは、制度の入口の段階で問題があるということを意味します。沖縄県の竹富町を舞台とした教科書問題で明らかですが、地区ごとに採択教科書が決定されるのであれば、学校選択制を採用してもどれほど大きな効果があるのかわからないということにもなります。これでは、制度の狙いとされた「各校の特色」は弱められる可能性もあります。
そもそも「特色」という言葉が曖昧で、無意味なものにもなりえます。市町村の教育委員会で学校ごとの特色なり強化事項なりを定めるのであれば、「特色」は出るかもしれません。しかし、これでは学校選択制の狙いでもある学校間の競争は生まれません。学校自体がイニシアティヴを持ち、「うちの学校では◎◎に力を入れています」、「本校では◆◆教育を強化しています」、などの宣伝をし、実際にそのためのスタッフ作りをすることができないと、学校ごとの競争は難しいでしょう。それに、規制緩和論に共通する、競争による質の向上という、わかりやすいだけに単純なテーゼが正しいかどうかも、厳しく吟味される必要があります。
上記記事では前橋市の例が紹介されています。読んだ瞬間に疑問が浮かびました。前橋市は、どうやら学区制を残していたようです。人によっては、ここに失敗の原因を見出すかもしれません。学区制は選択制と矛盾するからです(さらにいえば、市町村内に限定することも矛盾するのですが、この点は脇へおいておきます。私立との選択の余地もある訳ですから)。このような所で学区外の学校を選択すると「自宅のある地域で開かれる子ども会の行事などに参加する機会が減少」したとか、「特定の中学校について入学する生徒が大きく減り、部活動が成立しない」とか「教師の数が少なくなって教科担任制が維持できない」というような問題が出てきたようです。
以上の問題点は、勿論、学区制があろうがなかろうが生じうるものです。ただ、地元との結びつきが弱くなるのは否めないでしょう。首都圏であれば小学校から私立に通っている子どもたちが、こうした傾向を持つようです。数年前に世襲政治家の問題が大きく取り上げられましたが、小学生の頃から都内の有名私立学校に通っていれば、おのずと了見は狭くなるかもしれません。これは当時にもなされた指摘です。
この記事では指摘されていませんが、私が選択制で懸念するのは、人間にはいろいろな性格があり、性質があるということ、様々な家庭環境があり、経済事情があるということ、これらの基本的なことが十分に理解されないまま、子どもが育ってしまうのではないかということです。他人の立場に立ってみるというのは、(そんなことが十分にできるという訳ではないとしても)必要なことですが、これは幼少の頃から観察力などを身につけなければならないことです。地域にもよるでしょうが、学区制がない場合、小学校や中学校には、地元の商店街の子、大手企業のサラリーマンの子、農家の子、父子家庭、母子家庭など、経済状況だけでも多様な子どもたちがいます。勿論、いじめ、学級崩壊など、深刻な問題を生みやすいのは事実でして、これは何としても解決しなければなりませんが、価値観から何からが違う中で、つまり、多様な人間の中で育つということは、大人になって社会生活を営むために重要ではないでしょうか。挫折し、そこから立ち上がるという経験は、なるべく早いうちに体験するほうが良いのです(大人になってからでは遅すぎます)。
たまたま、福岡での集中講義期間中に辛酸なめ子さんの『女子高育ち』という本を買って読んだのですが、その24頁におかしなことが書かれています。長くなりますが、引用します。
「ある日、家族旅行で行ったかんぽの宿でたまたま読んだ、『ゆうちょ優秀作文集』的な冊子に掲載されていた聖心女子学院の中学生の作文に、擬似お嬢様体験で調子に乗っていた私は軽く打ちのめされました。他の作文は、親が病死して貧しくなったけれどミカン箱を机にしてがんばって勉強している、というような苦学生の美談が多かったのですが、聖心の子の作文には『おかかえの庭師が庭に新しく池を造ってくれた』という、浮き世離れした貴族的で優雅な世界観が描かれていたのです。自分のお嬢様ごっこなどとても遠く及ばないと完敗しました。」
この本の内容が内容なので(「無いようなので」ではありません)、かなりの部分を割り引いて考えなければならないのですが、随分と浮いた話です。こんな子どもが成長すれば、おそらく、社会の様々な事象に目を向け、思考するような大人にはなれないでしょう(まして、解決する能力などつきません)。同質の子どもたちの中で育った、温室育ちの野菜のようなものです。おそらく、貧困問題、格差問題など理解できないに違いありません。どの程度の評価を得ている本かわかりませんが、私は、仮に娘が生まれたとして、その娘を女子校に入学させようとは思わなくなりました。
少しばかり脱線気味になりましたが、学校選択制で極端な(とは言えないかもしれませんが)可能性が出ているようにも思えたので、参照してみました。選択制が義務教育の段階で広く行われるならば、早いうちから選民意識などが植え付けられるのではないかと考えるのです。そうでなくても、きょういく朝日の記事にもありますように、「選択基準で上位を占めるのは『伝統校』、『進学のしやすさ』『部活動の種類の豊富さ・強さ』が中心で、『各校の特色』などはそう大きな要因ではありませんでした」ということです。そもそも、義務教育の段階で「各校の特色」を強く出すのは筋違いであるということも言えます。
他方、定着したとされる例も紹介されています。東京都品川区です。詳しい内容はきょういく朝日の記事に譲りますが、漫然と導入されたのではなく、それなりの計算に基づいていると考えられます。小学校は「ブロック選択制」、中学校は「自由選択制」となっています。小学校を完全に自由な選択制としなかったのは賢明ではないでしょうか。また、品川区では学力定着度調査を行っており、この結果が公表されています。単純に学校間の競争に陥るような運用を避ければ、非常に良い教育成果を生む可能性の高いものとも言えます。教員にとっても良い刺激となるでしょう。私も教員であるから記しますが、教育の特殊性を強調して惰性に走るような者が多いのは事実ですから。
おそらく、学校選択制を成功させるためには、それこそ地域の特性などに左右されるのではないでしょうか。地域の事情を十分に斟酌しなければ成功しません。たとえば、例に出しては申し訳がないのですが、過疎市町村でこの制度を導入しても成功しません。人口の少ない所では県単位で行わなければなりませんが、これはどう考えても非現実的です。人口密度が高いというところでなければ成功しないでしょう。
他の地方自治体での成功例を知り、視察して、自分のところでもやってみようと考える地方自治体は多いのですが、物まねでも失敗している所は少なくありません。品川区で成功しているからといって、他で成功するとは限りません。単なる模倣が良くないのは、彼我の違いを考慮に入れないからです。それに、成功例は合格体験記と同じで、それぞれの個別性に左右されます。むしろ、失敗例から学ぶほうがよいのです。
以上を念頭に置き、敢えて記しますと、中学校はともあれ、小学校では選択制は早すぎるように思われます。いや、人間の発育過程を考慮するならば、小学校の6年間は長すぎるかもしれません。よくわからないのですが、学校選択制を小学校で導入するというのであれば、本来、義務教育全体を再検討すべきであったのかもしれません。
また、学校選択制を成功させるためには、学校教員そのものが鍵となります。現在の制度を前提とすれば、小学校と中学校では求められる能力が違うでしょう。また、教科によって異なります。小学校については、音楽、美術、書道、体育、家庭科を専門担当に任せるとしても、基本的にあらゆる教科を担当できることが必要です。そうすると、教員養成課程での教育は中途半端です。しかし、あらゆる教科科目を万遍なく教えることができる教員は、おそらくほとんどいないでしょう。それならば、中学校と同じように教科によって教員が異なるほうが正しいあり方と思われます。英語教育はとくに専門性が要求されるでしょう。事は人事ですので、学校教員のあり方は重要です。
さて、ここからは長い余談です。
私は1997年度から2003年度までの7年間、大分大学教育福祉科学部に勤務しておりましたが、そこで問題となったのは教員採用試験の合格率の低さです。教授会で出る資料を見ると、大分大学は国立大学でワースト5の中に入っていたのです。もっとも、これにも様々な要因がありますから、拙速な印象論は記したくありませんが、国立大学の教員の中には、信じられないかもしれませんが大学が教育機関であるということを理解できない人も少なくありません。困ったことに、若手の教員にこういう人がいたりします(受験生にはわからないことなのが非常に残念な話です)。
どこからか矢が飛んで来て、私の後頭部を直撃しそうですが、山羊である私自身の経験によるところを敢えて記しておきます。私は大分大学の助教授であった時、或る会議で同世代(但し、私より年上)の教員に対し、「大学が教育機関であることは当然だろう? そんなこともあんたはわからないの? 研究機関というならば、大学はシンクタンクに負けてるよ!」という趣旨のことを言いました。教育機関と研究機関のそれぞれの要素が高い次元で調和しているから、高等教育機関としての大学なのです(弁証法を思い出してください!)。
また、これも困ったことですが、教員養成課程の教員には教員採用試験至上主義の人が多く、どうかすると学校の教員になるつもりの無い学生を露骨に差別するという人もいたりします。最初から可能性を摘み取っているような愚考・愚行ですが、思考回路が狭いのでしょう。
おかげで、大分大学時代の私が卒業論文指導を担当していた時、私のところに志願する学生の中には、学校の教員になりたくない、社会福祉関係の職業につきたくない(私は社会福祉関係の課程も担当していました)、という人も少なくなかったのです。多様性を重視する私にとっては非常に楽しいゼミで、とくに助教授時代の2年間は、学部で最も賑やかなゼミと揶揄されたほどでした。これを私は半ば意図していました。最初から閉じこもっているような人になって欲しくなかったのです。
あれこれと書きましたが、学校選択制を導入している、あるいは導入することを検討した地方自治体の方々に申し上げます。教員への面接試験をしっかりと、時間をかけて行ってください。そして、最近では大学教員の採用で行われているように、模擬授業を行ってください。とくに数学について必要です。高度な教育能力は、学部と関係がありません。
昨日(11月5日)、妻の買い物に付き合い、1年半ぶりに六本木ヒルズへ行きました。自由が丘から東横線に乗り、中目黒からそのまま東京メトロ日比谷線に入って六本木駅で降りたのですが、この駅を利用したのが10何年ぶりです(20年ぶりくらいかもしれません)。六本木は渋谷からも近いのですが、めったに足を運びません。昨年(2010年)も2回訪れただけです。
この街に行かなくなったのには理由があります。1999年12月25日を最後に六本木WAVEが閉店したからです。私が閉店を知ったのはその年の大晦日で、最後に行ったのは10月であったと記憶しています。
文化人などの評価も高く、私も高校1年生の時から毎月1度は必ず行っていたWAVEが六本木からなくなって、行く理由もなくなりました。その頃にはつまらない街になっていたということもあり、10年以上、この街に足を向けることがなかったのです。そして今年、CD販売の企業であるWAVEそのものがなくなりました。
六本木WAVEは、東京メトロ六本木駅のすぐそば、現在の六本木ヒルズの辺りにありました。1枚目の写真を御覧下さい。右側がかつての東日ビルで、現在は六本木ヒルズノースタワーとなっています。ここの地下に誠志堂書店東日ビル店がありました。六本木交差点にあった本店よりも品揃えが良かったのですが、現在はどちらもありません。
そのすぐ左手前に画材店のLAPISがあります。駐車場の入口の上です。この店にも良く行きました。昨日、久しぶりに入りましたが、良い意味で変化がなかったのはうれしい限りです。
そして、手前から奥、首都高速3号線の下の六本木通りに伸びる道路があります。ここに六本木WAVEがありました。店舗は独特の色の建物の中で、1階には音具、ヒーリング・ミュージックや効果音などのCDのコーナーがあり、雨の木という喫茶店もありました。2階が日本のポップスやレコード針、カセットテープなどのコーナー、3階がロックやワールドミュージック(WAVEの強みがこの分野にありました)、4階がクラシック(モーツァルトハウスなるコーナーもあり)、ジャズ、ヴィンテージのレコード、そして書籍などの売り場であるアール・ヴィヴァンがありました。私はいつも4階へ行くのですが、何故かエスカレーターが上りしかなかったのを覚えています。5階から上は映像スタジオが入っていたはずです。そして地下に伝説の映画館、シネ・ヴィヴァンがありました。
コーナーの面積は渋谷のタワーレコードやHMV(2010年8月22日を最後に閉店)などより狭いのですが、質は非常に高く、この店でなければ手に入らないようなものもたくさんありました。わかる人は少ないかもしれませんが、棚を見ていると「あまり知られていないけど、こんな面白い音楽もあるんだよ」という揃え方をしていたのです。それも、とくに説明が書かれた紙などがなくても、あたかも商品そのものが語りかけてくるような感じが出るような陳列の仕方です。これはタワーレコードにもHMVにもディスクユニオンにもないものでした。このブログでも紹介したKEES HAZEVOET / HAN BENNINK, "Calling down the Flevo Spirit" (Snipe 7678)、ICP 015、FMP 0130(などFMPの多く)、マイナーながら傑作のレコードを買うことができたのはうれしい限りです。こうして、高校時代から大学院生時代まで、私は六本木WAVEで何枚もLPやCDを買いました。
それだけに、閉店はショックでした。せめて12月25日以前に知りたかったのですが、当時、私は大分大学教育福祉科学部の講師で、東京の情報を入れられない状況にありました。タワーレコードやHMVなどに行くようになりましたが、WAVEほど面白くないと感じ、店でCDを探す時間が短くなりました。WAVEでは2時間くらいいるのが当たり前で、4時間くらい、ただ棚の商品を見ていることも多かったのです。
さて、現在の街の話に戻りましょう。再開発→六本木ヒルズにより、この辺りの道路がかなり変わっています。WAVEがあった場所を通る道路を、今度は六本木ヒルズノースタワー側から見ます。手前の左側がラピスで、奥にメトロハットが見えます。以前、たしかブリジストンかどこかの社宅もありましたし、CNNの日本支社もありました。
六本木に来ると必ず立ち寄る店がもう一つあります。青山ブックセンター(ABC)六本木店です。ここは美術関係や建築関係を中心となっており、店の構造といい、品揃えといい、かなり個性的な書店です。また、かつては朝の5時まで営業していたことでも有名で、六本木で夜を遊び過ごした者たちが店で時間をつぶし、5時8分発の日比谷線北千住方面始発電車(東武動物公園行き)を待っていたのです。高校生時代の私は、この店で植草甚一スクラップ・ブック(晶文社)を知り、ジャズ関係の本はほとんどここで買いました。最近は文学系、思想系や社会学系などにも強くなったようで、昨日は思潮社刊行の『ブランショ 不可能性の彼方へ 現代詩手帖特集版 ブランショ1978』などを買いました。惜しむらくは、芸術関係以外の洋書に弱いことでしょうか。
情報公開制度は、日本の行政にとっては厄介者なのでしょうか。結構、そのような例が多く見受けられるのです。今日も、たまたま、仕事中ですが休憩している時に、毎日新聞社が今日の2時30分付で「情報公開請求:渋谷区長が自粛要請 区議は反発」として報じている記事を見つけ、「一体何なんだ?」と思ってしまいました。しかも、渋谷区は2002年にも同じような問題を起こしています。
毎日新聞社が情報公開請求によって、8月29日に行われた渋谷区議会各会派の幹事会の議事録を入手したそうです。それによると、渋谷区長が渋谷区議会長(自民党、渋谷区では与党)に、8月11日、議会議員が情報公開制度の利用を「控える」ようにして欲しいと伝えており、区議会長はそれを各会派に伝えたようです。
当然、野党側から反発がありました。当然でしょう。渋谷区長・渋谷区議会長の要請は、情報公開条例に真っ向から反します。もっと訳がわからないのは取材に対する区長の説明で、「かつて区議の大量請求で職員が苦労したことがあった。議員を請求者から除外する条例改正は難しかったので、議会内で考えてほしいとお願いしてきた。4月に新しい議員が入り、また大量請求が出てきたので、改めてお願いした」という趣旨だったそうです。議員を請求権者から外す改正が「難しかった」のは当たり前で、これが許されるのであれば不合理な差別が許されてしまいますし、そもそも情報公開条例を制定すること自体に意味がないこととなります。渋谷区の条例が請求権者を区民に限っているのか「何人も」としているのかはわかりませんが、区民に限定しているとしても議員を除外する必然性はないのです。
また、区長や区議会長の側の「重箱の隅をつつくのではなく、新しい街づくりという観点から提言してほしい」という意見もわかりません。区長や区議会長が「重箱の隅をつつく」と感じても、それはそちらの感じ方だけかもしれません。重要な点を調べるにも「重箱の隅をつつく」ようなことをしなければわからないこともたくさんあります。
上記記事には、無所属の区議員、堀切稔仁氏のコメントが掲載されています。重要な点は「区議個人に特別な調査権はな」いということで、これについては、栃木県の矢板市の市議会議員を5期務めたという宮沢昭夫氏(無所属)も「少数会派の議員が議会を通じて情報開示を求めても、議長に許可されないことがある。そういう時に情報公開請求は有効な手段」であると述べています。議員に情報公開請求の自粛を求めることは、とくに少数会派の活動を封じることにつながります。議会のあり方として許されるものではありません。
地方議会は、ともすれば行政のチェック機関であることを否定します。どうかすると翼賛機関となるのです。これではまともな行政を期待できません。議事録などを見てもつまらないのは、議会が議会の役割を放棄しているからです。実質的にみれば日本の地方自治体の多くは、20世紀の社会主義諸国に見られた民主集中制を採用しているのではないかと思われることすらあります。昨年まで騒がれた、前阿久根市長の竹原信一氏が議会を敵視したのも理解できない訳ではない、とも言えます。
大量というのがどの程度なのかもわからないのですが、例えばコピーをしたら1万枚になるというのであれば、何らかの手を考えればよい訳です。大体、今、役所でもパソコンで文書を作成するのが通常でしょう。それならPDFなどのファイルで渡し、プリントアウトを請求者にやってもらえばよい訳です。明らかな濫用と見受けられない限り、情報公開請求を認めないのはおかしいでしょう。
それでも自粛を求めるというのであれば、思い切って渋谷区は情報公開条例そのものを廃止するのがよいでしょう。直ちに憲法違反にはならないはずですし、情報公開法に違反する訳でもありません。
川崎市には7つの区があり、どの区にも市立図書館があります。高津区にも高津図書館(溝口4丁目)と橘分館(久末のプラザ橘の中)があります。橘分館のほうには一度も行ったことがありませんが、高津図書館には、小学生の頃から時折行って、本を借りたりしています(小学生時代は、小杉町3丁目にある中原図書館に行くことのほうが多かったのですが)。私のページに掲載している「川崎市市民オンブズマン条例についての考察―行政法学の観点から、そして川崎市民としての立場から―」という論文を書いたのは大学院修士課程1年生の夏で、何度も高津図書館に足を運んだものです。
さて、この高津図書館ですが、私が行き始めた頃は現在の溝口3丁目にありました。私のページのトップに載せている写真が、かつての図書館所在地を示していますので、一度御覧下さい。現在は大山小径、溝口南公園、高津こども文化センターとなっています。
いつのことかをはっきり覚えていませんが、高津図書館は高津小学校の裏に移転しました。元の所在地から旧大山街道を多摩川のほうに進み、高津交差点を越えて写真のたなかや(高津交差点付近には田中屋という名前の店がいくつもあります)の前を通ると交差点があり、左に曲がるとすぐに溝口緑地があります。その奥が図書館です。1枚目の写真の奥に写っているのが図書館の建物です。
図書館がここに移転する前には文教大学の付属小学校がありました。学校が集まっている地域は少なくありませんが(高津区では久本3丁目の久本小学校、高津中学校、川崎市立高津高校がそうです)、公立の小学校と私立の小学校が隣同士となっているのは珍しいかもしれません。しかし、文教大学の付属小学校は撤退してしまいました。図書館が現在の地に移ってから、おそらく30年くらいは経っているはずです。
さて、この高津図書館の入口に広がる溝口緑地の入口、旧大山街道のそばに「国木田独歩碑」があります。彼は1871(明治3)年、現在の千葉県銚子市に生まれ、1908(明治41)年、現在の神奈川県茅ヶ崎市で没しています。わずか37年間の生涯ですが、当初は詩人、その後は小説家として活動します。
自然主義文学の先駆者と評価される独歩は、よく武蔵野を取り上げていました。写真(説明板)にもあるように、1897(明治)30)年に溝口を訪れ、亀屋に宿泊しています。このことは「忘れえぬ人々」という小説の題材となっています。
この説明板にも登場する亀屋は1642年に創業しました。つまり、江戸時代から長らく続いてきたのです。後に亀屋会館となり、結婚式会場や宴会場などとして、溝口交差点(溝口2丁目)のそばで営業を続けてきました。私も一度だけ入ったことがあります。しかし、バブル経済崩壊の影響、結婚式場の衰退などもあったのでしょうか、2001(平成13)年に営業を終了しました。現在はマンションなどが建っています。
独歩の来訪は、川崎市ではとくに文学と深い関係を持つ溝口の重要なひとコマでした。おそらく、日本文学にとっても決して小さくない出来事であったでしょう。
そして、石碑がつくられました。題字は島崎藤村によるものです。1934(昭和9)年に建てられたこの石碑は、長らく亀屋会館の前に置かれていたのですが、閉鎖後に溝口緑地に移されています。
溝口緑地の入口に国木田独歩、奥(高津図書館の前)には岡本かの子の歌碑が置かれています。私は、時折、散歩としてこの辺りを歩き、明治時代の残り香を楽しんでいます。高津区に生まれ育ったことは、私のちょっとした誇りとなっているかもしれません。
余談ですが、溝口は、NHKの単発ドラマともなった「クラインの壺」(岡嶋二人)の舞台ともなっています。
交通:東急田園都市線高津駅から歩いて5分ほど。JR南武線武蔵溝ノ口駅北口からであれば歩いて15分ほど。川崎市バス・東急バスの高津バス停から徒歩で3分ほど。