ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その4) 

2017年05月22日 00時22分37秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第440回「東急田園都市線途中下車(14)・東急大井町線途中下車(1) 二子玉川駅(その4)」として、2011年9月8日から同月15日まで掲載したものです。写真撮影日である2011年3月23日当時の様子をお伝えしたく、文章に修正の手を加えておりません。〕

 二子玉川駅と言えば、1969(昭和44)年5月10日まで玉川線の終点であり、砧線の起点でした。玉川線の渋谷~二子玉川(当時は二子玉川園)は、1977(昭和52)年4月7日に新玉川線として復活しましたが、砧線は完全にバスに置き換えられました。現在の二子玉川駅には玉川線と砧線の跡がほとんど残されていませんが、少し歩くと砧線の跡が残されています。今回はそれを見ようと思っています。

 2011年3月19日、二子玉川ライズが完全オープンしました。基本的には東口に展開していますが、ドッグウッドプラザは西口にあります。玉川線と砧線の二子玉川園駅は、このドッグウッドプラザの辺りにありました。

 玉川高島屋と連絡する歩道橋が右側に見えます。この交差点はスクランブル交差点となっており、地下にも玉川高島屋との連絡通路があります。

 それにしても、二子玉川にロフトができるとは想像もしていませんでした。再開発事業が始められるまでは東口に東急ハンズがあり、大学院生であった私もよく行ったものです。一時閉店のはずでしたが、二子玉川ライズに東急ハンズは入っておりません。

 交差点から北側を見ます。ここに玉川線や砧線が走っていた訳ではありません。両線が廃止された後の代替バスがこの道路を通ります。休日ともなると玉川高島屋の駐車場に入ろうとする車の列ができて混雑するのですが、平日の昼間であったためなのか、空いています。

 写真の奥のほうに、玉川高島屋の本館と東館とを結ぶ連絡通路が見えます。道路の上にある屋根つきの歩道橋のようなものです。その先に交差点があります。砧線は交差点付近でこの道路を横断していました。

 砧線が通っていたのはこの道路です。廃止後に道路となりました。幅が狭いので一方通行となっています。砧線が全線単線であったためです。詳しいことはわかりませんが、途中にあった中耕地および吉沢に交換施設はなかったようです。なお、代替バスとなっている玉06は、この道路を通りません。

 新二子橋につながる高架橋が見えます。国道246号線です。手前の道路も国道246号線です。合流地点の手前から坂を登り、瀬田交差点へ向かいます。現在の田園都市線とほぼ同じルートを通っていた玉川線も、瀬田交差点に向かって急な登り勾配を走っていたようです。玉川線で最も急な勾配は、現在の渋谷マークシティから道玄坂上までの坂で、60パーミルを超えていたそうです(碓氷峠とどちらが急であったでしょうか)。

 玉06は二子玉川駅を発車し、玉川高島屋の前を通り、左側から曲がり、右側にある道路へ入ります。中耕地というバス停もありますが、砧線の中耕地から少し離れています。

 交差点の所につばめグリルがあります。銀座に本店があるハンバーグステーキのレストランで、最近は都内に支店を増やしていますが、ここ二子玉川の支店はかなり前からあります。一度だけ入ったことがあり、堪能しました。1930という数字がありますが、これは1930年に銀座の本店がオープンしたという意味だそうです。同じ年に、東京から神戸までの特急列車として「つばめ」が運転され始めました。店の名称もこの特急列車に由来するとか。

 砧線の跡である道路を歩きました。この辺りが玉川の商店街となっています。二子玉川郵便局があり、その少し先(右側)に二子玉川小学校があります。この辺りに中耕地駅(というよりは電停)があったはずです。跡も残されているのですが、少しわかりにくく、探しました。

 この四つ角を奥のほうに進むと世田谷区立二子玉川小学校があります。玉川4丁目の商店街は、とにかく車が多いので、道幅の狭さと相まって歩くのには注意が必要です。昔ながらの作りをした書店など、懐かしさが残る商店街でもあります。

 砧線はこの交差点を東西方向に走っていました。上の写真は南北の方向に伸びる道路ですので、砧線の跡ではありません。ただ、この四つ角が踏切であった可能性はあります。

 ようやく見つけました。正確な位置であるかどうかは不明ですが、交差点から少し東側に進んだ所の歩道に、このようなタイルが敷かれていました。

 砧線はおよそ2キロメートルほどの路線で、廃止直前の時点では二子玉川(当時は二子玉川園)駅⇔中耕地駅⇔吉沢駅⇔砧本村駅となっていました。元々は多摩川の砂利を運搬するための路線で、最後まで単線でした。中耕地、吉沢のどちらの駅にも交換施設はなかったようです。

 歩道にはタイルとともに石碑も置かれています。道路と歩道の幅からすると、どうやら道路が線路跡で、歩道のこの部分にホームがあったようですが、どうなのでしょうか。この辺りもかなり大きな変化がありましたので、砧線が通っていた頃のことを想像できません。

 渋谷から二子玉川まで、主に現在の国道246号線の上を走っていた玉川線は1969年に廃止されました。しかし、1977年に、同じく渋谷から二子玉川まで、大部分が地下区間である新玉川線が開業しました。名前が示すように玉川線の復活です。一方、玉川線と同時に廃止された砧線は、バスに転換され、復活しなかったのでした。玉川電気鉄道が開業させた区間で東急に引き継がれた路線のうち、三軒茶屋から下高井戸までの世田谷線は廃止されずに残り、玉川線は廃止されたものの形を変えて復活しましたので、純粋に廃止されたのは砧線だけです。

 中耕地駅(電停)の跡から東の方向を見ます。新二子橋につながる高架橋が見えます。砧線はしばらくこの道路を直進し、国道246号線を横断して大きく右に曲がり、二子玉川駅に向かっていました。手前と奥とで歩道の幅が異なることがおわかりになるでしょうか。

 二子玉川郵便局の交差点から西の方向を見ています。砧線はまっすぐ進み、吉沢駅に向かっていました。多摩川のすぐそばを通る多摩堤通りとの交差点が吉沢橋で、その近くに吉沢バス停があります。付近に駅の痕跡があるかどうかはわかりません。

 こちらがバス通りとなります。二子玉川郵便局前の交差点を南に進むとすぐにこの道路に出ます。右のほうにバス停があることがおわかりになるでしょうか。ここが中耕地バス停で、位置は異なるものの、砧線の駅の名前を踏襲しています。

 砧線の代替バスである玉06は、二子玉川駅から砧本村方面に向かうバスのみがここを通ります。但し、朝のラッシュ時は砧本村から二子玉川駅方面に向かうバスもこちらを通ります。この他、玉05(宇奈根一丁目方面循環)、玉07(二子玉川駅⇔成城学園前駅)、玉31(二子玉川駅⇔成育医療研究センター)、玉32(二子玉川駅⇔世田谷美術館)が通っています。

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マルイ川崎店が2018年1月に閉店

2017年05月19日 23時53分23秒 | 社会・経済

 先日、川崎市の人口が150万人を突破したというニュースがありました。「ムサコ」という大馬鹿な略称まで付けられてしまった武蔵小杉がある中原区が最も増加率の高い区となっていますが、我が高津区が2番目であるとのことです。

 (単に小杉とか小杉町と言えばよいのです。武蔵小山も武蔵小金井も「ムサコ」になりますし、「むさい」というイメージまで付いてしまいます。まあ、「むさい」と言われるならば否定はしません。どうせ川崎市は「むさい」所です。生まれ育った私がこう記すのですから間違いはありません。)

 その武蔵小杉に西武・そごうが出店していたそうで、こちらは今年の8月末に閉店するそうです。驚いたのは、小杉に小型の百貨店があったことです。申し訳ないことを記しますが、小杉町三丁目にイトーヨーカドーがあるからどういう土地柄かわかっているはずなのに、百貨店を出店するとは、立地調査などを十分に行っていなかったとしか思えません。小杉町で育った父から何度も聞かされましたが、中原区の商業地といえば、古くは新丸子でして、三業地でもあったのです。その後は元住吉、新城です。いずれも、高級路線からは程遠い街です。高津区も同様です。

 まあ、そんなことはどうでもよいとして、本題に入ります。

 先程、朝日新聞社のサイトを見ていたら、今日の18時17分付で「丸井川崎店、来年1月閉店へ ラゾーナ出店で売り上げ減」(http://digital.asahi.com/articles/ASK5M41K0K5MULOB00F.html)という記事が掲載されていました。

 川崎駅といえば、西口にラゾーナ川崎プラザがありますが、幸区にある西口は(あまり表現がよくないですが)新しい街と言え、元々は東口(川崎区側)が市を代表する繁華街です。記憶に誤りが無ければ、私が小学生であった1970年代後半には西口に明治製菓や東芝などの工場があり、川崎駅には西口がなかったか、あっても申し訳程度の改札口しかなかったはずです。今の南武線のホーム(6番線)からは東芝川崎事業所(堀川町工場)への引き込み線が分岐していた程です。

 しかし、2006(平成18)年、ラゾーナ川崎プラザが開業してから、西口が大きく変わりました。2014年4月11日付の「川崎駅東口のさいか屋が来年5月に閉店する、と聞いて」においてもとりあげたように、2015年5月にさいか屋川崎店が「閉店」しています(実際には大幅な縮小の上で日航ホテルに移転していますが)。昨年10月に私が川崎駅東口を歩いた時の様子は2016年10月5日付の「さいか屋川崎店(旧)の跡」で紹介しておりますが、既に小川町1番地の建物は解体工事が進められています。

 マルイ川崎店は東口のルフロンにあります。1988年に開業しました。おそらく、川崎市で最初のマルイです(次が溝口でしょう)。ルフロンには川崎西武もありましたので、西側がマルイ、東側が西武百貨店であった訳です。川崎西武のほうはラゾーナ川崎プラザとは全く関係なく、1990年代に閉店しており、現在はヨドバシカメラ川崎店が入っています。マルイのほうは、1991年に169億円の売上を記録しており、繁盛していたかのようでしたが、こちらはラゾーナ川崎プラザの影響を受けてしまいました。2016年度の売上は39億円程であるとのことです。また、2008年および2011年に、上層階(9階および8階)を所有者に返却する形で売場面積を縮小していました(かつて渋谷のセンター街にあったHMV渋谷店と同じようなことを行った訳です)。今後の展開が見込めないということで、2018年1月の閉店という決断に至ったようです。

 丸井が撤退した後については、何らかの策がとられることとなるでしょう。ただ、現在のところ、ルフロンの西側にいかなる商業施設ができるかはわかっておりません。朝日新聞社の記事によると「地元の商業団体などからはシティーホテルや複合商業施設などにしてほしいとの要望が出ている」とのことですが、これが長い目で見ても良い策であるか否かはわかりません。西口に客足をとられているから奪い返す、という発想が正しいかどうかを問わなければならないでしょう。「食うか食われるか」では、結局、どちらも食われて終わるしかないかもしれません。共存を考えるべき時でしょう。

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再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その3) 

2017年05月18日 00時00分00秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第434回として2011年8月14日から同月20日まで掲載したものです。再掲載にあたり、一部を修正しました。なお、写真撮影日は2010年6月1日です。〕

 二子玉川駅の4番線にいます。これから電車に乗って渋谷に出ようとしているのですが、もう少し、ホームからの景色を楽しもうと思います。人によって評価は違うでしょうが、田園都市線の沿線で最もよい景色を眺められるのがこの二子玉川駅ではないかと思っています。

 

 兵庫島公園です。右側に池があります。ひょうたん池と呼ばれています。その左側に複雑な水流がありますが、これこそが多摩川です。この辺りには中洲が多く存在します。

 今、私が立っている所は東京都世田谷区玉川です。川の向こうは川崎市高津区二子です。新二子橋より奥には久地、宇奈根といった所が見えます。

 今度は二子新地駅のほうを見てみます。この橋を渡るとすぐに二子新地駅に到着します。右側に写っている電車は東京メトロ8000系で、こちら側に向かっています。左側に写っている電車は東京メトロ08系です。

 この橋は、外側が田園都市線、内側が大井町線となっています。このようになったのは最近のことで、私が通学路線としていた1990年代までは、内側の2線がなく、外側2線の間は広い空間となっていました。つまり、内側に橋はなかったのです。電車に乗っていると窓から河原の地面、水面が見えたのでした。風が強い日などには恐怖感を覚えたこともあります。「もしここでドアが勝手に開いたら地面か川に落ちる」と思えるのです。しかも、現在と異なり、1番線と4番線が大井町線、2番線と3番線が田園都市線でした。二子玉川駅に発着するためには写真のポイントを通過していたのです

 1980年代、テレビ朝日系で日曜日の20時台に「私鉄沿線97分署」という刑事ドラマを放映していました。そのエンディングには、二子玉川を発車して二子新地へ向かう田園都市線の電車からの前面展望動画が使われていました。もし、ビデオテープか何かで動画を保存されている方がおられれば、御覧下さい。私が記したことがおわかりになるかもしれません。

 少し角度を変えます。奥は高津区です。中程に高い建物が見えます。最も高い建物は、おそらく高津区で最も高い建物でしょう。高津区久本三丁目にあります。そこには日本電気(NEC)の東京第二工場があったのですが、JR南武線の向河原駅前にある工場に統合されてしまいました。その跡地にできたのが、高津区で最も高い建物で、分譲マンションです。

 その左側に、かながわサイエンスパーク、略称KSPが見えます。道路を挟んで高津区で最も高い建物の真向かい、坂戸三丁目にあります。私が学部生であった時にオープンしました。かつては池貝鉄工の工場で、南側の一角にはサイバネットという名前の会社もありました。坂戸や久本は工場が多かった所でして、現在はパークシティやイトーヨーカドー溝ノ口店がある場所は東芝玉川工場でしたし、その他、川崎電線、様々な町工場がありました。ちなみに、KSPの北側、坂戸1丁目には精密測定機器の製造・販売会社であるミツトヨの本社があります。また、KSPの南側、末長には富士通ゼネラルの本社があります。

 大学院生時代まで、KSP、とくに1階の流水書房によく行きました。場所柄なのか理系、技術系に強く、また、当時、川崎市で最も洋書や洋雑誌を扱っていた店で、NewsweekやTimeは勿論、SpiegelやLe Pointなども売られていました。しかし、私が大分大学に就職してからは行かなくなりました(大分市に住んでいたので「当たり前」と言われるかもしれませんが、その頃に川崎に帰ってきても行かなくなったのでした)。いつの間にか閉店しており、現在、KSPに書店はありません。

 また角度を変えます。今度は下流側で、赤色の橋は第三京浜道路、手前の高層建築物は高津区諏訪か北見方にあるマンションでしょう。それよりも目立つのが奥にある高層建築物で、中原区の小杉町、新丸子東の辺り、平たく言えば武蔵小杉駅周辺にあるものです。川崎市で最も高い建物は武蔵小杉駅周辺にあるのです。東急東横線に乗っていると、その異様さがよくわかります。2011年3月11日14時46分、これらの超高層建築物の様子はどのようなものであったのでしょうか。10階にある研究室でひどく大きな揺れを体験した私としては、少しばかり関心があります。

 再び兵庫島公園です。何時のことであったか、また、一度だけであったかどうか、よく覚えていないのですが、兵庫島に入ったことがあります。当時は今のようなマンションなどもなく、もっとのどかな雰囲気がありました。

 二子玉川駅周辺の散策は、まだ続きます。それは、また機会を改めて。

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再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その2) 

2017年05月17日 00時00分00秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第433回として2011年8月6日から同月14日まで掲載したものです。なお、写真撮影日は2010年6月1日です。〕

 世田谷区玉川2丁目にある二子玉川駅の周辺を歩いています。地元の長年の懸案であったという再開発事業も2011年3月で完成したようですが、今回は2010年の様子を取り上げます。

 2010年6月1日、二子玉川ライズのかなりの部分は完成していましたが、まだ仮営業の段階でした。完全なオープンは2011年3月19日です(当初は17日の予定でしたが、東日本大震災の影響によって2日間延ばされたのでした)。

 再開発の前の、どちらかと言えばひなびた雰囲気を知っていますので、この変化の大きさには驚きました。遊園地の二子玉川園の面影は完全に消滅しています。また、23区域にある自動車学校では最大の面積を誇っていた東急自動車学校も唐木田に移転しました。今目の前にある建物の場所はバスターミナルでした。ロータリー型になっており、その周りに交番、東急ストア、東急ハンズなどが建っていましたが、2階建てでした。また、そのバスターミナルから二子玉川園の正門の辺りまで、八百屋、中華料理屋、書店など数件の店がありました。たしか駄菓子屋かおもちゃ屋もあったと記憶しています。二子玉川園の正門は閉園後もほぼそのままで残されており、そこに目黒駅行と多摩川駅行のバス停がありました。この二つの系統だけはバスターミナルから少し離れたこの場所から発車していたのです。

 向きを少し変えます。柱などで大井町線の高架橋が見えにくくなっています。右側に、既に営業している店舗の案内が書かれています。この中には再開発の前からこの駅前で営業していた店もあります。ここまで変わると、以前どうなっていたかを思い出すことが難しくなります。溝口は覚えていますが、よく行っていたとはいえ、溝口より頻度が落ちる二子玉川については、それほどよく覚えている訳ではないのです。

 さて、駅の自動改札機を通り抜けてホームに立つこととしましょう。東急は、関東の大手私鉄の中でも早くから自動改札機を導入しており、二子玉川駅も、JR東日本が首都圏の各駅に自動改札機を大々的に設置した時期よりかなり前から自動改札機を導入していました。但し、花火大会の時は乗降客があまりに多くなるため、自動改札機を停止させていました。

 田園都市線上り電車が到着する4番線のホームに立ちます。多摩川の河原がすぐ目の前に見えるのは二子新地側、10号車のほうです。天気が良ければ富士山も見えるホームから、すぐ近くに目をやれば、御覧の通りです。下に細い道が通っており、兵庫島公園に向かうことができます)。私は、大学院時代、そして結婚してから、通学・通勤で二子橋を渡り、兵庫島公園のほうを電車の中から見ています。

 以前は富士観会館であった場所に高層マンションが建っており、その奥にもマンションが並んでいますが、中程に一軒家らしい建物も見えます。手前にかすかに見える道路が旧大山街道の二子橋です。

 兵庫島公園が見えます。写真の左手前側が兵庫島公園です。奥のほうに国道246号線の新二子橋が写っていますが、その辺りから二子玉川緑地となっています。上の写真にある水の流れですが、これは多摩川ではなく、野川です。野川は国分寺市にある源流を発し、調布市などを通って世田谷区に入り、ここで多摩川に合流します。つまり、野川は多摩川の支流です。兵庫島は、多摩川と野川の合流地点にあります。

 この名前の由来ですが、1358年といいますから室町時代の初期、南北朝の時代の武将で、新田義貞の二男である新田義興に関係します。義興は南朝方についていたのですが、足利家の策略によって謀殺されてしまいます(自害したと記すものもあります)。この時、新田軍の従者に由良兵庫助という人物がおり、兵庫助も死を遂げることとなりました。その死体が流れ着いた場所がここで、彼がここに葬られたので兵庫島と名付けられた、というのです。

 但し、この説については義興が謀殺された場所という問題があります。一般に矢口の渡と言われていますが、この矢口の渡の場所についていくつかの見解があるのです。最も有力なのは現在の大田区矢口付近であり、東急多摩川線には矢口渡という駅がありますし、その隣の武蔵新田駅は大田区矢口にあります。そして、武蔵新田駅の近くにある新田神社(駅名はこの神社に由来)は、新田義興を祀っています。

  しかし、そうであるとすると兵庫助の死骸が現在の兵庫島に流れ着くはずはないのです。理由は簡単で、兵庫島のほうが上流にあるからです。地図を見ればすぐにわかりますが、多摩川は、川崎市側で言えば多摩区、高津区、中原区、幸区、川崎区を通って東京湾に注ぎます。従って、東京都側で言えば調布市、狛江市、世田谷区、大田区を通って河口(大田区)に至るのです。兵庫助の亡骸が兵庫島に流れ着くためには、東京湾が満潮を迎えるなどして川が逆流するようなことがない限り、上流からでないと説明がつきません。

 そうすると、稲城市にある矢野口(JR南武線に矢野口駅があります)こそが矢口の渡の場所であると考えなければなりません。この見解も有力です。また、他にも説があるようです。

 なお、兵庫島といいますが、現在は島ではありません。かつては中洲であり、文字通りの島であったのですが、洪水などの自然現象により、陸続きになっています。

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再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その1)

2017年05月16日 01時08分32秒 | まち歩き

 このブログに「東急大井町線途中下車」シリーズを掲載しました。元は私の「川崎高津公法研究室」に設けていた「待合室」で掲載していたものですが、2014年10月13日に休止、2015年1月24日に終了したため、第9弾の北千束駅から第14弾にして最終の大井町駅まではこのブログに掲載しました。また、第8弾の緑が丘駅は「待合室」に掲載したものを、ほぼそのまま、このブログに再掲載しています。

 しかし、第1弾から第7弾までは、このブログに掲載していません。開始から終了まで5年程かかってしまったこともあって「今頃再掲載してどうする?」という気持ちもあるのですが、やはり途中からというのもおかしいので、再掲載することといたしました。

 今回は第1弾の1回目として「待合室」の第431回として2011年7月30日から同年8月6日まで掲載したもので、やはり「待合室」に掲載していた「東急田園都市線途中下車」シリーズの第14弾をも兼ねていました。なお、写真撮影日は2010年6月1日です。

 〈以下再掲載〉

 1990年代に大きく変わった街と言えば、我が高津区の溝口です。その溝口から2キロメートルしか離れていない世田谷区玉川は、21世紀になってから大きく変わりました。2011年3月19日に二子玉川ライズが完全オープンとなりましたが、これが二子玉川駅周辺再開発事業の一環でして、急行停車駅でありながらひなびた感じのあった東口は大きく変わってしまいました。1980年代まで営業していた二子玉川園という遊園地、その後にできたナムコ・ワンダーエッグ、ねこたま、そして二子玉川園の門の真ん前にあった中華料理屋(競馬の馬主でもあった)がなくなりました。東急自動車学校もなくなりました(唐木田へ移転しています)。道路なども変わってしまい、二子玉川園があった頃の面影は失われつつあります。

 小学生の頃から、自転車でよく二子玉川園駅周辺に行きました。大学院生時代は溝の口~早稲田(地下鉄)の通学定期券を持っていたので、よく二子玉川園駅で降り、玉川高島屋南館や東急ハンズなどで買い物をしたものです。2000年8月6日に駅名が二子玉川となりました。その頃は大分市に住んでいましたが、川崎市に帰ると時々寄りました。2004年4月から大東文化大学に勤務していますが、目黒線を利用していたのであまり寄らなくなりました。それでも、時々、大岡山で大井町線に乗り換えては二子玉川に行ったりしたこともあります。2010年4月からは田園都市線を利用するようになり、時々降りて買い物などをしています。今は通勤定期券を持っていますので、途中下車も楽です。

 二子玉川駅を利用する機会は多いため、写真もよく撮っています。そこで、今回は、東急田園都市線途中下車シリーズの第14弾として、二子玉川駅を取り上げることにしました。枚数が多いこと、撮影日がバラバラであることから、何回かに分けて掲載します。

 また、二子玉川駅は、東急大井町線の正式の終点でもあります(営業運転は大井町~溝の口ですが、二子玉川~溝の口は田園都市線に乗り入れる形をとっています)。そこで、今回から東急大井町線途中下車シリーズも立ち上げます。二子玉川駅はその第1弾ということになります。 

 二子玉川駅と言えば玉川高島屋でしょう。駅の西側にあり、1969(昭和44)年に開店しました。渋谷から二子玉川園まで走っていた玉川線と、二子玉川園から砧本村まで走っていた砧線が廃止された年に当たります。開業以来、二子玉川の象徴ともなっています。

 この玉川高島屋ですが、実は百貨店の歴史を大きく変えた店舗でもあります。今もそうなのかもしれませんが、当時、百貨店と言えば都市の中心部にある繁華街、あるいは中心駅の前にあるものでした。しかし、高島屋はその常識を破りました。二子玉川園駅と言えば、1969年の当時、多摩川に近い場所に遊園地があり、渡し船もあった所で、同年に廃止された玉川線の終点にして砧線の起点、そして田園都市線の途中駅に過ぎません。世田谷区の中心ではありませんし、繁華街ではありません。つまり、郊外としか言えない場所です。そこに百貨店ができたのです。つまり、玉川高島屋は郊外型百貨店の第1号なのです。そして、これが大当たりでした(もっとも、開店からしばらくの間は苦しい経営を強いられたという話も聞きます)。その後、二子玉川園駅の西口には金融機関など、様々な業種の店舗が増えていきました。

 奥に二子玉川駅のホームが見えます。二子橋に向かう道路を歩いています。かつては国道246号線でした。旧大山街道でもあります。現在の国道246号線は駅から少し離れ、玉川高島屋の西側の駐車場の上を通り、新二子橋を渡ります。

 駅の北側にドッグウッドプラザがありますが、その工事中であった時の写真です。この辺りにはガーデンプラザのような一角があり、何軒かの飲食店もありました。曜日によってはかなり混んでいたことを覚えています。

 詳しいことはわかりませんが、このドッグウッドプラザの辺りが、かつての玉川線および砧線の駅があった場所です。玉川線は現在の田園都市線とほぼ同じ場所を通り、砧線は二子玉川インの付近から左へ大きく曲がり、中耕地、吉沢、そして終点の砧本村に向かっていました。現在でも、二子玉川インと玉川高島屋SCの東側駐車場との間に痕跡があります。

 砧線は玉川線と同時に廃止されてしまった全線単線の路線です。玉川線は軌道線でしたが、砧線は鉄道線でした。しかし、砧線の車両は玉川線と同じでした。今回の写真にはありませんが、別の日に中耕地駅跡を歩きましたので、機会を見つけて紹介いたします。なお、砧線の廃止後は高津営業所の所管路線である玉06系統が走っています。8の字のような形をした路線です(二子玉川駅→中耕地→吉沢→都市大総合グランド前→砧本村→世田谷総合高校→吉沢→二子玉川緑地前→二子玉川駅)。

 二子玉川駅の近くです。右奥に高層マンションが建っていますが、以前は富士観会館でした。その手前にパチンコ屋があり、1980年代には、そのパチンコ屋の店内放送が駅のホームにまで聞こえていました。

 この先に二子橋があります。かつて、大井町線、田園都市線の電車は二子橋の道路の上を走っていましたが、1966(昭和41)年には現在の専用の橋梁に移っています。二子橋を渡ると川崎市高津区二子、そして二子新地駅でして、二子玉川駅のホームに立つと二子新地駅がよく見えます。

  上の写真の奥に写っている交差点を右折するか、二子橋の脇を通って右折すると兵庫島です。夏の世田谷区たまがわ花火大会の会場もその辺りです。最近は川崎市の多摩川花火大会と同時に行われることが多く、昨年(2010年)もそうでした。川崎市の打ち上げ場所は田園都市線の橋梁と第三京浜との間です。開催日に田園都市線か大井町線に乗ると、両方の窓から花火が見える訳です。

 二子玉川駅の改札口です。田園都市線と大井町線の乗換駅で、もちろん急行も準急も停車しますが、位置の関係で改札口はこの一箇所しかありません。田園都市線でも大井町線でも1号車でないと遠い所です。ホームが多摩川の上まで伸びている関係もあるようです。

  日本で最も改称が多い駅は阪急千里線の関大前駅ですが、二子玉川駅はその次くらいでしょうか。ここは東急で最も改称が多い駅です。まず、1907(明治40)年、玉川電気鉄道の玉川駅が開業しました。これとは別に、1929(昭和4)年、目黒蒲田電鉄の二子玉川駅が開業しました。大井町線の自由が丘~二子玉川の開業に伴うものです。この時点で、玉川と二子玉川は別々の駅であったようです。1940(昭和15)年、二子読売園と改称しました。1944(昭和19)年、名称は二子玉川に戻ります。その10年後、1954(昭和29)年、今度は二子玉川園に改称されました。そして2000(平成12)年8月6日、再び二子玉川に改称されました。二回も当初の名称に戻されるというのは珍しい例でしょう。これには地元の意向が反映されていたようです。

 二子玉川といいますが、所在地は世田谷区玉川で、二子という地名は、少なくとも現在、世田谷区になく、対岸の川崎市側にあります。二子の渡しにちなんでいるのか、かつては世田谷区にも二子という地名があったからなのか、詳しいことはわかりません。世田谷区と川崎市の双方にある地名としては、宇奈根、瀬田(二子新地駅のそばにある狭いエリアです)、等々力などがあります。

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こういうことを迂闊には書けない

2017年05月15日 23時20分40秒 | 日記・エッセイ・コラム

 私のこのブログは「gooブログ」を利用しています。そのため、gooを時々見ています。

 先程、たまたま、「gooランキング」の記事で「アニメ史上最も『悲惨なバッドエンド』を迎えた作品ランキング」という記事(2016年12月2日11時30分付)が目に付きました。その中で、1位として「火垂るの墓」があげられており、次のように書かれていました。

 「日本にいたらきっと1度は見たことがある作品」

 私は一度も見たことがありません。

 

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某コンビニで

2017年05月13日 21時00分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

 5月11日0時0分0秒付で「大坂府? 大坂市?」という記事を投稿しましたが、まさか試験答案以外にこの誤表記を見つけることになるとは思いも寄りませんでした。

 今日の午後、中央大学多摩校舎から帰る途中に、川崎市内の某所の某コンビニに寄りました。そこで買い物をして会計を済ませた直後のことです。レジスターに付けられている電子広告で、チケット予約の広告が流されていたのですが、大坂で行われるコンサートの案内で「大坂」と書かれていました。しかも、会場名については「大阪」と書かれています。

 ただの誤りなのでしょう。バグではなさそうです。

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大坂府? 大坂市?

2017年05月11日 00時00分00秒 | 受験・学校

 あらかじめお断りしておきます。タイトルは、意図的な誤字です。

 今年度も、2年生のクラス授業「基本法学概論」を担当しています。法学は勿論のこと、時事問題、地理なども出題するのですが、先日実施した小テストで「あなたはいつの時代の人ですか?」と尋ねたくなる解答がありました。

 地理に弱い学生が少なくないということで、関東地方と近畿地方の白地図を使って出題したところ、とくに近畿地方については全滅という解答も少なくありません。どこの県がどこにあるのかわからないという学生もおり、出来は極端に分かれました。琵琶湖が大阪府にあるというような解答もあるのです(京都府と間違えたのであればまだ理解できますが)。

 そして、タイトルに示した「大坂府」と「大坂市」です。たしかに、現在の大阪は、歴史をひもとくと大坂と書いていたのですが、何時の頃からか大阪と書くことが増え、明治時代には大阪が定着します。これは縁起をかついだことによるようです(但し、これは俗説かもしれません)。たしかに、「坂」では「土」に「反」ると書きます。もっとも、本当のところはよくわからないようです。

 ともあれ、日本の大都市名を正確に書けないのは困りものです。現在は、「大阪府」、「大阪市」と記すのが正しいので、しっかり覚えてほしいものです。

 また、東京都の都庁が所在する区については、新宿区と書けた学生が多かったのですが、「東京市」と書かれた解答も散見されました。これも「あなたはいつの時代の人ですか?」と尋ねたくなります。

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また、何らの意見も付されない決算が?

2017年05月10日 00時00分00秒 | 社会・経済

 私が生まれ育ち、現在も住んでいる川崎市は、東芝と浅からぬ、という言葉では到底足りない程に深い関係があります。高津区でも、久本三丁目にあるパークシティ溝の口は東芝玉川工場の跡地です。そのため、という訳でもないのですが、やはり東芝関連のニュースは気になります。

 昨日(2017年5月9日)の朝日新聞朝刊9面14版に「東芝決算、期限内発表検討 3月期 監査法人と対立続く」という記事が掲載されていました(DA3S12927571.html)。どうやら、2017年3月期決算についても、2016年4月〜12月期決算と同様、監査法人が「意見不表明」とする可能性が高いようです。

 東芝と監査法人との関係といえば、既に、東芝は監査法人をPwCあらた監査法人から別のところ(大手ではないようです)に変更しようとしている、と報じられています。

 上記記事にも書かれていることですが、東京証券取引所は、決算期末から45日以内に「決算短信」として開示することを求めています。もっとも、これは上場企業についての自主ルールであり、決算に監査法人の報告を付さなければ法的義務に違反するということにはなりません。そのため、東芝は、「これが我が社の決算である」として公表すれば、監査法人が何と言おうが言わなかろうが、一応は決算を発表したことにはなります。しかし、一般的には、というより常識的には、決算に監査報告を付すのが当然です。自分で「この決算は適正である」と言っているだけでは、その決算が適正であることの証明にはならないからです。

 なお、東芝は、6月末までに、関東財務局に対して「有価証券報告書」を提出しなければなりません。こちらのほうは監査報告書の添付も法的に義務付けられます(これも当然のことでしょう)。ただ、こちらについては延期という可能性が残されています。

 あまり報道などがなされないだけで、監査法人の側に問題があるという話があるのかもしれません。しかし、そうであれば、まず東芝が明確な理由を説明すべきでしょう。決算について意見が合わないからというだけでは、不十分にすぎます。今のままでは、監査法人が自社の決算を適正と認めてくれないから変更したいというだけのように思われても仕方がありません。

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京成上野駅にて

2017年05月09日 21時52分23秒 | 写真

京成本線の起点、京成上野駅(KS01)で撮影した写真です。

 

 

 

 

 

それにしても、歴史的背景など様々な事情があるとはいえ、首都圏の大手私鉄のターミナル駅で、この駅ほど閑散としている駅は他に見たことがありません。

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