ひとり暮らしをして、神戸市灘区で在宅介護を受けていた義姉が徘徊が始まったとのことで、介護の仕事もされているTさんのお世話でグループホーム「サンライフ さくら魚崎北町」に入居したのは2年前の3月のことでした。
コロナ全盛期のころで、なかなか神戸に出かけられず、Tさんご夫婦に入居の荷物運びなどをお願いしてまずは一安心。
それまでは、やかんをかけて火の消し忘れをしたとか徘徊の兆候が見られたとかで、ケアマネージャーさんにさまざまにお世話になっておりました。
義姉は用意のよい人で、私に葬儀代の通帳を預けており、当分はその通帳から施設の費用を毎月払うことにしました。
コロナ禍のため、出かけられないでいるうちに認知症が進み、耳が遠かったこともあって、本人の意思というものが確認できない状態になっていたためです。
また、施設の入居にあたって、さまざまな書類が必要でしたが、郵送でなんとか間に合わせることができました。
介護関係の書類は主人、両親のときもそうでしたが多過ぎるように思われます。
ケアマネージャーの方たちや多忙な若い人たちにとって負担になっているのではないでしょうか。
義姉の人生を振り返ってみます。
神戸出身の主人には未婚の姉2人と妹1人がいて、長姉は59歳で、妹は5歳で亡くなっております。
義父は主人が大学生の時に亡くなったとのことで、自分の葬儀のためにきめ細かく指示していたようです。
連絡先もすぐとそうでないものに分類し、手伝いの役割分担とかまで。
昭和20年代は家族葬というわけにはいかなかったんですね。
主人と結婚するときに、長姉にニットのスーツを、攝子姉にはウェディングドレスを作ってもらいました。
長姉はその後まもなくガンを患い、義母が看病して亡くなりました。
その葬儀には私は2人目の子どもが生まれたころで参列できませんでしたが、親戚の方たちも多く来られて独身であったわりには盛大であった、と聞いております。
何かの折に、義姉が母に看病してもらい葬儀をしてもらうことができてうらやましい、と語っていました。
義母は義父と共に小学校教員として共働きをして恩給を得ていて、元気で東京と神戸を行ったり来たりしておりましたが神戸震災の前年、1994年に94歳で亡くなりました。
義姉は被災後、親戚の方たちにお世話になり、また仮設住宅にも入居し、その後、義姉は小さな平屋住宅を跡地に新築して洋裁の仕事を続けておりました。「歩こう会」のグループで健康にも気を配っていたようです。
料理も得意で食べ歩きも楽しんだようです。
器用で細かいところに気が付くためか、友人と旅行に出かけてケンカをして途中で帰ってしまうということもありました。
震災でお世話になった方とも仲たがいをしてしまい、主人ともよく電話でケンカをしていたりしました。
主人は、義姉には私に最期を頼むとよい、と何かの折に話したりしていましたが、私としては大病もしましたし、主人や両親の年齢が近いため、実際はどうなるのかよくわからないと思ったりもしました。
結果として、主人、父、母、義姉 という順序となり、介護の期間が重なることがなく、施設を利用することが出来てありがたかったと思います。