所沢・山口にある書道教室の書展に出かけました。毎年出かけては元気をもらっております。
生け花はお弟子さんによるものだそうです。
併催の陶芸展で、陶器製のペンダントを購入しました。500円でした☆
2019年 小桃会 (右下のボタンで拡大できます)
所沢は、書や色彩を使う仕事に向いたところではないか、と思います。
あと音楽にも向いていると思います。
所沢・山口にある書道教室の書展に出かけました。毎年出かけては元気をもらっております。
生け花はお弟子さんによるものだそうです。
併催の陶芸展で、陶器製のペンダントを購入しました。500円でした☆
2019年 小桃会 (右下のボタンで拡大できます)
所沢は、書や色彩を使う仕事に向いたところではないか、と思います。
あと音楽にも向いていると思います。
椿峰ニュータウンの59街区緑地(明生病院近くの緑道わきにあります)に花壇ができました。
長年にわたって所沢市の「みどりのパートナー制度」を利用して椿峰中央の駐車場周辺で花植えが行われていましたが、駐車場整備により撤去することになりました。
撤去にあたり、土地の所有者の方から花移植のためにご寄付をいただき、所沢市のご協力をえて、新しいコミュニティ・ガーデンが誕生しました。
2月には整備のため、多くの方が集まってくださったとのこと。こちらの写真は、まちづくり協議会のKさんからの提供によるものです。
頼もしい方たちにお集まりいただいたようです。
3月23日午後、曇り空の中、つばき児童館の先生と児童を交えて、花植えが行われました。
植え方の説明と諸注意です。
子どもたちは熱心に植えていました。農業への夢を話していた子もいました。
記念写真をパチリ☆
どうぞ緑道の お散歩の折には、このガーデンをのぞいてみてくださいますように。
こういったまちづくり活動にご参加いただければありがたいと思います。
地域で子どもたちを育てていくことが大事だと思います。
また、子育てに向いたまち、椿峰ニュータウンをよろしく。
こうしてブログなどを書いていると、関連した文章や写真などが目の前に現れるということが時々あります。
主人が1989年にアメリカに出かけたときのアーリントン墓地での写真がありました。
小学校高学年のころの遠足での写真です。
青森ではこの後藤伍長の像と雪中行軍の話はよく知られているのですが、日露戦争についてはほとんど知らないでおりました。
実際の戦争は、映画やドラマとはかなり違うように感じられます。
多くの犠牲のうえに成り立つ繁栄というものを認めてよいのか、小学生の自分から見つめられているようにも思います。
平和とは、あらゆる戦争を認めないという強い主張の義務を伴うものなのではないでしょうか。
どこかで戦争をしていてもよい、自分たちが今、平和であれば、ということではないと思います。
午前9時ごろですが、所沢・航空公園駅のスーパーに配達にきた冷蔵車を見かけました。
川崎市中央卸売市場北部市場と書かれています。
海のない埼玉も今ではおいしいお魚を食べることができるのはありがたいことです。
ただ、運転手不足があったり、災害があったりで流通の合理化というものに早急に取り組む必要がありそうです。
オリンピックで道路事情はどうなるのか、夏場の開催で食の流通に問題が出てきたらたいへんではないでしょうか。
停電に備える必要もあると思います。
食の安全について、世界中から厳しい目も注がれるかもしれません。
ほかの国でも問題を抱えているため、目をほかに向けさせるということも大いにありそう
東京の一極集中で、リスクも集中してしまっているのかもしれません。
オリンピックを前に、首都圏のリスクの洗い出しと分散をお願いしたいと思います。
青森のタクシーの運転手さんは話題が豊富な方が多いので、いろいろ話をしてみることをお勧めします。
青森はねぶた祭が行われるだけあって道路が自慢のまちですが、2月には、雪のため道路の幅がかなり狭くなります。
その雪の中を高齢者が自転車で走っていたり、少しのことで若者が切れやすくなっていたりで、運転手さんもたいへんなのだとか。
新青森駅には、ねぶたの飾りがあれこれあります。
青森は穏やかな人間が多いんですけれど・・・・・
新青森駅のいつも写真を撮るところからです。
同じ日でも太平洋側は雪が少ないのがわかります。
帰りの新幹線で、岩手の駅から乗ってこられて隣の席に座った同じぐらいの世代の男性の方とお話をしてみました。
雪中行軍で岩手出身の犠牲者が多かったことで、岩手の方とお話をしてみたいと思ったからです。
おじいさんが日露戦争に出征し、森鴎外のもとで衛生兵をつとめたんだとか。
歯科医をされているとかで、いろいろなお話を聞くことができました。
奥様が介護もお孫さんの世話もされているとかでたいへんそうでした。
私の父方の祖父は富山、祖母は青森・五所川原の出身で、母方の祖父母は岩手・湯田の出身です。
主人の本家は広島・呉の倉橋島で、主人は神戸で生まれて育ちました。
それぞれの土地での生活の知恵があるように思ったりします。
高校の同期会や、自治会で集まったときに、ひとりひとりが話をするのを聴くことが楽しく感じられます。
評論家や有識者の意見を拝聴というのではなく、ちょっとしたことに日本再生のヒントが隠れているのかもしれません。
多くの人たちがつながって、知恵の持ち寄りといったものがもっとあってもよいのではないか、と考えるこのごろです。
91歳の母は、大腸がんの疑いがあるとのことでしたが、本人が大腸がんの検査や手術は受けたくないとのことで希望通りにすることにしました。
施設で食事やトイレには杖をついて歩けたのですが、転んで足の骨を骨折してしまい、その手術を受けることは承諾して、青森慈恵会病院というところに入院しました。
弟夫婦に対応してもらい、入院の準備などは施設の方にお願いできました。
青森慈恵会病院は若いスタッフが多くいて、母は満足しているようでした。
とくにリハビリ部門が充実しているようです。 → こちら
北海道や北東北は、冬は室内にいる限りは関東よりも温かく感じられます。
高齢者にとって、電気代を安くしてもらえればありがたいですね。
冬というものをしっかり体験したい方は、ぜひ青森にお出かけください。
青森はものを考えるにはふさわしい場所であることに気が付きます。
放射性廃棄物は青森に集められていて、日本一の短命県であるのだとか。
青森のデパートやスーパーで買うリンゴは、高くて不味かったりします。
もしかしたら、日本の将来を先取りしているのではなかろうか・・・・・
日本の若者が振り込め詐欺やアジアで強盗事件を起こしていることについて、高齢になった私たちの世代はもっと責任を感じてもいいのではないでしょうか。
日露戦争での現地総司令部として満州軍がつくられたとか。→ こちら
この情報担当の高級参謀に福島安正がいたとのこと。
満州軍の隷下部隊である第2軍司令部に酒井勝軍は配属されました。
・酒井の配属された第二軍は、明治三十七年三月に編成され、司令官は奥保鞏(おく・やすかた)がつとめており、遼東半島に上陸し、満州中央部に向かって北進するという重大な任務を課せられていた。
この第二軍には、騎兵第一旅団を率いた秋山好古(あきやま・よしふる)や、乃木希典(のぎ・まれすけ)の長男乃木勝典(かつすけ)が所属していたことで知られている。
森鴎外はこの第二軍の軍医部長だったんですね。観戦外国武官たちと森鴎外は接触があったのかどうかわかりませんが、この第二軍に国際的な注目が集まっていたことを森鴎外は感じていたことでしょう。
森鴎外は1904年4月に広島・宇品を出て1906年1月に東京・新橋へ凱旋。
酒井勝軍は1904年5月の南山陥落をを聞いてすぐ出帆し、1905年8月に凱旋(だいぶ経ってからの記述のようで正確ではないようです)
観戦外国武官とは想像よりも長期に戦場にいたようだ、と思いました。
それぞれ帰国してから報告書を書いたようで、貴重な史料となっているとか。
ただし、観戦武官たちの出身の国の中には、その後まもなく消滅したところがあってほんとうに激動の時代であったのだと思います。
酒井勝軍について
・日露戦争への従軍体験は、酒井が留学によって親しんだ反戦平和主義、親米主義、民主共和主義という価値体系を根刮(ねこそ)ぎひっくり返し、戦争肯定礼賛主義、日本主義、神政主義への思想的大転換を要請してきたのである。
これは日本という国家が明治維新以降ひとすじの迷いもなく強力に推進してきた「欧米型近代」の全否定であった。
・日露戦争への従軍は、酒井に「若し地上に天国を求めば戦場の外になし」とまで堂々と公言させるほどの決定的な体験を与えてくれた。
・これは「貧しきものは幸いである」などと同じ逆説表現であり、とうていあり得ないことこそが真実であるという意がこめられてる。すなわち、それまで真理だと信じて抱きつづけてきた価値観が百八十度大転換したことと、さらには真理は大転換側にこそ存在するということを象徴的に暗示した言葉として受け取られるべきであろう。
激戦であった日露戦争を含んで戦争というものの詳細を知らなければ、現代の日本は平和の伝道師として説得力をもてないようです。
さて森鴎外は酒井勝軍よりも長く戦場にいて、思想上の転換といったことはあったのでしょうか。
そう思って読むと、日露戦争後の森鴎外の作品には、かなり地雷のようなものを埋め込まれているように思えて・・・・・
たとえば、代表作ともいわれる「渋江抽斎」は弘前藩藩医であった人物ということから、森鴎外が八甲田山雪中行軍についての思いを埋め込んだ作品ではなかったかと思ったりします。つまり戊辰戦争以降の東北に、国際的な立場での日本の将来を重ねて考えたということはないでしょうか。
観戦武官たちの熱い目は、八甲田山雪中行軍にも向けられていたように感じられますから。
これについては、ブログ「メゾフォルテからあなたへ」で考えてみたいと思います。
『「異端」の伝道者 酒井勝軍』によれば
酒井勝軍は17歳から21歳まで仙台で過ごしたとのこと。
仙台神学校(のちに東北学院に改称)にいて相馬黒光と交流があったとは驚きです。
相馬黒光については こちら
この相馬黒光が酒井勝軍について一文を残しているんですね。
(以下青字は『「異端」の伝道者 酒井勝軍』からの引用です。)
・酒井勝軍は均整のとれた見事な体格、立派な風貌で、音楽が好き、賛美歌をうたふ時は多勢の中からこの人の声だけが際立つてきこえました。無口な方でしたが末無(すえなし・仙台木町通りの地名、黒光の実家があった)の家へよく訪ねて来てくれました。そしてだんだん事情がわかると、酒井さんは貧しい中で勉強している様子、それは自(おのず)から服装などにもあらはれましたから母も共に同情して、手づから織つた木綿縞(もめんじま)を私が縫って、寄宿舎にとどけに行つたこともありました。しかし酒井さんは他人の助けを受けるのを潔しとしないといひ、はじめは容易に受け取らうとしませんでした。その心がけに私たち母子はますますこの人を頼母(たのも)しく思ひましたが、酒井さんはその着物をたうたう着ないじまひでした。それがわかつた時は堅いといつてもあまりに偏屈のやうで、不快な感じをいたしました。
酒井勝軍はさまざまな苦労を重ねて1898年に留学のため渡米、1902年に帰国して、1904年に日露戦争が始まりました。
酒井勝軍は福島安正少将に面接し、即決で観戦外国武官接伴掛に適任とされたようです。
貧乏を極めたアメリカ留学中もさまざまに助けてくれた人がいたところをみると、好もしく助けたくなるタイプのようです。
・日露戦争がはじまると、欧米先進国を中心に各国は競って観戦武官の派遣を日本とロシアに申し入れた。日本が受け入れた観戦武官の数は、明らかになっているだけでも13ヶ国は、イギリス、アメリカ、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、スペイン、イタリア、スイス、ノルウェー、スウェーデン、ブラジル、チリ、アルゼンチン、トルコである。アメリカの観戦武官のなかにアーサー・マッカーサー・ジュニアがおり、息子のダグラス・マッカーサーを副官として連れていたことはよく知られている。
酒井勝軍は士族出身ではあるものの軍人ではなかったので、出征前に乗馬の練習をしてケガをしたりしていたのが戦場では外国武官が驚くような上達ぶりを見せたとか。
・観戦武官たちと日本の軍人を比較すると、日本の軍人たちはやはり見劣りがした。日本の軍人は洗練されていないのである。後進国的ダサさがあるといってもよかった。
ところがである。いざ日々の生活をともにしてみると、超エリートであるはずの観戦武官たちが次第に馬脚をあらわしはじめたのである。
・すべてにおいて不自由がちの最前線において、観戦武官たちには最大限の贅沢が提供されていた。食事については「和洋勝手次第」という態勢がとられ、贅沢嗜好品である葉巻やシャンペンまでもが常に準備されていた。また、宿舎にも最大限の配慮がはらわれていた。彼ら観戦武官たちの宿舎を確保するため、旅団本部や大隊本部に露営を強いることもまれではなかった。
・ところが、日々彼らの口を衝いて出てくるのは不平不満ばかりであった。宿舎の日当たりが悪い。燭(ろうそく)の数が少ない。。荷物の着くのが遅い。パンの焼き方が悪い。牛肉が硬すぎる。
酒井はこんな賎劣(せんれつ)きわまることをつぎからつぎへと毎日のように平気で申し出てくる観戦武官たちに嫌気がさした。反対に日本の軍人たちの後姿(うしろすがた)が神々しく見えるようになり観戦武官接伴掛となったことを後悔するようになっていった。
日露戦争では、第八師団は満州軍の予備隊に属して黒溝台会戦に援軍として投入され、作戦的にも問題があって大きな被害を出したようです。→ こちら
雪中行軍を成功させた弘前第31連隊の隊長である福島泰蔵大尉と第5連隊の生き残りである倉石一大尉は、この会戦で亡くなりました。
映画「八甲田山死の彷徨」については こちら
観たような気がするんですがだいぶ前だったので記憶に残っていなくて・・・・・
高倉健が軽い凍傷にかかるなど撮影はかなりたいへんだったようです。
高倉健の演ずる役のモデルは、弘前第31連隊の福島泰蔵大尉
苦労したあげく、その努力はほとんど認められず山中の案内人の扱い方など問題点も指摘されている福島大尉にとって少しは慰めとなることかもしれません。
日露戦争の戦いを細かくみると、薩長出身の指揮官がいて、前線に東北の部隊が使われた場合があったのか、とついつい勘繰ってしまいます。
戊辰戦争の影響が相当に長くあったということでしょうか。
高木勉著「八甲田山から還ってきた男 雪中行軍隊長・福島大尉の生涯」 文春文庫 1990年 によれば
福島泰蔵は上野国世良田村平塚の利根川水運の拠点にある船問屋に生まれたようです。
裕福なころは父は名字帯刀を許されていて、幼少期に私塾で漢学も学んだとのこと。
この生家の衰退によって、苦労をすることになり、軍隊での士官は多くが士族出身であって、身分の差で福島泰蔵は努力しても越えられない壁があったり、難しい仕事が与えられたりしたことがわかります。
久米晶文著『「異端」の伝道者 酒井勝軍』 学研パブリッシング 2012年 は興味深い本です。
酒井勝軍(ふくしま・かつとき)については こちら
このころ日本軍の情報将校に、福島安正という人物がいたとのこと。→ こちら
福島泰蔵はこの福島安正を目標に努力したようにも思います。
福島安正少将は日露戦争での観戦武官100名近くを受け入れることにしたのだそうです。
このとき接待の通訳を酒井勝軍が務めることになったようです。
山形・上山藩の士族出身の当時は牧師であった酒井勝軍は日露戦争で何を見たのでしょうか。
(つづく)
新田次郎「八甲田山死の彷徨」は1971年(昭和46年)9月に新潮社より書下ろし刊行されたとのことです。
江藤小三郎や三島由紀夫の影響はなかったでしょうか。
その影響があったとして、さらにこの小説の影響力は多大であったといえるのではないでしょうか。
私はそのころちょうど20歳で、何も知らずに過ごしておりましたが、今ごろになっておぼろげながらその時代というものがわかるようになってきました。
細かい事実に関しては埋もれてしまったり、思い込みが真実とされてしまうこともあったりするのでしょう。
雪中行軍については、未だに新事実発見ということがあり、語り継がれていく、ということが大事そうです。
新事実発見はできませんが、気づいたりしたことを書いてみたいと思います。
・1902年1月30日午後7時過ぎに青森で大きな地震があったとのこと。→ こちら
ちょうど捜索隊が動員されているときで、地震発生が夜でなかったら、なだれで2次災害が出てしまったかもしれません。
・クリミア戦争(1853-1856)では、イギリスが化学兵器を使い、またフランスはこの戦争を教訓に気象研究を始めたとか。
火山活動が活発であれば、ガスの発生も考えられて、窪地は要注意ということにならなかったでしょうか。
第31連隊ではその点について注意があったようです。
「八甲田山死の彷徨」では、日露戦争を前にして、軍首脳部による寒冷地における人間実験がこの悲惨事を生み出した、としています。
実験について成功も失敗もあり、その結果については公表されることはなかったということでしょう。
その地で実験をしてもよいと思わせるのは、差別感ではないでしょうか。20世紀の初めには差別というものがしっかりあったはずだと思います。