三富新田とは Wikipediaから こちら
三芳町HPで興味深い動画を見つけました。
所沢には土の改良についての蓄積があるようです。
この知恵を結集して、これからの農業や汚染土壌の浄化・再利用に役立てる必要がありそうです。
汚染土壌・汚染水の微生物などによる浄化の研究に多額の予算をつけてほしいですね。
防衛予算よりもある意味では大事ではないでしょうか。
無事、西武新宿駅に着いたものの出口をまちがえてタクシーに乗ったため、少し大回りすることになりました。
駅の前には道幅いっぱいにタクシーが止まっていたりしました。
タクシーの運転手さんは北海道の出身とのことで、私の青森の訛りのせいか、あれこれ教えていただきました。
歌舞伎町を通ったとき、取り締まりが以前より厳しくなっているとのこと。
歌舞伎町は学生時代にも避けたところで、初めて通ることになってアジアのどこかのような多国籍のまちに感じられました。
少し前に、子どもを投げおとす事件があったというホテルの前を通りました。
今の時代の母親はいろいろな事情で精神の安定が難しくなっているのかもしれません。子育てのとき、周囲に精神の安定した人間が何人かいてくれるとありがたいのではないでしょうか。
おそらく精神的に追い詰められて、子どもと心中しようとしたのではないかと思われますが、女性にはそういった危機が多かったりします。
現代の駆け込み寺といったものが必要なのかもしれません。
心身の健康には日光浴といったものが必要そうです。←意外に盲点
こちらは高層の建物が写らない西所沢付近の風景です。
この改修計画は3年前から始まっていたので、コロナ自粛となってからは少し考えが変わってきました。
コロナ自粛以前には、着物のリメイクとか時短の料理などを近所の方たちと一緒にできる場にしたい、などと思っていたんですが
それだけではなく、さまざまな問題について話し合って考える場が必要だと思うようになりました。
先日、同年代の2人の女性の方たちとゆっくり話す機会があり、お互い異なる体験をしてきたことがあり、また不思議な縁というものがあることがわかりました。
誰でも人生では何回かはたいへんな思いをするのですが、それをどのように乗り越えたのかを話してみることが必要に思ったりします。
単なる自慢話とか苦労話ではなく、まして悪口とか噂話ではなく。
他の人に淡々と話してみることで、自分の心が整理されていくということがあるのではないでしょうか。
介護の体験や家族に身障者がいる場合、あるいは引きこもりなど、誰かに任せればよいという時代ではなくなっているようです。
まず自分たちで対処に知恵を出し合い、必要ならば専門家なり自治体に相談するなど、
体験をもとにして地域にどう関わるのかを考える、いわば地域のシンクタンクのようなものができれば、と思っているところです。
散歩の途中にある畑での写真です。
自分でつくっているわけではありません(汗
働き盛りの男性が飲酒後に事故で死亡というケースは少なくないようです。
若い人たちが毎日飲んでいたりする、といったことが路上飲みなどで明らかになってきました。
明るいうちから若い人たちが酔っ払って大声をあげていたりします。
その危険性についてもっと取り上げられる必要がないでしょうか。
→ こちら
取り込み中なので、あり合わせで申し訳ありません的なオリンピックでもよさそうに思ったりします。
あり合わせといってはほんとうに申し訳ないのですが、地方の観光動画は力作ぞろいなので、世界に発信する機会にならないものでしょうか。
青森観光PR動画について こちら
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私もちょこっとPR動画をあり合わせの写真で作ってみました
元気の持ち寄りみたいなことも大事かもしれません。
あり合わせとか持ち寄りとか、あまり使わない言葉だったりするんでしょうか?
遅咲きのヤブツバキを撮ろうと思い、椿峰中央公園に行きました。
近くの木に字が刻まれていました。
刻んだ本人の名前でしょうか? それとも知人の名前でしょうか?
どこかで後悔しているのではないでしょうか。
森鴎外「カズイスチカ」は こちら
森鴎外の子どもや孫たちは、その多くが何らかの文章を残していて、一族の暮らしをのぞき見をしているような気分になったりします。
とくに感じるのは、うらやましいような父子関係ではないでしょうか。
ヒトは誰かを手本にして真似ることがよくあって、母子関係よりは父子関係のほうが真似ることが多いのでは?などと思ったりしました。
森於菟については こちら
森鴎外の先妻のただひとりの子どもとして育ち、もしかしたら森鴎外の作品の中には、於菟に語りかけたものがあるのかもしれません。
森於菟は多くのエッセイを残していますが、父親を越える名文家との評価もあるようです。
たとえば、森於菟「放心教授」は こちら
森於菟は、若い頃には短気な面があったという父鴎外よりも、祖父静男に似ているのかもしれません。
森静男が幕末から明治維新を乗り切ったのは、先見性があったのではないでしょうか。
森於菟が鴎外の大量の遺稿を守ることができたのは先見性を持っていたこと
温厚な性格で台北帝国大学医学部の教え子たちを差別なく育成したこと
(本文から)優秀な人材が続々と生まれ、戦後の台湾医学会の成し遂げた世界的業績の随一は、マラリアの消滅であろう。
また戦時中は、軍医森鴎外の名声により、台北帝国大学医学部を日本軍の横暴から守ることができたともいえるのだとか。
森於菟は、幼くして母親と離され、厳しい幼年時代を送ったようですが、5人の息子に恵まれ
その末の息子である森常治が以下のように書いています。
父於菟は他界してから、すでに四十三年になる。おそらくあの世ではまこと安らかに眠っていることだろう。
自分と同じ期間、米軍の爆撃被害を恐れて支林の熱帯医学研究所のトンネルのなかで過ごすことで、きわめて残酷な戦争を乗り越えることができた父鴎外の遺品や原稿も、大過なく自分とともに帰還させることができたのだから。さらには文京区の依頼で試みられた森鴎外記念図書館の立ち上げにも見事成功を収めえたのだから。
他方、台北帝大、そして台湾大学の立ち上げ、引継ぎ事業に参加した台湾側の関係者、医学者、教授たちが彼岸への境に到達するとき、眠りから身をおこし、相手の両手をしっかりと握り締め、相手の耳元で呟くことだろう。
「ありがとう。ほんとうにありがとう。あのときはご一緒にほんとうに頑張りましたね」と。
いまから振り返って思うとき、台湾における於菟の研究・教育生活は、次々と医師・研究者として育っていく若者たちを目の当たりにする歓びに満たされると同時に、それらの若者のけっして少なくない部分が、戦争に徴用され、しかも生還しえなかったという、今日なら想像もできない悲劇、そのショックと悲しみに襲われ続けていた、ということだろう。
「ああ、なんということだ!」と悲痛の叫びをあげる以外になにをすればよかったのだろう。
戦争を止めることができるのは最新兵器などではなく、過去の嘆きのような気がするのですが・・・・・
国を越えても分かり合えることがあるのに、憎しみを煽られ、武器を与えられて、戦争へと向かう
それはもう繰り返すべきではないと思います。
森鴎外が軍人となったのは・・・・子や孫も動員して平和とは何かを表現することであったように思われてきました。
読書中の本からお勧めしたいものがあります。
森 常治著「台湾の森於菟」宮帯出版社 2013年
帯には
鴎外の長男於菟の軌跡 鴎外の長男・於菟に関する初の評伝
父の印税に支えられた大宮の豪邸を捨て、骨を埋める覚悟で家族とともに赴いた台湾。
戦争の中、学生や学問のために誠実に生きようとした彼には、もうひとつ自力で守らなければいけないものがあった。
それは父・鴎外の遺稿・・・・・・。台湾の「新天地」と「父」の間でゆれる森於菟(もりおと)の人生を描く。
とあります。
今の日本が抱える問題の解決へのヒントが満載 という感想をもちました。(つづく)