予期せぬ劇症肝炎、そして生体肝移植からの壮絶脱出劇!
がんばれ!肝臓くん。。
最期まで
芽生さんの闘病記ブログ「私、乳がん。夫、肺がん。30代で同時にがん宣告を受けた夫婦の闘病記」が書籍化され、
そして今、「ママとパパが生きる理由。」というタイトルでドラマ化され放映されている。
本来、片や支え、片や支えられる立場の両者が、共に支えられる状況になった時、それはもう肉体的精神的に厳しいものになるだろうし、
しかもご夫婦には幼いお子さんもいる。
振り返ってみると、自分の闘病中は、子供たちのことはすべて妻に任せ切りになっていた。
学校の事も日々の生活の事も。
だからなんとも想像がつかない。
がん。今の自分の状況だと、なってしまう確立はやはりかなり高いだろう。
免疫抑制剤の使用、本来高めなければならない免疫力の抑制。
そして、各論様々な意見のある医療被曝、入院中のCT、X線撮影を受けた回数は半端ではない。
44歳で失くしていたであろうこの命、儲けものの今の命なので、自分的にはおそらく、頭の片隅では「ある程度」の覚悟はできているつもり。
でもやはり子供を含め家族のことだけは諦めきれるものではない。
だからせめて、子供たちがそれぞれ自立するまでは、と願うのだ。
「覚悟」という意味において、病気をしてからは常に「死」は意識している。
不思議なもので、「ある程度」の覚悟と、実際どうかというのはまったくの別問題のようで、今度余命宣告を受けたら、自分はいったい
どうだろう、と考える。
かつて目にした記事に、
『人はいつから「死」を受け入れられるのか? 末期がん患者200人の声』
というのがある。
『死ぬ瞬間 死とその過程について』(エリザベスキューブラー・ロス:鈴木 晶 :訳/中央公論新社)
という著書を元にしている。
~人は誰しも死に向かって生きており、死を徐々に理解し、老いや病を引き受けていく。
しかし、予期せず不治の病であることを宣告された人間の心の負担は、いかなるものか。
人が恐れてやまない「死への恐怖」や、「死」を受け入れる心のメカニズムについて解き明かした本~
ということだ。
その中で、末期がん患者の心の動きが5過程に示されるという。
そのまま引用させてもらうと、
【第1段階:否認と孤立】
自分が不治の病であることを知ったとき、多くの患者は、不安と恐怖からそれを否認するという。これは一時的な自己防衛であり、
本能的に自分の心を守ろうとする、人にとって必要な反応だ。患者によってはその後、部分的受容へ移行する場合や、孤立に向かう場合もあるとのこと。
【第2段階:怒り】
絶望的な告知を一度は拒否したものの、やがて「ああそうだ。決して間違いなんかじゃない」と新たな反応が生じてくる。
そして次に「なぜそれが自分なのか」という疑問とともに、怒りや妬み、憤慨が表出する。怒りはあらゆる方向に向けられ、
周囲の対応は困難になる。しかしそんな状態にあっても理解され、大切にしてもらえる患者は、自分が愛されていることを知って、怒りがおさまるという。
【第3段階:取り引き】
当初は現実を直視できなかった患者が、自分以外の人間や神に怒りを覚え、やがて「避けられない現実」を先延ばしできないものかと交渉を試みる。
善行の報酬として願いを叶えてもらおうと、神と取り引きするのだそうだ。患者と個別面談をした際に「教会に奉仕する」
「延命してくれるなら自分の体を科学に提供する」と約束した患者が大勢現れ、キューブラーを驚かせたという。
【第4段階:抑鬱】
手術や再入院など、もはや自分の病気を否定できない状況になってくると、苦悩や怒りは、大きな喪失感にとって代わる。
さらに治療による経済的負担や職を失うことなどが、抑鬱状態を招く原因となる。その一方で、死期が近いほど、
この世との別れのために心の準備をしなくてはならない苦悩にもさいなまれる。この時期周囲の人間は、励ますよりも、黙ってそばにいることが望まれる。
【第5段階:受容】
これまでの段階において、周囲から何らかの助言が得られれば、患者はやがて諦めの境地に至り、自分の運命を受け入れられるように変化する。
そしてある程度の期待をもって、最後の時が近づいてくるのを静観するようになるという。疲れきり、衰弱がひどくなり、
新生児の眠りにも似た長時間の静かな眠りを好み、周囲に対する関心もまた、薄れてゆく。
最終的には、恐怖も絶望もない存在となって旅立ってゆき、人生というひとつの環が完結するのだそうだ。
誰にも訪れる死だけれど、意識から外し避けてしまいたい死だけれど、今からしっかり死を意識することで、今、生きることの意味や
尊さを強く感じて生きていけたら、それはそれで最高だ。
思い出すのは、入院中、退院後の、最高の友であったSさん。
彼が亡くなる時、その直前まで冗談を言って周りを笑わせていたと聞いた。
最期まで笑っていたい。
そんな残りの人生を送りたいと、つくづく思う。
そして今、「ママとパパが生きる理由。」というタイトルでドラマ化され放映されている。
本来、片や支え、片や支えられる立場の両者が、共に支えられる状況になった時、それはもう肉体的精神的に厳しいものになるだろうし、
しかもご夫婦には幼いお子さんもいる。
振り返ってみると、自分の闘病中は、子供たちのことはすべて妻に任せ切りになっていた。
学校の事も日々の生活の事も。
だからなんとも想像がつかない。
がん。今の自分の状況だと、なってしまう確立はやはりかなり高いだろう。
免疫抑制剤の使用、本来高めなければならない免疫力の抑制。
そして、各論様々な意見のある医療被曝、入院中のCT、X線撮影を受けた回数は半端ではない。
44歳で失くしていたであろうこの命、儲けものの今の命なので、自分的にはおそらく、頭の片隅では「ある程度」の覚悟はできているつもり。
でもやはり子供を含め家族のことだけは諦めきれるものではない。
だからせめて、子供たちがそれぞれ自立するまでは、と願うのだ。
「覚悟」という意味において、病気をしてからは常に「死」は意識している。
不思議なもので、「ある程度」の覚悟と、実際どうかというのはまったくの別問題のようで、今度余命宣告を受けたら、自分はいったい
どうだろう、と考える。
かつて目にした記事に、
『人はいつから「死」を受け入れられるのか? 末期がん患者200人の声』
というのがある。
『死ぬ瞬間 死とその過程について』(エリザベスキューブラー・ロス:鈴木 晶 :訳/中央公論新社)
という著書を元にしている。
~人は誰しも死に向かって生きており、死を徐々に理解し、老いや病を引き受けていく。
しかし、予期せず不治の病であることを宣告された人間の心の負担は、いかなるものか。
人が恐れてやまない「死への恐怖」や、「死」を受け入れる心のメカニズムについて解き明かした本~
ということだ。
その中で、末期がん患者の心の動きが5過程に示されるという。
そのまま引用させてもらうと、
【第1段階:否認と孤立】
自分が不治の病であることを知ったとき、多くの患者は、不安と恐怖からそれを否認するという。これは一時的な自己防衛であり、
本能的に自分の心を守ろうとする、人にとって必要な反応だ。患者によってはその後、部分的受容へ移行する場合や、孤立に向かう場合もあるとのこと。
【第2段階:怒り】
絶望的な告知を一度は拒否したものの、やがて「ああそうだ。決して間違いなんかじゃない」と新たな反応が生じてくる。
そして次に「なぜそれが自分なのか」という疑問とともに、怒りや妬み、憤慨が表出する。怒りはあらゆる方向に向けられ、
周囲の対応は困難になる。しかしそんな状態にあっても理解され、大切にしてもらえる患者は、自分が愛されていることを知って、怒りがおさまるという。
【第3段階:取り引き】
当初は現実を直視できなかった患者が、自分以外の人間や神に怒りを覚え、やがて「避けられない現実」を先延ばしできないものかと交渉を試みる。
善行の報酬として願いを叶えてもらおうと、神と取り引きするのだそうだ。患者と個別面談をした際に「教会に奉仕する」
「延命してくれるなら自分の体を科学に提供する」と約束した患者が大勢現れ、キューブラーを驚かせたという。
【第4段階:抑鬱】
手術や再入院など、もはや自分の病気を否定できない状況になってくると、苦悩や怒りは、大きな喪失感にとって代わる。
さらに治療による経済的負担や職を失うことなどが、抑鬱状態を招く原因となる。その一方で、死期が近いほど、
この世との別れのために心の準備をしなくてはならない苦悩にもさいなまれる。この時期周囲の人間は、励ますよりも、黙ってそばにいることが望まれる。
【第5段階:受容】
これまでの段階において、周囲から何らかの助言が得られれば、患者はやがて諦めの境地に至り、自分の運命を受け入れられるように変化する。
そしてある程度の期待をもって、最後の時が近づいてくるのを静観するようになるという。疲れきり、衰弱がひどくなり、
新生児の眠りにも似た長時間の静かな眠りを好み、周囲に対する関心もまた、薄れてゆく。
最終的には、恐怖も絶望もない存在となって旅立ってゆき、人生というひとつの環が完結するのだそうだ。
誰にも訪れる死だけれど、意識から外し避けてしまいたい死だけれど、今からしっかり死を意識することで、今、生きることの意味や
尊さを強く感じて生きていけたら、それはそれで最高だ。
思い出すのは、入院中、退院後の、最高の友であったSさん。
彼が亡くなる時、その直前まで冗談を言って周りを笑わせていたと聞いた。
最期まで笑っていたい。
そんな残りの人生を送りたいと、つくづく思う。
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