木枯らしに 残る桜を 栞にし
梅士 Baishi
ちゃんぽんをすすって腹ごなしに公園を散歩した。
強い木枯らしにもかかわらず、桜紅葉がわずかに
残っていた。
俳句でも書こうかしらんと思ってちぎったが、しっか
りとくっついていた。
二枚をちぎってポッケに入れた。
散る桜、残る桜も、散る桜・・・。
結局、栞になった。
昨日は雪だったが、今日は少し暖かな雨模様で
ある。
今年の勝負はほぼ終わった。
年始早々、次年度の新しい勝負が始まる。
それまでは、教材作成のための読書と著作を進
めたい。
今年の成果、それは、学生には少し難しい資格試
験のようなチャレンジ目標を持たせなければ勉強し
ないということを確信したことである。
受験指導は骨が折れるが、アスリートのコーチと
同様である。
ゆとり教育をやるわけには行かないのである。
そのゆとり教育で子ども達の学力を落とした犯人
というべき官僚や教育関係者はほとんど反省してい
ない。
星槎大学はその吹きだまりの一つであるが、ゆと
り教育の正当性を学説のように学生に「教育」して
いる。
「ゆとり教育」あらため「生涯教育」と言い換えてい
る。
生涯を通して勉強するのだから、学校で受験勉強
する必要などないのだというのだろう。
子どもの時は、集中的に勉強すべきところを、生涯
をとおして長く薄くと、ごまかしているのだ。
これを詭弁という。
健康を目的とした「生涯スポーツ」と言っても、子ど
もの頃のスポーツ教育と年寄りのスポーツではおの
ずと発展段階もやり方も違う。
生涯スポーツだから、子どもも年寄りと同じように
楽しみながらのんびりとスポーツをすれば良いと言
うわけには行かない。
子どもに必要なのは、スポーツを通して身体の発
育を促進することと、精神的な強さを養うこと、社会
性を養うことという教育の意義が大きい。
ゆとりとは、強くなることだとも言えるのである。
堕落を招いた「ゆとり教育」を復活させてはなるま
い。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党