木枯らしに 朝一服の 茶を立てぬ
茶を掃く風の 音の静けき
梅士 Baishi
今朝の気温は7℃、強い木枯らしの吹く朝である。
3℃の予想だったが、予想外に暖かい。
今日は「正月事始め」という暦である。
木枯らしの勢いで、心静かに一服の茶を立てるの
も風流であろう。
茶に木枯らしの音ぞ遊びぬ。
昨日は宗教学者の幸福の科学評価について守護
霊インタビューを読ませていただいた。
宗教学者が幸福の科学を評定するというより、その
逆の意味がある。
島薗東大教授、山折哲雄、井上順孝、そしてオウム
擁護で日本女子大を失脚した島田裕己である。
何れも幸福の科学には脱帽、一宗教学者風情の及
ぶところではございませぬ、という一目置いた応援と
いうべきものであった。
それが、潜在意識下での本音だということである。
また、國學院大學の井上順孝氏守護霊は、自らの
霊言に気がついて、霊言が事実であることに改めて
感動していた。
しかし、不思議に思うのは、脱帽とは言っても、成
功していただきたいとは言っても、そこに信仰が立た
ないというところである。
一体、何のための宗教学なのか。
特定宗教を支持したのでは学問にならないという
その学問とは、一体何のためのものなのか。
そこに、最高のものを求めるという価値観がなけれ
ば、すでに学問ではあるまい。
キリスト教徒であっても、幸福の科学に出会えば、
そこに信仰の喜びを感じるものであり、キリスト教出
身の幸福の科学信者となることに何のためらいもな
い。
学者であっても、これぞ最高度の宗教であり、新し
い世界精神であるという評価ができなければ、研究
者に値しない。
真理を求めるということは、そういうことである。
それにしても、公務員の許可がなければ事を起こ
せないという日本の公務員社会主義の現実には大
きなストレスを感じている。
イベントをするにしても、食品について保険所公務
員の許可と許可料金支払いがないとできないという
始末である。
学校設立にも、文科省の許可がなければできない。
これは「認可制」という許可制度なのだそうである。
学問の自由とは、公務員の許可を条件とし、その
範囲内で認められる人権である、というのが社会学
的、実際的定義となる。
もっとも根本的な人権とされてきた政治的表現の
自由の中でもさらに根本的な選挙表現の自由も「許
可制」であり、違反すると処罰される。
有権者になるとさらに厳しい規制がかかり、メール
もするなとなる。
つまり、選挙に関する自由な言論は禁止されてい
るのである。
かくして、選挙期間になると、ブログもメールもノン
ポリ化して萎縮する。
え?、それが表現の自由なんだったけ~、と狸に
ばかされているような気分になる。
殺人罪とは、公務員の許可なくして人を殺すこと
である。
臓器移植のばあいは、許可が下りて、殺人が合
法化される。
経済活動の自由も、自由にできるのではなく、許
可制である。
自由主義の皮をかぶった社会主義、これが日本
の政治状況である。
そういう、だましはよろしくないですな。
宗教に置き換えれば、だましを使うところに邪教
性が見て取れるのであるから、日本も一種の邪教
国家とみるべきであろう。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党