冬嵐 お茶でもせむか 今朝の雨
梅士 Baishi
冬型の気圧配置が緩んで、冬嵐も一休み、気温
も7℃と穏やかな雨の朝になった。
今日は、一足先に、仕事納めにするつもりである。
納めた後は、ひとっ風呂浴びて、すっきりとしたい
ものである。
そういう段取りにしたいと思う。
今年はいろいろと、責任転嫁やいいわけがましい
人間に対して腹立たしいことが多かった一年である
が、自分も未熟なのだ。 汗に流すとしよう。
所詮・・・、なのである。
二十年ぶりの新しい冷蔵庫が来た。
ずいぶんと気持ちが良い。
鱈鍋がおいしかった。
今日は、その残り汁でおじやをしたい。
これも旨いのである。
冬は、鍋に限る。
さて、今日は少し、スポーツ哲学について考えて
みたい。
スポーツの世界にも、唯物論の闇が広がっている
からである。
スポーツ教育の世界は、まさに日教組の結果平等
主義に汚染されている。
これは、捨て置けないスポーツの堕落、武士道の
喪失というべき状況であろう。
スポーツジャーナリストの創始者と豪語する、玉木
正之氏が、唯物論的スポーツ論の汚染源のようであ
る。
1999年8月出版の『スポーツとは何か』(講談社現
代新書)の前書きにはこう書かれている。
「人間は身体を用いなければ、物事を考えることも、
何事かを行うこともできない。
自分自身に対する認識も、自分以外の外界に対する
認識も、他者とのコミュニケーションも、すべて、身体
が存在して初めて可能なことである。そして、身体機
能が停止すれば、われわれは死ぬ。すなわち存在し
なくなる。」
「・・・ところが、われわれ人間は、それほど重要な身
体という存在を、じつに長い間軽んじ続けてきた。
プラトンやアリストテレスが「理性の優位」を説き、釈
迦が「身体は煩悩を生む源」と説いて以来、「われ思
う、ゆえにわれ在り」(デカルト)、「人間は考える葦で
ある」(パスカル)といった具合に、洋の東西を問わず、
われわれ人間は、「精神」を高く評価し、「身体」を精
神よりも下位に属するものとして、軽視し続けてきた。
あるいは邪魔者扱いにし続けてきたのである。 」
「・・・しかし、20世紀になってようやく、われわれ人
間は、身体そのものの存在に目をむけ、その重要性
に気付くようになった。
「肉体はひとつの大きな理性である(ニーチェ)」、
「私とは私の身体のことである(メルロ・ポンテ)・・・」
といった具合である。」
玉木正行氏は、悪魔・ニーチェの崇拝者であるら
しい。
こういう手合いがスポーツを論じるから、スポーツ
が低次元の文化となり、スポーツマンシップが見失
われてしまうのである。
身体の目的原理として精神があることを理解しな
ければならない。
たしかに、手段原理としての身体が損なわれては、
この世の修行もままならない。
しかし、われは肉体なりというようでは、スポーツの
文化性は理解できないし、スポーツによる学びも程
遠いものとなる。
ちなみに、文化とは、精神世界の美を表現する価
値体系である。
スポーツもまた、魂の美を表現するところにその
本質的価値があるのである。
これをスポーツ文化というのだ。
スポーツマンシップもまた、文化として理解される
べきである。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党