龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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卒業式を終えて

2010年03月08日 00時14分53秒 | 教育
 昨年に引き続き今年も3年担任なので、2年続いて生徒を送り出すことになった。

 教員の仕事は、どんな仕事が「いい仕事」なのか、にわかに決めがたいこともある。
 1年1年目標も違えば、対応すべき課題も変わる。
 去年はコースが私立・国立混合だったので、一人一人異なる目標進路の実現が課題だったけれど、
 今年は文系でかつ二次数学を用いるクラス、だったので、難関大学合格が課題になった。
 国立文系で個別試験(二次)に数学があるのは難しめの大学が多いってことなんですが。

 加えて、経済状況を反映してか、浪人しない、という圧は年々強くなっているように感じる。
 難関を目指すなら浪人覚悟、といった「昔」の感覚では対応できない。
 現役で難関大学をどう目指すか。
 目標としては当然だが、現実としては半分厳しいことも事実。

 逆にいえば、仕事として、それぞれが異なる進路という去年のバラエティ豊かな楽しさとはまた、違った面白さがあった。

そして得た結論は「完全燃焼の手助け」がどこまでできたか、が仕事の評価軸になる、ということだった。

受験という通過儀礼は、必ずしも公平とはいえないけれど、なにはともあれ平等に同じ試験を受けて、自分をどれだけ磨いたか、その結果だけが問われる。自分のためだけにがんばればいい、子供として最後の関門、といってもいいかもしれない。社会に出るときには、社会(他者)に対してどんな貢献が可能か、という「社会力」が問われるが、受験で問われるのは個人の「学力」や「能力」だけだ。
だから、どれだけ自分の中にある力を出し切り、伸ばしきれるか、さえ考えればいい。

昔の公立進学校に多いセンセイのあるタイプがよくつぶやく言葉
「受験は自分の力でやるものだ」
「自分で考えるようにならないと所詮だめだよ」
という言葉は、最終的な述懐としては真実を含むけれど、そこにたどり着くプロセスにも言及しておかないと、今日びは責任放棄のそしりを免れまい(ニガ笑)。

どうしたら、本人が「完全燃焼」した、と納得のいく受験ができるか。
それはある意味「気のせい」みたいなものだ。
現代において、サービス業はこの「気のせい」みたいなものを売り買いしているといってもよい。
「顧客満足度」

学生を「顧客」といい切ってしまうのは愚かな正しさだとは思うが、それにしてもその「顧客満足度」があるとしたら、それは何だろう。
私にとってのとりあえずの答えは「完全燃焼」の手応え感だ。

最初は詰め込みやドリル、朝自習やら宿題、追試で「追い込む」ことも必要だ。効率的に時間を使うためには。
けれど、最後には基礎を使いこなして難問にチャレンジし、そのかなりの部分に光を見いだせる程度にはなってほしい。

さきほどの昔の高校教師の言「受験は自分の力でやるものだ」という言葉は、たぶん学生がその面白さを知り得た時にだけ、語ることが許される言葉なのではないだろうか。
「な、自分の力で解けると面白くてしょうがないだろ?」
って感じで。

特に国語は、各予備校や受験問題本についている記述の答えが時にばらばらだったりもする。
自分の読みを持たなければ、答えだけを探していても力はつかないのだ。

「そういうことは、自分の力でやるもんだ」(ドーラの言葉 from『天空の城ラピュタ』)

それがどれだけ生徒の「自分」を燃やせるきっかけ=火種のことばになり得るのか。

同じ「啓蒙」でも、知識ではなく教師(=大人)の生き方がやはり問われているのだろう。

そんなことを漠然と考えつつ、国公立大学前期日程の合格発表を待っていた。