いろいろポイントがあるが、三つほど。
一点目。
当時のワイマール体制における「権力」のグダグダした配置がとても他人ごととは思えなかった。
それ以外の政治勢力たちが自分たちの主張や利害にその主張を縮減してしまっているときに、少数派にすぎない国民社会主義者(ナチス)は「遵法(じゅんぽう)性」を執拗なまでに唱えて政治活動をつづけ、その延長線上で議会軽視、自由主義の排撃、民主主義の否定を主張し続けていったという点がひとつ。
合法的に権力を奪取した、といういいかたは雑駁なんだな、とわかってくる。
でも、間のボールを拾わなくなった今の日本においても、合法的であれば何をやっても良いという「勢いの良い」勢力に、その「間」のボールを拾われてしまう、ということが起こるんだな、と教えてくれる。
政権に入った時点でなお、少数派なんですよねナチスは。
二点目。
次に、その「合法性」という見せかけの裏側で、アーリアン化(すなわちユダヤ人排除)が、政治的にも経済的にも法律的にも文化的にも周到かつ計画的に進められていることに慄然としたという点。
アイヒマンは、構造的に作成されたのか、と思わせられる分析が胸を苦しくさせる。
合法非合法を含めて、あらゆる手段をためらいなく打って行くその「効率性」。熟議の遅い速度に慣れていると、ー目が慣れないうちにやられちゃうということが起こってくる。
その記述からは、アイヒマンというアイコンや国家主義というアイコンだけでは語りきれない国家規模のもの凄さが伝わってくる。
淡々と分析されているだけに怖い。
もっと言うと、この著者の言に従えば、これを主導しているのは「国家」ですらない。
国民社会主義、おそるべし。
ここでは国家とか合法性はほとんど隠れ蓑という感じだ。
新NHK会長やそれに関連する首相の答弁も、「合法性」を語る姿勢「遵法」の姿勢においてはこの文章における国家社会主義者たちの言動と比較参照すべき問題があるように思う。
それは同時に、ワイマール体制をある種の(良きにつけ悪しきにつけ、絶対的であろうが過渡的であろうが)自明の前提としていた当時の諸勢力と、自分たちを比較して見る必要がある、ということでもある。
また、アーレントが、アメリカという国についてはよく言及しているのだけれど、それだけでなく、考えて見たいと思ったことがある。
アーレントがシオニズムに対して距離を取り、アイヒマン裁判の不当性を主張しつつなおイスラエルという国の存在を認めるのがちょっと謎だったけれど、これをみていると「国家」を持たない「集団」がいざとなるとどんなにか酷いところに「合法的」に追い込まれていくかがよく分かってきて、だから、アーレントをまた「国家」を軸にあいてあらためて読み直さねば(ってほど読んじゃいないんですが)思いました。
三点目。
カール・シュミットとニーチェが言及されているけれど、この思想家たちは、国民社会主義者たちがドイツを動かして行くことになったワイマール体制の崩壊とナチズムというシーンでどんな役割を果たしたのか、について興味を抱いたという点。
ニーチェはどうにも肌が合わずにまともに読んだことがなく(声高にニーチェが好きだってひとに苦手な人が多かっただけなんですが)、これからさきも興味は湧かないような気もするけれど、この時期のドイツにおけるニーチェ受容の文脈でなら読んでみてもいいかな、と思うようになった。
カール・シュミットは、いろんな人が引用していて、無視できないのは分かる。この『ビヒモス』の書き手でさえ、シュミットには一目置いてる感のある微妙な表現をしている。
このあたり、素人が手を出す必要もないのかも知れないが、すごく興味深い。
カリスマ心理の章は、まだヒトラーの分析がなされていないので(後で出てくるのかな?)、ピンとこない。
ルターとかカルヴァンの受容などとかは勉強にはなるが、この本でなくてもいい。
しかし、とにかく日本人は今読んでおいていい本のベスト10ぐらいに入るんじゃないか、という一冊。
個人的には橋下徹の分析にも役立つ。
もちろん、国民社会主義者と彼が何か思想的に通底しているとかいうざっくりした話じゃありません。
ただ、
権力とは何か。
遵法性とはどういうことか?
国家とは?
議会とは?
といった問題を考える上で、この本と橋下徹の言説とはどちらもとても役に立つサンプルだ、という意味です。
一点目。
当時のワイマール体制における「権力」のグダグダした配置がとても他人ごととは思えなかった。
それ以外の政治勢力たちが自分たちの主張や利害にその主張を縮減してしまっているときに、少数派にすぎない国民社会主義者(ナチス)は「遵法(じゅんぽう)性」を執拗なまでに唱えて政治活動をつづけ、その延長線上で議会軽視、自由主義の排撃、民主主義の否定を主張し続けていったという点がひとつ。
合法的に権力を奪取した、といういいかたは雑駁なんだな、とわかってくる。
でも、間のボールを拾わなくなった今の日本においても、合法的であれば何をやっても良いという「勢いの良い」勢力に、その「間」のボールを拾われてしまう、ということが起こるんだな、と教えてくれる。
政権に入った時点でなお、少数派なんですよねナチスは。
二点目。
次に、その「合法性」という見せかけの裏側で、アーリアン化(すなわちユダヤ人排除)が、政治的にも経済的にも法律的にも文化的にも周到かつ計画的に進められていることに慄然としたという点。
アイヒマンは、構造的に作成されたのか、と思わせられる分析が胸を苦しくさせる。
合法非合法を含めて、あらゆる手段をためらいなく打って行くその「効率性」。熟議の遅い速度に慣れていると、ー目が慣れないうちにやられちゃうということが起こってくる。
その記述からは、アイヒマンというアイコンや国家主義というアイコンだけでは語りきれない国家規模のもの凄さが伝わってくる。
淡々と分析されているだけに怖い。
もっと言うと、この著者の言に従えば、これを主導しているのは「国家」ですらない。
国民社会主義、おそるべし。
ここでは国家とか合法性はほとんど隠れ蓑という感じだ。
新NHK会長やそれに関連する首相の答弁も、「合法性」を語る姿勢「遵法」の姿勢においてはこの文章における国家社会主義者たちの言動と比較参照すべき問題があるように思う。
それは同時に、ワイマール体制をある種の(良きにつけ悪しきにつけ、絶対的であろうが過渡的であろうが)自明の前提としていた当時の諸勢力と、自分たちを比較して見る必要がある、ということでもある。
また、アーレントが、アメリカという国についてはよく言及しているのだけれど、それだけでなく、考えて見たいと思ったことがある。
アーレントがシオニズムに対して距離を取り、アイヒマン裁判の不当性を主張しつつなおイスラエルという国の存在を認めるのがちょっと謎だったけれど、これをみていると「国家」を持たない「集団」がいざとなるとどんなにか酷いところに「合法的」に追い込まれていくかがよく分かってきて、だから、アーレントをまた「国家」を軸にあいてあらためて読み直さねば(ってほど読んじゃいないんですが)思いました。
三点目。
カール・シュミットとニーチェが言及されているけれど、この思想家たちは、国民社会主義者たちがドイツを動かして行くことになったワイマール体制の崩壊とナチズムというシーンでどんな役割を果たしたのか、について興味を抱いたという点。
ニーチェはどうにも肌が合わずにまともに読んだことがなく(声高にニーチェが好きだってひとに苦手な人が多かっただけなんですが)、これからさきも興味は湧かないような気もするけれど、この時期のドイツにおけるニーチェ受容の文脈でなら読んでみてもいいかな、と思うようになった。
カール・シュミットは、いろんな人が引用していて、無視できないのは分かる。この『ビヒモス』の書き手でさえ、シュミットには一目置いてる感のある微妙な表現をしている。
このあたり、素人が手を出す必要もないのかも知れないが、すごく興味深い。
カリスマ心理の章は、まだヒトラーの分析がなされていないので(後で出てくるのかな?)、ピンとこない。
ルターとかカルヴァンの受容などとかは勉強にはなるが、この本でなくてもいい。
しかし、とにかく日本人は今読んでおいていい本のベスト10ぐらいに入るんじゃないか、という一冊。
個人的には橋下徹の分析にも役立つ。
もちろん、国民社会主義者と彼が何か思想的に通底しているとかいうざっくりした話じゃありません。
ただ、
権力とは何か。
遵法性とはどういうことか?
国家とは?
議会とは?
といった問題を考える上で、この本と橋下徹の言説とはどちらもとても役に立つサンプルだ、という意味です。