龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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「文化」は入試評論文にどのように登場するか(2) <学びネットワーク研修会>

2016年03月28日 12時21分10秒 | メディア日記




文化とは

大辞林には
Cultureの訳語。社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体。

とある。

私は「人間の生の営み」と極限まで短く表現した。

単語の意味より、どう使われるか、だろう。

まず
「近代とは何か?」

「豊かさとは何か?」
から考えていこう。

ここで文化を考えるキーパターンとして
「切り離しとつながり」
を示しておく。
これは
「貧しさと豊かさ」
といってもいい。

さて、現代文は

「日本語で書かれた現代についての文章」

大学入試的には

「現代」=「近代」のことと考えてよい。
モダン(modern)つまりは今の時代である。

ということは、前の時代を考えなければならない。

前の時代

文明開化←近代ヨーロッパが入ってくる。

今の時代

つまり、現代を考えるには、日本の今だけを考えていては分からない。

日本は明治=文明開化の時期、ヨーロッパ文明を必死で受容していった。
┌────────────────────────┐
│ ではそのヨーロッパは豊かなのか、貧しいのか? │
└────────────────────────┘
を考えよう。

生徒は全員ヨーロッパは豊かだと答える。
しかし、ヨーロッパはそもそも全体としてかなり北にある。北海道かそれよりも!!

中世の1000年間は、やせた土地=森林←開墾するのが超大変だった。その闘い。   

(ちなみに、森林開拓の時、なにが大変だといって根っこを掘り返して取り除くのが大変だった。農機具の開発も進める必要があった。)

また、ハンザ同盟の主要な主題の一つが、カタクチイワシの流通だった。
カタクチイワシは肥料として使われていた。つまり、それだけ土地が痩せていたということ。

近代は15C~だが、この時期は温暖だった。17Cは日本でも三大飢饉が起こっているようにプチ氷河期。寒冷化した。ここはがんばった。

自然相手だけではない。
十字軍は結果として大失敗。教皇の権威も封建制もだめになっていく。
その代わりに大航海時代が始まっていく。

大航海時代以前のヨーロッパは?

中世暗黒時代とちょっと前まで呼ばれていた。今は「暗黒時代」とは呼ばない。
「中世暗黒時代」は、近代がいわば神様から解放された時代なので、その解放以前の中世を否定的に呼んだ言葉。

だが、近代になって神がなくなったわけではない。実は、近代は「キリストの復活」になぞらえられることもある。近代もあくまでキリスト教的な側面を保つ。

ちなみにプロテスタントは聖書原理主義。

だから、正確には(近代ヨーロッパの都合に沿って言えば)教会によって神がないがしろにされていた時代、神が死んでいた時代だ、と近代は直近の中世を悪く言おうとしていた、ということにすぎない。

当時はイスラムが圧倒的に文化も高かった。

だが、いろいろ言っているが、実際には中世は貧しさの中でそれを乗り越えようとしていたダイナミックな時代だった。

「欲(=貧しさから脱したい!)」これが近代資本主義を生み出したのだ。

ということは、

ヨーロッパにおける近代とは、豊かさを得た時代である、といえる。

神が与えたのではなく、知恵・勇気・努力によって、すなわちこの世界を買え得る人間だけが持っている力=理性(大前はこの知恵・勇気・努力を理性と呼ぶ)によって。

デカルトの心身二元論では

神=自然     人間=理性
ーーーー  → ーーーー
 人間      自然

左の図式から右の図式になったということ。つまり、

「自然を克服したぞ!!!」

ということになる。ここには実は、
┌────────────────────┐
│ 押さえ込まなければならない自然への怖れ│
└────────────────────┘

がある。この視点は重要。

しかし、自然への怖れを乗り越えたからといって、「キリスト教」も乗り越えたかというと、それは同じではない(むろん、他の宗教をもってきても「キリスト教」の乗り越えにはならない)。
というのは、人間はイデオロギー的な存在だ。
気持ちというものは押さえ込むことが一見できそうだが、実はそうではない。

┌────────────────────────┐
│ 人間は形而上的に(精神として)世界を捉えている│
└────────────────────────┘

例:性同一性障害がそう。心を買えられるなら、身体に心をあわせればよい。しかし、そうではない。「我思う、故に我あり」なのだ。

神は豊かになったから怖れなくなった、とはいっても、そう簡単にはなくならない。

ではどうしたか?ポイントは2つ。ヘレニズムとヘブライズム。

①非キリスト教的でありかつヨーロッパ的な教えを導入した。だからそのために古代ギリシャを参照する。これは古代をそのまま理解したのではない。古代をキリスト教的に読み解くことで、キリスト教を近代から「抜いて」いった。

②デカルトの二元論による読みから、神を「抜いて」いった。

 神      人間
ーーーー と  ーーーー
 人間      自然

この二つの図式は実は同じだ、という考え方。我々は形而上的になった、精神的になった、理性を獲得した、つまりは左の図式の神の位置に付いた、と考えた。


①がヘレニズム(ヘレン=ギリシャ)+主義
②がヘブライズム

ここでいう理性とは、ものごとの根本・心理を捉える能力のこと。
そして神とは、中世においてはむしろ神は「真理」と訳すべきもの。絶対的存在としての真理である。
そして、神を進行できるのは人間だけ、と考える。

神     人間    ←精神
ーーー  ーーーー
人間    自然    ←物質

デカルト主義的二元論でそう読み替えていった。

①と②という意味で、近代は物質的解放であると同時に精神的解放でもあった。

身分や宗教からの解放は精神的解放。
自然という物質的なレベルでの解放。

それが成立した。

キーポイント

ここには、「切り離し」が隠れている。

理性/自然

理性が自然を敵と考え、押さえ込むことで支配した。つまり、切り離しによって豊かさを保ったということ。


ここで古代についてーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ヨーロッパ近代における古代=ヘレニズム。
つまりそれは、近代人が豊かだとみなした時代のこと。

ところが古代ヨーロッパは地中海沿岸だった。
『ガリア戦記』にもあるように、北側は古代、ヨーロッパではなかった。
(これは大和朝廷の時代、関東以北は討伐の対象だったのと同じ。次第に指し示す地域も変わってくること=神話化の証左でもある)

文明の発達には交通の利便性が必須。
一番穏やかな海は地中海だった。だからここに文明が発達したのは当然。
日本でいえば日本海。
(実際、鎖国などというのは江戸末期にロシア語から翻訳された概念にすぎない。)
(むしろ明治以降、国民国家意識高揚のために島国=ニッポンというイデオロギーが広がってい言ったと見るべき)
(ちなみに、江戸幕府という言い方は当時つかっていない。「公儀」か「朝廷」。明治期になって、完全に忘れ去られていた天皇を立てていったから、幕府と呼ばれるようになっていったのだ。
その方向性は国学から始まっている国家意識がそのころから出てきた、それを薩長政権が使っていった、ということ。

そして、古代ギリシャは基本奴隷制だった。市民という名前の貴族が民主制を敷いていた。

だが、これは現代ともつながっている。
近代では、生産をするシステムは奴隷ではなく、科学技術だ。

その結果庶民にも「暇」が生まれた。

暇になると人間は文化や思想を生む。

歴史を見ると芸術は必ず権力と結びついている。豊かになって暇・余暇ができてその結果文化が発展する。ではなにを考える?
存在や生について考え出す。


古代ギリシャはコスモロジカルな世界観を持っていた=ヘレニズム
  ┌───────────────────────┐
  │ただし近代ヨーロッパはこれを取り入れたが、  │
  │切り離しはヘブライズムの考え方。       │
  │近代ヨーロッパはあくまで(装いを変えた)ヘブラ│
  │イズムとヘレニズムの二本立てで考えること。  │
  └───────────────────────┘

人間には二つある。
1,死ぬことを考える人間
2,死ぬことを考えない人間
2が増えている。

生を肯定しすぎているのでは?

暇になると、当たり前について考えるようになる。→当たり前を疑う=知の出発点

エピステーメー(episteme)=学的知
↑             ↑
↓             ↓
ドクサ           臆見


ちなみに、現代は「人間の時代」だから、自分とは何か、アイデンティティが課題になる。

だが、古代は違う。

世界とは何か?
原理=アルケー(arche)

エピステーメー(ギリシア語)=根本を考える。

scientia(ラテン語)

science(英)

この考え方は要素還元主義と呼ばれる。=科学の根本原理でもある。

私たちの考え方の鬼門にもかかわっている。
一つの原因・原理を探し出そうとする。



次に、豊かさとは何か、を考える。


     貧しさ      豊かさ
物が    ×        ○
選択肢が  ×        ○
     つながり     切り離し
     伝統       進歩

☆豊かさは切り離しを中に持っている。それを我々は自由と呼ぶ。

豊かになる→人やものとの関係が切り離されていく。

例:部屋やクルマ 自然から切り離され、自然から収穫したものを利用している。

貧しさ:一生懸命やっても成果が上がらない時、人はせめて現状を維持したいと思う。
  

   その維持の努力→伝統志向性とつながっていく。


豊かさ:良くなっていくときは昨日より今日、今日より明日と進歩していく。違っていく。

   否定の契機がそこにある。→切り離しは否定を孕んでいる。

   資本主義がそれ。昨日と違う今日、今日と違う明日を求める「欲」がそこにある。
   こういうことが豊かさの中には眠っている。

 
 だが、

┌───────────────────┐
│豊かになると本当に選択肢はあるのか? │
└───────────────────┘

という問いはあり得る。

①豊かさは果たして選択肢を本当に増やすのか?
②選択肢が多すぎたらどうなる?

例:お勧めは何?→これはいわゆる「自由からの逃走」(フロム)

我々にとって選択肢とは何か?
本当に主体的とはどういうことなのか?
本当に選択肢はあるのか?

これは今問われていること。


午前中のまとめ

近代=現代は豊かな時代

豊かであるということは物と選択肢がある。そこには切り離しがある。否定の契機を持つ。

ところが実際には多元的になるはずなのに、そうではなく、一元化されてしまう。


┌───────────────┐
│なぜならそこに理性があるから!│
└───────────────┘

むしろ、真理を示すことによって一本のレールしか歩いていない、ということになるのではないか?

ある「理」によって正しいことを認める。

これは私たちが一定の「理」=理性によって思考している限り避けられない矛盾。

これが近代合理主義の限界。
┌───────────────────┐
│ 科学的に説明できる範囲しか説明しない│
└───────────────────┘

そもそもの合理主義とは、複雑なこの世界に矛盾を見て、そこに根底的な理(ことわり)を発見するのが合理主義ではなかったか?


現代文では、現代において「何かおかしいな」と思うことが論じられている。

豊かさには当然+も-もある。そして、マイナスのみに注目するのが普通。
マイナスを論じたら、当然別の論理が必要。

ところが、簡単に「貧しさの論理」が出てきてしまう。なぜか?

人間のデフォルトはむしろ貧しさの論理だから。

豊かさの中で切り離しが問題になると

「つながりがいいんだよ」

となりやすい。

これは勘違いにすぎない。かといって、代案はなかなか出てこない。

だが、とにかく

┌───────────────────────────┐
│切り離しは× →つながりは○というのはほぼ間違っている。│
└───────────────────────────┘


例:少子化は根本子育てが選択肢になってしまったということがおおきい。豊かさ→少子化はある意味必然。
例:3.11以降、危機的状況になると「絆」が注目されてしまう。

┌─────────────────────┐
│豊かさをデフォルトとして考えなければだめ!│
└─────────────────────┘

近代は人間を理性を持つ主体として捉えた。

社会契約説もそう。個が社会をつくりあげる。

今は、ネットがおかしいと言われてもいるが、もしかするとそれが本性かもしれない。

しかし、その方向の議論は進んでいない。

豊かさをデフォルトにしていこう。近代の豊かさは一元的だった。

貧しさ→こうやれば→豊かさ(になる)という流れ。結果一元的になった。

最近、「だんだん違うのもいいな」となってきた。

質問:食べログは?
答え→自由からの逃走の面もある。自然への再接続という話も出てきている。今は豊かさがデフォルトになっていく過渡期かもしれない。

(以上で午前の部「近代とは何か」・「豊かさとは何か」を終了。)

「文化」は入試評論文にどのように登場するか(1) <学びネットワーク研修会>

2016年03月27日 12時28分06秒 | メディア日記
大前誠司氏の学びネットワークで「文化」についての研修会が昨日実施された。

名称:学びネットワーク研修会
演題:「文化」は入試表論文にどのように登場するか
日時:2015年3月26日 10:30~17:30
場所:お茶の水スター歌詞会議室カンファレンスルーム2

とても面白かった。3年生の現代文を担当していると、現場でも日常的にこういう話をしたいけれど、とてもそんな余裕はない。こういう研修会できわめて良質なまとめの講座をしてもらえるのは非常にありがたいと思う。
高校教師で現代文を教えていれば、断片的には知っていることばかりだ。
国民国家、文化相対主義・多文化主義とピジン・クレオール、ヘブライズムとヘレニズムの近代における意味、デカルト(主義)二元論と「神」の関係、植民地
政策と分割統治手法、日本の近代における伝統の創出などなど、現代文の入試問題には常にちりばめられている課題^キーワードである。

大学入試現代文を担当していれば、ちょっとした用語集的な説明ぐらいはお手の物だろう。

だが、じっくりとそれを現代の「枠組み」の風呂敷を広げてきちんと再配置し、知的な基盤にする訓練を、私たちは生徒に対しても自分自身に対しても十分できているとは言い難い。

こういう講座は一見、生徒が受講するような「教養講座」に見えるかもしれないけれど、むしろこういう「教養」を、この講座の大前先生のように生徒に提供できる高校教師がどれだけいるのか、と考えると、本当に意義深いものだと思う。
個人的には最高に楽しかった。

以下はその個人的なメモ。
受講していない人には役に立たないかもしれないけれど、あまりに楽しかったことは、忘れないためにメモを整理しておく癖があるので、忘備録代わりにアップしておく。

もちろん内容はおおむね当たっていると思うけれど不正確なところもあり、私の認識の限りにおいての講座内容です。

あしからず。

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学びネットワーク内容系研修会「文化」(2016年3月26日) 講師大前誠司
(その1)


(1)学びネットワーク研修会 内容編「文化について」講師:大前誠司(2016年3月26日)

講師自己紹介

3年前からフリーで田園都市沿線で「あざみの塾」をやっている。いわば予備校を引退したあと、自分の理想型の授業を目指している。
生徒にたいしては学校(の授業)を無視しないという形で。
先生方対象としては、「学びネットワーク」という形で。

生徒を対象に現代文を教える時には3つ(厳密には4つになる)の授業をやる。

①構造
②内容
③解く

+(④コラムの説明ー天声人語と春秋ー)※

※-------------------------------------------
この④コラムの説明は、毎日短時間、塾に来ている生徒を全員集め、音読させてから私(大前)の視点でコメントするというもの。実は「現代学入門」という講座もあり、これは生徒にその週のトピックについてプレゼンさせるというもの。それの教師版だ。
これは実は読解の役には立たない。コラムは随筆だから。ただし、センター現代文大問2(小説)の語句や慣用句の役に立つというのでやっている。この小説問題の問1は、誰も勉強の仕方を示さないし、これをやれば大丈夫といった語句集もない。だいたい「具合が悪い」とかが出るわけだから。
---------------------------------------------

①構造と②内容は筆者に向き合う
③は出題者と向き合う。

受験では③がもちろん大事だが、今日は②をやる(①は去年の夏の研修会で読解の構造を解説した※注)


※注--------------------------------------
 詳細にわたる資料がそのときに配布されました。文章構造の読解にとても役に立つ資料です。ぜひ学びネットワークに参加して、この資料を見せてもらうことをお勧めしておきます(
島貫)
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①の構造について触れておくと、構造把握とはいわば読解の「文法」のようなものだ。無意識に使っている読解のルールを効率的に意識化して使うということ。
たとえば、私は年度当初に38ページにわたる構造資料を生徒全員に配布する。
生徒は
「これ全部覚えるの~?」
と嫌がるが、そうではない。無意識にみんなやっていることを意識化するための「文法書」のようなものだ。

語弊があるかもしれないが、現代文は「大雑把」に読むことが大切だと考えている。内容を把握するということ。そのためにはどこが強調されていて、それがどんな主張を導いていくのか、が分かる必要がある。

(たとえば1例として、疑問の表現がある。一番に注目すべきは疑問の表現だ。これは言語が変わっても通用する。小学校の教科書でも驚くほど使える。)いわば文章を読むための戦術書だ。これは最初の1ヶ月ぐらい授業でやる。


それに対して③の解くという作業は、①がマクロな構造読解だとすれば、こちらはミクロに読んでいく。すべてがヒントになる。これは一年間続けていく。大雑把に読む(①構造)ための細かさ(③解く)ということ。

だが今日は②内容の話。なぜこれをやるかというと

「そもそも現代文なんて知ってる話が出れば分かりますよね」

と知り合いに言われたのがきっかけ。その通り。そういうことを実現するためにやっている。

「あ、この文章はつまりあの話ね」

となるため。

そもそも(大前センセは「そもそも」が大好き、原則に立ち返って論じるって姿勢が現れています)、現代文の試験に取り上げられる現代の評論は、「当たり前」を疑ってよりよい自分、よりより世界を実現することを目指して書かれている。そういうスタンス。

だから、「現代文」はすべて「当たり前」を疑っている。


(この前小四の娘の教科書にある説明文を読んだら、こんなにつまらない文章があるのかというほどつまらなかった。それは当然。私にとって全部当たり前のことしか書いていないのだから。)

②内容 はだから「当たり前」を教える。

大学の先生が批評し批判すべき「当たり前」は、高校生にとっては少しも当たり前ではない。

大学入試の「現代文」は大学の先生が疑っている「当たり前」の話だから、その「当たり前」を高校生が分かっている状態にすることが重要。

(それはつまり、私は女子高生のファッション雑誌が読めないということと同じ。もちろん字は読めるし、文章も簡単だが、「当たり前」が圧倒的にすれ違ってしまう)

①構造は①ヶ月。これはいわば仕込みの時期

②内容
③解く

は一年間かける。

(「普通こうだよ」←おまえの普通は普通じゃない!)

では、②内容をどう読解に使うのか?

まず、文章は最初と最後が大事。とくに冒頭に注目すると


例---------------------------------------------------------------------
ある地域で開発の話が持ち上がったとき、自然保護を訴えようとするなら、なぜその自然を守るかという論理が必要になる。

たとえばそんな冒頭の文章があったとする。構造(①)の注目点は2つ、内容(②)の注目点は一つ。

構造1<疑問文>「なぜその自然を守るか」
構造2<強調>「必要になる」

内容1「自然」←文章中に「自然」ということばが出てくると、基本

「人間/自然の切り離し」が批判され、「つながり」が主張されていく。

つまり、「自然」について現代文が論じるとき、これから論じられることについての予測の選択ができることが重要。

予測の選択→予測の選択→予測の選択→

といって文章読解は続いていく。これが大切。(※注スピノザのいう適切な観念の連鎖、だね)

「自然」ときたら「人間/自然の切り離し」を批判、と考える。
例終了-------------------------------------------------------------------------

もちろん、予測ははずれる。だからこれは暗記しても意味は薄い。だが、我々は普段無意識にそうやって文章を読んでいる。
ところが高校生にはその批判すべき「当たり前」がピントきていない。

そして内容は第一段落が勝負。

だから、そこで次を予測させることが大事になる。


②内容のポイント

「これから論じられることについての姿勢を造る」

これが重要。知識ではなく、現代という枠組みの理解だ。

よくセンター試験は、受験現代文では「自分勝手に読むな」と言われる。
あるいは文章に書いてあることだけを読め、とも言われる。

だが、読むというのはそんなことではない。近いけれども。

つまりそれは「思考停止」を推奨しているのではなく、

「自分の知識と文章の展開とを照らし合わせながら読む」

という話だろう。

現代文は現代という枠組みの中で疑問や批評を論じている。
高校生にその現代の枠組みがない、のが問題。だから②内容をやる。
それは読解の前提として、課題の配置や方向が見えてくること、でもある。


例1ーーーーーーーーーーーーーーーーー
地球温暖化を実感している人はいない。にもかかわらず「温暖化」を保留なしで語ることは危険だ。もちろんそういうバカ文章もあるし、バカ教師もいるが、そういうバカ生徒ではいけない。

「温暖化で沈む島」と「(こういう研究や論文において)温暖化で沈むと言われる島」の違いが大切。

例2
北朝鮮問題もそう。メディアだけで知らされている。私たちはそれを実際には知らない。そういう前提にしてはいけない前提がある。

例終了ーーーーーーーーーーーーーーーー


確認 内容②の講義は文章の先読みツールとして内容をつかって欲しい、ということ。

(ここまでが講義の前振り。次から内容講義開始です)


Every Pad Proの感想(2)

2016年03月06日 10時15分01秒 | ガジェット
Every Pad Proにミラキャストのレシーバー

ELECOM Miracastレシーバー/ミラキャスト LDT-MRC02



シャープのTVにHDMIで繋げたところ、EveryPadProからでもXperiaZ4タブレットからでも、問題なくつながりました。
このエレコムのミラキャストレシーバーは使えますね。

動画もYouTubeまではばっちり。

一太郎をEveryPadProで立ち上げ、シャープのテレビに映しながら作業をしたが、ワープロや表計算なら十分実用に耐える。
感覚としては、スティックPC的に使えるってことかな。

ただし、肝心の目的は達成できませんでした。

古くなった1024×768の液晶ディスプレイにつなごうとしたら、
「解像度に対応していません」
と表示されてダメ。

一般的に使えることは分かったけれど、手元にあった古い液晶ディスプレイを職場に持っていき、EveryPadProにミラキャストで接続し用という再利用のもくろみは果たせずじまいでした……。

これ以上いじり出すと本末転倒になりそう(ディスプレイやテレビを買うとか、スティックPCを買っていじってみたいとか)なので、いったん休止かな。


「負け戦」スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(『世界』3月号)を読んだ。

2016年03月04日 13時58分46秒 | 大震災の中で
雑誌「世界」2016年3月号に掲載されている

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『負け戦』という文章を読んだ。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは『戦争は女の顔をしていない』、『チェルノブイリの祈り』の著者で、2015年ノーベル文学賞を受賞したのだが、この「負け戦」という文章は、ストックホルムで行われたその受賞記念講演の原稿である。

題名は、本人が公演中に言及している、迫害を受けつつ活動を続けたワルラム・シャラーモフというソ連の作家の言葉

「私は、人類を本当に変革しようという闘い、大いなる負け戦に参戦していた」

から取ったものだろう。20世紀に知識人を引きつけて止まなかった「共産主義」の下で起こった戦争と原発事故と向き合いつつ、庶民の生活の中から聞こえてくる声に耳を澄ませる「耳の人」としての自分が、作品群を一つの本として書き上げた過程について言及している。

「フローベールは自分のことを「ペンの人」といっていたそうですが、それなら私は「耳の人」といえるでしょう」(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)

「赤い帝国」の中で人々が戦争にかり出され、その後帰郷してから沈黙をしいられていった女性たちの声にならないつぶやきに耳を澄ませ、またチェルノブイリ原発事故後の人々が抱えていく苦しみに寄り添いつつ、「負け戦」という言葉を単なる自嘲ではなく、本来勝つべき闘いだという意味としてでもなく、「小さな人」たちが生きていくその人生における愛を(困難とともに)指し示していく筆者の仕事は、とても貴重なものだと感じます。

同僚としゃべったら、彼は「これは『ノーベル文学賞』というより『ノーベル平和賞』じゃない?」と言ってました。なるほど、と思うと同時に、書き手自身がこんなことを言っているのも印象に残った。

「アドルノは『アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である』と書きました。私の師であるアレシ・アダモヴィチもまた二〇世紀の悪夢について小説を書くことは冒涜だと考えていんました。作り事はできない、真実をあるがままに提供するしかない、『超文学』が必要だ、証人が自ら語らなければならない、と。

個人的な思いと重ねていえば、福島の原発事故以後五年をくぐり抜けた小説が読みたい、と切実に感じる。詩は和合亮一が書いてくれた。誰か小説をかいてほしい、と感じる。
先日、天童荒太が福島の津波以後を描いた小説を読んだ(『ムーンナイト・ダイバー』)。これはこれで面白かった。しかし、私が読みたい小説ではなかった(これは書き手天童荒太の側の問題ではなくあくまで読み手=私の側の問題です)。

私が求めているのはいわゆる小説ではないのかもしれない、と彼女のこの講演記録を読んで、思い始めている。

さて、ではどうしよう。
震災・原発事故から五年。「では自分はどうする?」という問いが、人の営みを眺めていると頭の中に響いてくる。この人はこんな風に仕事をしている、ではお前はどうするつもりなのか?と。

「負け戦」という立派な抵抗にもなっていないが、勝ちいにいく「強い国」や政治ではない側の声を聴くところから繰り返していくよりほかにないのだろう。

とにかく、この講演、お勧めです。