龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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『人はみな妄想する』松本卓也(青土社)

2017年03月31日 16時55分57秒 | メディア日記
『人はみな妄想する』松本卓也 青土社刊を読み始めた。

若い書き手による更新されたラカン論。
昨日届いた國分先生の

『中動態の世界』(医学書院刊) 

も読みたいのだが、来た順番に応接せねば、ということでこちらから先に着手。

また序論を開いたところだが、抜群に分かりやすく、かつ面白い。
サルトルは主体と意識を一体として考えていたが、ラカンはそれを区別していた、と初っ端から楽しいフレーズ。
これはジル・ドゥルーズが『スピノザ-実践の哲学-』でスピノザは意識の価値の切り下げをしたのだ、といっていたフレーズとリンクしてくる。

まあ、ラカンが単にスタティックな構造主義者だった、なんて本気で思ってる人は、(少しでもそのテキストを読んだことのある人なら)ほぼいないだろうけどね。

むしろ謎だらけで???と思うのが普通のラカンおよびラカン論について、序論で明快に見取り図を示る手捌きは明快で心地よい。次を読んでみたくなる。

この後に國分先生の『中動態の世界』もあるし、千葉雅也氏の『勉強の哲学』もあるし、星野太、東裕紀と春の人文系読書は続く。そろそろアウトプットもしなきゃならないんたけどなあ。

やっと『自然権と歴史』レオ・シュトラウスを読了。

2017年03月31日 15時44分38秒 | メディア日記
ちくま学芸文庫『自然権と歴史』レオ・シュトラウス

をようやく読み切った。第6章がルソーなので、そこまでなんとかたどり着こうと思って頑張ったが、ロック、ルソー、バーグについてのところはけっこうグダグダで、
序論
第Ⅰ章「自然権と歴史的アプローチ」
第Ⅱ章「事実と価値の区別と自然権」
第Ⅲ章「自然権観念の起源」
までを読めばレオ・シュトラウスの理論的な立場は理解できる。というか、その後は私の教養が足りなくてスッキリ分かるまでに至らなかった、のたが。

で、その前半の中身は、といえば

岩波の雑誌「思想」2008年10月の「レオ・シュトラウス特集号に載っている「自然主義者の運命」という國分功一郎氏の論文にまとめられていることが分かった、というだけのことだった(>_<)

ちなみに、コンベンショナリズム(規約主義)と歴史主義の二つを相手取って、同時に「自然権」を擁護しつつニヒリズムに対抗しようとしたレオ・シュトラウスが、なぜ「ネオコンの祖」になってしまったか、をジル・ドゥルーズと対比しながら論じているのが「自然主義者の運命」(國分氏の論文)だ。
哲学の発生を遡り、そこに「自然」の追究を見た点では共通する出発点を持っていたはずのレオ・シュトラウスとジル・ドゥルーズが、その後どうして大きく道が分かれたのか、というお話。

とりあえずその理解で十分かなぁと思いつつ、とにかく読み切っておこうとページをめくってみた。

すると、レオ・シュトラウスの本が後半ワザと曖昧に書いているのではないかとすら思われるほど分かりにくい。
レオ・シュトラウスは、最後にいってルソーについて書きながらも、「宗教」の方を半ば振り向いてしまっているような印象を受ける。ロックのところも歯切れが悪い。そこがおもしろくなると思って我慢したのに、と少し腹が立った(苦笑)。

それに対して、最後に書かれている保守主義者だったエドマンド・バークの(いかにも英国らしい?)、「自然権」にたいする反駁についての記述にむしろ私は興味を惹かれた。

レオ・シュトラウスの求めた「自然」は、どこか遠くの点に収斂していきかねないものを感じる。

逆に、これからバークについては読んでみなければならない、と思った。
保守主義のところは置いておくとして、むしろバークの指摘しているものの中に、何かむしろ「自然」と響き合うモノがあったら面白いのにとすら思ったりもしたのである。

ちょっと検索すると、崇高とか美学とかもバークは書いているらしい。
ここのところ、もう少しうろついてみる価値あり。

『哲学とはなにか』ジョルジュ・アガンペン(みすず書房社刊)が面白い。

2017年03月11日 11時51分24秒 | メディア日記
子供の頃、みすず書房を「ミミズ書房」と間違えていて、恥ずかしい思いをしたことがある。
そのみすず書房から出た、ジョルジュ・アガンペンの『哲学とはなにか』という本が面白い。

まだその本編ともいうべき『言い表しうるものとイデアについて』は半ばまでしか読んでいないので、そこはようやく面白くなってきた、としか言えないのだが、五本あるエッセイのうちの1本、『要請の概念について』が面白かった。

「質料〔物質〕を基体としてではなく、物体の要請として思考する必要がある。それは物体が要請するものなのであり、私たちが物体の最も奥深くに潜む力として近くするものなのだ。」
「神と質料を同一視した(中略)中世の唯物論者たちのスキャンダラスなテーゼ<この世界がそのままに神である>はこの意味に解されなければならない」

単に「異端の汎神論」をおもしろ半分に称揚している、というわけではあるまい。

この「物体の要請」という文脈を前提として、アガンペンは次のように述べる。

「スピノザが本質をコーナートゥス(conatus)と定義するとき、彼は何か要請のようなものをかんがえている。『エチカ』第三部の定理7(中略)の"conatus"は、通常なされているように「努力」と翻訳されるべきではなく、「要請」と翻訳されなければならない。≪おのおのの事物がみずからの存在に固執することを要請するさいに回路となる要請は、その事物の現実的本質にほかならない≫と訳されるべきなのだ。存在が要請する(あるいは欲望する-欄外に付されている注釈によると、欲望-cupiditas-はconatusに与えられた名辞のひとつであるという)ということは、それが事実的現実に尽きるものではなく、事実的現実の彼方に向かおうとする要請を内に含んでいることを意味している。

存在は単に存在しているのではなく、存在することを要請しているのである。」(傍線引用者)
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そういうことだよね!

『ジニのパズル』崔実(チェ・シル)が面白い!

2017年03月10日 20時07分31秒 | メディア日記

たまたまだが、今週はYA(ヤングアダルト)ジャンルの本を4冊立て続けに読んだ。
三冊はこの書き込みの前に紹介した『ルミッキ』1・2・3。そして四冊目が

『ジニのパズル』

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%81%AE%E3%83%91%E3%82%BA%E3%83%AB/dp/4062201526

だ。これもたった一人で社会=世界=他者の烈風に晒されつつ、自分が見るべきもの、自分が考えるべきこと、自分がやるべきことについて、感じようとし考えようとすることを止めない少女の話だ。

この作品は紹介文に「第59回群像新人文学賞受賞作」とあるが、『ルミッキ』の作者サラ・シムッカが1981年生まれ、この『ジニのパズル』の作者崔実(チェ・シル)が1985年生まれと、同世代の作家たちだ。

30代の彼女たちの活躍は、私(たち)老齢の者をも勇気づけてくれる。

アメリカオレゴン州、日本、朝鮮半島と三つの場所、文化、政治、3つの言葉(そして沈黙)の中で、主人公が見つけ出し、出会っていく「生」の手触りを、ぜひ味わってみてほしい。

週末読む本に迷ったら選んでいい1冊かと。

『ルミッキ』3巻は、圧倒的なハードボイルド少女小説だ。読むべし!

2017年03月10日 19時51分40秒 | メディア日記
フィンランドの作家サラ・シムッカが書いた三部作。
『ルミッキ』1・2・3

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AD1/dp/4890139613


直ちに本屋さんに直行しよう。
あるいは、ネットブックショップでクリックを推奨。



フィンランドの高校生が主人公のこの小説は、圧倒的なハードボイルド小説だ。
フィンランド語で白雪姫という意味の「ルミッキ」という女子高校生が主人公のハードボイルド小説、というのは奇妙に思えるだろうか。
たしかに、少女は銃も持っていないし、酒もたばこもやらない。探偵社に勤めてもいないし、警察の関係者でもない。そして、武器と言えば「走って逃げること」ぐらいのものだ。

だが、この小説は間違いなく北欧の寒さのように(知らないけど)キリリと身が引き締まるように厳しくも甘い「ハードボイルド」に間違いない。

だまされたと思って読んでください。私の2017年ベスト候補だし、瑕瑾があるとかないとかそういう話をする余裕もなく、人生史上、オールタイムのベスト10に入るかもしれない小説に間違いない。

腰巻き惹句には「メルヘン&サスペンス&ミステリー」とある。
今、ハードボイルドという小説のジャンルは、女子高校生のためにあるのではないか、とそんな気分にさせられてしまう一冊。
週末をこの3冊に捧げて後悔しないことを請け合っておきます。
読む本に困ったら、ではなく、今読むかどうか迷っている本があるなら、それを脇に置いてでも今晩本屋さんに問い合わせる価値のある3冊かと。


ハードボイルド、の面ばかり強調したけれど、青春小説、成長物語、ヤングアダルトのほろ苦い恋愛もの、としても読める。正直、凄いと思う。サラ・シムッカの別作品を検索したくなりました。

村上春樹の新刊『騎士団長殺し』上下を読了。

2017年03月04日 18時12分23秒 | メディア日記
最近は本の中身だけでなく読んだことすらすぐ忘れてしまう。
だから、と言うわけでもないが感想を少し書いておく。
本の題名すらあまりよく覚えていないのだが、2017年の2月に発売された村上春樹の新刊小説は、いろいろあるけど、面白かった。
お話はそんなに劇的な展開を見せるわけではない。

肖像画を描くことを生業にしている中年の画家が妻から別れを切り出され、北海道・東北をセンチメンタルジャーニーした後、小田原にある友人の父親=著名な老齢の画家(本人は施設に入っていて、今は空き家)のアトリエを借りて過ごすことになる、そこでのいろいろな一年足らずの出来事を一人称で語る、という話だ。

系列的には幽霊の話に『海辺のカフカ』をふりかけたような感じ、といったらざっくりし過ぎだろうね。

まあ、中身は読んでもらえばいい。

私は、久しぶりにおもしろい村上春樹を読んだ気がした。



ある意味では、こなれていない中途半端な観念を持ち出した小説、読めないこともない。
私の読みが新しいものを受け止めきれず、昔の体験をそこに重ねてしまっているだけかもしれないが、そのいささか唐突な「観念」と向き合うありようは、石川淳がやりかけて終わってしまったことを、村上春樹はやろうとしたのかもしれない、と、ふと思った。

確かに、物語のオチを求めるとそのあっけなさにあきれてしまいそうだし、加えて聖杯探求と父殺しに胎内めぐり、といった物語の祖型の残骸みたいな話につきあわされている、と思ってしまうと、読むのが辛くなるかもしれない。

しかし、特に下巻の半ば過ぎ以降、二人の登場人物が相次いで失踪する件(くだり)の表現=「語り」は、そこだけが別の中編でもいいのかな、とすら思われるような「力」を感じたのも事実。
語りを共有する、比喩を受け止める、といった「読書」という仕事の「場」にテキストが足を踏みだしてくる感覚、とでもいえばいいだろうか。

二人の脱出に関わる語り=騙りは、実はまったく逆であってもよい。語りである以上反転可能だ。何が本当かもはや分からない。というか、単なる幻想譚から離陸して、なんだか分からない話のテイストになっていく、その語りの手応えだけで物語が進行していくのだ。もはやそれは物語とは呼べない。

石川淳はある時期から、ほとんど手触りの希薄な、ちょっと間違えると「寓意的な」とすら思われかねない「観念的」の小説を書き出す。それについてあんまり納得のいく説明を誰からも聴いたことがなかった。
今回の村上春樹を読んで、そんなことを思い出したのだ。その初期の作品名はもちろん『処女懐胎』。

村上春樹のこの作品は、拾いきれないような伏線でも何でもないような投げっぱなしとも見えるものが点在しているから、ちょっと困ってしまうということはある。東北在住のスバルオーナーとしては特に(笑)。

でも、あんまり動きがないのはいいですね。

最近の彼の作品の中では好き、かなあ。

『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』までの初期先作品のようには、読み返さないだろうけれど。

以上、単なるメモとして。