龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

スピノザの『エチカ』仏語対訳本が届く!

2023年03月27日 11時52分22秒 | 本を読む

本当は英語の対訳本だともう少しわかりやすいんたが(苦笑)。
それでも、ラテン語のテキストが一冊の本になっているのはありがたい(ネットにはラテン語のテキストも転がってますがね)。

物質的にこれがあると、挫折続きのラテン語学習のモチベーションもあがるのでは、という淡い期待を抱いて。
せめて辞書が引ければ!
今度はそこまでがんばるぞー。
(なにせラテン語は文法的など語形変化野「あたり」がつかないと辞書引くのにも手間ですし、それをやってくれるサイトもあるにはあるけど、自分の頭の中にある程度入ってないと効率悪すきて)。
 退職後の一番の遊びはこれ、になりそうです。
10年かかるか、20年かかるか……。


J2第6節いわきFC×FC町田ゼルビアの試合を観てきた。

2023年03月26日 18時55分31秒 | いわきFC
J2第6節 いわきFCのホームで、対FC町田ゼルビア戦の試合を応援してきた。
スコアは残念ながら
0-1
で町田の勝利。
しかし、後半ギリギリまで、いわきFCは自分たちのサッカーをやりきっていたと感じた。

トラウマ気味になっている第1節節枝との初戦前半のサッカーから見たら、えらい進歩だ(笑)。

いや冗談でなく、一戦目の前半以外は、すべての試合をスタジアムで観戦してきたが、基本的にはコンパクトに端を圧縮し、出たセカンドボールを奪って前へ蹴りだし、皆で走るサッカーを見せてもらえた。
だからフラストレーションは溜まらなかった。いわきFCをスタジアムに見に来るのは、そしてパワーをもらうのは、勝ち点のため(だけ)じゃない。
もちろんスタジアムで勝利したときの喜びは深く大きい。

けれど、今のいわきFCは、J2で勝てないからとブーイングするような対象じゃないと思うんだよね。
どれだけいわきらしいサッカーを見せてもらえるか、そして新加入の選手たち、去年レギュラーではなかった選手たちが、どこでいわきFC的サッカーのピースにはまっていくのか?
私たちはそれを楽しみにしているんじゃなかろうか。

試合についていえば、町田の守備力はすごかったと思う。加瀬&嵯峨の右サイドでも自由にさせてはくれなかったし、人数をかけた中盤でセカンドボールをとる仕事もできていたと思うが、その先ボールをゴールに向かって運ぼうとすると、ディフェンスか思いの外に固く、いつものように無数のシュートを打つという感じにはならなかった。

一つ一つの仕事はいわきらしく出来ていたと思うのだが。

町田の監督は
「前半は0-0でいい」
というらしい。後半攻撃のギアを上げることが可能だ、ということでもあろうし、今日試合を見ていると、かなり守備い出していた(^_^;)。
0-1のスコアは残念だけれど、今の実力はここ、ということだろう。
夏までにどれだけ自分たちのサッカーをさらに精度高くできるようになるのか。
後半戦に向けて期待できる試合ではありました。
頑張れいわきFC.

それにしても町田は、さすがでしたね。

映画『対峙』の感想。

2023年03月26日 18時18分49秒 | メディア日記

映画「対峙」公式サイト

映画「対峙」公式サイト

映画「対峙」高校銃乱射事件で共に息子を失った家族。

映画「対峙」公式サイト

を観てきた。
(まちポレいわきで3/4に)

心と身体に沁みる映画だった。

ほぼ、犯罪の加害者家族と被害者家族が対面して話し合う場面のみに絞り、主要登場人物家族2人×2の息苦しい「対峙」が続いていく。

様々な層の言葉が浮かんでは沈み、また底から上ってきては拡散していく、その力に引き込まれた。

独りの親であってすら、様々なことばが胸の内に、あるいは唇をついて、顕れては隠れる往復運動をしつつ、同じところに戻ることはできない。二組、四人の加害者家族(両親たち)の感情や思考、振る舞い、関係が錯綜しながらせめぎ合うところに私たちは立ち合うことになる。

作品のテーマとは別に、ある瞬間までは私は観客の一人としてずっと加害者の親の立場に近いところで映画を見ていく。
そういう風に作られているのだと思う。被害者家族の辛さがツラいという場面が続くわけだから。
(もちろん、だからこそ被害者家族の視点でこの映画を観るということもあり得る。このあたり、感想を聞きたいところだ。)
しかし、あるところからそれが変わっていく。
そこが1つのポイント。
カタルシス(浄化)というのではないが、ある種の到達点がほのかに示される。

だが、それで終わりではない。もう一つは、その先にもう一つの転換のポイントがある。

そこは、もう一度観てみないとはっきりとは論じられない。
簡単に論じることはできない種類の課題を抱えて観客は席を立つことになるのだろう、とも思った。

訴訟放棄の書類にサインをして、率直に加害者家族との対話を求めるという社会的なシステムがある、んだろう。
(これは実際にあるんだろうねえ)

宗教的フレームにも触れているが、そこは主題というわけではないだろう。

教会の一室を借りて行われるこの設定も、さまざまなことを考えさせられる。教会の職員も、それを手伝う青年も、具体的には何も言われないが、何か弱さを抱えた描写になっている。

お時間があればぜひ。そして感想もききたいところです。

フォーラム福島では3月下旬に上映かな。観るべし。

J2第6節 注目のいわきFC×FC町田ゼルビア戦2023/03/26

2023年03月26日 12時07分48秒 | いわきFC
J2第6節注目のいわきFC×FC町田ゼルビア
は、あと2hちょっとでキックオフです。
スタジアムに近い駐車場に車を止めようと早め(10:00過ぎ)にイン。
雨足もだんだん強くなり、試合の頃には本降りになりそうな気配です。
さすがにお客さんの出足は鈍く、シーズンチケットの会場待ちの列は別として、スタジアムグルメのところもおおむね行列列なしで購入可能。
当日の自由席チケットのところもあまり待ち行列は長くありません。

私と同様、車の中で待機しつつスタジアムグルメを賞味してるんでしょうかね。私はかつ丸のソースカツ丼(¥1,100)




さて、この試合は、首位町田(土曜日に東京ヴェルディの試合があって得失点差が変わったから正確には暫定2位かな?でも、5試合で勝ち点13。好調です)がどこまで負けなしで勝ち続けるのかという興味と、2連勝で勢いを得つつある我がいわきFCがJ2でどれほどやれるのかの試金石という意味とがあり、どちらにとっても大切な試合です。

ここで勝ち点を取れれば、いわきFC はJ2でも間違いなくやれる!と確信が持てますし、見事に跳ね返されるならば、J3最初の頃のように、後半に向けて力を伸ばしていく時期なのだ、と納得することになるでしょう。

昨年度J3では、実はいわきFCは前半戦、藤枝、松本山雅、今治、鹿児島など、上位を争うことになるチームに対して、引き分けはあるものの、まったく勝てませんでした。

確かに怒涛の攻めを下位チームにはできていましたが、守備が不安定で、決定力もいまだし、というところでした。 

しかし夏前ごろから確実に力を伸ばし、後半戦、結果としてダブルで星を落としたのは確か今治のみ、だったと思います。
今日の試合はもちろん勝てればそれに越したことはありませんが、たとえ引き分けでも、あるいは分けたとしても、ここからさき、若いいわきFCの選手たちがぶれないチームの方向性に向かって伸びしろを出してくれる、そのきっかけになれば意義あるものになれると思います。

今年度最初の試合、藤枝2押し込まれて3点先取される、みたいな試合だけは勘弁してもらいたい。
いわきらしいサッカーを90分間してほしい、そう思います。



映画『生きる』 大川小学校 津波裁判を戦った人たち を観てきた。

2023年03月25日 21時39分34秒 | 大震災の中で

フォーラム福島で、

『生きる』 大川小学校 津波裁判を戦った人たち

https://ikiru-okawafilm.com/

を観てきた。
たくさん涙を流しながら見た。

小学校で亡くなられた児童の遺族の方々の、

「本当の最後の様子を知りたい」
「他にも津波被害を被った学校はたくさんあるのに、大川学校なぜ子どもたちが亡くならねばならなかったのか、その本当の理由が知りたい」

その真っ当な願いと、当時の校長(出張に行っていて無事だった)・市教委・石巻市長などの態度との間にある、おそろしいまでの乖離に言葉を失った。

短くない教員経験をそこに重ねてみると、校長出張時に起こった大災害に対応する場合、教頭がリーダーシップをとる必要があるだろう。

とくに、教務主任の先生をはじめ先生方の中には山に避難すべきだと主張していたというし、映画でも、子どもたちの中でもそういう声は出ていたのではないか、というシーンもあった。

それなのに、50分近く経っても山への移動ができなかったのは、管理職の制止があったとみるべきだろうと容易に推測ができる。

そのことを、アフタートークに来てくださったご遺族の方に問いかけたところ、

たしかにそういうこと(教頭が山へ移動する決断をしなかったということ)はあるだろう。
ただ、教頭が誰の指示も仰がなかったのか、と考えた場合…………

というお話もあった。

なるほど、と腑に落ちた。
本当のことは裁判でも十分には明らかにされていないのだ。

学校は子どもたちが命を落とす場であってはならない、という判決のことばは重い。
自分は果たしてそのことを十分に考えて生徒と向き合ってきたのか、といえば決して十分ではなかったといわざるをえない。
自問しつづけなければならないことはたくさんある。

だが、それにもまして、誠実さのかけらもなく、また信頼を前提としない当時の校長、市教委、市長、そして第三者検討委員会のそらぞらしい(と私には感じられる)応対の全てには、心が凍えた。

裁判記録は別にまとめられていると聞く(書籍化されているとのこと)。

映画の最後の部分、もしこの画期的な判決がなければ、大震災によってこれだけ多くの方々の命が奪われたのにもかかわらず、そのことの意味や原因が十分に問われることなく終わってしまう、ここから初めていかなければならない、という記者会見の言葉が身体に染みてくる。

弁護士の方々が繰り返していた「困難な裁判だ」という言葉の重さも改めて厳しいものだと思わされる。

「本当は裁判なんてやりたくない」

という遺族の方々が口にする言葉もまた、深く、重い。

とうてい受け止めきれないが、忘れないために当日のまとまらない感想をとりあえず書いておく。

 

 

は市教委か校長に打診をする

 


町田健『チョムスキー入門~生成文法の謎を解く~』光文社新書

2023年03月22日 15時11分39秒 | 本を読む
チョムスキー入門の本を今更に読んだ。
今更ながら何がツボなのか理解できない。
句構造規則の話はなんとなく分かる。
表層と深層の構造もなにやらやりたそうなことは分かる。
しかし、そもそもの出発点がどこなのかが分からないため、いくら説明されてもぴんとこない。
とうしても、
「で?」
となってしまう。
脳みそに普遍的な仕組みがあるのは分かるんだけどね。
「前言語的な何か」があるんだろうなあ、ということも分かるんだけどねえ。言語習得というプロセスとかなら興味が湧くんだけどなあ。
だれか生成文法?このチョムスキーの成果を分かりやすく教えてほしい。


2023年J2第5節 いわきFC×徳島ヴォルティスの試合を観戦してきた。

2023年03月22日 03時17分50秒 | いわきFC

2023年J2第5節 いわきFC×徳島ヴォルティスの試合を観戦してきた。

結果は1-0でいわきFCの勝利。先週のベガルタ仙台戦に続く連勝でもあり、いわき市湯本のGフィールドのホームでの記念すべきJ2初勝利でもある。

徳島が、丁寧に後ろからビルドアップしていこうとするサッカーなのに対して、いわきFCは徹底的に前からボールを奪いにいくいつものサッカーで、戦術の相性としては多少いわきに部があるという印象を受けた。
第1節の藤枝戦の前半は、いわきの選手がガチガチに緊張していて自分たちのサッカーができなかったせいもあるのだろう、藤枝の攻撃的なサッカーに引きずられてどんどんラインが下がり、やりたいサッカーを全くといっていいほどさせてもらえなかった記憶がある。去年のJ3では引き分けと3点差で勝利という2戦だったから、余計に藤枝にやられてしまったショックは大きかった。

しかし、その後

対藤枝失点3
対水戸失点2
対山口失点1
対仙台失点0
対徳島失点0

と、守備がしだいに安定してきているのが分かる。それは遠藤・家泉のCBの堅さももちろんだが、常に連動して素早く走って戻る全員の守備が機能しつつあるということでもあろうか。

この試合でも、後半にかけて徳島がロングフィードを用いたり、ドリブルで突破をしたりというシーンが観られたし、あぶないシュートシーンももちろんあったが、多くは枠内を捉えることはなかなかできなかった。

両サイドに狭くフィールドを寄せてボールを奪ってボールを前に蹴り、競り合ってマイボールにしたら走ってシュートまで持って行く、去年の後半みられた中央突破の様子を今年も見せてもらえるようになったのも心強い。

もちろん20本以上シュートを放って1点、というのは精度に欠ける、ということは言える。欲をいえば有田&海那でもう2~3点は取れたんじゃないか、という決定的チャンスもあったように見えたが、それはこれから精度を上げてチャンスに強くなっていってもらえばよい。

ここでは全員で1点を守り切ったいわきFCに、ファンとして感謝しておこう。

思えば、去年もあの怒濤の中央突破&大量得点は、夏以降に観られるようになったと記憶している。

徳島ヴォルティスについては(ベガルタ仙台戦でも感じたことだけれど)、いわきFCにこのサッカーをさせてはどうしても分が悪くなると思う(偉そうですみません)。

ご案内のように、いわきFCは、中盤徹底的に片側に寄せて人数をかけてボールを奪いにいき、取ったら直ちに全員で走る、裏を取られたら家泉&遠藤が勝負しているうちに全員が走って戻る!というこのサッカーが持ち味だ。もちろん中盤宮本・山下の支えがあってこそ、の戦術だ。頼りになるCBとMFの仕事がみられるのは頼もしい。

だから、それをさせてもらえない場合にどうするのか、ということはある。
去年、いわきFCが二敗している今治は、堅守速攻を徹底しつつ、少ないチャンスで精度高く得点を取って勝ったと記憶している。

また、守備を徹底されたときにどうするのか。

襲いかかる数のシュートだけではなく、その中に精度を上げていったり、数をかけた守備を崩すパターンが必要になるのだろう。有田と海那の連動、嵯峨のミドルシュート、永井のドリブルなど、みたいシーンはいくつもある。

また、右サイド、加瀬と嵯峨のコンビネーションももう少しバリエーションが増えるとうれしい。

次節の町田戦は、どちらかといえば仙台と徳島よりは、いわきに近い戦い方をするチームという印象がある。しかも4勝1分け勝ち点13点で、現在首位を走っている。

デュークとエリキの2トップのアイディアと動きは脅威だし、途中からの荒木もスゴい。DF池田、MF高橋、翁長など、さまざまなところから点を取れる。

町田とやっていわきはどこまで勝負できるのか?
先制点を取れれば面白くなると思うが、どうなるか。

3/26(日)を楽しみにしたい。


スピノザについて書かれた講談社新書の3冊について

2023年03月22日 03時06分08秒 | 本を読む

YouTubeのCAUTE(哲学語学チャンネル)で、

スピノザ関連文献26冊【スピノザ語り】

というコンテンツがアップされていて、とても勉強になった。

https://youtu.be/aVE1hsfbGy8

スピノザに関心のある方はぜひご覧になることをお勧めしたい。

ただ、その中で気になった点、というか、自分でちょっと立ち止まって考えてみたいところがあったので、メモ代わりに書いておく。

反論とかつっこみとかいうほどのことではない(このCAUTEさんの動画は他にもラテン語で読むエチカなどありがたいコンテンツがあって、ありがたいと感じています)。

書いておきたいことの一つは、講談社現代新書から出されているスピノザ本3冊についてのコメントだ。

上述の動画子は、三冊を比較してこう評価する。

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吉田量彦『スピノザ』

 分量も一番充実しており、伝記的側面に強い。もう一つの特徴としては(光文社の新訳を出しているだけあって)『神学政治論』についての記述が充実している。その分主著『エチカ』の言及部分が他の2冊に比して少ない恨みがある。

上野修『スピノザの世界』

 ほぼ全編『エチカ』について論じてあり、あくまでテキストに則した上で、それでもなお上野の解釈ワールドが展開されている。『エチカ』について、あたかもテキストがテキストを論証していくという、きわめて奇異なスピノザテキストの本質に迫っている。

(テキストがテキストを論証していくというのは動画子が推薦していた上野修の別の本『哲学者たちのワンダーランド』から読みとったことをここに重ねてみた表現です、念のため)

國分功一郎『はじめてのスピノザ』

 分かりやすい。しかしこれはドゥルージアンのスピノザ。國分さんはドゥルーズで(によって?において?をとおして?)スピノザを読んでいるのではないか。それならばドゥルーズで良くない?と思ってしまう。

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ざっくりの印象で書いているので、詳しくは動画を直接参照してほしいが、この違い、興味深い。指摘の限りでは、その通りだなあと思う(國分スピノザについては後で少し書くが)。

 私もこの3冊の比較はぜひしておきたいところだったので、この機会に蛇足ながら付け加えておきたいと思ったことを以下に書く。

 所詮素人の感想になるが、新書はまあ非専門家だが興味を持っている大人に向けられたものだろうから、重ねて批評してもバチは当たるまい。

(ここからはCAUTE(哲学語学チャンネル)さんの話ではなく、自分が読んだ感想です)

まず一点目。

吉田スピノザで、納得できない部分がある。

それは、P326の、この部分だ。

(引用開始)

「理性には本来的に、ものごとを何らかの永遠の観点の下に置いてとらえるという性質が備わっている。(第二部定理四四系二)

これは逆に言えば、その時その場で出くわすものごとをその一回性のまま丸ごと理解することは、そもそも理性の働きの埒外、想定外にあるということでもあります。人間の理性とは本質的にそういうものであり、まただからこそ、あまりにも一回性の高い出来事に直面した時には意外なもろさを露呈してしまうのです。二〇一一年に起きた東日本大震災とそれに続く原発事故の際、財界関係者が口々に「想定外」という言葉を連発して責任逃れを試みていましたが、あれはある意味では、理性に内在するこうした構造的限界を素直に露呈した発言とも考えられます。(P326)

(引用終了)

「東日本大震災とそれに続く原発事故」というものが、吉田にとって大した深い意図はなく、一回限りの予想外の出来事のセンセーショナルな例として挙げられたに過ぎないのかもしれないが、これはちょっとどうだろうと首をかしげざるをえなかった。

 当時の財界関係者が、理性の知における「想定外」を素直に口にしていた、というのは相当程度ナイーヴな認識ではないか。単に自己の立場を正当化しようとする「感情」や「偏見」の知、つまり第一種認識のレベルの言説として捉える方が妥当じゃないかなあ。スピノザ好きの一人として、彼らに感情を乗り越えて共通認識に至ろうとする「理性の知」を当てはめるのはどうかと思うよ。

 また吉田はさらにここに続いて、スピノザの言う理性の知(第二種認識)は、

「要するに、一発食らってからでないと作動しないのが理性なのです」(P327)

とも言っている。あれ、スピノザはそんなこと言ってたっけ?という疑問が湧いてきた。

上野修の『スピノザの世界』國分功一郎の『はじめてのスピノザ』を読んでいて、こんな風にえ、それってスピノザの言ってることだっけ?というところには全く出会わなかったので、ちょっと気になった。

果たして東日本大震災と原発事故を並べ、その上にひとしなみに「理性に内在するこうした構造的限界」という枠組みをかぶせるのが果たして妥当なのかどうか。

 福島に住む者として不快であることはおくとしても(苦笑)、ちょっとスピノザの第二種認識の説明として微妙なところではないか。

まあ、専門家が哲学をもて遊んでいる分には目くじらを立てる必要もない。

だが、本気で一回性の現実には受け身になるしかない、と考えているというのなら、もうちょっと謙虚に、もっとつまらない例でも挙げてお茶を濁しておくべきだった、とあえて言っておく。

 CAUTE(哲学語学チャンネル)でも吉田スピノザは『エチカ』が弱いと指摘しているし、吉田自身もその旨述べているので、むしろ吉田エチカは、充実した伝記的な記述と『神学・政治論』および『政治論』(岩波文庫では『国家論』)中心に読むのが妥当ということだろう。

 吉田量彦氏の光文社文庫刊の『神学・政治論』の新訳は、労作であり、ありがたく勉強させてもらっているということも付け加えておく。



次に、上野修の『スピノザの世界』について。

これは『エチカ』の持つ、あられもない「異様さ」を素人にも分かるように平易にかつやばさが伝わる記述になっていて、改めて久しぶりに今回読み返して上野スピノザの魅力を再認識した。

『デカルト、ホップズ、スピノザ』でも、『哲学者たちのワンダーランド』でもそうだが、上野修スピノザを読むと、スピノザの発想というか、國分氏が指摘するOSの違いというか、その特殊性がぐっとこちらに迫ってくる。

YouTubeには他に、上野修の最終講義が3本に分けられてアップされている『大いなる逆説スピノザ』も参考になる。

徹底した合理主義の究極ともいうべきスピノザの提示する哲学が、内在神というかこの世界そのもの、現実そのもの、自然そのものが神であってその外部はないというある種狂気にも似た「正気」をこともなげに語る異様さを、上野スピノザは私たちに共有させてくれる。

あられもない「正気」としての「真理」が、人びとに怖れられる機微がよく分かる。

『エチカ』を読むならまちがいなく必読の入門書、だろう。



 さて、三番目に挙げられている國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』は、CAUTE(哲学語学チャンネル)においては、「ちょっとなあ」というスタンスで紹介されている。

國分功一郎がドゥルージアンであることを指摘しつつ、だったらドゥルーズを読めばいいじゃん、となってしまう、という微妙な評価だ。

ここにはちょっと異論がある。

友人に貸してしまったので今手元に本文がなく、増補前のNHK100分de名著のテキスト『エチカ スピノザ』の最後から引用するが、そこにはこんなことが書かれてある。

「哲学を学ぶ際に一番重要なのは、哲学者が創り出した概念を体得し、それをうまく使いこなせるようになることです。たとえば、組み合わせとしての善悪の概念を使って物事を判断できるようになる。必然性としての自由の概念から教育について考えてみる、そんな風にして概念を使いこなせるようになることこそ、哲学を学び、哲学を身につけることなのです。

(中略)

 哲学が研究の場に閉じ込められるようなことは断じてあってはなりません。哲学を専門家が独占するようなことも断じてあってはなりません。哲学は万人のためのものです。」

つまり、『はじめてのエチカ』(100分de名著が元になっている)は、そういうスタンスで書かれている。万人のための入門書、だろう。

であるならば、「哲学を専門家が独占するような」ことからこの本がどれだけ距離を取れているのかいないのか、がまず問題にされてしかるべきだし、ドゥルーズ云々を言うのであれば、國分功一郎の書いた『ドゥルーズの哲学原理』と、この後に書かれた岩波新書の『スピノザ 読む人の肖像』との関係を踏まえた上で、はたして「ドゥルーズを読めばよい」のかどうかを判断するのが妥当なのではないか、と思われる。入門書として、國分スピノザが果たした役割は大きいと思うなあ。

國分功一郎氏自身、岩波新書版の後書きでも、自身の読みがドゥルーズから一歩前に出られたのかどうか、という点について触れていた。「読む人の肖像」という言葉自体、モノグラフィーをよく書いたドゥルーズと、デカルトの読み手でありかつ聖書の読解者でもあったスピノザを重ねた視点の提示という意味も当然含んでいるはずだ。


「読むこと」によってテキストを脱構築していくスピノザ。その上で出会い得るスピノザの姿、については、『スピノザ 読む人の肖像』を改めて読みつつ論じなければならないだろう。

 こんなことを私が言うのも口幅ったいが、國分功一郎氏の著述は、いわゆる専門家には割と受けが悪いという印象がある。まあ、専門家集団からしたら、いろいろ言いたいことがあるのだろうということも想像に難はくない。

 でも、たとえばネグリのマルティチュードとか、もはや(確信犯的)誤読に近いともいえないこともないだろうし、さまざまな読まれ方が展開されるのが「難解なスピノザ」の真骨頂でもあろう。

 國分功一郎さんの「熱い」、ときには暑苦しいかもしれないまでの「侠気(おとこぎ)」を、そのテキストにはいつも感じてきた。

『はじめてのスピノザ』だけではない。『中動態の世界』では学問領域を超え、「概念をつかって物事を判断する道具」として、つまりは医療や福祉の現場で評価される重要なテキストとし、て広くうけいれられてきたし、『畠中尚志全文集』では畠中尚志に対する敬意の深さ、また学問上の恩義について、ぐっと迫ってくるものがあった。

スピノザを専門とする学問がわのヒトは、スピノザの圏域から離れようとしない。テキストクリティークとしてまあ当然といえば当然ともいえる。

だが、スピノザはスピノザの語る圏域のみを世界と呼んだのではなかったはず。この世界、この現実こそが唯一の実体であるとするなら、スピノザ的理性は、狂気の淵に沈む必要もなければ、原発事故にことさら「予想外」といって驚いて見せる必要もない。その理性が「異端」と呼ばれることは理解できるが、上野修のいうクリアな異端さ、國分功一郎のいう「必然性としての自由」、それを単なる逆説として扱う必要はないのでは、とも思う。

結論は、スピノザに興味がある人は3冊とも座右に置こうという話に落ち着くわけだが、その先にいくとすれば、

CAUTE(哲学語学チャンネル)

が紹介している、26冊のスピノザ関連書に駒を進めるのが吉、だろう。

https://youtu.be/aVE1hsfbGy8

アナーキズムのところ、とくに楽しかった。

アナーキズムにも規範はある。でも上からじゃだめ。

って栗原康に言及した話ね。

アナーキズムの指標としてのスピノザ、とりあえず共感!

CAUTE(哲学語学チャンネル)のYouTube氏には、機会があればぜひ『スピノザ 読む人の肖像』のコメントもしてほしい。

最後に木島泰三さんの『自由意志の向こう側』と『スピノザの自然主義プログラム』の二冊は、セットでスピノザ研究の学問領域の側から、こちら素人の側にきちんとボールを投げてくれているのが分かる。今は、その営為に直ちに応答するだけの力がないのが残念だが、それはまた別の機会に。







こんな記事も(ベガルタ仙台×いわきFC)

2023年03月13日 15時03分15秒 | いわきFC
こんな記事も。

J1昇格を狙う仙台が、昇格組いわきに完封負け。突きつけられた成熟度の違い。ブレずに確固たるスタイルを構築したい



ベガルタ仙台もこのままではいられないってことですよね。

いわきFCも、J2 の強い相手がワンチャンスを。ものにしてしまうされてしまうその「危険」に対応するには更なる「進化」が必要なんですね。

郷家選手のコメント通り、いわきFCは基本的に攻め合いになるので、相手にもチャンスが生じる確率が高い。
引用開始
「宮城県多賀城市出身で、この試合にかける思いも強かった郷家は『出場した3試合で一番チャンスがありました。僕が決めていればチームを楽にさせられましたし、失点も無かったかもしれないので、責任を感じています』と悔やむ。」
引用終了

もし仙台が決定力を発揮していれば、いわきは勝てなかったかもしれません。
ただいわきFCの試合ができていたから相手がバランスを崩してしまい、「余裕のあるシュート」を打たせなかった、とも見える。

次はさらに厳しい闘いになるであろうみちのくダービー。
良い試合を期待したいですね。
その上でいわきが勝てたらいいんですが(笑)

映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を観た。

2023年03月13日 11時42分32秒 | メディア日記
仕事に間が空いたので、映画を観てきた。

仕掛人藤枝梅按
ブルージャイアント
対峙
エブエブ

と、タイプの異なる映画を立て続けに見たのだが、今日はエブエブのことを書く。
映画についてはこちらを。

とにかく愉快な映画だった。
経営しているコインランドリーの税金申告手続きに苦しみ、離婚の危機に瀕し、娘が助成の恋人をパーティーに、連れてくるというので父親(娘の祖父)の反応に悩み、人生に押しつぶされそうな中年女性を、カンフー女優(その程度の認識で済みません)のミシェール・ヨーが演じるというだけで面白そうなのに、設定が並行宇宙(マルチバース)の分岐に寄って請じているありとあらゆるキャラクターを主人公が「演じる」というのだから、訳の分からないカオスな面白さが保証されているようなものだ。

実際、メチャクチャな設定を上手に映像化していて、しかもあらゆることを「主題」とするのではなく、ひたすらパロディのように(しかし、もちろんパロディが主題でもない)連写していくどたばたコメディの速度が、決して、見る側を圧倒するのではなくウェルメイドに誘ってくれるのだ。
ウェルメイド、といえば、ありきたりのフレームに上手にお話を載せて安心して観客を慰撫してくれる作品を褒めつつもいささか揶揄することばであることが多いのかもしれない。
しかし、そういうこととも無縁だ。

これは本当にADHDのための作品(つまりは自分のための作品)だ、と思った。

辻褄は、主人公が主人公で「ある」ことに拠って保たれている。
設定によって保たれているのではない。物語によってささえられているのでもない。
この作品はだから、いかに賞を獲得しようとも、その症の重さにおいてかたられる必要はない、ともいえる。

拡散し、スライドし、様々な場所と時間、そして様々な私でありながらも、それらはつながりを保たずに繋がっている、そんな感覚を甦らせてくれる。

傑作なのかどうかは、分からない。
この映画が称揚される時代が幸せなのかどうかも分からない。
でも、ビンセント・ギャロの『バッファロー'66』以来の、これは
「オレの映画だ」
という感触を得た。

すぐに見直そうとは思わない。すでにおなか一杯である。とりあえず劇場で見直すなら断然『BLUE GIANT』だろう。あの映画は何度でもサラウンドで鑑賞したい。

それでも、エブエブは「オレの映画」だ。そう思う。


バックパスにため息をついたベガルタ仙台のサポーターの気持ち。

2023年03月13日 09時45分41秒 | いわきFC
FOITBALTRIBE
に、こんな記事が掲載されていたのを、スマートニュースで知った。
真瀬という選手が試合後半でバックパスを選択したとき、会場からため息が出だシーンがあったのだ。

昨日(2023年3月12日)ユアテックスタジアムのアウェー責任でいわきFCの応援をしていたのだが、この場面、ちょっとびっくりしたので覚えている。

そもそも、仙台といわきではプレースタイルが全く異なる。

おそらくいわきは、バックパスで必要最低限の立て直しはするが、すぐに前に放り込んでみんなでダッシュするスタイルなので、我々いわきFCのファンはこういう辛さをあまり味わうことがない。

それに対してベガルタ仙台は、いきなり前線にボールを放り込むような乱暴なことはしない。きちんとボールを保持してビルドアップしていくタイプのチームだ。

1試合見ていればそのぐらいは素人でもわかる。この、

ベガルタ仙台×いわきFC

におけるボール保持率はおおよそ
60:40
。ベガルタ仙台のボール持ち、な時間がずっと多かったはずだ。パスをつなぐ数だって成功率だって、おそらく仙台が多い。

そういうサッカーの違いがある。

その上で、
「昨日はいわきFCの日だった」
ということなのだろうと思う。

あの時、場内では、スタジアムの9割は、ベガルタ仙台の応援をする黄色で埋め尽くされていた。
そこから、ため息ともブーイングともつかない異様な雰囲気が出たのを、アウェーの席でも感じたのだ。

思うに、それはあの試合に対するもどかしさ、フラストレーションが高まったファンの正直な気持ちが現れていたのだろう、と感じた。むしろファンならそうなるんじゃないかな。

しかし同時に、ファンならば個人的な選手批判なんぞをやっている暇はないんじゃないかな、とも思う。あの試合でバックパスをした真瀬選手というのかな、彼を責めるのは批評として全くのお門違いだと思う。

そのフラストレーションは分かりますが。

なぜって、あの試合は、ほとんど(言葉は悪いが悪意はありません、念のため。むしろほめ言葉です!)バカの一つ覚えであるかのように
「蹴ったら走る」
を続け、
「常にコンパクトに狭い領域を作ってボールを取りに当たっていく」
いわきFCのサッカーとの戦いだったはずだから。

正直にいえば、いわきFCのファンとしては、明らかに格上のベガルタ仙台の上質で圧倒的多数のファンからのため息をつけたことを誇りに思った瞬間でもあった。

数は圧倒的に少ないが、ファンとしては負けていない、そう思った。
それだけベガルタ仙台のファンの期待値が大きかった、ということでもあるだろう。

勝ち負けを別にして、ね。

そしてそれは、ベガルタの監督が、この試合に限って言えば、いわきの戦術に対応しきれなかった、ということも事実として(いや、結果として、か)あるのだろう。


もしくは格上なら、中盤で、を片側に寄せて人数をかけるいわきの守備(というかボールを奪いにいく姿勢)の裏をかいてサイドチェンジをしたり、オーバーラップをかけたり、隙を見て斜めとかにパスをだしたり、ある種の緩急がつけられていたはずだ。

もし格上なら、何回かあった決定機を決めなければならないはずだった。

真瀬選手のバックパスに象徴されるのは、そういうファンの
「イライラ」
が原因じゃないかなあ。

おそらく、もう一度試合をするときにはベガルタ仙台は攻め上がるいわきの裏を的確について来るだろう。

昨日はベガルタの1トップの選手が何度かオフサイドで止められていた。

それはそれでギリギリを狙うのだから必然なのだろう。けれど、こちら側から見ている限り、1トップを生かせるビルドアップが仙台には少なかったような気がする。

最後に一つ。三戦勝ちがない中でアウェーに応援に来たいわきFCのファンには、選手にブーイングをする余裕なんてない。攻めれば攻められる、それでもボールに寄っていくサッカーを見ていると、何かが起こる感じがするのだ。

失点も得点も含めて。

我々はハラハラしながら見守るしかない。

華麗なパスの上手いサッカーの時代を変えてほしい、といわきのファンは思っているんじゃないかな。

もちろんJ2ではなかなかそれはまだ実現していないけれど。

ベガルタ仙台はビッグチームだから、なかなかそんな風には行かないんだろうかなあ。

そんなことも思って帰ってきた。


そこに行くと初戦の藤枝は、すごかった、と思う。攻撃力でいわきを圧倒していた。これでは勝てない、と思った。

いわきFCに対しては、よりシュートの精度やテクニックを磨いてほしいと切に思う。

けれど、別に華麗なテクニックを求めちゃいない(笑)

そういうことなら、ほかのチームにもタレントはたくさんいる。

むしろ、いわきFCのサッカーを続けてほしいとおもうんだ。

このサッカーでなければ私はいわきFCを応援しないかもしれない。
そんな風にすら、思った。

いろいろメモ代わりに。




いわきJ2初初先制点、初クリーンシート、そして初勝利!J2第4節 ベガルタ仙台×いわきFC

2023年03月12日 17時30分04秒 | いわきFC



ユアテックスタジアム仙台で、
ベガルタ仙台×いわきFCの試合
(アウェー戦)を観戦してきました。

ベガルタ仙台のホームはJ1規格のスタジアム。全席屋根が付いていてすり鉢状の大きなサッカー場は初めてでしたから、それだけで感動ものでした。
「これがJ1クオリティかあ」
と感心することしきり。

そのホームのスタンドが8割方黄色で埋まると、それもまた圧巻です。
対してアウェーに割り当てられた席は、ゴール裏の半分とコーナー部分のみ。

でも、いわきFCの席はほぼほぼ満席で、熱気では負けていない印象でした。

試合は、最初から敵陣近くでボールを奪ったら走りきる(去年のいつもの)あのいわきの攻撃が最初から展開され、赤の応援席は盛り上がりました。

これぞいわきFCのサッカーという感触で、ようやく本当の開幕戦がやってきた、とスタジアムの雰囲気を見て思いました。

対するベガルタ仙台は、ボール保持率はいわきの倍近くあるものの、どうしても攻撃が遅めで、老婆心ながら「その攻撃してたらいわきに勝てないんじゃないか」という感じでした。

攻撃も守備もセンターから敵陣近くで展開し、そこに、集中して選手を集めて奪いきるあの、サッカーが戻ってきました。
その中で山下のコーナーキックから右の嵯峨が折り返し、詰めていた江川がループ気味にゴール。
理想的な前半の展開となりました。
仙台は、時折左側からオーバーラップしたときは速度のある攻撃になるのですが、せっかく両サイドワイドで球を受けるのに、それを中に展開するきっかけがつかめません。
左右からボールを上げていくものの、なかなか枠を捉えられません。

後半になって仙台は、GKからビルドアップするのではなく、ロングポールを出すようになりますが、中盤ワチャワチャとしたところからボールをとるのはいわきが多く、いわきはとった瞬間に走るあの感じが戻ってきて、後半も攻撃的に展開していきます。
ベガルタはいわきの当たりにイライラするのかファール・イエローを連発。
こうなるとベガルタ仙台ファンも、もっと速い攻撃を望むようになり、少しフラストレーションが溜まった応援になったこともあったようでした。

追加点がほしいいわきでしたが、ゴール前に仙台のディフェンスもよく詰めており、最後のフィニッシュをギリギリのところできれいに決めさせてくれません。

惜しい場面は何度かありましたが、そこで追加点を入れて突き放すのは、今後の楽しみ、ということで。

最後、アディショナルタイム近くからは、さすがに仙台の猛攻に遭いますが、仙台もそういうところでギリギリ決めきる瞬発力を発揮することが出来ず、家泉が何度も倒される中、虎の子の一点を守りきりました。
いつも思うことですが、一点差のアディショナルタイムって、心臓がバクバクしますね(笑)

ともあれ、今日はいわきのスタイルで試合ができたことに満足。その結果として勝ち点3が付いてきたことに大満足、の1日になりました。

J2で活躍するためには、次の試合が大事になります。

失点が第1節から

3(対藤枝)
2(対水戸)
1(対山口)
0(対仙台)

と少なくなってきたのが好材料。
それは、守りのリズムが出来てきているということでしょう。

いわきFCの守りはあくまで中盤で詰めてボールを奪ってダッシュ!
そこを抜かれたら全力で反転してみんなの帰りを待つ!といういつものやつでした。

仙台は、ボールを握ったときにそのときに縦の推進力が弱く、サイドにはボールが出るものの、時間をかけているうちにいわきの戻りが完了し、結果決めきれない状況が続きました。
あるいは、ひとりでボールをもって走ったとき、なかなか一発で決め切れないということも。

もっとも、藤枝とのいわきの初戦を振り返ると、最初から思い通りに藤枝に攻め込まれて自陣に押し込まれ、やらなくて良い点も含めて前半に3失点でしたから、
「いかに自分たちのサッカーができるか」
が重要なのか、を改めて感じました。

仙台の試合はフォローしていないので分かりませんが、今日は仙台の良さが出ない試合になってしまったのでしょう。

全般に、ボールを回す遅めのサッカーをしていると、いわきが勢いに乗った瞬間、ついていけなくなる印象があります。

いわきはそのスカッとした攻撃的なサッカーをこれからも磨いていってほしいです。

欲を言えばセットプレーのみではなく、怒涛の進撃からの得点を望みたいね、と友人とも話をしています。

ともあれ、今日はJ2初の先制点、初のクリンーシート、初の勝ち点3を喜びましょう!



ミュージカル映画『イン ザ ハイツ』を観た。

2023年03月02日 00時34分01秒 | 本を読む

ミュージカル映画『イン ザ ハイツ』を観た。

大ヒットしたミュージカルの映画化なのだという。
中米からの移民たちが住むニューヨークの街区で、そのコミュニティで展開する様々な喜怒哀楽が適切に過不足無く組み合わされてよく練られたミュージカル映画になっていると感じた。

何より、この音楽が素晴らしい。ミュージカル映画は、やっぱり常に音楽が凄い。そうじゃないとミュージカル映画にはならないんだろうなあ。ブロードウェイのなんたるかも知らない素人がいうのもなんだけど、アメリカの映画のいいところはこーゆーところなんだろうと思う。
差別の問題の扱い方とかは、ネットを見ると不満が渦巻いてもいるみたいで、そうかあ、(様々な出自の人たちの構成比が現実を反映していないとか)物語を作るにも、リアルに作るにはいろいろハードルが高くなってるんだなあ、とは思った。

その批判は批判として、そして、さしたる盛り上がるストーリー展開もないといえばない、として、それでも私にとってこれはとってもステキなミュージカル映画の1本だった。

主演の男の子がどうしても長友に見えてしまうという点を除けば、ね(笑)。

仲間内で話題になったのは、あのおばあちゃんの人生を、たった1曲で済ませてしまうのは勿体なさ過ぎじゃないか、って点。
もし可能なら、彼女の人生にもう少し焦点を当てても良かったんじゃないかな。
ミュージカルの群像劇だから、あんまり難しいことを言わずに楽しむのが吉かと。
いろいろな人生がこの街区には詰まってるっていうだけでも、観るに値する一作。
これはDVDならずとも、CDを買いたくなる映画でした。
いまなら、Netflix、あるいはAmazonPrimeなら300円ぐらいで観られますね。
よろしかったらぜひ。


映画『BLUE GIANT』を観てきた。

2023年03月02日 00時33分50秒 | メディア日記

映画『BLUE GIANT』を観てきた。

原作は人気連載中のマンガだとのこと。全く知らずに、『雀の戸締まり』を観たとき、映画館の予告で知った。

マンガであれば、読者各自が想像すればよいが、アニメとしてどんな音楽を鳴らすのか、に興味があったからだ。

実写の映画で歌手が主人公だと、歌手でもある主演の俳優が歌うということはよくある。
でも相手はマンガの登場人物だ。果たしてどうなるのだろう、と心配しつつ映画に入っていった。

ところが、そんな心配は1発目から杞憂に終わる。

絵が、演奏してるのだ。

音楽に絵を当てたのでも、絵に音楽を当てたのでもない。

これはけっこうすごいことではなかろうか。
ジャズのことなど全く知らない(と言わねばならないジャズの不自由さについては今はおくとして)、私がこんなにぐいぐい引き込まれるのは、「いい客」だったからなのだろう。
しかし、これはDVDかブルーレイを買いたいと思う類いの作品になった。
というより、もう一度観にいきたいではないか!
ドルビーサラウンドでもう一度味わいたい。

なかなかない経験だと思う。ライブ感があるんだよね。CDじゃない、これは動画を見ていたい。

圧倒的にお勧めでした。