龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

リニア新幹線の無駄は、それだけの話では終わらない。

2013年09月25日 11時00分15秒 | 大震災の中で
高速増殖炉も、エネルギーの対外依存を打ち破る夢のエネルギーと言われていました。
別にそれがウソだったというわけではない。全てが思い通りうまく行きさえすれば、ね。
しかし、大きな光は大きな闇を産む。
光を言い立てるだけの言葉は、闇を言い募ることと同じだけの力しか持たない。
そして機密保全法案は、再び世界を光と闇に分けようとしている。
いまだに「自然権」の基盤が薄氷の如き日本で。

東京新聞9月25日
本音のコラム
文芸評論家 齋藤美奈子さん

リニア新幹線 わずか1時間短縮するために国土を破壊
原発建設への道を連想してしまう。

もちろん、情報をどう使って行くか私自身もまた、問われている、と思います。
流通しすぎても困るけれど、届かない声はとりあえず存在しないように見える。
その辺りをどうすればいいのやら。


Untitled

2013年09月22日 22時01分48秒 | 大震災の中で
昨日の「エチカ福島」勉強会の内容を、深瀬氏がまとめてくれました。
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昨日は、1時からエチカ福島の仲間とゲストとの勉強会、4時からはエチカの同人でもある純ちゃんらが主催する哲カフェ福島。勉強会は、小学校教員でありホッブズ研究でも知られるHさんと、エチカ仲間の島貫さんのレポート。面白かった。Hさんと島貫さんのレポートは、一方は日本の近代啓蒙的知識人たちに対するポストモダンと称する人々からの批判は有効か、といういささか大き過ぎるテーマであり、他方は根源悪についての本をオリジナルなテクストであるカントを参照しながら読むという、クロスするとは思えない2つのレポートであったが、驚くべきことにシンクロしてしまった。
Hさんのいう、発見的合理性という概念は面白い。かつてウェーバーは、近代をもたらしたものが、目的的合理性であり倫理性だと言った。目的的合理性については近代科学を参照すれば納得がいくが、倫理性に関しては何とプロテスタントの禁欲的精神に淵源するとしている。カルヴァンの予定説は、人間の自由意思を明確に否定するものだ。全ては予定されておりそれを人間が変更する余地はない。仕事は神が与えた言わば天職であって人間に許されるのはそれを全力で全うすることだけだ。このような、言ってみれば不合理が、科学的合理性と出会うことによって近代は誕生したというのである。

一方カントは、悪とは選択意志の結果によるとし、その責任を、あくまでも自由を持った人間に帰そうとする。しかし、それはその都度の事案に関しての選択ではなく、一般的な格率として人間が選んだ結果だというのだ。僕にはここにカントの苦心があると思える。つまり、前もって動機ないし目的があって僕たちは行為するのではなく、行為した後に目的が確認されるということを言いたいのではないか。人間が自由に選択した後に、驚くべきことに普遍的な格率であった!あたかも人間を超えた存在がいるかのようではないか!人間が理性的な存在であるのは、神の存在から説明するのではなくて、あくまでも人間の選択意志から出発したい、偏執狂的にそこにこだわるカントにとって、合理性は目的的ではなく、発見的であると言えるのではないか。合理性は発見されるべきものである。僕たちが理性的であるのは僕たちが自由意志によって選択された結果ではありえない。しかしながら、僕たちに、選択した結果に関する責任を負わせるためにはどうすればいいのか。カントの腐心はそこにある。
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同じ17世紀の哲学者スピノザを読んでいても、この「発見的合理性」というキーワードは響いてくるように思われます。
スピノザは『エチカ』において認識を三段階に分けます。
一つ目は、慣習的な判断で迷信や偏見にとらわれたもの。
二つ目は理性的な認識。
三つ目に直観的認識を置くのです。
この三つ目の「直観」と、ホッブズの読み手である渡部さん(最初の報告者)の指摘する「発見的理性」は、これから突き合わせて考えてみる価値がある、と感じます。

啓蒙的計画的な合理性だけでは世界と向き合うことにならない。

有意義な勉強会になりました。



震災前のメモが出てきた。

2013年09月20日 03時08分43秒 | 大震災の中で

日付は2011年2月24日。
震災まで二週間、父の入院まであと4日という時のメモだ。

今は取り壊されて存在しない校舎の二階から外階段で降りて帰るときの話である。
遠い国の夢のような話に思える。

あの日を境にして、大きく変わったのだなぁ、と改めてしみじみ。

震災前後のメールは貴重な記録です。

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夕方、二階から外階段を下に降りようとして表にでると、懐かしい匂いがした。

甘やかな、柔らかい春の女神の香りである。

気がつけば今日はもう雨水。
寒い寒いといって、コートの襟を立てていたのが嘘のようだ。
あんなに大雪があったのも、ついこの間なのに……。

それにしてもこの春風の甘い匂いは、どこからくるのだろう?
湿度?それとも温度?それとも花粉のにおい?

それがなにからくるのかは分からないけれど、子供の頃から知っている。
行ってきまーす、といって家の扉を開け、外に飛び出した瞬間に感じる季節の変化。「今日から春だ」と、子どもごころに独り決めする日が確かに存在していた。
最近、この国の将来を憂える言説には日々事欠かないけれど、胸一杯風を吸い込むだけでこんなに豊かになれるとしたら、私たちはもう少しゆっくり歩いたり考えたりしてもいいのかもしれない。

*雨水(うすい)=寒さが緩み草木が芽吹く季節。



オープンカーを手放した。

2013年09月19日 22時54分29秒 | 大震災の中で
こんなに早くロードスターを手放す時期が来るとは思わなかった。
人生の喜びの何分の一かを終えてしまったような気さえする。

何を大げさな、ですよね。

でも、この5年間がいかに至福の時だったか、ということをしみじみと、かつさびしくかみしめている。

クルマには屋根の開くものと開かないものの二種類しかない、ということを初めて教えてくれた。

愛車、なんて死語なのは知っているし、「モノは所詮モノ」だと思っていたのに、そうじゃなかったんだ、と知らせてくれたのがロードスターだった。

ハンドルを切って曲がるだけであんなに楽しいなんて。

今乗っているレガシィワゴンに不満があるわけじゃない。
4駆だし、ボクサーエンジンは滑らかだし、アイサイトは高速のロングツーリングにはマストアイテムだと実感もしている。
ハンドルを切ってみれば、下手くそな私が運転する
ロードスターよりよほど楽に速く曲がれる。
週末を1000キロ単位で走るには、かなりイイ。荷物も積み放題だ。4駆で雨&雪も安心だし。

でも、ロードスターのようには寄り添えない。

次のオーナーにいささか嫉妬さえ覚える(笑)

かみさんがレガシィ乗ってくれればいいのになあ……。







國分功一郎『来るべき民主主義ー小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』

2013年09月14日 03時08分13秒 | 評論
國分功一郎先生の新刊。
彼が問題の当初から関わって来た小平市の都道建設計画、という身近な問題と向き合うことの中で、民主主義の来るべき未来を考えていく、というとても興味深い著作です。
よろしかったはぜひ。
『来たるべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』
http://koichirokokubun.tumblr.com/post/61101249341/328


koichirokokubun.tumblr.com


政治の悲しさ。

2013年09月13日 23時39分19秒 | 大震災の中で
本当に、継続的安定的に安全だ、といえる状態になるまでに、どれだけの苦難が必要なのだろう。
現場で働いている人、漁業者の方、避難中の多くの人々のことを思うと、その人たちを翻弄し続けるこの事故施設に、「たかが」お祭り騒ぎのためにあえて「コントロールされている」とか言わねばならない政治家っていうのは、本当は哀れな存在であり、しかもその哀れさを絶対に共有しようとしない「動物たち」なのだということが分かる。

「人間」とか「政治」とかいうカテゴリーを、根本から考え直す時期かもしれない。

今度の大震災とそれによる大事故は、私たちにそういうことを教えた。


原発汚染水問題 東京電力、外部有識者を呼び対策会議(フジテレビ系(FNN)) - Y!ニュース

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20130913-00000752-fnn-soci&1379044477

國分功一郎先生が『一般意志2.0』の書評の話になったときに、
「政治ってのは悲しいものです」
と書いておられたのをふと、思い出した。
同時に小平市の活動にも触れつつ、
「身近なものはあきらめられない。だから、そこで考え、行動していくんだ」
とも。

さて、ではどうしたいか?
自問は続くが、答えは簡単ではない……。



斉藤和義を初体験

2013年09月13日 21時30分48秒 | 大震災の中で


目覚まし代わりにタイマーセットしているFMから、
綾香の

「歩いて帰ろう」

が流れていた。カバーアルバム『遊音倶楽部』の一曲。

有名らしいのだが、全く知らなかった。
聞けば、あの『ゴールデンスランバー』のサウンドトラックを担当した斉藤和義の曲なのだという。

めちゃめちゃ気になって気になって、まず絢香のアルバム
『遊音倶楽部』
をダウンロード。

悪くない。
高評価と低評価が相半ばするのは、若いミュージシャンが出すカバーアルバムなら、評価が分かれるのは(大御所とはちがって)むしろ当然だ。私は素敵だと思った。

しかし、どうにもこうにもこの
「歩いて帰ろう」
が気になり、
斉藤和義の『コールデンデリシャス』という初期のベストアルバムをダウンロード。

今日一日、こればかり聴いていた。

今頃知ってごめんなさいって感じだが、いい感じである。90年代にこんなことをしてる人がいたという事実に、頑なな心が少しだけ溶けるような気がした。

「歌うたいのバラッド」とか「歩いて帰ろう」とか「君の顔が好きだ」とか、「幸福な朝食、退屈な夕食」とか。

そうね、絢香という歌手のこともよく知らないのだけれど、楽曲へのリスペクトを共有できれば彼女のアルバムとしての目的は達せられるんじゃないかな。




2013年型の新Nexus7の記事(持ちやすさは正義だ、というお話)

2013年09月06日 11時44分13秒 | ガジェット

戸田覚という人の記事です。
共感したのは、圧倒的な持ちやすさの指摘。
後ろから鷲掴みすれば、ずっと長時間
「矢立て」+「短冊」
モードで読み書きが可能だ、ということです。

新Nexus 7登場でiPad miniは最強の座を奪われるのか
http://pc.nikkeibp.co.jp/article/trend/20130904/1103684/?P=1&rt=nocnt


新Nexus7+フリック入力は現代の「矢立て」+短冊だ。

2013年09月04日 22時36分39秒 | ガジェット
Hand-HeldPC
という呼称も、
PDA(Personal Data Assistance)
という概念も、

いつのまにかスマホ&タブレットの中に消えていった感があります。


思えば
富士通「オアシスポケット」
という名機をはじめとして、
NEC「モバイルギア」
NTTドコモの「シグマリオン」
富士通「LOOX」
HPの「JORDANA」
といろいろありました。

個人的には、いつでもどこでももって歩けて、文章が自由に入力・保存できる機械がほしかったのです。


連綿としてと続いてきたハンドヘルド機への思いは、新型NEXUS7で一つの結論を得た、という気がしています。


iPadやiPadminiは、洗練された閲覧優先のハードという気がするんですね。 
アップルの中ではかつてSONYがアップルの依頼を受けて作ったP-100だったか、当時最少最軽量のMacが、一番自分のイメージには近いものでした。
それ以上には近づかなかったね。
iPhoneはスマホとしてはすごかったけれど、25年待ち続けた端末ではありませんでした。

あのオアポケ(OASYS POCKET)から始まった、手のひらの中で完結する
「矢立て」
のような携帯型の文字記録端末の理想型は、ようやく到達点を迎えたようです。

何を感激しているか、なかなか伝わりにくいかもしれませんね。
手の中で完結しているってのが凄い。

7インチタブレットとフリック入力のセットは、まさに「矢立て」だったのです。

キーボードでは、両手を放さなければならない。
それではtableがなければ満足な入力は覚束ないでしょう。
10インチのタブレットも同じです。重くてとても、片手で持ってはいられない。

片手で完結するケータイやスマホは、画面が小さくて、とても長文を継続しては入力をする気にはなれません。

2013年型Nexus7と、ATOKのフリック入力のタッグは、まさに現代の

「矢立て」と「短冊」なのです。


特に、本体を右手で後ろから鷲掴みし、フリック入力の画面を高さは下1/3、幅は左によせて使います(私は左利きなので)。

この態勢で、書くことの全てが完結するのです。

寝ていても起きていても、歩いていても座っていても。
わたしにとっては7インチ画面タブレット端末の最適解になりそうです。

こうなると、逆に新型iPadminiのリリースが楽しみです。
アップル社がどこまでやってくれるのか。





2013年型の新Nexus7レビュー(8)参考までに。

2013年09月04日 15時05分30秒 | ガジェット
2013年型Nexus7

現行iPodmini
の比較記事があったので紹介します。

もちろん前者の方が一年ほど新しい機種ですから、Nexusが「勝つ」のは当然としても、むしろiPadminiのバランスの良さも逆に光ってきます。

Nexus7の記事の中では、特にフリック入力の快適さに言及されていたのは、我が意を得たり、でした。

新型Nexus 7 vs iPad mini タブレット十番勝負!
http://www.atmarkit.co.jp/ait/articles/1308/30/news026.html


2013年型の新Nexus7レビュー(7)結論は「買い」だ。

2013年09月04日 12時02分38秒 | ガジェット
2013年型Nexus7の32Gタイプを5日間使ってみた。

個人的結論は、圧倒的に

「買い」

だ。

1、画面の精細さ。

2、持ちやすいスリムなサイズと300gを切る軽さ

3、(結果としては)入力もスムーズになタッチパネルの反応の良さ。

4、アプリごとにファイルをコピーしなくてよい。
 (appleでは同じPDFでもソフトが異なると別途コピーが必要な!)

5、多様な発想のソフト に出会える。
 (一つ一つのアプリの完成度はiOS版のほうが上のモノが多い印象だが、Androidのソフト群にはエネルギーを感じる。機能追求と行儀の悪さが同居したりもするが、トータルで、魅力はAndroidアプリに軍配があがる。一台ぐらいガジェット(玩具)としてAndroid端末を持っている方が面白い)

6、シンプルなデザインと十分な強度。

7、持っていて楽しい。いよいよ本当にメモ帳代わりになる!


8、スマホ要らずと思わせる万能感。
  (10インチ端末では持ち出しに限界かあった)

9、単行本を裁断&スキャンしたPDFでも、十分な大きさで読める。
 (perfect viewerの空白切り詰め機能がすばらしい!)



これから出てくるiPadminiが最大のライバルになる。
そして後から出るものは当然これより高いスペックになることが、予想される。

私の場合大量の本をスキャンしたPDFを、複数ソフトで読みたいので、iPadminiの場合、64ギガタイプを選びたい。

問題は値段だ。
今までのパターンだと、一万円以上高くなりそうだ。、

というわけで、新型iPadminiを待てずに 2013年型Nexusを購入してしまったものの、まあ不正解ではなかったかな、と(笑)

あとはゆっくりiPadminiの発売を待つとしましょう。
もしiPadminiが革命的に安い値段で出てきたら…………

がっかりしつつそっちも、買っちゃうかな(^_^;)

いやいや、この2013年型Nexus7、そんな心配をしなくて済むぐらい、良い出来だと思いますよ。

既存の7インチタブレットを持っている人はそれを使っていて十分だとは思います。

これでなければできない、ということはない。
ほとんどのことはスマホでも10インチタブレットでもできる。

でも、初めてタブレットを買うなら7インチを薦めたい。
(屋内利用飲みの人は別として)

今までiPhoneを使っていた人でも、使ってみるぐらいの価値はあるんじゃないかな。





2013年型の新Nexus7レビュー(6)

2013年09月04日 08時36分52秒 | ガジェット
2013
年型のNexus7について、
「タッチパネルの追随性が悪い」
という記事と
「タッチパネルの追随性が良すぎる」
という記事と二つを紹介した。

どちらもファーストインプレッションだから、まずは「違和感」の指摘、と見ておくべきなのだろう。

わたしは今までの環境との違い、と感じた。
ということは「慣れ」の範囲内だったわけだ。
フリック入力画面を小さくしたら抜群に快適になった、ということから、推測すると、結構感度が良いのかもしれない、と思う。

スマホなら画面の下半分が入力画面で違和感はない。
10インチ画面なら、最初からフリック入力を全画面でやったりはしない。

7インチ画面なのに、最初はスマホのように下半分全部をフリック入力画面についてしたのだから、そりゃ指がついて行かないのも当たり前だった(笑)

ATOKが、入力画面の大きさを調整できる機能(Androidはみんなあるのかな?)を持っててくれてよかったです。

要は組合せ、balanceだなあ。

2013年型NEXUS7の不具合記事

2013年09月04日 07時15分12秒 | ガジェット

2013年型NEXUS7のタッチパネルに不具合
の記事


http://www.gizmodo.jp/sp/2013/09/nexus_7_14.html

私の端末の場合、不具合ではなく「慣れ」のレベルで納得。
ただし、状況、つまりコントロールしにくい場合は、不具合として認識されるでしょうね。

反応が良すぎる、という苦情になっとく。
要はバランスなんだよね。
iOSとiPad?iPhoneはそこがまだちょっといい。
そういうことでしょう。