龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

「南アルプス子どもの村」に行ってきた。

2020年01月30日 21時17分13秒 | 教育
2020年1月25日(土)
甲府盆地の西側、南アルプス市にある「南アルプス子どもの村」を見学してきた。
実際は前川喜平(元文科省事務次官)の講演を聴くのが主だったけれど、その前にゆっくり学校見学できたのも面白かった。

「南アルプス子どもの村」とは、
和歌山に1992年開校した「木の国子どもの村」の姉妹校で、イギリスのニイルという人がサマーヒルズという学校で実践した「自由な教育」を日本でもやろう、ということで始めたそうだ。
ここではカリキュラムの半ば以上を「プロジェクト学習」に充てて、縦割りの教科ではなく、横割りの学年でもなく、プロジェクトチームを学年の枠を超えて作り、自分たちで演劇や本作りや料理や木工、土木、園芸、農作業等々、様々な共同作業を通して学習していく、日本では数少ない「自由な」学園。

そこで文科省の元官僚、しかも前川喜平さんが講演するのだからギャップ萌えして当然だ。

ニイルの教育はここでとても説明しきれないけれど、サマーヒルズでも子どもの村でも、子どもの「自由」を尊重するためにはむしろ大人(主として良心になる)の方に覚悟が必要になるとの指摘もあり、それに納得。
当然ながら寮生活の子どもも多く、年長組から新一年になるときに入学してかれ基本9年間、ずっと内在的な知的好奇心を伸ばしつつ協同しながらプロジェクトを経験していくと、日本の普通の両親にはついていけないほどの「自由な人間」に育つのではないかな。
子どもたちが転校したくなくなるっていう話もネットにあったけれど、そうだろうな、と思う。オレはこういう学校で子ども時代を過ごしたかった、とシミジミ思う。

元々はイギリスの上流階級だけではなく、中産階級にも「自由な教育」を、ということだったのかもしれない。
窒息しそうな日本の公教育にとって、たんなるアンチテーゼに止まらない実践だなあ、としみじみ。

肝心の、、というか前川喜平さんの話はなんと2時間半を超え、近代の学校教育150年の歴史をおさらいする大講演になったが、お話しがメチャメチャ愉しいのであっという間だった。

ざっくり話すと、
最初大正期に自由な新しい教育が生まれ、戦後にもまた新しい自由な教育の波が起こった。
しかし、昭和33年(1958年)以降、道徳の教育化や指導要領の法令化以来、自由が失われていく、というのがポイントの一点。

その後中曽根康弘の「戦後政治の総決算」から教育基本法改正からの憲法改正という形で、なくなったはずの「国體」の亡霊が跳梁跋扈し始めるが、まず人がいて国があるという「人権」「国民主権」の考え方からすれば、某日本会議の人がいう「国柄」(戦前の「国體」の言い換え)など、話のほかだ。教育勅語は国会で正式に排除されているし、現場における障害者の性教育の実践に議員と都教育委員会がいちゃもんをつけた七生事件では、高等裁判所で、教育基本法における「不当な支配」とはこの議員の行為を指す、と判例にも出ている、という教育の自立・自由の話がポイントの二点目。

つまり、政治と行政の側からの「自由」についての課題を話することで、その対極に「子どもの村」の実践が位置付けられるという内容になっていた。 

前半は教員免許状更新の時に学校教育史の講座で聞いた話だったが、後半は生々しい官僚と政治家の緊張関係が伝わってきて、とても興味深かった。

「子どもの村」の実践も、前川喜平さんの話も、どちらもとてもじゃないが簡単ににまとめられる話ではない。
宿題を沢山もらって帰ってきた。

教育における「自由」って……。

あと一つ印象的だったのは、ここの先生方がとっても生き生きした表情をしていたという「事実」。
一方で給料は他より低くせざるを得ない、と校長の堀先生は言っていた。プロジェクト授業のためには子ども15人に1人教員が必要だから、とのこと。
ここは難しいところだけれど、お金(だけ)じゃないよな、とつくづく思う。とくに教育は。
お金はもちろん必要だけれど、ある程度あればいい。自由を失って、対話もできない状態のお金は、むしろ毒だ。

じゃあ、一体どんなバランスならいいのか?

そういえば、「子どもの村」では、子どもたち自身がお金を稼ぐシステムも(それが主じゃないけれど)学んでいた。

お金の話も、これから教育はしてかなきゃならないんだろうとおもう。でも、予算があればあるほどいいってもんでもないよね。「自由」を学ばせるということは、堀校長先生の言を借りれば「超自我」を作り直す(設定し直すだったか?)ということにもなる。
内在的な求め、知的好奇心と、社会との出会いをどう組織していくのか。

ぐるぐる考えながら帰ってきた。



福田直樹氏の魅力。

2015年12月06日 16時05分29秒 | 教育
12/4(金)、福島市立森合小学校で開催された国語教育研究会に参加してきた。
午前中は福島大学の佐藤佐敏さんと埼玉県の小学校の校長山本先生との対談。それに続いて福田直樹さんの演奏と講演だった。

福田直樹氏のホームページはこちら

この講演&演奏が圧倒的に凄かったのです。

小学校の国語教育の勉強をしに行ったつもりで、音楽とは何か、身体表現とは何か、声とは、言葉とは、という「問い」を与えられ、かつその答えまで一挙に指し示されたような圧倒的体験をしてしまいました。

これは彼の語りと共に音楽を聴くことによって初めて成立する体験なのかもしれません。だから、これから私が説明しようとすることは、無駄、というかむしろミスリードなのかもしれない、とすら思います。

それでも、「ここ」が「教育」が持つ力が立ち現れる、有り得ないほどの「事件」の現場であったことを記しておかなければなりません。

彼はまず、題名も作者も告げずに一曲演奏します。それがバッハだとはすぐ分かりました。平均率第一巻の一曲目、誰でも大人なら一度は聴いたことがある曲です。
でも、いつも聴いているバッハとはあきらかに違う。微妙に(というかかすかにというか)」「ゆらぎ」が加わっていて、感情を動かされるのです。
バッハの平均律といえば、いわば「練習曲」のようにというか、アンチロマン的に演奏するものだと思っていましたから、ちょっと意表を突かれました。

演奏を終えて福田さんは、バッハの音楽は基本「祈り」ですから、といいました。

モーツアルトが基本ヒマヒマ星人だった貴族の「遊び」のための音楽だとするなら、バッハは「祈り」のための音楽だ、というのです。

私自身は、音楽が「何かのため」とかいうのはちょっと「不純」な感じがして、そういう考えを基本的にいささか抑圧してきたように思うのですが、あっさりと福田さんはほぼお構いなしに「そういう演奏」を次々にしていってくれました。

たとえばショパン。福田さんが演奏したのは「子犬のワルツ」でした。これも超有名な音楽です。
でも福田さんに言わせると、これは子犬の様子を描こうとした表題音楽では全くなくて、ショパンの生家で行う演奏会に招かれて行ったときに、列車に乗ったら、土地のおばさん達のおしゃべりのリズムがもっの凄く早くて、もう「子犬のワルツ」そのもののリズムだったというのです。

つまり、その音楽はそこに固有の響きがあるというか身体のリズムが表れてくる、というか、そういうものなんだ、と教えていただきました。
福田直樹さん自身が一番好きな音楽は?と生徒から質問を受けて、

「私はバッハが一番好きですね」

と答えていたのも意外でした。

この話を音楽好きの友人にいったら、
「大岡信が『モーツアルトが好きな奴はいい。だがバッハが好きだという奴にろくな者はいない』といってたよ」
というエピソードを教えてくれました。

私もバッハが好きです。うちのかみさんにも「そうよね、あんたはそういう人よ」と、なんだか悪者みたいに言われます(笑)。

念のため、福田さんが「ろくな者じゃない」という話ではありません(当然です!)。

むしろバッハのような音楽「でさえ」、そこにありうべき身体のリズムが反映され得る(というよりそういう風に演奏することが<楽譜>から求められている)のだ、ということなのでしょう。

「楽譜はちょうどメールのようなものだ、私たちは楽譜だけを見ていると間違える。それを書いた人を考え、楽譜からどんな音楽を立ち上げるのか、が重要だ。それはメールも一緒なのではないか。メールを書いた人のことを考えてそれを読むのか、字面だけを読むのかで全く意味は変わってくるだろう」

そんな風にもおっしゃっていました。

こういう風に書くと、あたかも「人間的」な話になってしまうおそれがあります。
福田さんのお話と演奏は、圧倒的に「身体」に直接すっと響き渡ってしまう、そういういう種類のものであって、いつも頭で想像する「人間的」とかいう概念とは全く別のところで「鳴って」いました。

忘備録代わりに。

文法を教えるという仕事

2014年07月25日 14時05分35秒 | 教育
今、課外で1年生と2年生に古典文法を教えている。
助動詞のところだ。

文法の授業はだいたい面白くない、と相場が決まっている。

個人的な話をすれば、高校一年生の時の文法の時間(週1時間時間割に入っていた)は、秒速で睡眠に入る時間だった。興味のない語学の文法ほど、生徒を退屈させるものはない。それは体験からいっても間違いない。

けれど不思議なことに、あるいは厄介なことに、歳をとってからの文法授業は、あろうことかだんだん面白くなってきたのである。

いうまでもなくその言語の担い手は、おそらく文法なんてものを全く意識せずに、そのルールを実践していたのに違いない。

ここで私が感じている文法を教えまた学ぶ面白さは、単にその担い手=実践者となる面白さではない。むしろスムーズな実践者となるのではなく、文法規則を認識の手の中に入れることによって言語の実践自体を認識的に直観しようとする試みの中にその喜びを感じているようなのだ。

まるでそれは家電を買ったときにマニュアルを熟読したり、逆にマニュアルなしにその機能を使い尽くそうとしたりすることの面白さに少し似ている。

必要な用途のためにだけ「使う」のではない面白さ。しかもそれが人間の脳みそが生み出した営みの中でも最も高度に体系化された言語というものにおいて遊べるのだとしたら、これはもう最高の「遊戯」とでも言う他ないではないか。

しかしもちろん、生徒たちの反応はむしろ「鈍い」。
彼らにとって一義的には「文法」は読解のためにある。
読みたくもないテキスト読解のために、無味乾燥なルールを詰め込まれる以上の動機を持ち得ないからだろう。

そこをちょっと別の方向に転がしてやれば、文法って面白いのだなあ、と思う。
退職4年前になってようやくそんなことに気づくとは、幾ら何でも遅すぎる……だろうか。

でも、誰でもが面白い!という文法の授業を構成することはなかなか難しくても、せめて私が面白そうに授業することはできる。

それは単に一人で面白がることとはちょっと違うと思う……んだけどね。


ASD親子のエッセイ。リアルに思い当たることがありすぎて笑い泣きします。

2013年08月05日 21時19分02秒 | 教育
涙と笑い、そして震えなしには読めない、ASD(自閉症スペクトラム障害)親子のエッセイ。
もちろん、「私」の話でもあるけれど、幾分かはあなたの家の話かもしれません。

ちなみに、ヴィトゲンシュタインは100%ASDだったと思います。

「息子と僕のアスペルガー物語」奥村隆
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846
奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第1回】時間に細かすぎる親子
僕と息子がその病院を初めて訪れたのは、8月下旬の、とにかく暑い夏の日だった。 僕たちが病院の最寄り駅で電車から降りたのは、午後3時ちょうど。一日で一番気温が高くなる時間だった。文字通り、うだるよう…

本日の体験授業、お疲れ様でした。

2013年08月01日 19時39分16秒 | 教育
今日、勤務校で中学3年生を対象に体験授業をしました。
時間がなくて要約文の解答例を示せなかったので、こちらに書いておきます。

タイプ1
佐渡市で放鳥されたトキから初のヒナがかえった。日本のトキは乱獲などで03年に一度絶滅し、中国からの個体による人工繁殖で今回に至る。せめてトキをもう一度自然に帰すことが、環境と人を守ることにもなる。

タイプ2
日本のトキは乱獲などで03年に絶滅したが、中国からの個体で人工繁殖に成功し、今回佐渡市で包丁されたトキから初のヒナがかえった。せめてトキをもう一度自然に帰すことが、環境と人を守ることにもなる。

タイプ1は本文の順序通り。そうすると繋ぎが難しい。
タイプ2は事実の順序通り。文章は書きやすいが、本文と順番が変わる。

要約は基本的には本文の論理展開の順序を踏襲(とうしゅう)するべきだが、この場合はタイプ2のほうが自然だろう。

要約は20字1内容が基本。
100字なら4~5つの内容を盛り込むべき。
ここではまず、新聞として

①佐渡市でトキのヒナが初めて誕生。

が最優先。これを外してはダメ。
次に、
②トキをもう一度自然に帰すこと=③環境と人間を守ること

という結論は外せないだろう。
ここは②と③二つの内容が合わさっている。
文章の終わりにある結論は重視しよう。

あとの二つどこを選ぶかが難しいが、、
ここは「初めて」が実は一度絶滅した後再び、という意味だというところをおさえたい。
となれば
④乱獲や乱開発という人間の不自然な営みで03年に日本のトキは一度絶滅。
⑤中国から個体を届けてもらって人工繁殖に成功。

という内容を加えるべきである。

最初の段落は、話題の提示ではあるが、要約としては不要。
無人カメラやテンやカラスのような具体例もカットすべき。

一番迷うのは
「あらゆる生物には、したたかに種をつなぐ知恵が備わる」
あたりだろう。
しかしこれはにもかかわらず人間が不自然な力によってそれを絶滅させてしまった、ということを導くための否定されるべき部分にすぎない。
人間の「不自然な力」という表現も重要なのだが、鍵カッコつきの表現は論理展開の説明としては不適当。
同様の理由で俳句も要約にはいれてはいけない。

あくまで要約は論理展開の筋道をなぞることが大切です。

また機会があったら一緒に勉強しましょう。



ベテラン教員すり減る意欲(朝日新聞より)

2011年09月27日 00時16分27秒 | 教育
9/26付けの朝日新聞社会面に、国際労働研などの調査結果(1万人対象)が出ていた。
そのタイトルが「ベテラン教員すり減る意欲」だった。

オレのことか、と思った(笑)。

特に50代の男性教員出、働きがいの劣化が激しいのだそうだ。
その通りである。

まあ、難しいことを考えるまでもなく、私の40代前半の同僚体育教師が
「定年65歳とかいっても、体の利かない老体育教師が、クチだけで生徒に体育を教えられると思います?」
と呟いていたのが象徴的だ。

いろいろ体裁を取り繕って「ベテラン教員のあり方の多様性を模索せよ」なんて言ってみることは可能だが、ま、正直教員は定年を下げた方がいいんじゃないか、と思うことさえある。

でもね、きっと、それは話の半分でしかない。

大人の男が生き甲斐を感じられないバランスって、どういうことなんだろう。
教師を30年もやっていると、まともな大人じゃなくなるってこと?
もしそうなら、そんな職場って問題じゃない?

いや逆に、男を50年もやっていてなおかつ年の離れた子ども達と第1線で生き生きと仕事ができるためには、特別な才能が必要なのかもしれない。

疲れて当然だよ……。

真面目な話、50代は難しい。

現場作業員としての教師能力が低い者は、管理職にでもなるしかない、とつくづく思う。

40代まではその場の体力と気力、感覚で仕事はやっていけるけれど、50代になったら、本当の知性の蓄積が必要だ。

昔、50を過ぎたら予備校の講師は一線級を退くっていう話をきいたことがある。
客が急速に離れるのだそうだ。
たぶんそれは仕方がないこと。

世阿弥も言っている。
50代になったら、演じないことより他にない、と。

枯れていくことを怖れまい。
失うことを怖れるから、守りに入って意欲の減退に繋がるのだ。

おそらく、困難それ自体は別に意欲を削ぐわけではない。
体力だって本当に低下するのはもうちょっと後だろう。

今までやってきた蓄積が通用しなくなる。それが辛いんだね。

たぶん一般企業だって同じじゃないかな。
窓際、出向などの肩を叩かれるトラップは、どこにだってあるだろう。

それでもなお現場に立って現役でいたい、という「格好をつける」ヤツだけが残っていけるサバイバルが、50代の教育現場なのだと思う。

むしろノウハウに不足のある20代の方がこの仕事はやりやすい面だってあるのかもしれない。
いつも育つのは生徒と一緒だからね。

何か出来上がったものを生徒に与えようとした瞬間、生徒は離れていく。
そういう意味ではある種の「動物性」を優れて生徒以上に保持できる者だけが、サバイバルできるのかもしれないね。







京大携帯カンニングのこと

2011年03月04日 00時19分15秒 | 教育
不謹慎かもしれないけれど書いておく。
今回の京大携帯カンニング問題は、結局のところ、犯罪性は稀薄で、むしろ無逆上自爆でしかないのでは?

違うかなあ。

だって、使ったのは自前携帯でしょ?
そりゃ調べたら一発だべさ。

京大受験するなら、そこでまず考えようよ。小説にもならない。
ってかそこまで無知?

いずれにしても一面トップの価値はないよねえ。せいぜい埋め草記事でしょう。

なんか偏った追いつめ方したんじゃないかなあ、自分で。

もっと小さい扱いが妥当だね、いくにんかのひとがいっているけど。

一般にカンニングは、犯罪者的利益欲求の発露であるよりは、追いつめられた人がおかしな方向に熱意を持った結果であることが多く、犯罪というよりは「間違った方向」的要素の強い事象かと。
乏しい経験からの推測に過ぎませんが。

適当に試験を乗り切ろう的なノリじゃないものね、これは。

繰り返していたのだから、もしかして味をしめた?
だったらお灸は据えた方がいいが、ますますたいした話じゃないと思うね。



バドミントンの試合を見た

2010年05月07日 20時52分13秒 | 教育

バドミントン男子ダブルス地区大会決勝の試合を見た。

迫力に圧倒された。

お互いの意図を十分に察知しつつ、時にはそれを力でねじふせ、あるいはその裏をかこうとして、高い技術を駆使してシャトルを打ち合うその姿は、とても美しかった。

スポーツの試合はコミュニケーションだとつくづく思う。

さしたる意図なくシャトルやボールを打つ(蹴る・投げる)のは論外としても、自分だけの「つもり」では試合にならない。
誰でも経験があることだと思うが、力量が拮抗し、ある程度相手の意図が読め、あるいは意図の読めない程度が同じぐらいの方が、ゲームは圧倒的におもしろい。

適度に読め、適度に読めない「敵」こそが「楽しいゲーム」を作る。

そしていうまでもないことだが、高い技術を持つ選手同士は「美しいゲーム」を作り上げていくだろう。

選手は個々に、さまざまなレベルの課題を持つ。いっぺんに「美しいゲーム」は求めるべくもない。
だが、ひとつひとつの課題を自分のものとしてクリアしていくと、その先にはこういうゲームができるのだ、という思いは、後輩たちを感動させ、勇気づけるのだろうと思う。

私自身はスポーツをやったこともないし、持続的な練習、修練を続けたこともないけれど、「ことば」について、「表現」についてなら、苦しんだことがないわけではない。

ある面では、必ずしも遠いところではないのかもしれない。
スポーツも一つの表現であり、表現もまたある種の身体に隔てられた場所を超え出ていこうとする運動である、という意味では。








読み終わらない本を読みたい

2010年04月29日 09時12分29秒 | 教育
昔は終わりのこない物語を読みたいと思っていたものだが、
最近、読み終わらない本を読みたい、という思いが強くなった。


似ているけれど、この二つはちょっと違う。

前者は今書かれている物語に向かい、後者は古典に向かう。

物語は一見どこか別世界を描くファンタジーのように見えるが、優れて「今」の産物だ。
他方古典は、何度も読まれることによって繰り返し「今」によみがえるが、何百年も前の産物である。

どちらも「開かれている」けれど、古典は時間的に、物語は空間的に、という指向の違いがある。

空間から時間へ。共時から通時へ。
自分の好みが移ろっているのがわかる。

今、
『正法眼蔵随聞記』(懐奘<えじょう>編)岩波文庫
を、村上春樹と伊坂幸太郎の後に読み始めている。

『正法眼蔵』は読めないが、『~随聞記』は読める。
スピノザの『エチカ』は読めないが書簡集は読める。
カントの『純粋理性批判』は読めないが『啓蒙について』は読める。

そういうことだ。こちらの知的膂力がその程度だ、ということもできる(そういうことだ<笑>)。
しかし別の見方をすれば、

正典は実は「読む」ものではない、といってみることもできるのではないか。

読み得るテキストと読み得ないテキストがある。
読み終わらないテキストと読み終われるテキストがある。

しかしそれは単純な二分法や二項対立ではなさそうな気もする。
正典たちが(たとえば私のような)凡庸な読者や読書を拒んでいるようにみえるのは、単に閉じているか開かれているか、だけではなく、そのテキスト自体がテキスト以外のものに触っているからなのではないか。

書簡集や『~随聞記』もそのテキスト自体で完結はしておらず、別のものに触っている。
だが、それらが触れているのは「別のテキスト」だ。
これなら、テキストを読む方法を知っている凡人にも読める。

1,それ自体で自立した構造を持つテキスト
2,それ自体で自立した構造を持ちつつ、別のテキストの参照可能性によって大きく開かれているテキスト
3,それ自体で完結した構造を持ちつつ、別のテキストを超えた参照不可能な何か、に向かって開かれているテキスト

早わかり的にはそういうことなのではないか。

3を私(わたくし)的に手っ取り早くいってしまうと、「神様」に触っているかどうか、ということになる。
「神様」に深く触れているテキストは、完結した意味のあるメッセージを読み取ろうとしても「読めない」。
あるいは読み切れない。

それは書き手の力不足ではなく、そういう風に書かれているのだろう。

(この項つづく)






転勤して初日の職場

2010年04月01日 22時57分58秒 | 教育
転勤初日の職場は何度経験しても緊張する。
入れなくてもいいところにばかり力が入って、なにやら家に帰るとぐったりしてしまう。
初任者の時は、家に帰るとそのまま倒れ込んでしまい、飯も風呂も飛ばして気がついたら朝になっていた、なんてこともしばしばだったような記憶がある。

今はそんなことはないけれど、それにしても疲れるのは変わりない。

加えて、この商売は4月は年度替わりの月。とくに初日は会議の嵐になる。
そして会議に出てみると、その職場の雰囲気が分かる。
現状把握のためには、下手なガイダンスをだらだらやるより、会議一つ出てみる方がずっと有効かもしれない。

むろんスムーズならいい、というものでもないし、声高に甲論乙駁すればいいというものでももちろんない。

ただ、やはりその集団の力関係とか、言説力が見えてくる。
今回の職場は……まあ、それはブログのコメントにはしにくいね(笑)。
分かっててやってるのかどうかが、不安になる種類のにぎやかさだった、ととりあえずは書いておこう。
(じゃないと自分も忘れてしまうから)

確信犯なら何をしてもいいって訳じゃないけれど、垂れ流しはもっとまずいよねぇ。
どうも後者の危険あり、と見た。でもまあ、分かっててやってる「つもり」っての方が腹立たしい、とも言えるけどね。
確信犯は、あまり単純な「確信」に基づいて犯行を犯してほしくはない。
だって、あまりにとんちんかんな「確信犯」は単なる馬鹿だもんなあ。

島宇宙的世界観に基づく会議の主張を諫める術はないのかね、しかし。
諫める側もまた島宇宙的世界観、ってなベタの相対化をするつもりはないけれど、捕鯨反対活動家ならずとも、わかりやすいシングルイシューの方がとりあえずの行動力は他を圧倒するからなあ。

なにはともあれ、年間計画表を手にすると、スケジュール表に書き込みができて単純にうれしい。
今年は手帳を3種類(職場、プライベート、小さなメモ書き)持った前代未聞の年なので、スケジュール一覧には目がないのでした(^^;)。


卒業式を終えて

2010年03月08日 00時14分53秒 | 教育
 昨年に引き続き今年も3年担任なので、2年続いて生徒を送り出すことになった。

 教員の仕事は、どんな仕事が「いい仕事」なのか、にわかに決めがたいこともある。
 1年1年目標も違えば、対応すべき課題も変わる。
 去年はコースが私立・国立混合だったので、一人一人異なる目標進路の実現が課題だったけれど、
 今年は文系でかつ二次数学を用いるクラス、だったので、難関大学合格が課題になった。
 国立文系で個別試験(二次)に数学があるのは難しめの大学が多いってことなんですが。

 加えて、経済状況を反映してか、浪人しない、という圧は年々強くなっているように感じる。
 難関を目指すなら浪人覚悟、といった「昔」の感覚では対応できない。
 現役で難関大学をどう目指すか。
 目標としては当然だが、現実としては半分厳しいことも事実。

 逆にいえば、仕事として、それぞれが異なる進路という去年のバラエティ豊かな楽しさとはまた、違った面白さがあった。

そして得た結論は「完全燃焼の手助け」がどこまでできたか、が仕事の評価軸になる、ということだった。

受験という通過儀礼は、必ずしも公平とはいえないけれど、なにはともあれ平等に同じ試験を受けて、自分をどれだけ磨いたか、その結果だけが問われる。自分のためだけにがんばればいい、子供として最後の関門、といってもいいかもしれない。社会に出るときには、社会(他者)に対してどんな貢献が可能か、という「社会力」が問われるが、受験で問われるのは個人の「学力」や「能力」だけだ。
だから、どれだけ自分の中にある力を出し切り、伸ばしきれるか、さえ考えればいい。

昔の公立進学校に多いセンセイのあるタイプがよくつぶやく言葉
「受験は自分の力でやるものだ」
「自分で考えるようにならないと所詮だめだよ」
という言葉は、最終的な述懐としては真実を含むけれど、そこにたどり着くプロセスにも言及しておかないと、今日びは責任放棄のそしりを免れまい(ニガ笑)。

どうしたら、本人が「完全燃焼」した、と納得のいく受験ができるか。
それはある意味「気のせい」みたいなものだ。
現代において、サービス業はこの「気のせい」みたいなものを売り買いしているといってもよい。
「顧客満足度」

学生を「顧客」といい切ってしまうのは愚かな正しさだとは思うが、それにしてもその「顧客満足度」があるとしたら、それは何だろう。
私にとってのとりあえずの答えは「完全燃焼」の手応え感だ。

最初は詰め込みやドリル、朝自習やら宿題、追試で「追い込む」ことも必要だ。効率的に時間を使うためには。
けれど、最後には基礎を使いこなして難問にチャレンジし、そのかなりの部分に光を見いだせる程度にはなってほしい。

さきほどの昔の高校教師の言「受験は自分の力でやるものだ」という言葉は、たぶん学生がその面白さを知り得た時にだけ、語ることが許される言葉なのではないだろうか。
「な、自分の力で解けると面白くてしょうがないだろ?」
って感じで。

特に国語は、各予備校や受験問題本についている記述の答えが時にばらばらだったりもする。
自分の読みを持たなければ、答えだけを探していても力はつかないのだ。

「そういうことは、自分の力でやるもんだ」(ドーラの言葉 from『天空の城ラピュタ』)

それがどれだけ生徒の「自分」を燃やせるきっかけ=火種のことばになり得るのか。

同じ「啓蒙」でも、知識ではなく教師(=大人)の生き方がやはり問われているのだろう。

そんなことを漠然と考えつつ、国公立大学前期日程の合格発表を待っていた。




国公立二次試験対策をやっていて思うこと

2010年02月15日 02時54分45秒 | 教育
国公立二次試験対策をやっていて思うこと

 東大・東北大・福島大・千葉大・筑波大・新潟大・埼玉大の現代文の二次記述問題を毎日生徒と一緒に解いている。
 私は確実に受験問題に詳しくなって、解答の実力も身に付いてきていると思う。
 私が力をつけてもしょうがないんだが。

 東大の解答字数はだいたい60字~70字。と決まっている(約13センチ×2行が基本)。
 東北大は30字~80字。
 筑波大は一般に字数制限なし(解答欄の広さによるのだろう)。
 新潟大・埼玉大は100字以上の比較的長いものが出る。

 まあそんなことはどうでもいいのだが、受験生たちの記述答案作成を見ていると、どうしても要素詰め込み型になりがちだ。
 こちらの教え方もよろしくないのかもしれない。記述は15字~20字で1内容ぐらいの目安で書け、とか口を酸っぱくして言うので、受験生もそうしなければ、と解答すべき要素を一所懸命探すことになる。
 次のその要素を組み立てて、なんとか解答に仕立て上げようとするのだ。

 しかし、適切な解答にするためには、本文全体の論理展開を把握し、その部分にふさわしい抽象レベルで、適切な「対比」を踏まえて、答案の範囲内の論理と、本文の展開論理とが矛盾しないようにフィットした形に仕上げることが必要だ。

 この、本文の論理展開を把握した上で、適切な「対比」を踏まえて、答案内の論理と、本文の「論理展開」が矛盾しないように仕上げる、ってのが結構難しい。

テキストに対するバランスよい目配りも必要だし、明示されていない「対比」もきちんと押さえる必要があるし、加えて傍線部は同じ言葉を使わずに一段階一般化して「説明」することも忘れてはならない。
初見の、しかもそう短くない評論文を読んだ上で、せいぜい40分以内にそんな記述答案を4つか5つ書き上げなければならないのだから、まあ大変なことである。

結局のところ、評論は「類同性」・「変化」・「対比」が幾層かになっている、その「関係」を読めればなんとかなる、と駿台の二戸先生という講師の方に教わったことがあるけれど、それに付け加えるとすれば、福島大の澤先生が小論文の指導の講座のときに強調していた「筆者は何をいいたいのか、何のためにそう表現しているのか」ということだろうか。

一度は二戸さんの指摘のように前から「共通性」と「対比」を踏まえて「変化」を読み解き、二度目は後ろにあることの多い「結論」から、よく見えなかったその3つをもう一度逆に読み解いてあぶり出す。

私が今年二次問題の数をこなしているうちに感じているのは、この「二度読み」の感覚の重要性だ

そしてそれは現代文の評論に限らず小説・古文・漢文においても、、二次記述のような、短時間で正確に記述解答を作るときに有効な方法であるように思われる。

初読の時にすべてすらすらと理解できるぐらいなら、それは勉強せずとも合格答案を書くことは可能だ。しかし、普通はそうはいかない。文章の方向性ぐらいはざっと読んだだけで分かることもある。しかし、考え方や思考の展開方法が自分と違っている評論の場合、前からリニアに読んだだけではしっかりと把握できないこともある。
そのときに、結論(筆者の主張)から逆に全体を再配置するつもりで、後ろから読むと良い。

小説だったら、最後に主人公がたどり着いた「心情」から読み戻すことになるし、古文だったら、最後の教訓や和歌にたどり着くまでの道筋を最後から逆に類推することになる。
漢文に至っては、最後の登場人物の言葉や、筆者の主張・コメントから、たとえや比喩を再配置していけば、読解速度もだいぶ上がるはずだ。


ただし、そこで一番重要なのは、一回目のまだよく分かっていない読みのうちに、
「自分が読解できた範囲で文章全体の世界像を把握してしまいたいという欲望」
に逆らって
でも、ぼんやりと見えていないところ、自分の読みで文法や単語、あるいは論理の流れからいって「つまづいているかもしれないところ」の手応えを感じて、一度目の読みのときはそこを敢えて「明確化しすぎないで読み終える」勇気だ、と最近強く思う。

人は、理解できた範囲で「分かったつもり」になりたがる。分からないと不安だし、受験で時間も限られていると、最初に読めたつもりの感覚で押し切ってしまいたくなる。
もちろん、最初から読めるように訓練はしたい。しかし、東大受験者だって60%とか65%とかしか解けない問題を、最初から解答の最後まで見通すように読解できる人が果たしてどれだけいるだろうか。

問題解決のためには、問題点を洗い出すことが必要だ。
そして問題点とは「分からないところ」「ぼんやりしていてはっきりしないところ」「矛盾があって困っているところ」だろう。
受験生には、その「分からなさ」を1回目の読みで排除せずに「うるかした」まま保持することを強く奨めたい。

中には最初からすべてがクリアに見える人もいるだろう。しかし、たぶんそういう全体の要素をすべてありうべき場所に最初から配置できるよう矛盾なく処理できるだけの能力があれば、受験なんて勉強せずにも済む。

たしかにそういうレベルの人もたまにいます(笑)。

しかし私たち凡人は、1度目ではよく分からないことや勘違いしやすい場所を洗い出し、二度目の読みで修正しつつ、全体構造の中で要素を適切に再配置し、論理展開に矛盾が生じないように比喩や例示の意味や意義を画定していくことが大切なのではないか

二次指導の前半を終えて、そんなことを強く感じた。
後半、その構造の中での要素の適切な再配置、が受験生に「きれいに提示」できて、納得してもらえれば、仕事は成功、と言えるかもしれない。
それが足りないと、お給料分の仕事にはならないかな……。
厳しいけれど、そこ、もう少し粘ってみたい点です。


センター出願を終えて、これから国公立二次対策

2010年01月31日 18時57分14秒 | 教育
センター出願を終えて、これから二次対策になる。
11月からセンター演習中心にやってきたけれど(国語)、12月までは添削や課外で2次問題も続けていた。
だから、そんなに「間に合わない」感はないけれど、それでもどこまでやれば十分、ということはない。
お互い体を壊さない程度にぎりぎりまで絞っていく仕事になるだろう。

受験勉強は時間との戦いだから、自分の今やっている学習の効果について的確に認識し、その情報をフィードバックして最適化する能力が問われる。

もし時間がふんだんにあるのなら、ゆっくり寄り道をしながらでも目的地にはたどり着けるし、むしろその方が「豊か」なこともあるだろう。

まあ、どっちがいいというわけじゃないけれど、社会的な「通過儀礼」として若者の人生に区切りを入れ、「生涯学習競争社会」の書き込みをするには、受験ていうのは意味がなくもないのだろう。
ただ、少子化、集団全体に対する受験モチベーションの低下、「格差感」の増大など、もうこのシステムのままで高校新卒、大学新卒を社会が切り分けていくのは少なからず「まずい」んじゃないか、とは思う。

食っていくのが楽か大変か、というだけで「不安」が計られるわけでもなく、受かるか落ちるか、だけで「絶望」が計られるわけでもないのだからねぇ。

現役・国公立・地元、この三つかこの順番で今年の受験の合い言葉になっている。
現役は最優先。できれば遠い難関の国公立。それがかなわなければ地元ちかくの国立。さらにそれが無理なら地元から通える大学。それも無理なら資格の取れる地元の短大。そして資格の取れる専門学校。

成績の高い生徒から応募するというのではなく、中堅の学生が昨年よりも集中して超激戦なのが「看護」と「教育」。
職業に就くために必ず要資格の安定した職業だ。センター試験60%から70%(平均が60ぐらいだから中の上の層)に、去年の1.3倍ぐらいの応募のピークがある。

他方、今回併せて25点以上平均点が落ちた物理と化学を選択したばりばり理系は、成績上位者も何十点と平均を下げた。
結果、国公立の医学部も普段は85%以上の得点率が基本なのに、ボーダーはもっとずっと下がる、との観測も。

点数で一喜一憂するのも馬鹿馬鹿しいが、一生に一度の「通過」点であれば、それは本気で心配するのが当たり前でもあるだろう。誰もがその可能性を発揮できるシステム、なんてありゃしないが、社会的納得のいくシステムを常に求める義務は体制側の人間に要求されるし、また要求する権利は受験対象の学生の側にはあるだろう。

どんなシステムがいいのか分からないけれど、大学でも高校でも、入ってからいろいろ自分にとっての「最適解」を見つけていけたらいいな、と思う。入り口でだけ絞るのは感心しないよねえ。ま、いずれどこで絞るか、そして絞ったあとの上と下、双方が納得いくそれから先の道筋(社会人としての責任とおもしろさを感じるような、ね)を見つけてあげられたらいいのだけれど。
ともあれ、これから3週間、問題演習漬けです。寝込まないようにしないとなあ。


センター入試の応援に行ってきた

2010年01月17日 13時43分14秒 | 教育
 1月16日(土)17日(日)と、センター試験の入試応援に行ってきた。
 この入試応援、というのも不思議な営みだ。

受験生が各自センター試験会場の大学にいって受験する、その会場の前で、受験生に声をかけるのである。
中学入試とか高校入試で塾の先生がやっていることの大学入試版、といえば言える。

センタ-試験は、受験生のほとんどが受けるという意味では、社会的通過儀礼の側面もある。そして、実力が試される、とはいえ、全国の受験生が「せーの」で一発勝負をする、というのは、さまざまに運や偶然も働くとみるべきだろう。
それをふくめて一発勝負はさばさばと潔いものではあるが、当の本人にとっては時に悔しい思いもするに違いない。

そういう現場に立ち会う切なさは、ある意味で受験の醍醐味。
応援する大人は実質何もできずに、若者を傍から応援し、見送るしかない。
泣いても笑っても本人次第である。

明日は自己採点の日。これもまた悲喜こもごもだ。
この子はほんとうはもっと点数を取ってもいいのにな、と(本人はむやみに同情されても迷惑かもしれないが)そういう思いはこちら側に溢れてもくる。

成功も失敗も含めて成長を見送りつつ、しみじみとする日曜の午後だ。



センター直前パックテストのこと

2010年01月06日 01時10分55秒 | 教育
昨日・今日と、河合塾系のセンター直前パックテストを、センター試験の順番通りに二日間かけて実施した。

11月に実施した全統プレも国語が壊滅的だったけれど、今回も期待ほど点数が伸びていない。


センター試験およびその模擬試験は不思議なもので、どんなに難しくても5択だから、誰かは当たる。
逆に、有名予備校の先生でも、学生がかなり当たっている問題を落としてしまうことがある。
私もいつも満点は取れない。

何かを勘違いして、自分のストーリーを作ってしまうことがあるのだ。出題者は、その勘違いしやすい語彙や表現を探し出して使ってくるから始末が悪い。

つまり、「思い込み」が一番危険なのだ。

石原千秋(早稲田大学)なども指摘していることだが、センター試験の問題(とくに小説)は、内面の共同体(読者は「普通」どう読むのか、というスタンダード)に参加できるかどうかが正解にたどり着くためのカギになる。

そんな中で自分勝手な「思い込み」を避けるためには、限られた時間で素早く正確に本文を読み、その上で出題者がひねり出す選択肢と本文のズレを軽々と読み解かなければならない。そういう意味では国語はかなり特殊な教科なのだろう。

点数がある程度取れるようになってから読みの速度を上げようとすると、ついつい自分の読めた範囲だけで読んでしまいがち。

簡単な設問はそれでいいけれど、迷彩を施した問題だと、「自分読み」は罠にかかりやすい危険なやり方だ。
繰り返し、自分の読みが本文からずれていないかを確認する作業を続けておきたい。

センター試験まであと10日。

ここまで来たら、プラス思考でどこまでがんばれるか、が勝負になる。
問題が悪い、と逆ギレするぐらいの開き直りも人によっては必要かもしれないね(笑)。