このYouTubeの話を聞いた。
毎日メディアカフェ「福島の今を知る」2015年11月26日配信
社会学者・開沼博
南相馬市立総合病院医師・坪倉正治
エイトビットニュース(元NHK)・堀潤
https://www.youtube.com/watch?v=tmK070eKdpY
なるほどそうだよなあ、と思う。
とくに、坪倉氏の嘆きには共感した。
開沼氏のプレゼンの仕方は相変わらず嫌味な「語り」だなあ、とは思うけれど、
「基本的な数字ぐらい押さえておけよ、オラオラ」
という「挑発」は、必要でもあるのだろう、と感じる。フクシマのセシウム、無知な者たちががたがた言うほど大変じゃないぜ、フクシマの課題の中心はそんなことにはない!という声が伝わってくる。なるほどと思うものの、どこかで何かが足りない、と口ごもりながら思ってしまう。彼らが口ごもらせたい者たちを口ごもらせるのはそれでいいのかもしれない。だが、開沼坪倉両氏の言葉たちは、口ごもってはならない者たちの言葉をも奪っていくのではないか。そういう思いは消えない。
いや、私のようなものはそれでも平気で言いたいことは言うから、ご心配には及ばない(笑)。そうではない人たちの声が聞こえなくなりはしないか、ということだ。
フクシマから遠く離れたところでフクシマのセシウム汚染を「メシウマ」の種にしている「輩(やから)」を叩くのはそれでいいし、フクシマの中にあって意味なく怯えている人の「愚かさ」を啓蒙する意義も大きいのだろう。しかし、言葉はそれだけの意味を持てばいい、というものでもない。
一方、今月知人から『駱駝の瘤 通信10』という雑誌が届いた。
ここには、原発事故とその被害を真正面から論じ続けてきた書き手たちの、4年半の蓄積が詰まった充実の論文や作品が並んでいる。
福島県について考えるならば、外すことのできない1冊だと思う。
その中で、
評論 農をつづけながら2015秋 五十嵐進
評論 これは人間の国か、フクシマの明日4 秋沢陽吉
評論 原発小説論(五) 澤 正宏
の三本が特に重要だと感じる。
五十嵐氏の言うポイントは大きく二つ。
1つは環境リスク学の第一人者中西準子の示す「帰還基準」年間5mSV以下という基準に対する疑問である。五十嵐氏はそれに対してこう疑問を示す。
「中西先生が『なるべく早く帰れるような条件と根拠を探』って『年五ミリSV』なら、として具体的な数字を示しました。被災者一人一人が今後の人生を決めて行くことを念頭に考えた、といいます。だが、これだと結局、政府の相双地区の原発被災者早期帰還促進政策に与するのではないか、と思ってしまいます。」
中西準子の発言は読んでいた。まあ、中西さんらしい発話だなあ、とは感じ、なるほど、と思う半面、何か腑に落ちないところも感じていた。五十嵐氏の指摘はそこをクリアにしてくれた。
開沼氏、坪倉氏もそうなのだが、中西氏の言葉も、政治的な意図を「結果」として持ってしまうのではないか、という危惧を抱く。
もちろん、正直な話、三氏の話に納得している自分もいるのだ。
だから、問題は彼らの分析や判断それ自体にあるのではないと思う。
言葉が政治的な「意味」を持ってしまうフクシマを巡る言説空間に対する態度が、「政治的な部分に触れない」という語らない身振りの中にその「政治性」が示されてしまっているのではないか?
その疑問を五十嵐氏は指摘してくれている。
五十嵐氏の言う二つ目のポイントは、「俳句新空間」NO4に掲載された花尻万博という人の「鬼」という俳句についての批評だ。「俳人の定型意識を超越する句」というテーマを体した、というその句に、五十嵐氏は全く惹かれない、というのだ。
俳句の解釈自体は私の任ではないが、五十嵐氏の求める思い、
「今この時代を見極めながら今を生きる自分の呼吸をまさぐること」
からすれば、「わが身に添うリアリティの匕首ではない」という批評に納得する。
そう、私たちは、開沼氏や坪倉氏、中西氏の示す数字や現状「だけ」を生きているわけではないのだ。彼らは彼らの仕事をしているのだろう。それは分かる。そしてそれが必要だということも分かる。
だが、五十嵐氏も言うように、それが結果として「政治的」言説に回収されていくことに対して、十分に「戦略的」なのかどうか、疑問が残るということだ。
他方、それではその「政治的な言説の空間」に対抗できるのは、文学的な言説なのか、という疑問も残る。
その点については、次の秋沢陽吉の評論が、ネガとしての「批評」の意義を示している。
内容は端的にえば吉本隆明批判だ。『反核「異論」』を唱え続けた吉本隆明の姿勢を追いつつ、欠けていたものを
『福島の原発事故をめぐって』(山本義隆2011年11月)の論を引用しつつ分析している。その原発が抱える問題点を踏まえて、秋沢は吉本をこう批判する。
「原発を政治とは関わりのない場所に置き、中立的な文明史と科学技術の本質からして必然だとしたとき、日本の原発の現状が全て肯定された。つまりは、原発が生み出す電機による便利な生活すなわち現代日本文明と資本主義の現状肯定いや礼賛する立場にたった。」
五十嵐氏と秋沢氏が指摘するのは、結果として「科学」と「政治」を分離することによって、その「空白」が政治的な結果をもたらすにもかかわらず、むしろその分離によって政治を自分の視野から排除してしまっているのではないか、という点だ。
私はエチカ福島という企画の中で、原発事故以後の福島について考えてきたが、そこでまず感じたのは、福島における「無数の分断」の存在だった。被災された方々が、それゆえに様々な分断線を人と人との間に、あるいは自分自身の中にさえ抱え込みながら生きなければならない困難がそこにある、と感じた。
4年半が過ぎ、今ここにあるのは、その分断線が分断線のまま繋がりだし、「政治」を巡って大きな溝を作り出しつつあるのではないか、という疑問だ。
開沼・坪倉両氏も、五十嵐・秋沢両氏も、福島の中にあって、福島のこの現実をリアルに感じながら思考を続け、活動を続けているリスペクトすべき福島の知性だと私は個人的に感じている。
だが、そこにもまた落としどころのない裂け目を、しかも無数の小さなそれではなく、大きく口を開けてこちらに迫ってくるような「空白」の裂け目を感じずにはいられない。
さてではどうすればいいのか。
そのためには3つめの澤正宏氏の評論を巡ってもう少し考えなければならないが、それはまた後日。
P.S.
これを書いた翌日、開沼博が櫻井よしこの講演(12/20広野町)をコーディネートするというポスターがFacebookに上がっていた。
そうか、なるほどね、と思う。
これからは安心して戦えるというものだ。