龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

マッカラーズ短編集を読んだ。

2023年10月26日 12時45分51秒 | 本を読む
『マッカラーズ短編集』を読んだ。
カーソン・マッカラーズは20世紀前半のアメリカ南部のジョージア州で、20才代で小説において圧倒的な才能を開花させた女性だった。
書かれたものは、一見すると互いに理解し合えないまま閉じた生を生きるしかない登場人物たちで満ちあふれていて、当時の時代を考えると非常に奇妙な感じの小説だ。
今で言えばそれはqueer(クィア)な、ということになるのだろう。
今回読んでみて、こんな小説を書いてみたい、という欲望が内側からせり上がってくるのを止めることができなかった。
無論、マッカラーズのような小説が書けるはずもない。
言いたいのは、これは「私のものだ」というその感触だ。
自分の中でその奇妙な(queer)感じを抱かせる、孤独で他者とすれ違い閉じていくしかない登場人物たちが、にもかかわらずこちら側に寄り添ってくるようにすら感じられる感触がある。
読書会のメンバーの一人は、これは「境界線上を描いているんだ」と言っていた。
たしかに、「天才少女」などはまちがいなく、少女から大人へと移ろっていかずにはいられないその境界線の上に立つ極めて微妙で不安定な場所、まるで天使が針の上に立ち得るのかどうかを試しているような危うい描写が、短い作品の中に凝縮している。
もちろんその境界線は、先生と生徒だけではない。子どもと大人、アル中の妻と「正常」な夫、男と男、男と女、女と女、主人公の別れた妻が今の夫との間に倦んだ子と今の恋人が以前に生まれた子どもとの関係(短編だが実に面倒くさい)、境界線はこの作品の至る所に引かれている。
その無数の境界線を描く描写は徹底的に繊細で細部に渡っていて、それが世界の今の閉塞性とその先崩壊を予感させる……。
控え目にいっても、めちゃくちゃ惹かれた短編群だった。
巷では、村上春樹が訳した『心は孤独な狩人』と『結婚式のメンバー』が有名なのだろう。
どれであってもよい、21世紀の空気を吸う私たちは、一度マッカラーズの不自由な描写の中に身を浸してみてよいのではないか。
それは境界線を巡る苦悩の描写であると同時に、境界線が崩壊していく予感や事実の描写でもある。
間違っても、ここにあるのは、村上春樹が描くような物語ではない。物語だけ読めば、不可解な話になる。
村上春樹の本当の才能は、カーバーやティム・オブライエン、マッカラーズを目利きした事実と訳業(誤訳はあるにしても)にあんじゃない?という話も読書会のメンバーから出ていた。なるほどね、という感じ。

(かつて村上春樹の「物語」をむさぼるように読んだ80年代の記憶を持つ自分にとっては、その村上春樹以前を発見する「旅」でもあったのかもしれない……が、それはまあどうでもいい話だ)
文句なく、お勧めです(極めて乏しい外国文学体験の中で、の話ですけど)。

いわきFC頑張れ!(2)

2023年10月26日 10時31分32秒 | 本を読む

BEHIND THE SCENES】いわきFC vs 清水エスパルス|明治安田生命J2リーグ第39節

で試合終了後、田村監督が闘いを終えた選手たちに語っていた言葉が印象的だった。
(実際の動画は上記を参照)

「本当にこんだけ来てくれたお客さんがどう思ったか分かんないけど、

(そして)今おれがそういう風に言ってその言葉(みんなの心に)入んないかも知れないけれども(オレは、全然)誇らしく思う。

最後までファイティングポーズを取ってやったということ。それは監督のオレがそういう風に(舵を)切ったから、それをやってくれたということに感謝している。」

この言葉に深く共感した。そして、ファンの中の多くの人はこの監督の言葉と共にあって、応援を続けてきたし、これからも応援をしていくと思う(
少なくても私はそうだ)。

思えば、田村監督は「勝ちいく」「点を取りに行く」と、今節だけでなくずっとそう言い続けてきた。

90分走り続け、諦めない、倒れない。
「魂の息吹くサッカー」

①選手の平均年齢も23才ちょっとの若さにふさわしい言葉だし、

②できたてのいわきという地域に根ざして成長しようとするチームだし、

③私たちいわき市民にとって一緒に成長していく身近な地元のJチームだ。

④加えて、年配の方(パートナーとご一緒だったり)でスタジアムに足を運ぶ方の多くは、子どもや孫のような気持ちで、選手たちの成長を応援しているという雰囲気があるのではないか?友人のサポーターが言っていた。

⑤また、横浜FC主催の親善マッチでは、いつもの応援団がいない代わりに、子どもたちの声のリードでスタジアムが応援チャントを唱和する一幕もあった。キッズたちもその親の世代と一緒にスタジアムに来る習慣ができはじめている。

いわきFCは、本当の意味で私たちいわき市、浜通りのチームになりつつある。

そんな風に感じた。

 


『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』熊野純彦

2023年04月25日 12時40分40秒 | 本を読む
熊野純彦の『レヴィナス -移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫)

を読み始めた。

なんだか、長年の疑問が「溶けて」きそうな気がしている。

『レヴィナス・コレクション』
の文庫を手にしてから、折に触れて何度もページを開いて読もうとはするのだが、とにかく読めなかった。

もちろん、難しい哲学者の、とくに主著と呼ばれるようなものは素人には全く歯が立たないことの方が多い。

解説書を読んで、本人がさほど力を入れていない小著を読んで、書簡を参照して、(自分が幾分か理解でき始めたと思われる)別の哲学者の言葉をヒントにして、ジワジワと理解していくしかない。

お気に入りのはずのスピノザの『エチカ』でさえ、いろいろな先生の講座を受講し、論文を読み、解説本を並べ、たくさんのスピノザ批判を後追いしながら、ようやく面白さを感じてきたのだ。

だが、数あるスピノザ批判の多くは(当然ながら)近代以降の文脈からのもので、腑に落ちるにせよ、突っ込みどころはそこじゃねえだろうと思うにせよ、あるいはそうだね、そこはスピノザの弱いところかもね(17世紀だし)みたいなこともあるにせよ、まあ理解しやすい。

一つのものの見方をある程度体得して、自分のものの見方が「変換」される体験をくぐると、三つ目以降のものの見方についての理解のしやすさが「変化」する。そういうことを学んだような気がする。

たとえていえば、全く別のOSについて勉強することによって、自分が今まで思考してきたその思考を走らせている自分のOSについても認識できるようになるというようなことだろうか。

ところが、レヴィナスについてはそれがうまく行かなかった。

たとえばフーコーはあの大著が読めない、デリダの考え方の大枠は理解できても、テキストが本当に読めない、ということはある。カントの3批判、解説を読んで分かった気になっているとか、ホッブズのリバイアサン、途中で挫折したままだ、とか、そういうことは素人の自分にとっては当たり前のことだ(残念!)。

文学作品なら、ある程度商売だから無理にでも読み切るということはある。
大江のだらだらながい小説でも、100ページまで乗りきれば面白くなる、と思って読めたし、その経験は(順序はぎゃくなのだろうが)ガルシア・マルケスの読破にも役に立った。苦手なドストエフスキーでも、大人になってから(遅い!)修行だと思って読んだりもしている。そして、文学作品はどんなに読むのが難しくても、読んでみればそれはそれで面白い。

ところが、レヴィナスは全く違う。
根本的に、何がなんだか分からないままなのだ。

「顔」とか「他者」とか、何かに取り憑かれたようなこだわりが尋常でないものを感じさせられるキーワードがそこにあるのに、何か今ひとつつかめない、もどかしさを覚える。

スピノザと「OS」が違う、というのは分かる。

そして、よく分からないけれどスピノザ批判の論調はきわめて厳しい。
ここを理解できるようになりたい、と思いつつ何年もそのままにしてきた。

この熊野純彦さんのレヴィナス論は、それ(読めなさあ・分からなさ)を「手触り」から説き起こしてくれるような気がしている。

レヴィナスは、弟子に対して

「問題はこうです。<自分が存在していることで、ひとはだれかを抑圧しているのではないか>このようにして、まさにそのとき、じぶん自身のうえに安らい、<私>は存在するという同一性のもとにとどまりつづけていた、自己同一的な存在者が、じぶんには存在する理由があるのだろうか、と自問することになるのです。」

と語っているという。

なんと受動的というか強迫的というか、とにかく自己と他者の関係を極限まで突き詰めようとする身振りが見えてくる。
熊野純彦さんは、それを丁寧に丁寧に解きほぐしながら説明していく姿勢を止めない。
ありがたいことだ。

ホッブズが発明した「コナトゥス(自己保存の傾向性)」という概念を根本的に問い直すのがレヴィナスだという説明も、腑に落ちる。
そうか、そりゃホッブズを継承しつつある面で書き換えながら思考していったスピノザにもこの「コナトゥス」を称揚する姿勢は間違いなく顕著に存在する。
合わないわけだ。

スピノザは、世界=自然=神を唯一の実体と捉え、その外部を断固拒否する。神=自然、以上、である。
レヴィナスは、徹底的に世界と自己の隔たりにこだわり続ける。
もちろん、意識以前の欲求の享受レベルでは、そんな隔たりを動物と同様生まれたての子供は感じてはいない。
しかし、動物ならぬ人間が「生きる」ということは、その世界と自己の隔たりおよびその結節点となる身体の関係について、向き合い直し、捉えなおしてこそ、初めて成立することに違いない。

自分として納得のいく結論はまだまださきだが、いろいろ考えるきっかけにはなりそうだ。




スピノザの『エチカ』仏語対訳本が届く!

2023年03月27日 11時52分22秒 | 本を読む

本当は英語の対訳本だともう少しわかりやすいんたが(苦笑)。
それでも、ラテン語のテキストが一冊の本になっているのはありがたい(ネットにはラテン語のテキストも転がってますがね)。

物質的にこれがあると、挫折続きのラテン語学習のモチベーションもあがるのでは、という淡い期待を抱いて。
せめて辞書が引ければ!
今度はそこまでがんばるぞー。
(なにせラテン語は文法的など語形変化野「あたり」がつかないと辞書引くのにも手間ですし、それをやってくれるサイトもあるにはあるけど、自分の頭の中にある程度入ってないと効率悪すきて)。
 退職後の一番の遊びはこれ、になりそうです。
10年かかるか、20年かかるか……。


町田健『チョムスキー入門~生成文法の謎を解く~』光文社新書

2023年03月22日 15時11分39秒 | 本を読む
チョムスキー入門の本を今更に読んだ。
今更ながら何がツボなのか理解できない。
句構造規則の話はなんとなく分かる。
表層と深層の構造もなにやらやりたそうなことは分かる。
しかし、そもそもの出発点がどこなのかが分からないため、いくら説明されてもぴんとこない。
とうしても、
「で?」
となってしまう。
脳みそに普遍的な仕組みがあるのは分かるんだけどね。
「前言語的な何か」があるんだろうなあ、ということも分かるんだけどねえ。言語習得というプロセスとかなら興味が湧くんだけどなあ。
だれか生成文法?このチョムスキーの成果を分かりやすく教えてほしい。


スピノザについて書かれた講談社新書の3冊について

2023年03月22日 03時06分08秒 | 本を読む

YouTubeのCAUTE(哲学語学チャンネル)で、

スピノザ関連文献26冊【スピノザ語り】

というコンテンツがアップされていて、とても勉強になった。

https://youtu.be/aVE1hsfbGy8

スピノザに関心のある方はぜひご覧になることをお勧めしたい。

ただ、その中で気になった点、というか、自分でちょっと立ち止まって考えてみたいところがあったので、メモ代わりに書いておく。

反論とかつっこみとかいうほどのことではない(このCAUTEさんの動画は他にもラテン語で読むエチカなどありがたいコンテンツがあって、ありがたいと感じています)。

書いておきたいことの一つは、講談社現代新書から出されているスピノザ本3冊についてのコメントだ。

上述の動画子は、三冊を比較してこう評価する。

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吉田量彦『スピノザ』

 分量も一番充実しており、伝記的側面に強い。もう一つの特徴としては(光文社の新訳を出しているだけあって)『神学政治論』についての記述が充実している。その分主著『エチカ』の言及部分が他の2冊に比して少ない恨みがある。

上野修『スピノザの世界』

 ほぼ全編『エチカ』について論じてあり、あくまでテキストに則した上で、それでもなお上野の解釈ワールドが展開されている。『エチカ』について、あたかもテキストがテキストを論証していくという、きわめて奇異なスピノザテキストの本質に迫っている。

(テキストがテキストを論証していくというのは動画子が推薦していた上野修の別の本『哲学者たちのワンダーランド』から読みとったことをここに重ねてみた表現です、念のため)

國分功一郎『はじめてのスピノザ』

 分かりやすい。しかしこれはドゥルージアンのスピノザ。國分さんはドゥルーズで(によって?において?をとおして?)スピノザを読んでいるのではないか。それならばドゥルーズで良くない?と思ってしまう。

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ざっくりの印象で書いているので、詳しくは動画を直接参照してほしいが、この違い、興味深い。指摘の限りでは、その通りだなあと思う(國分スピノザについては後で少し書くが)。

 私もこの3冊の比較はぜひしておきたいところだったので、この機会に蛇足ながら付け加えておきたいと思ったことを以下に書く。

 所詮素人の感想になるが、新書はまあ非専門家だが興味を持っている大人に向けられたものだろうから、重ねて批評してもバチは当たるまい。

(ここからはCAUTE(哲学語学チャンネル)さんの話ではなく、自分が読んだ感想です)

まず一点目。

吉田スピノザで、納得できない部分がある。

それは、P326の、この部分だ。

(引用開始)

「理性には本来的に、ものごとを何らかの永遠の観点の下に置いてとらえるという性質が備わっている。(第二部定理四四系二)

これは逆に言えば、その時その場で出くわすものごとをその一回性のまま丸ごと理解することは、そもそも理性の働きの埒外、想定外にあるということでもあります。人間の理性とは本質的にそういうものであり、まただからこそ、あまりにも一回性の高い出来事に直面した時には意外なもろさを露呈してしまうのです。二〇一一年に起きた東日本大震災とそれに続く原発事故の際、財界関係者が口々に「想定外」という言葉を連発して責任逃れを試みていましたが、あれはある意味では、理性に内在するこうした構造的限界を素直に露呈した発言とも考えられます。(P326)

(引用終了)

「東日本大震災とそれに続く原発事故」というものが、吉田にとって大した深い意図はなく、一回限りの予想外の出来事のセンセーショナルな例として挙げられたに過ぎないのかもしれないが、これはちょっとどうだろうと首をかしげざるをえなかった。

 当時の財界関係者が、理性の知における「想定外」を素直に口にしていた、というのは相当程度ナイーヴな認識ではないか。単に自己の立場を正当化しようとする「感情」や「偏見」の知、つまり第一種認識のレベルの言説として捉える方が妥当じゃないかなあ。スピノザ好きの一人として、彼らに感情を乗り越えて共通認識に至ろうとする「理性の知」を当てはめるのはどうかと思うよ。

 また吉田はさらにここに続いて、スピノザの言う理性の知(第二種認識)は、

「要するに、一発食らってからでないと作動しないのが理性なのです」(P327)

とも言っている。あれ、スピノザはそんなこと言ってたっけ?という疑問が湧いてきた。

上野修の『スピノザの世界』國分功一郎の『はじめてのスピノザ』を読んでいて、こんな風にえ、それってスピノザの言ってることだっけ?というところには全く出会わなかったので、ちょっと気になった。

果たして東日本大震災と原発事故を並べ、その上にひとしなみに「理性に内在するこうした構造的限界」という枠組みをかぶせるのが果たして妥当なのかどうか。

 福島に住む者として不快であることはおくとしても(苦笑)、ちょっとスピノザの第二種認識の説明として微妙なところではないか。

まあ、専門家が哲学をもて遊んでいる分には目くじらを立てる必要もない。

だが、本気で一回性の現実には受け身になるしかない、と考えているというのなら、もうちょっと謙虚に、もっとつまらない例でも挙げてお茶を濁しておくべきだった、とあえて言っておく。

 CAUTE(哲学語学チャンネル)でも吉田スピノザは『エチカ』が弱いと指摘しているし、吉田自身もその旨述べているので、むしろ吉田エチカは、充実した伝記的な記述と『神学・政治論』および『政治論』(岩波文庫では『国家論』)中心に読むのが妥当ということだろう。

 吉田量彦氏の光文社文庫刊の『神学・政治論』の新訳は、労作であり、ありがたく勉強させてもらっているということも付け加えておく。



次に、上野修の『スピノザの世界』について。

これは『エチカ』の持つ、あられもない「異様さ」を素人にも分かるように平易にかつやばさが伝わる記述になっていて、改めて久しぶりに今回読み返して上野スピノザの魅力を再認識した。

『デカルト、ホップズ、スピノザ』でも、『哲学者たちのワンダーランド』でもそうだが、上野修スピノザを読むと、スピノザの発想というか、國分氏が指摘するOSの違いというか、その特殊性がぐっとこちらに迫ってくる。

YouTubeには他に、上野修の最終講義が3本に分けられてアップされている『大いなる逆説スピノザ』も参考になる。

徹底した合理主義の究極ともいうべきスピノザの提示する哲学が、内在神というかこの世界そのもの、現実そのもの、自然そのものが神であってその外部はないというある種狂気にも似た「正気」をこともなげに語る異様さを、上野スピノザは私たちに共有させてくれる。

あられもない「正気」としての「真理」が、人びとに怖れられる機微がよく分かる。

『エチカ』を読むならまちがいなく必読の入門書、だろう。



 さて、三番目に挙げられている國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』は、CAUTE(哲学語学チャンネル)においては、「ちょっとなあ」というスタンスで紹介されている。

國分功一郎がドゥルージアンであることを指摘しつつ、だったらドゥルーズを読めばいいじゃん、となってしまう、という微妙な評価だ。

ここにはちょっと異論がある。

友人に貸してしまったので今手元に本文がなく、増補前のNHK100分de名著のテキスト『エチカ スピノザ』の最後から引用するが、そこにはこんなことが書かれてある。

「哲学を学ぶ際に一番重要なのは、哲学者が創り出した概念を体得し、それをうまく使いこなせるようになることです。たとえば、組み合わせとしての善悪の概念を使って物事を判断できるようになる。必然性としての自由の概念から教育について考えてみる、そんな風にして概念を使いこなせるようになることこそ、哲学を学び、哲学を身につけることなのです。

(中略)

 哲学が研究の場に閉じ込められるようなことは断じてあってはなりません。哲学を専門家が独占するようなことも断じてあってはなりません。哲学は万人のためのものです。」

つまり、『はじめてのエチカ』(100分de名著が元になっている)は、そういうスタンスで書かれている。万人のための入門書、だろう。

であるならば、「哲学を専門家が独占するような」ことからこの本がどれだけ距離を取れているのかいないのか、がまず問題にされてしかるべきだし、ドゥルーズ云々を言うのであれば、國分功一郎の書いた『ドゥルーズの哲学原理』と、この後に書かれた岩波新書の『スピノザ 読む人の肖像』との関係を踏まえた上で、はたして「ドゥルーズを読めばよい」のかどうかを判断するのが妥当なのではないか、と思われる。入門書として、國分スピノザが果たした役割は大きいと思うなあ。

國分功一郎氏自身、岩波新書版の後書きでも、自身の読みがドゥルーズから一歩前に出られたのかどうか、という点について触れていた。「読む人の肖像」という言葉自体、モノグラフィーをよく書いたドゥルーズと、デカルトの読み手でありかつ聖書の読解者でもあったスピノザを重ねた視点の提示という意味も当然含んでいるはずだ。


「読むこと」によってテキストを脱構築していくスピノザ。その上で出会い得るスピノザの姿、については、『スピノザ 読む人の肖像』を改めて読みつつ論じなければならないだろう。

 こんなことを私が言うのも口幅ったいが、國分功一郎氏の著述は、いわゆる専門家には割と受けが悪いという印象がある。まあ、専門家集団からしたら、いろいろ言いたいことがあるのだろうということも想像に難はくない。

 でも、たとえばネグリのマルティチュードとか、もはや(確信犯的)誤読に近いともいえないこともないだろうし、さまざまな読まれ方が展開されるのが「難解なスピノザ」の真骨頂でもあろう。

 國分功一郎さんの「熱い」、ときには暑苦しいかもしれないまでの「侠気(おとこぎ)」を、そのテキストにはいつも感じてきた。

『はじめてのスピノザ』だけではない。『中動態の世界』では学問領域を超え、「概念をつかって物事を判断する道具」として、つまりは医療や福祉の現場で評価される重要なテキストとし、て広くうけいれられてきたし、『畠中尚志全文集』では畠中尚志に対する敬意の深さ、また学問上の恩義について、ぐっと迫ってくるものがあった。

スピノザを専門とする学問がわのヒトは、スピノザの圏域から離れようとしない。テキストクリティークとしてまあ当然といえば当然ともいえる。

だが、スピノザはスピノザの語る圏域のみを世界と呼んだのではなかったはず。この世界、この現実こそが唯一の実体であるとするなら、スピノザ的理性は、狂気の淵に沈む必要もなければ、原発事故にことさら「予想外」といって驚いて見せる必要もない。その理性が「異端」と呼ばれることは理解できるが、上野修のいうクリアな異端さ、國分功一郎のいう「必然性としての自由」、それを単なる逆説として扱う必要はないのでは、とも思う。

結論は、スピノザに興味がある人は3冊とも座右に置こうという話に落ち着くわけだが、その先にいくとすれば、

CAUTE(哲学語学チャンネル)

が紹介している、26冊のスピノザ関連書に駒を進めるのが吉、だろう。

https://youtu.be/aVE1hsfbGy8

アナーキズムのところ、とくに楽しかった。

アナーキズムにも規範はある。でも上からじゃだめ。

って栗原康に言及した話ね。

アナーキズムの指標としてのスピノザ、とりあえず共感!

CAUTE(哲学語学チャンネル)のYouTube氏には、機会があればぜひ『スピノザ 読む人の肖像』のコメントもしてほしい。

最後に木島泰三さんの『自由意志の向こう側』と『スピノザの自然主義プログラム』の二冊は、セットでスピノザ研究の学問領域の側から、こちら素人の側にきちんとボールを投げてくれているのが分かる。今は、その営為に直ちに応答するだけの力がないのが残念だが、それはまた別の機会に。







ミュージカル映画『イン ザ ハイツ』を観た。

2023年03月02日 00時34分01秒 | 本を読む

ミュージカル映画『イン ザ ハイツ』を観た。

大ヒットしたミュージカルの映画化なのだという。
中米からの移民たちが住むニューヨークの街区で、そのコミュニティで展開する様々な喜怒哀楽が適切に過不足無く組み合わされてよく練られたミュージカル映画になっていると感じた。

何より、この音楽が素晴らしい。ミュージカル映画は、やっぱり常に音楽が凄い。そうじゃないとミュージカル映画にはならないんだろうなあ。ブロードウェイのなんたるかも知らない素人がいうのもなんだけど、アメリカの映画のいいところはこーゆーところなんだろうと思う。
差別の問題の扱い方とかは、ネットを見ると不満が渦巻いてもいるみたいで、そうかあ、(様々な出自の人たちの構成比が現実を反映していないとか)物語を作るにも、リアルに作るにはいろいろハードルが高くなってるんだなあ、とは思った。

その批判は批判として、そして、さしたる盛り上がるストーリー展開もないといえばない、として、それでも私にとってこれはとってもステキなミュージカル映画の1本だった。

主演の男の子がどうしても長友に見えてしまうという点を除けば、ね(笑)。

仲間内で話題になったのは、あのおばあちゃんの人生を、たった1曲で済ませてしまうのは勿体なさ過ぎじゃないか、って点。
もし可能なら、彼女の人生にもう少し焦点を当てても良かったんじゃないかな。
ミュージカルの群像劇だから、あんまり難しいことを言わずに楽しむのが吉かと。
いろいろな人生がこの街区には詰まってるっていうだけでも、観るに値する一作。
これはDVDならずとも、CDを買いたくなる映画でした。
いまなら、Netflix、あるいはAmazonPrimeなら300円ぐらいで観られますね。
よろしかったらぜひ。


チベットの小説、ラシャムジャの『路上の陽光』が瑞々しい。

2023年01月09日 16時00分00秒 | 本を読む
初めてのチベット文学。
近郊から出てきてラサ(チベットの古くからの都で大きな都市)の橋の上にたむろしつつ職を探す若者たちの青春の初々しさ、高地を吹きすぎる風、汗ばむ陽光の眩しさ、道路の泥濘などなど、印象深いショットが満載だ。

台湾の小説『歩道橋の魔術師』(呉明益)も傑作だったが、この小説も、日本の小説とは異なったレイヤーに書き込まれていてそれでもなおこちら側に響いてくるものがある。
短編で読みやすい。
小説は一編でもその土地の空気を感じさせてくれる力がある。
お勧めです。

畠中尚志全文集のこと

2023年01月09日 13時20分49秒 | 本を読む




もちろんこれから刊行されるスピノザ全集も待ち遠しいけれど、まずは多くの人にこれを読んでほしいなあ。

最後に寄せられた國分功一郎氏の文章を読むと、國分さんが何と闘ってきたのか、そしておそらく、今なお何と闘っているのか、が分かる。

なにより、畠中訳スピノザを勉強しているの一人としてぐっとくるし、國分さんのファンとして泣けてくる。

國分さんは、畠中尚志についてはきちんと広く知られるべきだ、書かねばならないんだ、とずっと前に語っていた。

それをキチンとこういう形で日本中の皆が読める形で示したことに、彼の男気を感じる、といったらおかしいだろうか。

ぜひ一読をおすすめしておく。

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追加で。

読了した。

締め切りのある原稿をほっぽりだして読んだ。

泣けた。

畠中尚志にはスピノザの岩波文庫訳でずっとお世話になっていたけれど、改めてその生涯を知った上で畠中の文章を読み直すと、心が動かされる。
正岡子規とおなじ脊椎カリエスで寝たきりになり、かつ目の病気を病んで、口述筆記をしながら『エチカ』を訳出したところなど、目が潤んでくるのを止められなかった。

國分さんの解説文も素晴らしい。読んでいて熱い思いが溢れてくるのを感じる。

単なるスピノザの読者に過ぎない自分が「学恩」などというのはをこがましい限りだが、畠中氏の困難を抱えつつなされた訳業の素晴らしさに触れるとき、粛然とした思いを新たにせざるを得ない。

折しも、スピノザ全集が同じ岩波書店から発刊されるこの時期に、講談社学術文庫で畠中尚志の全文集が出ることに、特別な感慨を抱く。

互さん&國分さん、グッジョブ!です。

新しい全集が出たら、首っ引きでテキストを並べて勉強したい。生きているうちにちゃんと新全集は完結するのかな?
ヘブライ語文法の本が楽しみだけれど、読んでもわかるのかな?

スピノザにも他の哲学書と同様読み解けない難解な部分があって、だからこそ学問の対象にもなるわけだけれど、全く学会の外にあって、ほぼ寝たきりの在野の人が、その人のみがなし得た訳業によって日本のスピノザ理解が半世紀も支えられてきたことの重さは、いくら強調してもしすぎることはない。

あくまで静かな、しかしマグマのような熱量を秘めたテキストは、畠中氏のものであると同時にスピノザ自身のものでもある……そんな風にすら思ってみたくなる。



藤高和輝の『ジュディス・バトラー』

2022年10月24日 07時00分00秒 | 本を読む
中断していた藤高和輝の『ジュディス・バトラー』、再開。
どーでもいいことだが、順番が逆だなあ、と思った。

子どもの頃、脱性的というか、性的な振る舞いが理解不能だった私は、むしろナルシシズムの代替(異性の代替としてではない)として同性が好きだったという面もあるかもしれないという思いはあった。
それがもう一度反転して、男性性を疑問に付す、もしくは嫌う女性を二度反転したナルシシズムとして愛するようになったのかもしれない。
(まあそんなどうでもいい自己分析はおくとして)

ジュディス・バトラーとは受容の順番が逆だなあ、とかんじた。

そこが興味深い。

スピノザ→ポール・ド・マン→へーゲル

という否定的であれ肯定的であれ受容の系譜は、自分が歩んできた「脱性的(脱ジェンダー的というべき?)」(イメージですが)であることを基本とした道行きとは逆だった。

マルクス→ポスト構造主義→精神分析→スピノザ
だから。
時代の流行りに流されただけ、ともいえるかな(笑)

しかし、読者の私とは本当にかなり異なった地平を歩んでいるバトラーなのに、藤高バトラーの記述はメッチャメチャ腑に落ちる。胸キュンになる。

これを読むとスピノザの持つ非社会性の手触りのことが、よくわかる。
承認をめぐるへーゲル受容の経緯もぐっと迫ってくる。
スピノザの自殺理解の圧倒的な「浅さ」の説明は、赤ベコ状態。クビが折れるほど頷ける(笑)

スピノザはむしろそーゆーことは神様に丸めたんだよね。
だから『国家論』なんかでも、「社会」という外的なものを操作的にしか記述していない。

民主制についても書いてるのに『君主論』ばかりが有名になったマキャベリにも他人のそら似的にちょっと似ているかもね(スピノザは、民主制について書こうとする前に死んだんだけど、それも必然か)。

オレにとってはスピノザは収斂する虚の焦点みたいなところがあるかもしれない、なんてこともわかってくる。
エチカでいえば多分バトラーが引きつけられた第三章の感情論とかの生き方のところよりも、神の存在証明みたいな荒唐無稽な荒技の第一章とか、光に比される第三の理性の速度の第五章に惹かれるみたいなところもおもしろい。


最高に一点だけ。
注意すべきことがあるとすればただ一点、この藤高バトラーは余りに分かり易すぎる。
この本をよんでいても、ジュディス・バトラーが一筋縄ではいかない面を持っていることは分かる。
もちろんそのバトラーをこれだけクリアに教えてもらえるのは本当に希有のことだ。有り難い。だが。
この藤高バトラーで「分かった」ことは、このクリアなにに切断面による入門でしかないということもまた確かだろう。
私はおそらくその先に足を踏み入れることはないと思う。
ただ、改めてスピノザを読みたくなった。そこかーい、と言われそうだが(笑)


まあしかしとにかく、午後は熟読玩味!

『スピノザ 読む人の肖像』國分功一郎

2022年10月22日 12時41分05秒 | 本を読む
ゲット。
これから読む。
國分さんが博士論文『スピノザの方法』を書いたときから「読む人」としてのスピノザを意識していた、とあとがきで触れている。
私にとって、個人的な意味でこのあとがきの言葉の意味は大きい。
『スピノザの方法』の刊行記念トークが行われたのが2011年、震災の直前だったと記憶している。あれから10年。

國分さんがこの本を完成されるまでの10年間について、感慨深く書いているその同じ時間、私もまた極めて個人的に、ひとりの読者として、この本を待ちこがれていた。

それとこれとは特に関係ない話と言えば関係ない話だ。

震災後の福島にとってスピノザのどこが関係あるのか、といえばまあそれほど。

少なくても「社会」の中で起こっている出来事それ自体とは直接関わりはない。

極めて個人的に自分自身の中で関係づけられているだけだ、ともいえる。

それでも。

自分にとっては50才近くになって初めて出会ったスピノザを國分さんの手ほどきによって読み得るようになったことは、物事を一から考えようとするときに大きな意義があった。

自分の思考がどこかで繰り返し惹かれていくのに、読めないテキスト。
スピノザの本との付き合い方はそんな感じだった。

端的にスピノザが読めないのに気になるという状態だった自分が、ジル・ドゥルーズのスピノザ(平凡社文庫)と國分さんのスピノザに出会ったことは(そしてその直後に東日本大震災と核災害に直面したことも)大きな意味があった、と改めて思う。

スピノザの著作は、超空中戦みたいなもので、それだけ読んでも歯が立たない。

自分は別に学問的なスピノザ読解がしたいわけではなく、そんな能力も意図もない。

自分の「思考の癖」が、気づくとスピノザを求めている、そんな感じなのだ。

藤高和輝の『ジュディス・バトラー』を読んでいて、惹かれたのもそこだ。

バトラーのスピノザ理解のことなどまったくわからない。

ただ自分の「思考の癖」が、読めもしなないのにスピノザのテキストを求めている、そういう傾向性を藤高バトラーの中に映してみているだけのことなのだろう。だが、ひとりの哲学者を読み続けることは、地べたから物事を考え直す時には役に立つ力を与えてくれる、ということも分かってきた。

これから帰宅してこの本を読む。

10年間國分ウォッチャーをし、15年ぐらいスピノザのテキストを握りしめてきたからには、書いてあることの意味ぐらいは概ね分かるだろうと思う。

『スピノザの方法』
朝日カルチャーの通年講座
100分de名著のテキスト
『はじめてのスピノザ』(講談社現代新書)
とフォローしてきて、ようやく到達した『エチカ』論。
有り難い限りだ。

ゆっくり味わいながら読みたい。

読書会という幸福

2022年10月21日 21時21分52秒 | 本を読む

思えば、何十年も読書会をやってきた。単発のこともあるし、20年近く続いた会もあるが、間違いなく読書会が今の私を育ててくれた。
国語教師として、頭の中に複数の「声」を持っていることは必須条件だ。
そのポリフォニックな「声」たちは、まちがいなく読書会によってしか出会えなかった。

ある時期には私がそうしていることを知らずに「今時読書会なんて妙ちきりんなともをやってる人がいるのね」と知人が嘲笑しているのにであったこともある。
自分でも、酔狂な話だと思わなかったわけでもない。
だが、ただ読書するだけでは「対話」として十分ではない。
複数の読みがあり、それは説得されるべきものではない、響きあうものなのだ、ということを知るために、読書会というツールはなかなかに得難いものだと改めて思う。

そこにテキストがあることの意味を感じる。まことにテキストは、閉じつつ、かつ開かれ続けているものなのだ。
今もたった3人で毎月読み書きをしている。

「2人ではいけない。でも3人いれば読書会は続けられるよ」
今は亡き師匠が、22才の私に言ってくれた言葉が思い出される。

映画『さとにきたらええやん』を観た。

2022年08月31日 09時24分30秒 | 本を読む
2022年8月28日(日)、フォーラム福島で、
映画『さとにきたらええやん』を観てきた。

大阪の西成地区釜ヶ崎で40年ほど続く「こどもの里」が舞台のドキュメンタリー(2h弱)だったが、グイグイ引き込まれた。
映画の詳細はこちらへ。

西成の釜ヶ崎といえば日雇い労働者の町、そして正直「怖い街」という漠然とした印象しかなかった。


そして、その場所で40年も子どもたちの生を支え続けてきた子ども園「こどもの里」のドキュメンタリーといえば、ついついいわゆる「社会派」の立ち位置を想像してしまう。

そして映画はもちろん、なんか、そういう話じゃない。まったくそういう撮られ方はしていない。そこにまず驚いた。
勝手に想像しておいて、勝手にズレに驚くレトリックも大概だと自分でも思うが、この映画は、そういう観る者をまっすぐ覗き込む瞳に満ちているのだった。

上映に引き続き開催されたトークショーもすごかった。

「こどもの里」を設立前から営んできた代表の荘保共子さん、

西成で研究を続けている哲学者村上靖彦さん、

北海道大学アイヌ・先住民センター准教授の石原真衣さん、

の3人という超豪華メンバー。

いや、至福でした。

まず瞳の話だ。
荘保さんが会場のの質問に答えて、

子どもたちの生き生きとした瞳こそこの営みを始めそして続けた理由だ

と言っていたことに関わる。

もちろん、西成の大人たちは生活に様々な困難をかかえている。そこでせいかつする子どもたちは当然、その、親の困難の中で生きることを余儀なくされている。
その、西成の子どもたちの瞳がめっちゃ魅力的だ、輝いている、それが荘保さんをして、この営みにダイブさせた原因だ、というのだ。

その言葉を聴きながら映画を振り返りつつ、私はまた泣きそうになった。

映画の内容自体は、検索してもらえば分かる。

まず今ここではあくまで個人的な感想を書いておきたい。

その瞳を、私も見たことがある、と思った。
大学四年の頃、小学校教師の免許取得のために、6週間の教育実習に行ったことがある。
動き続けて止まない小動物の群のような子どもたちのカオス、その中で本当に輝く瞳たち、それらに出会って、私は小学校教師を断念したのだ。
私はその単純明晰で動きに満ちた、クルクルとめまぐるしく輝きながら動き続けるその瞳の力に圧倒された。
とても太刀打ちできない、と思った。
自分がそんな子どもの一人にすぎないというのに、どうやって彼らを「教育」し「導く」ことができるのか。
オレにできるはずがない、と思った。

それで私は、小学校から逃避し、高校へと逃避したわけだ。

教育学部に入った当初は、その瞳の輝きをこそ、求めていたのかもしれないというのに。

ちょうど22才、荘保さんは私より10才ほど上だが、同じ年齢で私は逃亡し、荘保さんはそこにダイブしていったことになる。

40年高校の国語教師をやってきても、逃避癖は治らなかった、いや直らなかった、か。

水平軸が苦手なんだと思う。
自分の中の「GPS」のようなものを使って、なんとか平面上に世界をプロットしようとつとめてはいても、所詮、社会のポリフォニックな響きの中に身をゆだねることはできなかった。

だからスピノザが好きなのかもしれない。

そんな自分にとって「こどもの里」は衝撃であり、いーなーと思った。
岡惚れするというのではない。
もしかすると身近にあるのかも、と思えた。
自分が探し続け、逃避し続けたことがここにある、そんな思いを抱いた。

映画を見ながらいっぱい泣いた。そして、トークを聴いて深くうなずいた。

今週から、どんな授業をしようか。

中身についてはまた後で書ければいいのだが。














『顔 FACE』横山秀夫を読む。

2022年08月04日 10時50分46秒 | 本を読む
横山秀夫のデビュー作『陰の季節』に登場する脇役の婦警を、その数年後に改めて主人公にした、D県警が舞台の警察小説だ。
代表作『半落ち』と同時期に書かれた、と解説にある。横山秀夫らしい楽しく読める連作短編になっている。

平野瑞穂は、鑑識で似顔絵を書く仕事をしていたが、警察所内の事情でその仕事を奪われてしまう(『陰の季節』所収の「黒い線」)。
この『顔FACE』は、プライドを持って取り組んでいた似顔絵の仕事から外されたことに苦しみ、かつ組織の中の「婦警」といういわばジェンダーバイアスの極限的な「記号」を背負いながらも、それでもなお「警察官」であろうとする平野瑞穂。

横山秀夫らしい読ませる筆致で描いた良作品だ。

 さほど期待していなかった分、逆に引き込まれた。

週末、時間があればオススメです。