龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引書』がスゴい。

2019年10月04日 08時44分22秒 | 今日の日記
今朝から
ルシア・ベルリンのアンソロジー
『掃除婦のための手引書』
を読み始めた。
まだ2編しか読んでいないが、既にその世界に引き込まれている。
乏しい経験しかないのだが、アメリカの短編は、なんだかよむのが難しいということがある。
かかれている立場や状況や時代が分からないからなのか、描き方に慣れていないからなのか、何かもどかしい感じが残ったりする。アメリカじゃなくてもそれは同じなのだろうが、しかし、短編についてはアメリカのものが要警戒、、そんな印象があった。

しかし、ルシア・ベルリンの小説は違う。
分かる分からないではなく、刺さってくる。
リディア・デイヴィスの序文では「むき出しの電線のように」と表現されている。
そう、それは分かるのではなく、皮膚の表面が痛む、のだ。
「痛い小説」というのとは少し違う。もっと表面的だ。つまり表現的だ。むしろだからこそ、その向こう側の「深さ」を味わいたくなる。

そして、
『物語こそがすべて』
というこのアンソロジーの元の本の題名から、ルシア・ベルリンの「物語」の意味について考えてみたくなる。

「トニーは目を開けなかった。他人の苦しみがよくわかるなどと言う人間はみんな阿呆だからだ」P13

そう言うことだ。

おすすめです。その「痛み」、その「帯電」を知るすべての「大人」に強くお勧めします。

退職してからの一ヶ月(ご報告)

2018年05月12日 09時39分21秒 | 今日の日記
退職してから一月余り経った。
いろいろと変化が大きく戸惑っている。

語りたいことがないわけではない。
37年間続けてきた公立高校の国語教諭という仕事を終えたわけだから、これだけ饒舌な自分であってみれば、感慨の一つや二つ、いや十や二十は即座にまくし立てたいところだ。

だが、不用意にことばにしてしまうと、「退職者」だったり「退職後の再雇用者」だったりの語りになってしまう。

それが悪いというのではない。ただ、なんといったらいいのか、今までは教員でありながら教員以外の自分がことばを語るという「隙間産業」的なことばの生産方法だったのに、いつのまにか油断すると、その教員という立場を失い、「退職者」になったばかりにそのカテゴリーを背負った発話を意図せずに意図することになってしまいかねない、とでもいいたくなるような状態になりつつあるような気がするのだ。

今までは無意識のうちに身につけた「役割」を前提として、その「役割」との距離感を保っていればそこが語りの基盤にできていたのに、その前提としての「役割」を失ったために、ことばがなかなか形を成してくれない、そんな感じ、とでもいえばいいだろうか。

つまり、ことばは居心地の悪さからはじめるのが通例だったのに、その居心地の悪さというちょっとした「イスに座っているお尻のむずむず」が失われ、イスもなければ床もなくなってしまったような途方に暮れる感じにおそわれてきてしまったということかもしれない。

もしかすると、ことばを見失っているのかもしれない、と思う。
自分が思ったよりもずっと状況依存的にことばを使っていたんだな、とも思う。


今は再雇用の職場が同じで、しかも仕事内容、分掌、部屋、部署のスタッフすべてが同じで、給与だけ約4割減。
お金を以前通りに出してほしい、とは思わない。しかし、4割減で全く同じ仕事、というのは、自分の中で仕事の割合を低くしていかなければバランスがとれないことも確かなのだ。

仕事が同じってのがなあ……(じゃあ辞めればってことでもあるわけですよね、退職金ももらったことなんだし。でもそうもいかないんだ、これが)。
仕事を辞めて新しいことでもやればいい、ってのもわかる。でもさ、無年金だからねえ。社会的に微妙な場所にたたされるわけです。なんとなく。定年延長でもない、雇用うちきりもでない。なんとなく中途半端なもやもやがある。


きっと転職した人には当たり前のことなのかもしれない。
あるいは、退職すればおおかれすくなかれみんなこんなことに直面するのだろう。
人生が続きつつ、別のステージになっていくという意味では、ね。


ただ、今まで言葉ができていたはずの場所からことばがででこなくなる、そんなイメージなのだ。
そうはいってもことばを身体の外に出していかないと、体調も悪くなりそう。

ともあれ、そろそろことばを形にしてリハビリをはじめなければ。

恩師の木村幸雄先生が亡くなった。

2017年10月01日 07時31分18秒 | 今日の日記

2017年9月25日に木村幸雄先生が亡くなったという葉書が昨日届いた。
私は学部を出てから先生に師事するという経験がなかったから、国語の教師として恩師と呼べるのは誰よりもまず木村先生だ。

しかし最近、お会いすることのないまま数年が過ぎていた。
昨年だったか入院の報を聞いたときもお見舞いに行かず、その後退院して回復された、と伝え聞いて安堵しただけだった。

卒論の担当教官としてお世話になってから約三十年間、会合の種類や内容はその時々で違ってはいたが、読書会や勉強会で、師匠の傍らで自分の読みを示すことが当たり前だった。
中でも大学卒業後から十数年続いた 「戦後文学を読む会」では、テキストを読む、ということの意義を一から教えていただいた。

毎月一回、当番が作品をレポートし、メンバーが疑問や意見、批判をやりとりする読書会なのだが、読書会を始めるとき、先生に顧問をお願いにいったとき、彼は

・3人以上いるうちは続ける。
・自分も一会員として参加する。
・話し合いの成果を読める形で文字に残す。

という3つの条件で参加を快諾してくれた(これは今思えば彼のミニマムな「政治論=活動論」だったかもしれない)。

毎月一回ずつコンスタントに続け(夏冬は合宿)、雑誌を出したときは互いに合評もしつつ、100回ちかく続いた。

その後木村先生が中国の武漢大学に客員の教授として招聘されてから次第に毎月の開催ではなくなり、先生が戻ってきてからは夏冬の合宿のみになり、20年過ぎてそれも間遠になっていったが、20代~30代にかけてテキストを読むという訓練を先生の下で続けられたことの意味は、私にとっては計り知れないほど大きかった。

昨日訃報を聞いてから、自分が何を喪失したのかをずっと考えている。

育ててもらった 「恩」を感じる 「師」は他にも幾人か挙げることができる。小学校の時、ADHDの自分を「見所がある」と接してくれた佐藤先生もその一人だ。彼は、おちつきのない私を面白がって、そのまま放っておいてくれた。

そうか。

考えてみれば木村幸雄先生もそうだった。石川淳『処女懐胎』論を野火2号に書いたとき彼に貰った評言を思い出す。

「君の文章はいつも中心から少し外れたところを狙っているんだよ。だから背筋をのばして読むと落ち着かない。しかし寝転がって読むとこれが面白いんだ」と笑われ、
「でもね、この『女子供』という表現は直すべきだ。いや、たとえ逆説的であっても、使うべきではない」
と厳しく指摘された。
また、井上光晴『黄色い河口』論を書いたときは
「書きたい気持ちはわかるけど、ほとんど要らないね。最後の五、六節から書き始める、それが文章ってものだよ」

そうだ、放し飼いにしながらも見捨てずに面白がってくれている恩に報いられるような、師匠に面白がってもらえる文章、 「書かれていないその先」を本当はもっと書かねばならなかった。そうなのだ。

そしてそれはもうかなわない。

師を失うということはそういうことか。

「間に合わなかった文章」を、私は今から書かねばならない。

これから書くものを、木村先生ならどう評してくれるだろう。

どんなにヒドい文章でも、学生がこだわった論点があれば 「力作だね」とまずねぎらった後で 「ほとんど不要な部分だけど」と笑いながらバッサリ斬ってくれた。

つまり、一つのレポートもまた表現なのだ、と教えてもらっていたのだろう。教育学部の学生は、研究者としての論文執筆の厳密な基準を身につける必要がない。しかし、どんな小さなものであっても、それは一つのテキストであり、表現としての真実の欠片の現れにほかならないのだ、と知らず知らずに教わっていたのではなかったか。

木村幸雄先生が 「いる」ということを自分がどんなに頼みにしていたのか、これから身にしみて感じていくことになる。

それは断じて懐古や郷愁ではない。

テキストの読まれるべき 「今」、そして書かれるべき 「可能」において、 「じゃあきみはどうしたいのかね」と問い続ける師匠 「装置」として 「わたし」の中で駆動し続けるということ。

弟子である、とはそういうことなんじゃないかな

「宇宙の粒子」になった木村先生に差し出すべきテキストを(安倍と小池という、こんなにもヒドいウルトラネオコン同士の対決選挙のなかでも)紡いでいかねばなるまい。

この追悼もまた 「的を幾分か外してるね」 「書くべきことはこれを捨ててから先だね」と言われそうだ(笑)
許してください。今から始めます。

不肖の弟子 島貫 真







早朝のファミレスに来たら

2015年09月27日 11時32分01秒 | 今日の日記
休日の朝、職場を開けるのが面倒なので、相手も近場なのを幸い、近所のファミレスで仕事の打ち合わせをすることにした。

近所のG(大手チェーン店)は、24hではなく健全な?8:00開店。

その数分前に駐車場にクルマを乗り入れたらビビビびっくり。

開店前のファミレスの入り口に行列ができているのだ。

高齢者が続々と結集中。

そして彼らの目線や身振りから察するに、微妙に常連、というか顔見知りの香りがただよっている。

駐車場にはパトカーも止まっている。
なんだか 「早朝の普通のファミレス」のイメージからズレている感じ。

「早朝の普通のファミレス」がどんなものかなんて、今まで一度も来たことがないんだから知ってるわけもないんだけどね。

一方パトカーの中では、警察の人がスマホをいじっている。警察の人もスマホを使うときはクルマを止めるのだろうし、そのときに開店前のファミレスに駐車したってもちろん構わないのだろう。

だが、老人の行列とパトカーの間にクルマを割り込ませるのはなんだか勇気が要った。

Yという大手スーパーのフードコートがお年寄りの社交場になっているのは以前から聞いていたが、早朝からファミレスのモーニング定食がお年寄りの集客を招いているとは知らなかった。

お年寄りはファミレスなどを好まず、家で味噌汁とご飯と煎茶、なのだと思っていたのだが、そんな偏見を払拭させるのに十分な光景だった。

まあしかし、開店前から並ぶモノじゃあないよねぇ。

いわゆるファミレスの利用中核層がやってくるのはむしろ10時過ぎ。やっぱり子供のわがままな声が休日のファミレスにはお似合いだ、と思ってしまうのだが、72時間の定点観測番組じゃないけれど、早朝のファミレスにはそれに相応しい顔、があるのだろう。

深夜のファミレス、ならちょっとはまだ想像がつきそうだけれど、実際に深夜来てみたら、それも予想が裏切られるのかもしれない。

ビジネスマンや学生じゃあるまいし、

タブレット+Bluetoothキーボード

の還暦おじさんの自分こそいろいろ場違いかも、なんだけどね。

国立国会図書館を見学してきた。

2015年08月05日 14時21分45秒 | 今日の日記
昨日、国立国会図書館を見学してきた。収蔵点数4000万に上る蔵書数はもちろん凄いのひとことなのだが、その現場を(バックヤードまで含めて)つぶさにまのあたりにすることができ、深い感動を覚えた。
写真は私が生まれた月の少女雑誌リボン


マンガは背表紙も資料的価値が高いのだが、厚みがあるだけに傷みも早く、製本し直したり箱に入れて保管したりする必要があるとのこと。
また、マンガは初出と単行本で異同藻多く、その違いを見るために研究者はこれを見にくることが多いとか。

東京のこの建物は
サッカー場大の書庫が8面分ある新館と、45m×45mが17層ある本館があり、それで1200万冊ほど、と聞いた。
他に京都府にある関西館と上野公園にある子ども館あわせて4000万冊。

東京都内の大学で論文を書いた人の多くは一度ぐらい利用したことがあるかもしれない(特に人文社会系)ですね。
私は文献がほとんどない卒論だったから、神田をうろうろして終わりでしたが。

こんなローカル紙も保存されてました。


追悼 渡邊新二

2015年03月09日 20時29分27秒 | 今日の日記
別のところに書いた原稿がボツになったので、こちらに上げておきます。
知り合って3年半。その間何度会っただろうか。
決して長くもなければそんなに親しくもなかったはずなのに、彼がガンで亡くなったことを知ったとき、古くからの友人を喪ったような深い喪失感に襲われるのを止めることができなかった。

人にはそういう不思議な出会いがある。そんなことを教えてくれたのが、彼だったのだ。

以下、その原稿です。
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「日々の新聞」1月15日号で追悼記事が掲載された渡邊新二さんのことをもう少し書いておきたい。

 彼のお通夜に九州から弔辞が届いた。そこには、渡邊さん自身が死の直前であるにもかかわらず、遠くにいる友人を気遣い、自分の病状を伝えるかどうか逡巡しつつもついに言葉にしないまま終わった、というエピソードが綴られていた。細やかな感性・感情を持ち、同時に理性的に振る舞おうと努めるその姿勢は、ワーグナーを聴きながら穏やかに最期を迎えたという追悼記事にも重なるものだった。

 私がどうしてもそこに付け加えておきたいのは、渡邊さんの「直観」についてである。

 17世紀の哲学者スピノザは、人間の認識を3つに分けて論じている。まず感情による第一種認識を挙げ、これは概ね偏見を招くと述べる。次に理性に基づく第二種認識があるといい、当然感情よりこ理性の方を重視する。だが注目すべきは、理性が一番ではなく、その先に第三種認識として「直観」を挙げている点だ。それは第一印象に依る直感とは違う。自然の摂理と響き合って全てを一挙に的確に捉え、それを自ら至福として楽しむことのできる認識こそが「直観」だとスピノザはいう。

 仕事でお世話になって以来時々お会いする機会があったのだが、渡邊さんはいつも楽しげに政治・経済・文学・科学などの話題を縦横無尽に語り、倦むことがなかった。シャイで小さめな声とはうらはらの、美しい音楽にも似た明晰な言説を聞くたび「これがスピノザの『直観』か」と私は一人で納得していた。

 できれば一度スピノザについてゆっくり話がしたかった。彼の知性から溢れ出てくるクリアな観念の連鎖は、「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である」というスピノザの主著『エチカ』の結語を彷彿とさせる。そこには何者にも隷属しない精神の自由が確かに存在していた。ご冥福をお祈りしつつ、彼の「精神」は「永遠の相の下で」常に私たちと共にあることを心に刻んでおかねばならない。

 そんな風に思った。

 最後に彼と話をしたのは、去年の初夏のころだっただろうか。
私の家族にガンが見つかって、セカンドオピニオンの取り方や、今後のこと、がんセンターについて、などを新二さんに教えてもらった。
 ガンに関するアメリカの最新論文などにも目を通し、柏のがんセンターに通いつつ、その治療の詳細や治験薬についても相当調べて詳しく知っている様子だった。そのときはやはり二時間ほどしゃべっただろうか。淡々と、しかし淀みなく途切れずに圧倒的な知識が溢れてくる、穏やかな話しぶりは変わりがなかった。

「新しい世代の治療薬は、根絶するというより、押さえながら生活の質を高めるという性質だね。ただ、いつまでも効いているというわけでもないんだよ。あるときに効かなくなると、爆発的に増殖することもある。だから、そうなるとそこでまた別の薬を考えなければならないのかな……。色つやがいい?そう、消化器系じゃなければガンもそんなにやせたりしないんだよね。」

 最後の会話の内容が、病気のことだったのが残念だ。もっといろいろな話題を聞いてみたかった。
 第一、彼の人生がどれほど波乱に満ちたものだったのか、まだアメリカ留学でMBAを取得し、ドイツの大学で政治学を学びつつフランスにも「留学」したところまでしか聞いていない。

 葬儀の夜、地元のバイウィークリー紙「日々の新聞」に渡邊新二追悼記事が掲載され、それがテーブルに置かれてあった。

その記事はこちら「鎮魂歌(レクイエム)」。

帰国してから司法書士の資格をとり、市議になってから県議に挑戦した、そのあたりのことを聞けなかったのも心残りだ。政治を語るときのさりげない語り口と、それでも生き生きした雰囲気が彼の「力能(りきのう)」をもっともよく示していたと感じられただけに。

病室でワーグナーを大音量でかけて、周りの人がちょっと困った、という話も聞いたが、彼らしい話だ。

 きっと、「普通の人」からみたら「頭の良い変な人」だったのかもしれない、と思う。彼ほどの頭脳はあいにく持ち合わせていないが、他人事には思えないところがある。これからも

「彼ならこの事象をどう考えるのかな」

とつい思い浮かべてしまう、そんな種類の人だ。

もっと早く会いたかった。
もっと話をしたかった。

大切な人のことは、誰でもそう思うのかもしれないけれど、特別な意味を持つ友人であり先輩だった。
新二さんは別にそんなことを意に介さないのかもしれないけれど。