龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

藤高和輝の『ジュディス・バトラー』

2022年10月24日 07時00分00秒 | 本を読む
中断していた藤高和輝の『ジュディス・バトラー』、再開。
どーでもいいことだが、順番が逆だなあ、と思った。

子どもの頃、脱性的というか、性的な振る舞いが理解不能だった私は、むしろナルシシズムの代替(異性の代替としてではない)として同性が好きだったという面もあるかもしれないという思いはあった。
それがもう一度反転して、男性性を疑問に付す、もしくは嫌う女性を二度反転したナルシシズムとして愛するようになったのかもしれない。
(まあそんなどうでもいい自己分析はおくとして)

ジュディス・バトラーとは受容の順番が逆だなあ、とかんじた。

そこが興味深い。

スピノザ→ポール・ド・マン→へーゲル

という否定的であれ肯定的であれ受容の系譜は、自分が歩んできた「脱性的(脱ジェンダー的というべき?)」(イメージですが)であることを基本とした道行きとは逆だった。

マルクス→ポスト構造主義→精神分析→スピノザ
だから。
時代の流行りに流されただけ、ともいえるかな(笑)

しかし、読者の私とは本当にかなり異なった地平を歩んでいるバトラーなのに、藤高バトラーの記述はメッチャメチャ腑に落ちる。胸キュンになる。

これを読むとスピノザの持つ非社会性の手触りのことが、よくわかる。
承認をめぐるへーゲル受容の経緯もぐっと迫ってくる。
スピノザの自殺理解の圧倒的な「浅さ」の説明は、赤ベコ状態。クビが折れるほど頷ける(笑)

スピノザはむしろそーゆーことは神様に丸めたんだよね。
だから『国家論』なんかでも、「社会」という外的なものを操作的にしか記述していない。

民主制についても書いてるのに『君主論』ばかりが有名になったマキャベリにも他人のそら似的にちょっと似ているかもね(スピノザは、民主制について書こうとする前に死んだんだけど、それも必然か)。

オレにとってはスピノザは収斂する虚の焦点みたいなところがあるかもしれない、なんてこともわかってくる。
エチカでいえば多分バトラーが引きつけられた第三章の感情論とかの生き方のところよりも、神の存在証明みたいな荒唐無稽な荒技の第一章とか、光に比される第三の理性の速度の第五章に惹かれるみたいなところもおもしろい。


最高に一点だけ。
注意すべきことがあるとすればただ一点、この藤高バトラーは余りに分かり易すぎる。
この本をよんでいても、ジュディス・バトラーが一筋縄ではいかない面を持っていることは分かる。
もちろんそのバトラーをこれだけクリアに教えてもらえるのは本当に希有のことだ。有り難い。だが。
この藤高バトラーで「分かった」ことは、このクリアなにに切断面による入門でしかないということもまた確かだろう。
私はおそらくその先に足を踏み入れることはないと思う。
ただ、改めてスピノザを読みたくなった。そこかーい、と言われそうだが(笑)


まあしかしとにかく、午後は熟読玩味!

『スピノザ 読む人の肖像』國分功一郎

2022年10月22日 12時41分05秒 | 本を読む
ゲット。
これから読む。
國分さんが博士論文『スピノザの方法』を書いたときから「読む人」としてのスピノザを意識していた、とあとがきで触れている。
私にとって、個人的な意味でこのあとがきの言葉の意味は大きい。
『スピノザの方法』の刊行記念トークが行われたのが2011年、震災の直前だったと記憶している。あれから10年。

國分さんがこの本を完成されるまでの10年間について、感慨深く書いているその同じ時間、私もまた極めて個人的に、ひとりの読者として、この本を待ちこがれていた。

それとこれとは特に関係ない話と言えば関係ない話だ。

震災後の福島にとってスピノザのどこが関係あるのか、といえばまあそれほど。

少なくても「社会」の中で起こっている出来事それ自体とは直接関わりはない。

極めて個人的に自分自身の中で関係づけられているだけだ、ともいえる。

それでも。

自分にとっては50才近くになって初めて出会ったスピノザを國分さんの手ほどきによって読み得るようになったことは、物事を一から考えようとするときに大きな意義があった。

自分の思考がどこかで繰り返し惹かれていくのに、読めないテキスト。
スピノザの本との付き合い方はそんな感じだった。

端的にスピノザが読めないのに気になるという状態だった自分が、ジル・ドゥルーズのスピノザ(平凡社文庫)と國分さんのスピノザに出会ったことは(そしてその直後に東日本大震災と核災害に直面したことも)大きな意味があった、と改めて思う。

スピノザの著作は、超空中戦みたいなもので、それだけ読んでも歯が立たない。

自分は別に学問的なスピノザ読解がしたいわけではなく、そんな能力も意図もない。

自分の「思考の癖」が、気づくとスピノザを求めている、そんな感じなのだ。

藤高和輝の『ジュディス・バトラー』を読んでいて、惹かれたのもそこだ。

バトラーのスピノザ理解のことなどまったくわからない。

ただ自分の「思考の癖」が、読めもしなないのにスピノザのテキストを求めている、そういう傾向性を藤高バトラーの中に映してみているだけのことなのだろう。だが、ひとりの哲学者を読み続けることは、地べたから物事を考え直す時には役に立つ力を与えてくれる、ということも分かってきた。

これから帰宅してこの本を読む。

10年間國分ウォッチャーをし、15年ぐらいスピノザのテキストを握りしめてきたからには、書いてあることの意味ぐらいは概ね分かるだろうと思う。

『スピノザの方法』
朝日カルチャーの通年講座
100分de名著のテキスト
『はじめてのスピノザ』(講談社現代新書)
とフォローしてきて、ようやく到達した『エチカ』論。
有り難い限りだ。

ゆっくり味わいながら読みたい。

読書会という幸福

2022年10月21日 21時21分52秒 | 本を読む

思えば、何十年も読書会をやってきた。単発のこともあるし、20年近く続いた会もあるが、間違いなく読書会が今の私を育ててくれた。
国語教師として、頭の中に複数の「声」を持っていることは必須条件だ。
そのポリフォニックな「声」たちは、まちがいなく読書会によってしか出会えなかった。

ある時期には私がそうしていることを知らずに「今時読書会なんて妙ちきりんなともをやってる人がいるのね」と知人が嘲笑しているのにであったこともある。
自分でも、酔狂な話だと思わなかったわけでもない。
だが、ただ読書するだけでは「対話」として十分ではない。
複数の読みがあり、それは説得されるべきものではない、響きあうものなのだ、ということを知るために、読書会というツールはなかなかに得難いものだと改めて思う。

そこにテキストがあることの意味を感じる。まことにテキストは、閉じつつ、かつ開かれ続けているものなのだ。
今もたった3人で毎月読み書きをしている。

「2人ではいけない。でも3人いれば読書会は続けられるよ」
今は亡き師匠が、22才の私に言ってくれた言葉が思い出される。

『地球の歩き方 日本編』を購入した。

2022年10月20日 01時58分37秒 | メディア日記
定年退職したら、ゆっくり旅行でもしたい……勤め人なら、大抵一度はそんなことを考えるのじゃなかろうか。

ご多分に漏れず、私もそんな夢想に耽っている。いや、定年は数年前に迎えているのだが、今日びは退職しても、まだ年金が出ない無職状態だから、仕事もある程度しなければならないということもあり、現実には旅行三昧というわけにはいかずにいる。

さらにコロナ禍もあって、なんだか旅行も自由にしにくい時期が続いていた。

そんな中、この本
『地球歩き方 日本2023-2024』
発売された。
これ一冊あれば、ページをめくって妄想するだけでもご飯が47都道府県分食べられそうだ。

そうだ、来年は仕事を完全リタイアして、これ一冊を手に持って、ふらりと日本中(別に一周じゃなくてもよい。好きなところに長逗留してもよいし、何遍回ったところでお咎めもない)経巡ってみようか、と思わせるのに十分なインパクトのある本である。

来年度は旅にでるぞ!

頁を捲りつつ想像するだけでも楽しいし、実際に行けそうな気もしてくる。
片手で持つのもたいへんなぐらい重いペーパーバックの一冊だが、かなりのお薦めです。

J3第28節 ガイナーレ鳥取×いわきFCの試合のこと

2022年10月19日 19時27分23秒 | いわきFC

J3第28節 ガイナーレ鳥取×いわきFCの試合のこと

前半は、鳥取も非常にしっかりした守備をして、0-0で終えている。実際、タイミングのよいシュートまでつながることが何度もあった。

だが、後半に40点以上Goalを得ているいわきFCがは後半の立ち上がりすぐに11有田が、19岩渕のシュートがこぼれたところを押し込み、続いて谷村がキレイに右隅に流し込んで2点。コーナーからのヘディングで鳥取が一点返すと、日高の左からのクロスを、ファーに詰めていた11有田がトラップして鮮やかに決めきった。

ファンならずともいわきFCの後半の強さをしみじみと感じさせる試合になった。

特に11有田は、必ずゴール前の要所に顔を出してきて決めてくれる、頼もしいFWに成長してくれた。
思えば、終了間際に出場すると、ファーストタッチでゴールするという切れ味を見せてくれたところから、どんどん自信をつけて、次節(29節終了時)でも得点を重ね、J3の今シーズントップの14得点を上げることになる。

今のいわきは強い。J2ライセンスが取れれば、本当にJ3を今年の一シーズンだけで終えてしまいそうだ。
この圧倒的なフィジカルに支えられた速度とそして厚みのある攻撃と守備が、J2でいったいどこまで通用するのか、想像するだけでわくわくしてくる。
単に昇格が目標、ということではなく、その次の活躍を待望したい、そんなところにまでファンを連れて行ってくれることに感謝、である。


いわきFCの強さの秘密、について。

2022年10月10日 13時44分43秒 | いわきFC
「ハイライトからいわきFCのサッカーを深堀りしよう」という動画が興味深かった。
前後のラインをせまくするというのは理解していたが、左右にも圧縮してサイドから出るボールを取りに行く高度なシステムの存在を指摘。
勉強になります。
ああ、そうか、サイドにボールを寄せさせて、自分たちの人数が「多く」なるような仕組みがあるのね、ということを理解しました。

勉強になったのでメモ代わりに。
いわきFCに関心のある方はよろしかったらぜひご覧ください。

J3第25節今治-いわきFC戦より

もう一つ
J3第27節いわきFC-カマタマーレ讃岐ハイライト深堀り



J3第27節 いわきFC×カマタマーレ讃岐の試合(もしくはサッカーの強さとは)

2022年10月05日 12時02分16秒 | いわきFC

J3第27節いわきFC×カマタマーレ讃岐の試合(もしくはサッカーの強さとは)

結果は、いわきFCが4ー1で勝利して勝ち点60となり首位をキープ、カマタマーレ讃岐は20で17位となった。

だが、前半0-0で折り返したところまでは、首位と17位の試合とは思われないほど、讃岐は首位いわきFCを苦しめていた印象がある。

最終的にはいわきがシュート17、讃岐が7といわきが倍以上のシュートを放っているが、いわきは対松本山雅戦などでは23本を打ちながらスコアレスドローに終わっている。シュートが多いのはいわきの攻撃スタイルではあるけれど、だから強いというわけでもない。

むしろ、前半戦ではいわきは讃岐に苦しめられているという印象すらあった。

攻めているのに点数がとれないというのではなく、むしろ讃岐の攻撃を堪え忍んでいた感がある。少なくても、首位と17位のギャップはそこには全く見られない。

このまま先取点を取られてがっちり引かれたら、厳しいのではないか?

いわきFCファンとしてはそんな気持ちにさせるところもあった。

ところが、終わってみれば4ー1の圧勝である。なにか不思議な気持ちになっった。

終了間際、アディショナルタイムで見せた讃岐のシンプルなゴールシーンを見ると、「ああ、いわきFCが点数を取られるときの幾つかある典型的パターンの一つだよね」という思いを抱かされる。

シンプルに中央から左にボールを出し、それを前にもっていって、いわきの選手が戻って態勢を整える前に、クロスをペナルティエリア内に飛び込んできた選手が決める……。

いわきFCが、コンパクトに前から詰めて攻撃的に守備を行い、ボールを奪った瞬間にほぼ全員が前にダッシュ。ショートカウンターからゴール前に人数をかけて、多数のシュートを撃つというスタイルをとる以上、奪われたらダッシュで戻るという瞬間に、ゴール前、人数が戻る前にやられてしまえば、このパターンの失点の危険は常に伴うのだろうと素人ながら想像がつく。

 

それでも最多得点&最小失点をリーグで保っているということは、いわきFCが自分たちの戦い方をやりきって結果を出しているということなのだろう。

とはいえ、そうである限り、常に被弾とは紙一重の状態が続く。

動きが一瞬でも鈍くなれば、怒濤の攻めは、素早い反撃に前に綻びていくだろう。

 

だとすると、サッカーの強さって何なんだろう?

そういう思いがわき上がってくるのだ。

いわきFCは強い。首位をキープしているのだから強いに決まっている。

だが、いくら強いからといって90分ボールを支配し、圧倒的な点数をどんなチームに対してもゲットできる、というものではない。

もし仮に前半讃岐に1つゴールが生まれていたら?その後ガチガチに引かれて守りを徹底されたら?

いわきFCが勝てないということも十分に考えられたのではないか?

そんな気持ちになる前半だった。

しかし、結果としては後半わずかな時間帯に怒濤のゴールラッシュでいわきQFCがあっという間に大勢を決してしまった。

いわきFCが90分間圧倒的な強さを示すことが不可能であるように、讃岐もあの前半のサッカーを後半45分続けることができなかったわけだ。

解説の人はよく「修正してくる」という言葉を使うように思う。

そういうこともあるのだろうが、細かい戦術の変化は素人の私にはわからない。

ただ、ここで前回触れた崩壊の「兆し」を予期する力のようなことが重要になるのかもしれない、と感じる。

漠然と守るのではない、自分のスタイルを持っていればそれが強みにもなるし、もちろん弱みというか限界も露出する。

だが、重要なのはその強みや弱みを消すことではないのだろうということ、といえばいいだろうか。

プラスマイナスあることは百も承知で、いわきFCはこのスタイルを1年間貫き通している。

敵は当然それに対応してくる。だが。

スタイルを貫くことで、崩壊の予期の範囲を限定できるという側面が間違いなくある。繰り返すが、基本的なサッカー選手としての能力のことはわからない。

だが、いわきFCが仮に強いのだとして、それが強いのだとしたならば自分たちのサッカーのスタイルを貫き通していること、が関わっているのではないか。だからこそ、崩壊の兆しを予期する瞳のフォーカスを洗練させていけるのではないか。

自分たちのスタイルを貫けるのは強いからだ。

という言い方ももちろん可能だろう。むしろそういうことなのかもしれない。

だが、自分たちであっても敵であっても、「崩壊」の「予期」を察知しそれを自分たちの「意味の網の目」に拾っていくのが強さだといえるのならば、いわきFCは強いサッカーをしはじめているのかもしれない、という気がしはじめている。

(この話、ぼんやりと続きます)

 

 

 


YouTubeに溢れる「キャンピングカーで日本一周」、の魅力と妄想について。

2022年10月01日 22時52分00秒 | キャンプ日記
去年の春仕事を完全リタイアしたのをいい機会として、国内外の旅行を楽しもうと考えていた。

ところがこのコロナ禍で海外旅行はとても敷居が高くなってしまった。
かといってまだ国内旅行も自粛モードが続き、不要不急の外出は避けて、なんていわれ続けていたあの頃……。

そこで御多分に漏れず流れ着いたのが「ソロキャン」だった。

始めた当初はクルマがセダンだったこともあって車中泊は厳しいこともあり、まずはキャンプ道具を一通り揃えて近場のキャンプ場で一泊、を始めたのが2021年の6月11日。

正確な時期がわかるのは、アマゾンとGoogleに記録が残っているからだ。
5月26日にはテントや焚き火台をAmazonで購入していて、6/11 はGoogleのクラウドにその焚き火台で初めて焼いた焼き芋の写真が上がっている。

そのため(だけではないが)車もセダンからSUVに変更した。その納車が6/13(日)。

ここから生活が大きく変化していくわけだ。

2021年6月11日からざっと15ヶ月。
ソロとグループ、併せて30泊以上はした勘定になる。

この年の秋に奈良へ行ったときには、もう、車中泊とキャンプを旅程にいれて楽しんでいる。

そうやって約一年、手軽にキャンプ場のフリーサイトを使ったお泊まりをやってきて、一つの分岐点にさしかかってきているような感じがする。

一つはもっと「旅」の方向にカジを切ろうという欲望、もう一つはキャンプ場を選んでより自然に近い(とはいっても野営サバイバルほどではなく)キャンプを楽しみたいという方向性だ。

そうなってくると、これはもうYouTubeの出番である。

ディープなソロの野営動画もいっぱいあるし、他方でキャンピングカーの紹介動画も本当にたくさん流れてくる。

基本的にはまったり系の何も面倒で大変なことはしないなんちゃってのだらだらキャンプなので、野営の方は憧れるけれど今のところなかなか見ているだけである。

それに対して、キャンピングカーの場合は、基本的に数百万円の出費をすれば手に入る「夢」という性質がある。

かつて日本人が持ち家願望を強く持っていた時期があった。
今は大手メーカーの高級な家を建てられるのは、夫婦二人が大手か公務員などの正規の採用者である場合に限られている。
もしくは親が土地を与えてくれるとか。

映画『ノマドランド』ではないが、アメリカならずともキャンピングカーぐらいならば「家」がもてる、というリアルが地平が広がりつつあるのかも?とか思ってしまう。

だいたい日本の家は高いし、その割に直ぐに資産価値が下がってしまう。
それに対して今は、キャンピングカーの資産価値は次第にむしろ上がりつつあるとすらいえるかもしれない……そこまでは言い過ぎか(笑)。

ともあれ、検索すると、ソロであるいはカップルで(子ども連れは学校があるから難しい)
「このキャンピングカーを購入して、これから日本一周はじめまーす!」
という動画がふんだんに出てくる。
テレビの番組でも、キャンプのニュース→(からの)→夫婦でもしくはリタイアソロで北海道を回るとか日本を一周する、とかいう話が流れてくる。

マイルドヤンキーの友人バーベキューとは別のレイヤーの、狭い半径で幸せになる「仕掛け」なのだろうか。

いや、他人ごとではない。
私自身がこれからそこに参入しようか、とウズウズし始めているのだから(苦笑)

新車のキャンピングカーを購入しようとすると、一年半待ちとか二年待ちとかいわれたりもすると聞く。
早くても納車まで数ヶ月はかかる。
そこで中古の市場が賑わっているらしい。

普通の車でもそうなってきている、というと、一部のお年寄りは日本人が貧乏になったからだ、といいたくなるのかもしれないね。
でも、自分の身の回りの半径数メートルの身近な環境を整えて幸せに生きようとするのは、単に貧乏くさいだけではなく、ある種の成熟という側面もあるのでは?とも、思うようになった。

自分が年金生活者になったからだ、といわれてしまうだろうか。
でも、別に新車でクルマを買わなくても、選び方や使い方で楽しくできる。高いホテルや宿に泊まらなくても、旅の質、満足度、はいくらでも上げられる。

キャンプ日記をつけようとして一年間書かずに来てしまったのだが、これから少しそんなことどもを考えてみたい。

まずはYouTubeの
「キャンピングカーで日本一周をめざすカップル」
動画のことを少し考えてみようと思う。
(この項続く……はず)