龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

鷲田清一『現象学の視線』を読む

2020年01月31日 16時09分08秒 | 大震災の中で
鷲田清一の文章はここのところ入試頻出だから、高校国語教師という商売柄、この書き手の「ファッションに」ついてとか「顔」について、「福祉」「医療」「臨床哲学(哲カフェなど)といった応用論についてはたくさん読んできた。

図書館にこの文庫があったのでたまたま拾ってきたら、何と先々週読みさしで図書館に返却したウィリアムス・ジェイムズ論が載っているではないか。

鷲田せんせの考え方なら馴染んでいる。その「視線」に支援されればジェイムズももう少し読めるかもしれない。ウロウロしていると出会いがあるものだ。

読み切れなかった図書館のW.ジェイムズの宗教論(岩波文庫)はいずれ買って手元に置こうと思っている。その助けにもなる一冊。

それと、「現象学」についてもう一度おさらいしたくなった、という事情もある。

カノユウメイナ(^_^)『自閉症の現象学』を書いた村上靖彦せんせいが、それを書いた後すぐに「転向声明」を出したという旨の話を対談(『精神看護』2020 年一月号)で読んで、さらに別の哲学している友人宅からも福田定良がらみで「現象学」ってね……という話を聞いていて気になっていた、というのもある。
「現象学」についての自分の感触を確かめておきたい、ということかな。

これから読み始めます。
ああ、山内志朗と並行読みになっちゃうー(笑)

「南アルプス子どもの村」に行ってきた。

2020年01月30日 21時17分13秒 | 教育
2020年1月25日(土)
甲府盆地の西側、南アルプス市にある「南アルプス子どもの村」を見学してきた。
実際は前川喜平(元文科省事務次官)の講演を聴くのが主だったけれど、その前にゆっくり学校見学できたのも面白かった。

「南アルプス子どもの村」とは、
和歌山に1992年開校した「木の国子どもの村」の姉妹校で、イギリスのニイルという人がサマーヒルズという学校で実践した「自由な教育」を日本でもやろう、ということで始めたそうだ。
ここではカリキュラムの半ば以上を「プロジェクト学習」に充てて、縦割りの教科ではなく、横割りの学年でもなく、プロジェクトチームを学年の枠を超えて作り、自分たちで演劇や本作りや料理や木工、土木、園芸、農作業等々、様々な共同作業を通して学習していく、日本では数少ない「自由な」学園。

そこで文科省の元官僚、しかも前川喜平さんが講演するのだからギャップ萌えして当然だ。

ニイルの教育はここでとても説明しきれないけれど、サマーヒルズでも子どもの村でも、子どもの「自由」を尊重するためにはむしろ大人(主として良心になる)の方に覚悟が必要になるとの指摘もあり、それに納得。
当然ながら寮生活の子どもも多く、年長組から新一年になるときに入学してかれ基本9年間、ずっと内在的な知的好奇心を伸ばしつつ協同しながらプロジェクトを経験していくと、日本の普通の両親にはついていけないほどの「自由な人間」に育つのではないかな。
子どもたちが転校したくなくなるっていう話もネットにあったけれど、そうだろうな、と思う。オレはこういう学校で子ども時代を過ごしたかった、とシミジミ思う。

元々はイギリスの上流階級だけではなく、中産階級にも「自由な教育」を、ということだったのかもしれない。
窒息しそうな日本の公教育にとって、たんなるアンチテーゼに止まらない実践だなあ、としみじみ。

肝心の、、というか前川喜平さんの話はなんと2時間半を超え、近代の学校教育150年の歴史をおさらいする大講演になったが、お話しがメチャメチャ愉しいのであっという間だった。

ざっくり話すと、
最初大正期に自由な新しい教育が生まれ、戦後にもまた新しい自由な教育の波が起こった。
しかし、昭和33年(1958年)以降、道徳の教育化や指導要領の法令化以来、自由が失われていく、というのがポイントの一点。

その後中曽根康弘の「戦後政治の総決算」から教育基本法改正からの憲法改正という形で、なくなったはずの「国體」の亡霊が跳梁跋扈し始めるが、まず人がいて国があるという「人権」「国民主権」の考え方からすれば、某日本会議の人がいう「国柄」(戦前の「国體」の言い換え)など、話のほかだ。教育勅語は国会で正式に排除されているし、現場における障害者の性教育の実践に議員と都教育委員会がいちゃもんをつけた七生事件では、高等裁判所で、教育基本法における「不当な支配」とはこの議員の行為を指す、と判例にも出ている、という教育の自立・自由の話がポイントの二点目。

つまり、政治と行政の側からの「自由」についての課題を話することで、その対極に「子どもの村」の実践が位置付けられるという内容になっていた。 

前半は教員免許状更新の時に学校教育史の講座で聞いた話だったが、後半は生々しい官僚と政治家の緊張関係が伝わってきて、とても興味深かった。

「子どもの村」の実践も、前川喜平さんの話も、どちらもとてもじゃないが簡単ににまとめられる話ではない。
宿題を沢山もらって帰ってきた。

教育における「自由」って……。

あと一つ印象的だったのは、ここの先生方がとっても生き生きした表情をしていたという「事実」。
一方で給料は他より低くせざるを得ない、と校長の堀先生は言っていた。プロジェクト授業のためには子ども15人に1人教員が必要だから、とのこと。
ここは難しいところだけれど、お金(だけ)じゃないよな、とつくづく思う。とくに教育は。
お金はもちろん必要だけれど、ある程度あればいい。自由を失って、対話もできない状態のお金は、むしろ毒だ。

じゃあ、一体どんなバランスならいいのか?

そういえば、「子どもの村」では、子どもたち自身がお金を稼ぐシステムも(それが主じゃないけれど)学んでいた。

お金の話も、これから教育はしてかなきゃならないんだろうとおもう。でも、予算があればあるほどいいってもんでもないよね。「自由」を学ばせるということは、堀校長先生の言を借りれば「超自我」を作り直す(設定し直すだったか?)ということにもなる。
内在的な求め、知的好奇心と、社会との出会いをどう組織していくのか。

ぐるぐる考えながら帰ってきた。



映画『男はつらいよ お帰り 寅さん』

2020年01月30日 14時19分07秒 | メディア日記

母親をエスコートして、イオンシネマに行ってきた。

観たのは『男はつらいよ お帰り 寅さん』


寅さんシリーズを観たことがない人には不要の懐旧映画。でも、一度でも寅さんを観たことがあれば、十分楽しめる仕上がりになっていたと思う。

なにせ劇場で寅さんを一度もみたことがないどちらかといえばアンチ寅次郎だった私でさえ、懐かしく堪能したのだから、一度でも(TVででも)観たことがある人は、映画館に足を運んでゆっくりご覧になるといい映画だと思う。なにせ名場面集よろしく、渥美清が登場人物の回想で出まくっているし、寅次郎のマドンナはおそらく(分かんないけど)ほぼ全員顔見せしてるんじゃないか。
どうしても観る気が起きなかった寅さんシリーズも、この一作なら観ておいてもいいと感じる。
歴代マドンナの中でどの女優が好きだったか、なんて考えるだけでも楽しい。

いや私は断然池脇千鶴ですが(八千草薫を除いて、ね)。

TVの名場面集で十分じゃないか、という方もいらっしゃることでしょう。
八割方はその通りかもしれません。でも、映画館の暗闇で二時間を奪われながら懐旧に浸るってのは、お茶の間のテレビではなかなか難しいことです。

60才以上のシニアの方は割引もありますし、ぜひ。別にたいしたことは起こらないのがおそらく寅さんシリーズの大切なことなのだとすれば、さしたる盛り上がりもないこの感じもまた、いいんじゃないかな。
87歳の母親も、それなりに満足していたみたいです。特に、オープニングの桑田佳祐の歌にいたく感動していましたよ。

「この人歌、うまいねえ」
といって(笑)。



旨かった!シャトー・ボーモン ボルドー オー・メドック クリュ ブルジョア

2020年01月29日 01時24分24秒 | 
プロの友人から薦められた3,000円クラスのワイン

シャトー・ボーモン ボルドー オー・メドック クリュ ブルジョア

が、(あくまで素人の私にとってなのだが)驚くほど旨かった。

ボルドーの中心地区にある典型的なスタイル、とのこと。

これならワインも素敵!
と思いつつ、3,180円のワインを1日や2日で飲んでしまったら、程なく夜逃げになってしまう。
記念日用ですかね。
でも、ほんと美味しい。

今観てきた『フォードvs.フェラーリ』

2020年01月28日 20時20分20秒 | メディア日記
レイトショー(シニアの方が安いけどね)を観に来た。
朝は観る気がしなかった
『フォードvs.フェラーリ』
だが、夕方お腹が一杯になったら観ても良いかな、という気になった。
福島県いわき市の小名浜ということろにある「焼き畑商業施設」の典型イオンの中に入っているシネコンの上映。
体の力を抜いてゆったり観てこよう(^_^)
感想は特にないと思う。楽しめれば。

はい、観てきました。
面白かった!
クルマ好きなら一刻も早く観て損のない作品。
これが作られて世界で受けるってことは、世の中にはこういうクソ(この当時のフォードの役員たち)なことが沢山あるってことなんだろうね。
しかし誰かが言ってたけどこの映画を作ることにOKを出したフォードには感謝。
フォードの伝説ではあるにしても、この場合フォードの役員たちは「悪役」だもんね。

ル・マンを走るフォードのドライバー、ケン・マイルズ役を演じた人(クリスチャン・ベイル)がとりわけかっこよかった。その奥さんも素敵な女優さん(カトリーナ・バルフ)だね。マット・デイモンももちろん上手いけど。

素敵なエンタテインメントだと思います。
気になるのは、マット・デイモンの演じたキャロル・シェルビーが最後に乗っていた緑色のクルマ、あれカッコ良かったんだけど、なんて言うクルマかなあ。
ブログ上のコラムには
「シェルビーが乗っていたコブラ427」
という指摘も見える。
あのミニチュア、ほしいなあ。



映画『ジョジョ・ラビット』を観る。

2020年01月28日 12時59分13秒 | メディア日記
映画好きの男性の友人に
『フォードvsフェラーリ』
を薦められたのだが、同じく映画好きの女性の友人に
『ジョジョ・ラビット』
を薦められ、どちらを観るか迷った挙げ句、今日は後者を選んだ。
朝起きたときから
「ちょっと死んでみても良いかな」
という低い「老(low)」な気分だったので、とてもじゃないけどフェラーリとフォードのレースを観にいく気になれなかったのだ。

『ジョジョ・ラビット』
は、とても小さくて可笑しい映画だった。
対戦末期のドイツを舞台とした映画なのにのっけからヒトラーユーゲント志望の少年が英語で喋っているのが面白い。
それだけで笑えてくる。
作品中、敵性外国人?のアメリカ人と話す場面があるのだが、当然のことながらアメリカ人の言葉の方が最初は訳が分からないものとして出てくる(あんまりしゃべらせていない)し(ソノアト英語シャベッテタトオモウケド)。
そして、ナチスの少年たちを鍛える合宿の指導をしているのが、どう考えてもアメリカ人の将校にしか見えないのが苦微笑を誘う。
映画の「小ささ」は、主人公が10歳ということもあるし、ユダヤ人の隠れるスペースが小さい(狭い)と言うこともあるし、当時のドイツでは心を小さいところにしまっておかねばならなかったということでもあるし。
主人公はアドルフ(妄想)が友人なのだが、その関係も面白い。

子どもの想像するヒトラー像、こんなものだったのかもしれない、と思わせる。ドイツ国内の青少年の大半をナチスの青少年
団として組織していったヒトラーユーゲントの(おそらく)悲劇的な現実を踏まえつつ、あくまで少年の瞳が捉えた世界という「コメディのフレーム」を失わないのが嬉しかった。小さい映画はこうであってほしい。

感想としては、あんなコンビ(コンビニ、ではない)の靴を買いたくなった。
そして、とりあえず明日までは生きてみても良い、と思うようになった。
暗闇で映画を観る功徳には、そういう「効果」もある。


流し読みしても意味がない山内志朗の本『新版 天使の記号学』岩波現代文庫

2020年01月27日 18時29分26秒 | メディア日記
言わずとしれた中世哲学研究者の山内志朗の本が岩波現代文庫で甦った。
自分では手に負えないのを知りつつ、平凡社文庫の『普遍論争』とか『存在の一義性について』とか、『誤読の哲学』とか、読めもしないのに読み続けている。
これもその一連の本の一つ。
ただ、ことしから無職なので、
図書館でこういう本と出会えるのはほんとうに有り難いことだ。天使と題名にあるが、例によって別に天使の話だけをするわけではないのだろう。
分からないところに連れて行かれる戸惑いと快感があるし、そこがただわからない場所というだけではないのがまた悩ましい。興味津々なのに分からなさがどんどん重層化していく愉悦すら感じる。
まあ、そういうことですね。
さて!気合いを入れて分からなさの「海」=「快」に浸ってきます。

C220d、長距離燃費のことなど。

2020年01月26日 19時01分03秒 | クルマ
2019年齢の9月に購入した
MercedesBenz C-class
のディーゼルセダンC220d
の近況報告。

現在の走行距離は16,800km。
納車時の走行距離は約3,000kmだったので、ざっと5ヶ月で14,000kmといったところ。
年間30,000キロを上回るペースだ。

この週末、
往路
いわきから常磐道→圏央道→中央道を経て甲府へ。

復路
甲府から中央道→圏央道→東北道にて福島市までいき、その後下道をいわきまで戻る

という行程900キロの行程のドライブをした。
結果は
平均燃費22.7kn/l
と、今までで最も高い数値だった。
圏央道が混雑していなかったのが良かったのだろう。
流れにのって80km制限のところはメーター表示で90km以内。
100km制限のところはそのまま100kmで、高速道路はほぼオートクルーズを作動させて走行した。

身体の、一泊二日900kmを走行したとはとても思えない疲労の軽さだった。この十数年、NCロードスター、レガシィ2.5、レヴォーグ1.6と乗り継いできたが、1日300kmを越える走行が続くと腰に負担のかかることが多かった。それに対し、C220dは腰が全く痺れないし痛くもならない。個人差はあるのだろうが、私にとって身体サポートのレベルはC220dの方が確実に上だと感じた。

けっきょく燃料代は4,500円ほど。

私のような長距離を車で移動したい者にとっては、最適の選択だったとつくづく思う。
新車のディーラー修理サポートついてきたので、車検までは修理もメンテナンスも基本は無料。それが走行距離無制限、というのもうれしい(ただし、メンテナンスの無料パックは70,000キロ程度までで打ち切りなので注意が必要)。

これだけ頼もしく走ってくれると、たとえ多少修理代がかさんでも、長く乗りたい、という愛着も湧いてくる。

甲府なので雪道も体験できるかな、と思ったが、道路は完全にドライだった。そのうち雪道も少し走ってみたいと思っている。


第14回エチカ福島を開催します。

2020年01月25日 10時24分21秒 | 大震災の中で
第14回エチカ福島
大西暢夫監督作品『水になった村』上映会、大西監督とのセッション。
3/14(土)13:30~
フォーラム福島にて。

前売り券1,100円はフォーラム福島にてお求めください。
詳細はフライヤーにて。

 徳山ダムに沈んだ故郷、そこに生きた人々の最後の姿を淡々ととらえた映画です。上映会には大西監督ご自身も来られます!
 佐藤弥右衛門氏をお招きして実施した第13回エチカ福島に引き続き、私たちが再び見出すべき「もう一つの生き方」を考えます。






第14回エチカ福島を開催します。

2020年01月25日 02時17分26秒 | メディア日記
日時:2020年3月14日(土)13:30~15:45
場所:フォーラム福島
内容:
大西暢夫監督作品『水になった村』の上映および監督を迎えてのアフタートーク

ダムによって村全体が水没することになったその村の人々が、水没する時まで村の営みを続けていく様子を、静かに描写していくドキュメンタリー映画です。
しかし、その静かな映画の中に、強くこちらに迫ってくるモノを感じ、私たちエチカ福島はぜひとも上映会を開催したいと考えるようになりました。
今回、福島の映画文化を支えるフォーラム福島さんのご協力をいただき、上映会&監督を迎えてのアフタートークが実現しました。
前売り券1,100円、当日券1,800円をフォーラム福島でお求めの上ご参加ください。




『西田哲学の基層 宗教的自覚の論理』小坂国継を読む。

2020年01月23日 18時16分08秒 | メディア日記
西田哲学とスピノザの対比が結構重要テーマになっているようなので借りてきた。
道元+鈴木大拙の読書からの繋がりでもある。

東西の「比較思想」ってのはちょっとなあ、とも思うけれど、お茶のみ話的に頭の良い人が楽しく付き合ってくれる感があって愉しい。
いや、書いておられる形は学問として大真面目に書いておられるのでしょうが、私らはその学問をentertainment的に読ませてもらうしか素養がないもので……(^_^)。

スピノザに「静」を、西田哲学に「動」を配置するところからもう「ウフフ」ってはなるけれど、それは逆に私(ブログ子)がスピノザを「一般的理解」とは別のところで読んでいる、ということでもあるかもしれないわけだし、、そう言う使い方もあるのだな、と分かるのも楽しい。それで西田哲学のしゅうへんもウロウロできたら十分だ。

永井均『新版 哲学の密かな闘い』を読了。

2020年01月23日 18時07分18秒 | メディア日記
永井均は『〈子ども〉のための哲学』以来、繰り返し読んできた著者だ。
同じことを繰り返している「ヘンな人」という印象がある。でも、独我論みたいなことを考えるときにはいつも永井均の文章を思い出してみる。
野矢茂樹の本もおもしろいし、説得されそうになるのだけれど、永井均の頑なにそこだけ(彼にとっては根本問題なのかな?)を追給し続けるその心意気というか、あられもなさにしまいには感動してしまうことになる。
何度目かの永井均だが、いよいよ今回は
「なんだ、読みやすいじゃないか!?」
というところまでたどり着いた。
考えてみればヴィトゲンシュタインを読み始めてから四十年、長い道のりだったと思う。

50歳直前にスピノザと出会って、それ以来少しご無沙汰していたが、ひさしぶりに「永井均」的ドライブを味わえた。
これは「永井均」の初心者にもお勧めかもしれない。
最後の野矢茂樹との論争のところことか、野矢の著作がどこかにいってしまっていてつきあわせられないのが残念。

文字通り表紙裏の惹句にもおるように「永井哲学ワールド」全開です。よろしかったらぜひ。
しかし、興味ない人にはほぼ無意味だと思いますが。

岩波文庫『ゲーデル 不完全性定理』を一応読了。

2020年01月23日 03時31分21秒 | メディア日記
頑張ってページを繰ったが、数式の部分はまあ分からない。

ただ、この本はゲーデルの不完全性定理が、ヒルベルトという数学者の業績というか仕事の上に出てきたものであり、そこで証明された不完全性は、昼ベルトの「数学論」というか数学的認識論にとってはある部分で致命的だったかもしれないけれど、それは「数学」がダメージを受けたみたいな話ではないよ、ということを教わった気がする(笑)。
むしろ、ヒルベルトという人がやろうとしたことは、その数学基礎論の完成みたいな本人の目標とは別のところで、「生産的」な意義をもっていた、というお話になる、らしい(笑)

「数学」
と一口で簡単に言い表すことのできる一つの「実体」があるわけではなく、むしろ数学者の様々な営為の「標準性」と「生産性」が「数学」の領域を実質的にこのあたり、と指し示しているような印象(読後感)を持った。

それって、「哲学」なんて抽象的なものはないし、「哲学」自体を誰かが完全に基礎づけることは不可能だけど、その営みや努力は新たな哲学を「生産」していくのかもしれない、みたいなことと他人のそら似ぐらいにはにているような気もした。

歴史って、人間がモノを考えるときには重要なんだな。たとえそれが数学のようなものであっても。
無論理解はしきっていないけれど、かなり勉強になりました。

岩波文庫『ゲーデル 不完全性定理』林晋/八杉満利子訳・解説

2020年01月22日 16時03分40秒 | メディア日記
あの熱狂はなんだったんだろう、とふと思う事柄は、年齢を経るに従って増えていく。
ゲーデルもアラン・ソーカルもそんなことを思わせる名前だ。

今回のこの本は、有名なゲーデルの不完全性定理について、ヒルベルトの数学論にたいする応答、と捉えてその数学史的な意義を捉え直してくれている一冊だ。
素人にとってはとても有り難い本だった。
私が若い頃、ゲーデルが話題になったことがあって、あの時の印象は、極めてざっくりと
「数学的には証明できないことがあるって証明されたんだって!?」
というものだった。

この本によれば、それは、実際には20世紀前半のヒルベルトという有名な(名前だけは聞いたことがある)数学者の数学論についての応答であって、だから
ゲーデルの「不完全性定理」は、数学的(数学ってどこにあるんだ?という問いは哲学ってどこにあるんだ?という問いと似てるね)不完全性定理(整数論)ではなく、ヒルベルトが数学を基礎づけようとした営みとしての数学論が不完全性だと証明したにすぎない……という、当たり前と言えば当たり前の話。

しかも、ゲーデルはヒルベルトの(数学を形式系としてとらえる)考え方自体の不可能性を証明したつもりはなかったのだとも。

改めて興味が湧いてきた。
数式を理解しようとは思わないけれど、証明と逆説(パラドックス)の関係には惹かれる。

図書館から本を借りると「出会い」が多くなって嬉しい限りだ。数学基礎論の話なんて買っては読まないもんねえ、なかなか。
かつてゲーデルの「不完全性定理」に興味のあった人には圧倒的にお勧めです。



『なめらかな世界と、その敵』は圧倒的な傑作短編集だ。

2020年01月22日 15時42分03秒 | メディア日記
今四編目に突入したところだかが、もはや私の上半期ベストに推していいのではないか、というほどの傑作短編集だ。
一編一編の面白さはもちろんだし、それは読めばほぼ必ず(SF好きなら)分かると思う。

すごいのはこの作者、伴名練が、SF的描写を私たち自身の生きる「環境世界」として描き切っていてしかもその中に、よりよく生きる私たち自身の生を泳がせていくその筆致だ。

SFなんだから現実世界と異なる設定があって!その中で生きる人間を描くのは当たり前だろう、と言われてしまうだろう。
それを承知で反論するなら、その反論は事実の指摘に過ぎない、言っておこう。
ここにあるのは生きられてしまっている私たち自身の経験が賭けられている、その「価値」がSFとして描かれているのだと。それは決してどんな新奇な設定があるのか!というだけの話ではない。
ハードSFにはかつてそういうモノがあった。また他方、設定は空想的だが人間的葛藤の描写はスゴい、という作品も多くある。

そうじゃなくてね。

(腰巻き惹句にもそれに近いコトバが書かれてあるが)SFへの愛が全編に満ち溢れているのだ。

ああ!そう言ってしまうとマニア的な道具立てへのフェティッシュな「愛」を想像されてしまうなあ。

SFはそれ自体が「経験」であり得るのだ、と、この短編集を読むと納得できる。

未読の方は直ちに本屋さんへ。