今、『スピノザの自然主義プログラム』
第6章まで読み進めてきて、「おおっ!」となっている。
「水平的因果と垂直的因果」
という枠組みに興味を惹かれると書いたが、次に、
本文P113~P114 スピノザのエチカ第3部の定理6と7あたりの説明で。
「事物が行為しようとする努力」
と
「事物が自己保存に固執する努力」
を同一のものとし、合わせてそれを
「現実的本質」
と呼び、それは「事物一般の『本質への注視』」における「本質」(いわゆる形相のようなものか?)とは区別されるべきと指摘している、というところに痺れた(笑)。
ここでいう「現実的本質」がコナトゥス(努力)であるということは、個別的本質はある種の「力」であるという了解に私たちを連れて行ってくれる可能性がある、ということでもある。
それは神様がある種の「本質」を持っていて、そのなにか「えらいもの」が個別的な存在に流出していき、何か神様の設計図か目的を持って粘土細工のように作っている、というそういう種類の「本質」を個別の事物が持たされているということではなく、あくまでも力のせめぎ合いというか固執が「現実的本質」だというのだから。
スピノザの合理主義の面倒なところは、一見<プラトン的な上から降ってくる「本質」で私たちが意思を奪われているみたいな話>でありながら、実はそれを根底からひっくり返していて、そこがハイパー合理主義というか、普通に考えているとたどり着けない思考のリミットを強要してくる点にあるといつも思うのだが、木島氏のこの本は、その辺りの複雑な事情をわかりやすく丁寧にステップを踏んで論証していってくれる。
木島泰三の描くスピノザがどこまで受け入れ可能なのか分からないが、かなり魅力的な提案であることは間違いない。
まだ読み進めていないが、この流れで行くと、思惟と延長という属性の難解さまで、たどり着いてくれそうな気が、する。
素人にとっても、いわゆる心身平行論のわかりやすい説明が期待できそうだ。
>この流れで行くと、思惟と延長という属性の難解さまで、たどり着いてくれそうな気が、する。
これはもともとの博論のテーマの一部だったのですが、字数の都合で削除したテーマです。幸いその後以下の6本の連続した論文として形にできています。あくまでもこの私の解釈なのですが、そういうものとしてお知らせしておきます。この連続論文は以前も一度紹介したはずですが、全6本で完結した段階で読んで頂ければ幸いです。
内容は、スピノザさえ読んでいれば、スピノザ以外の資料は、論考の中で与えた説明だけで十分であるように書いたつもりです。
http://doi.org/10.15002/00022414
http://doi.org/10.15002/00023464
http://doi.org/10.15002/00024071
http://doi.org/10.15002/00024745
http://doi.org/10.15002/00023064
http://doi.org/10.15002/00025584
返事が遅れてすみませんでした。
これから読みます。
そして反応が書ければ書きます!