龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

3/30(水)こんな夢を見た。

2011年03月31日 08時39分18秒 | 大震災の中で
街をひとりでさまよいあるきながら、お菓子とメモ帳、それにペンを探している。
街中のパサージュになっているショッピングモールを歩いている。
そこは二階建てになっているのだが、下に降りて外に出ようとすると、透明なガラスの天蓋に雨がポツポツと当たり始めているのが見える。
今雨に当たるわけには行かない。
この今の状況をメモしておかなければならないのだが、雨に閉じ込められてしまった。こうなったからには、今忘れてはならないことを、しっかりと記憶しておかなければ。

そのために部屋に人形を集めている。
記憶の外部化ということか。

しかし、月末には転勤でそこを引き払う必要が出できた。
送別会に出るのか、自分たちのプライベートな会合に出るのか、迷うところ。

部屋中に張り巡らされている細いロープに、自分の記憶を込めた荷物と、相手の荷物とを重ねて括り付けることが、今晩一緒に落ち合うシグナルになっている。
私は同僚の鈴木さんと落ち合うことにした。
皆で飲むより二人でこの最後の夜を過ごしたいのだ。
女の子と過ごしたいとは思わないようだ。

部屋を出て向かった日暮れのバスターミナルは、淋しい雰囲気だ。子供の頃住んでいた街に似ている。

あの、昼間メモ帳を探していたショッピングモールも、この町のどこかにあったのかもしれない。

しかし、今はバスに乗らなければ。

もうこの町でなすべきことは何も残っていないのだから。

気がつくと、前回は郊外の田んぼの中にある料亭の前座敷に家族が集まっていたのに、今回はその近くにある病院に入院する事になったらしい。
なぜ分かるかと言えば、空気の濃さ、濃度が同じなのだ。

今これを書いているこちら側の空気の濃さとは違う。異なった媒質で満たされた、固有の濃度が感じられる。

気がつくと病室で手術が始まろうとしている。
「心配はいりませんから」
と看護師に励まされ、腰椎に針を刺される。部分麻酔なのか、と一瞬思うが、

「大きく息を吸って」

と言われゆっくり息を吸うと、薄れていく意識の中で、こちら側の世界がぼんやりと見えてくるような気がする。

はっと気づくと手術はもう終わっていて、こちら側に戻って来た。
回診に来た医師から、大部分の臓器を摘出したからもう大丈夫だ、告げられる。
病名を尋ねると、多機能不全だという。

「でも、もうほとんど体の中が空っぽだから、心配は要らないよ」

そう言われて身体の中を触ると、確かに空洞になっている。だが、これで一体生きていけるのだろうか、と疑問に思ったところで、もう一度目が覚めた。



計画停電は結果か、それとも原因か

2011年03月28日 23時19分55秒 | 大震災の中で
 福島県が第一原子力発電所の事故による放射能飛散の不安におびえている時、首都圏では計画停電が進行中だ。

 福島第一原子力発電所が停止状態だから、電力不足で計画停電が始まったわけだけれど、もう少しさかのぼってみると、首都圏の電力需要が、耐用年数を超え、6メートル未満の津波しか想定していない福島第一原発の運用を継続させた、とは考えられないか。

40年前の「最新の知見」によって設計された、と東電によってコメントされている(毎日新聞による)福島第一原発は、より震源に近い東北電力の女川原発とは違って、冷却系が津波で作動不能状態に陥った。

ここには、その原発に加えられた有形無形の「市民」レベルの欲望が裏打ちされていると「読める」。

三陸の「文化」をバックに控えた東北電力の女川原発では、津波に対する意識が、作り手の側にも住民の側にも高かった。
それに対して、東京電力の福島第一原発では、三陸ほどの津波に対する「畏れ」が、市民の側にも、運営の側にも不足していたとは言えないか。

加えて、首都圏、そして経済界の欲望は、津波も地震も無いうちから、計画停電をすることを不可能にしていたのではないか。

福島原発の稼働停止とか本格的な改良工事は、東電のそろばんには乗らなかったのだろうし、それは日本国民が「選んだ」ものだったのではないか。東電だけに、この「欲望」を止める力は無かっただろう。
政府にもこれを止めることはできなかった。
市民もまた、この事態を暗黙の内に容認していた、とも言えまいか。

そんなことも、後付けの「知恵」に過ぎない、と言ってみることもできる。
しかし、女川原発は大丈夫で、福島原発はダメだった、とするなら、
「絶対的な想定外の自然の脅威」
といって済ませることはできまい。
仮に1000年に一度の災害でも、女川は大丈夫で、福島ではダメだったのだから。
その差異については、しっかりと考察していかねばならない。

福島原発10基の耐震安全性の総点検等を求める申し入れ

ここに、既に福島原発の危険性を東電に問いただす福島県議会議員の一部の申し入れ書がある。

結果としてこの「危惧」は無視され、そして現実のものとなった。

断っておくが、ここで私がいいたいのは、「ほーらね、やっぱり原発は危険だったでしょ」と誇らしげに自らの「正しさ」を言挙げするためでもないし、そういう輩を持ち上げるためでもない。

常識的に考えて、この事態は「想定外」ではなかっただろう、という推測に根拠があるものだということを指摘したいだけだ。

つまり、この事態が実は十分想定されつつも「想定外」とされてきたのではないか、という疑問を呈したいのだ。

そしてそれは、一見「結果」に見える計画停電が、実はその本当の原因だったのではないか、という疑問に繋がる。

経済界や首都圏の市民は、そんなことを望んではいなかった、それは東電の怠りだ、と言うのだろう。

福島県民もまた、こんなことが起こるなら、誰も原発など認めなかった、東電が安全だというから許容しただけだ、というのだろう。

そして東電側は、そろばんに乗らないリスクへの対応は、可能性は知っていても放置するしかなかった、というのだろうか。
それとも「想定外」と言い張って乗り切るのかなぁ。

当時の政府もまた、それを追認してきただけのことだ。

中国政府は、天安門事件における市民の弾圧を、必要なリスクとして処理した。
日本政府は、福島原発事故の結果を、日本経済に必要なリスクとして処理するのだろうか。
それとも、やはり政府もまた、「想定外」の自然災害の結果として、「無力な人間」の側に立とうとするのだろうか。

私が個人でここに推測を重ねて書き込み表現することの重みは、東電や政府と比すべくもないし、2007年の申立書を提出した議員団に比べても、ほとんど無意味なものかもしれない。

この事故が本当に「想定外の1000年に一度起こった自然災害の結果」だと信じる人々を日本人、と呼ぶのなら、私はその範疇に入りたくないし、他方、その危険に警鐘を鳴らし続け「だから言ったじゃないか」と「正しさ」をどこかで隠し持ってしまうような人々の仲間にもなりたくない。

私は、そこにある人間と自然の関係において何が起こっていたのか、が知りたいだけだ。

この国の言説における「欲望」は、「国難」に強い。おそらく、この「人為=自然」が起こした事象を、不可視の中心として、その裂け目に瞳を凝らさないためにさまざまな言説を競って立ち上げていくことだろう。

そうやって、自分たちの「日常」を再発見しようとする「欲望」が必ずしも指弾されるべきものとも思わない。
人間はそうやって生き延びていくものだろう。

ただ、そうで「も」ある自分を自覚しつつ、私はなおも「人間」という場所から身をズラし、「断片」としてむしろその裂け目、その傷に瞳を凝らし続けていたいと思う。

それもまた、「人間的理性」の「欲望」に過ぎないと言えばいえる。
けれども、その臨界面に瞳を凝らすか凝らさないか、に人間倫理の値打ちが賭けられている、とも思うのだ。

計画停電は結果か、それとも原因か。
答えはそう簡単には出せないのではないか。






3月27日(日)のこと<本を読むより現実を「読め」ということ>

2011年03月28日 20時30分46秒 | 大震災の中で
 ついに差し当たってやることが亡くなってしまった。
 普通の日曜日であるかのように(笑)ゆっくり起き出し、犬の散歩をしがてら郵便局に届いていた書留を取りに行く。
 
 帰ってきてブランチ。昨日焼きそびれたヒレ肉の残りを焼く。
 コンビニも開き始め、宅配便も営業所留めなら受け取れるようになってきた。

 しかし、考えてみたら3月になってからほとんど本を買っていないことに気づく。

 ふらりと本屋に顔を出し(というか本屋が開いている日常性にびっくりなのだが)、推理小説を2冊、言語学者の伝記らしきもの?を一冊購入。
『二流小説家』ディヴィッド・ゴードン ハヤカワポケットミステリ
『ことばの哲学』池内紀 青土社
『大絵画展』望月諒子 光文社

しかし、本を開かずに手にしたのはiPhone4のゲーム『イノティア戦記2』だった。

 本を読む気持ちになれない。

 この現実こそが、想像力で築き上げられたどこか遠い場所ででもあるかのような気がしてしまう。

 現実感がない、ということか。
 それとも圧倒的な現実性に打ちのめされているということか。

 今日も1000万倍の放射線量という話がテレビで報道され続けている。

 これはいろいろ本当にじっくり腰を据えて考えなければならない時期に来ている。

 この日々日記はこれで終了し、明日からは、「課題」ごとにじっくりと考えを深めていくことにしようと思う。



3月26日(土)<「断片化」という現実、「宙づり状態」という現状、そして「悲哀の仕事」

2011年03月27日 23時12分14秒 | 大震災の中で
母親が、お香典やお見舞いのお返し物を探したいというので、朝から父親が乗っていた軽自動車で市内を動く。
ハイオクが相変わらず入手できないので、自分の車は動かしにくい。

まず、看病中に調子の悪くなった補聴器をみてもらいに湯本へ。
しかし、水道が復旧していない温泉街はまだほとんどシャッターを降ろしたままだ。
幸い補聴器屋さんはお店を開けていた。
災害見舞いに電池を1ケース無料で頂戴する。
ありがたい。
ただ、修理には2週間ほどかかるという。
とりあえず応急処置をしてもらって、修理は後日に。

最近の補聴器は高性能で、外すとほとんどなにも聞こえない年寄りでも、これを入れていれば日常生活をほぼ普通に過ごすことができる。
お値段も数十万円と安くはないが。

平の市街地まで出てみるが、お茶屋さんもデパートのパイロットショップも再開していない。
ゴボウ、大根などを買っただけで用事はたせなかった。休日なのに、人通りもまばらだ。

ただ、駐車待ちしていた向かいの美容室は営業を再開していた。
少しずつ街も再起動しつつある、ということか。

これで原発事故がなければ、と、ついついそこに立ち戻り、暗い気持ちになってしまう。

福島第一原発の退避地域に隣接する市町村に共通する
「宙吊り」
の感覚だろう。

被災からの復興は、少しづつ先が見えてくれば頑張れる、ということもある。

こういうとき、先が見えないのがいちばん辛い。

正直なところ、冷静に今までの状況を(限られた情報ではあっても)分析すると、爆発によって大気中に大量の放射性物質が飛散する、という事態にならない限り、撤退を余儀なくされるという最悪の事態にはならないだろう、と考えてはいる。

福島県の公務員としてお給料をいただいている以上、残る市民がいて、そのサービスを続ける限りはとどまるのが当たり前だとも思う。

さほど悲観的になっているわけでもない。

しかし、この「宙吊り」の状態がずっと続いていくとなると、精神的エネルギーの次元では、いささか「消耗戦」の様相を呈してくる。

今回水が関東地方の広域に渡り水道水が基準値を超えたのは、大気中に飛散し、拡散した放射性物質が雨のために集中して降りてきたからだろう。

とすれば、壊滅的な大爆発が起こらなくても、冷却が十分に進まず、小規模な爆発が間欠的であるにせよ継続していけば、近隣の地域では水道水が飲みにくい状況が起こるのではないか、という不安は当分消えない。

つまりは、現実問題として水が長期にわたって飲めないとなると、いわき市を生活の根拠として継続的に生活することが困難になるのではないか、という危惧を抱え続けることになる。

帰りがけ、ソフトバンクに寄って、父親の携帯電話を止める。91歳の「おじいちゃん」ではあっても、社会的存在としてのつながりはいろいろあるものだが、これで一応一段落。

あとは「喪失」を軟着陸させて内面化する「悲哀の仕事」が始まるわけだ。

震災体験の中で生活の基盤・根拠が大きく揺らぎ、原発事故によって復興が心理的に「宙吊り」されたまま、近親者の「死」を内面化していくのは、これからけっこうシンドイのかもしれない。

子どもである私にとってもそうなのだから、母親の精神的負担は相当なものになろう。

地面の中に沈んでいくような感覚を、どうバランスを取りながらやり過ごすのか。

次の課題をさらに考える必要が出てきたようだ。





3月25日(金)のこと<人一人が死ぬための手続きは意外に多い>

2011年03月27日 22時36分33秒 | インポート
今日は朝から、さまざまな手続きをして回った。
警察に免許証を返納し、市役所に健康保険証と介護保険証を戻す。
郵便局に簡易生命保険の手続きをしに行くと、まだ地元の特定郵便局には現金が届いていないのだという。

気がついてみると、3月11日以降、郵便は2週間止まったままだ。

アマゾンも福島県は最後まで配達が止まったままだ。

そんなこんなで、死亡届&死亡診断書の写しを持って町中をぐるぐる回っている間に半日がすぎた。

葬儀はなし、お香典も花輪も受け取らず、家族で見送る、と決めてはいても、遠方の知人から郵便でお悔やみが送られてくる。そのお返しの買い物もしたいのだが、葬祭場も物流が止まっていてお茶も手に入らない。お店は開いていても商品券売場は閉まったまま。
母親ははやく返さないと、と気がせいているのだが、なかなか思うに任せない。

帰りがけ、スーパーに寄ったら国産の牛ヒレステーキ用肉がどっさり並んでいた。ちょっと豊かな気分になりたいと思い、4パックまとめ買いをする。

こういうとき、外食を億劫がりだしたオヤジに、旨い肉を買ってきて家で焼いて一緒に食べようと考えていたことを、ふと思い出す。

感傷的な気分に浸る、というのではない。むしろ断片化した感情が不意に意識の表面の割れ目から顔を出す、という方が正確だ。

結局、オヤジと外食したのは、ちょっといけるお蕎麦やさんで天せいろを食べたのが最後になった。
「また行こう」
と楽しみにしていたのに果たせなかった、と思うのは、後悔や思い残しとかいった大げさなものではなく、終わりが来るまでは「その先」があるようについ思ってしまうこころの「慣性」ゆえ、であろうか。

午後、家に戻ってから本を読もうとするが、テキストを開く気持ちになれない。
後でこの日々を思い出す手がかりにしようとしてかろうじてこのブログを書き続けるのが精一杯だ。

家の仕事ばかりしている2週間なのだが、思いの外余裕はないのかもしれない。
睡眠もなかなか連続して取れない。
今日は久しぶりに昼寝をし、夕食を初めて家族に任せた。

家事の中では食事作りが一番得意なので、今日まではずっと夕食係をしていたのだが、ようやく緊張がほぐれてきた、ということか。

これから始まり、しばらくは続いていくである「鬱」の時期をどう切り抜けるか、がたぶん個人的な主題になるのだろうと予想。

原発事故の影響で宙づりされている中で、家族を失った服喪の時期を過ごすのは、意外にしんどくなるのかもしれない。

どうなることやら。

私としてはあり得ないことなのだが、本が手につかないので、以前downloadして手も触れなかったiPhoneのゲーム「イノティア戦記2」を取り出して始める。
つかの間の逃避行為として時間を文字通り「潰す」のには、ゲームはもってこいのエンタテインメントだ。

だいたい世界が崩壊の危機に瀕していて、それを救うために無力な主人公が成長しつつ悪と戦うのがRPGの王道。
ゲームの設定などどうでもいいっちゃどうでもいいのだが、お使いワンちゃんのように依頼を機械的にこなしながら敵をひたすらザクザク切っていくこういうアクションRPGは、無為な時間を生成し、生の時間を「潰す」ために(私にとっては)最適のアイテムである。
いったんキャラを19レベルまで育てるが、うまく進めなくなったので、もう一度別キャラでやり直しているうちに深夜のいなった。
こういうゲームは、一度失敗したら、もう一度最初からやりなおせるのもいい。
格好の逃避=癒し=自堕落(笑)の夜であった。


3月24日(木)のこと<昼酒&昼寝>

2011年03月25日 22時19分14秒 | インポート
この日は、朝からガソリンスタンドを巡ってハイオクを探すが、レギュラーしか入ってきていないという。
市の窓口でも把握できていない。

仕方がないから地元のスーパーチェーン店「マルト」を覗いてみる。

このスーパーは震災直後から限定的ながら営業を再開していて、今日は入場制限もなく、商品も野菜類、果物、魚(冷凍ものあるいは解凍が中心だけれど)&肉、そしてお菓子類まで含めて意外に豊富だった。

某IY系県内スーパーがまだ一度も開いていないのとは対照的で、日々地元民の生活をきちんと支えてくれている。

この恩は忘れないよ!

なんと私の一番好きな朝日山純米酒までが入荷していた。

四合瓶を2本買って帰り、午後から母と二人で飲み始める。

昼間から酒を飲み、死んだ親父の思い出話をする、なんて、ちょっと前までは考えていなかった。しみじみ飲んでいたら、溜まっていた疲れが出たのか、昼寝をしてしまう。

昼酒&昼寝。

こんなんで故人を偲ぶことになっているのかどうか。
まあしかし、この三週間、あまりに沢山のことがありすぎた。少し休んだほうがいいのかもしれない。

一方、市内の5割はまだ断水。復旧した水道水も、汚染によって乳児の飲用が禁止になっている。息子二人は今日、ヨウ素剤を市役所に取りに行った。

静かに酒盛りをしている家の外側ではまだまだ震災と原発事故の影響が続いているのだ。



3月23日(水)<日常の中の「悲しみ」と飲料水の放射能汚染>

2011年03月25日 01時12分46秒 | 大震災の中で
 家族の一人が亡くなったからといって、24時間悲嘆に暮れているわけではない。
 分けても高齢で、入院もしていた家族の場合、そんなに意外な事件でもないし。
 ただ、悲しみは微細なところで、小さな波頭のように顔を出す。

 ふと声をかけようと自分の身体の無意識が亡くなった人を求めてしまったとき。
 湯飲み茶碗を一つ多く食卓に持ってきてしまったとき。
 居なくなった彼が残したものに、彼のこちらに対する思いや気遣いを発見したとき。

 センチメンタルな気分が、折々に顔を出す。

 それは決して良くない気持ちではない。悲哀の仕事をしていくプロセスでもあり、こちらの身体の中で人が生きている証し、でもある。

 落ち着いてからしばらくは、そういう小さな事柄と丁寧に付き合っていくこともまた、ストーリーには収まらない「生」の小さな(けれど大切な)側面の一つなのだろう。

 同時に気持ちをそこに残しすぎるわけにもいかない。

被災者の一人としては並んででもガソリンを入手しなければ職場にも行けないし、開店前のスーパーの入り口で待ち構え、数の限られたお一人様1パック限りの「卵」をゲットしなければ料理に支障が出る。
今日は午前中家族総出でガソリン入手の列に並び、午後は買い物と壊れた屋根にかけた応急処置のビニールシートの補修・補正(強風が吹くと素人仕事なのでずれてしまうのでした)を行った。

久しぶりにゲットした肉は鹿児島産の銘柄品の豚肉。
それをキャベツと炒めてショウガ焼きにして食べる。
付け合わせのポテトサラダも、久しぶりに日常の匂いのする食事で満足だった。

問題は庭のほうれん草。

世の中では福島県の野菜は出荷停止となっているが、洗えば問題はない、とのニュース報道。
小さい子どものいない家庭、なので、構わず大量に煮て、ごま和えで食べる。
取れたての野菜は甘くて旨い。
これで放射能の心配がなければまるで普通の生活が戻ってきたかのようである。

ただし、毎日並んでいるだけでは稼げない。
来週からは仕事に戻ってそちらの「復旧・復興」をやらねば。

屋根の瓦屋さんも避難していて見積もりさえしてもらえない状況が続いている。

隣接する北の地区ではまだ水も復旧していないと聞く。まして津波被害にあった小名浜などは、4月になっても水道の復旧など見通しが立たない、と市のホームページに書かれてあった。
叔父さんやおばさんがなくなった、という同僚もいる。命が助かったと、泣いて抱き合った親戚もいる。
避難所に10日ほどいたが、首都圏に脱出した、という人もいる。

相変わらずハイオクのガソリンは入手できない

首都圏で騒ぎになっている乳児の水道水摂取制限は、当然いわきでも行われている。
野菜の出荷停止もあり、水の汚染も拡大し、原発事故の冷却処理も、懸命の作業が続いているが、まだ予断を許さない。
60キロ離れた私の居住地域が圧倒的な汚染にさらされるリスクは必ずしも大きくはない、と冷静に判断する自分と、風評やそのリスクをどう自分の生活の中で評価するかによって、この地を去る人も少なくないだろう、とそれを不安に思う自分とが、同居している。

私個人はここに残って仕事をしていくつもりだし、老齢の母親も動くつもりはないらしい。
だが、果たして町が十分に機能を回復するのか。雇用はきちんと継続して、人が生活を営んでいける水準を維持できるのか?
不安は尽きない。
一時避難で済むかどうか、は単なる汚染の数値だけでは計れないものだ、とつくづく思う。

ただ、ガソリンを販売するGSは増えてきている。大手のスーパーより、地元のスーパーが頑張ってくれている。コンビニはまだ閉まったままだ。

全体像が見えないまま、日々の生活に追われるのは、考えてみれば震災前とそんなに変わらないのかもしれない。

ただ、安心してライフラインが整った中にいるのと、そういう安心の表皮が剥がされて、人間の営みでは対応しきれない「自然」の地肌が露呈しているのとの違いがあるだけだ。

その「自然」の「露呈」をどう受け止めるのか。
私にとっては興味の尽きない課題を与えられたような気がしているのだが。




3月22日(火)のこと<家族だけ、枕元で飲み明かす通夜>

2011年03月25日 00時47分27秒 | 大震災の中で
 家族だけで夜更かしをしながら酒盛りをした翌日、今度はまた家族の中の一人に読経してもらって、午後には大学病院が手配した車で献体を済ませた。

 自宅で遺体を寝かせ、その隣で酒盛りをするのは、自分たちの仲間である家族の一人との別れを惜しみ、一員であった証しを、残った家族の心の中で確かめ合うために、とてもよい時間だった。

 翌日、家族で読経したのは、今度は亡くなったものを彼岸に送り出す身振りとしてこれもまた適切だったと感じる。

 社会集団として、「死」を悼みかつその集団から適切に「向こう側」に送りだす手続きは、あまりにも「社会化」しすぎている。

 全ては企業の経済的活動に支えられ、そのベルトコンベアに乗る形で一切が進行していく。
 まあ、それも悪いことではなくて、効率的に事象が「処理」される意義はあるのだろう。

 でも、社会化も度が過ぎれば、流通する経済活動の範囲における多元化多様化はサービスとして進むのだろうけれど、それは逆に個人を「孤立化」させ、その「孤立化」を受け止めようとすると逆に「社会化」をさらに推し進めていくことになってしまうという逆説を生きることになっていくだろう。

 もっと、フラジャイルな、「あえか」な営みに対する視線が担保される時間や空間を、自分たちで立ち上げていけばいいのだな、と改めて思った。

 震災の中で、そんなこととは関わりなく病気と闘い、力尽きて寿命が尽きた父親だが、入院していた病院もスタッフの確保が原発不安とガソリン不足で困難となり、電力も水も医薬品も不十分で、病棟が縮小して退院していった患者さんもいた。
 幸いというか、父は退院せず、最後まで看取ってもらえたけれど、原発事故の退避区域ではなくても、現実には人が避難していってしまって全てが回らなくなる、ということはある。

それは愚かな風評に惑わされて逃げ出した人、みたいには、どうしても捉えられない。
でも、そういう現実もあるのが被災地のリアル、なのだ。
人はそういう個別的な条件の中で、でも死ぬまで懸命に生きようとしつづけるのだ。
断片化する意識の中で
「家に帰りたい、自分でトイレにいきたい、水がほしい、こたつで居眠りがしたい」
と繰り返す父の様子は、大震災を被った私達の願いとどうしてもシンクロしてくる。

震災や原発を不可視の中心と捉えて全てをそれに背負わせる言説には絶対に与しない。

同時に、全体を見通せない中で「断片」を生きるほかない人間のリアルに、十分に届いてこない哲学や経済の言説の側に立つことも、最終的に私はしないだろう。

震災の中、家族でその死を看取るのは、一般化しにくい体験だ。それを「断片」として大切にしたい。
多層なリアルを多様に生きるのが人間であればこそ、下手な説得に耳を貸すのではなく、私はここから改めて思考を始めていきたい、と考えた。

避難民か難民か

2011年03月25日 00時28分15秒 | 大震災の中で
 大震災の復興が遅れている。
 県レベルを超えた500キロにも及ぶ太平洋沿岸<東日本>の被災を考えれば、そう簡単に復旧・復興が進むまい。

 体育館などが避難所になるのも、初期の緊急事態としてはやむを得ない。
 しかし、「そこ」はどう考えても「生活」の場所ではないから、長期に及ぶと避難所ゆえの「災害」が二次的に起こってくる。

 しかし、正直なところ帰る場所がとりあえずないから「そこ」にいるわけで、避難所の生活が過酷だからといって、そこら避難することなどできようはずもない。

 とすれば、彼らは「避難民」(一時的に避難してきた人)であるというより「難民」(帰るべき場所を持たない人)なのではないか、と考えざるをえなくなる。

 私は幸いにも屋根瓦が飛んだ程度で、シートをかぶせれば住める「家」があるから、いわき市の南部にとどまっている。

 だが、東京の方では、原発から30キロ圏内も生活上の支障が大きく孤立しているから、避難地域に指定すべきではないか、という議論が起こっていると聞く。

 なるほど、と思う反面、どんだけ「避難」→「難民」を出せばいいと思っているのか?との疑問も湧く。

 屋内退避とは、ライフラインを奪われて、短期的な未来への希望も持てず、バラバラに引きこもれ、という指示に他ならない。そりゃ、自主的に逃げ出すだろう。

 まして原発からの放射性物質の飛散は続いているわけだし。

 海産物も、農産物も「福島」は、世界に冠たる「出荷停止」ブランドになってしまった。経済的ダメージも計り知れない。

 福島県民の「避難」は、「避難」と言われている限り宙づりのままだ。
 むろん「難民」である、として別天地への定住を支援される方がいい、とは単純には思わない。

 私達はこのままこの「福島」、この「いわき」に住み続け、充実した生を営みたいと思っている。

 郷土への愛着、などと大見得を切るつもりはない。
 人はどこに住んだって生きてはいけるだろう。

けれど、慣れ親しんだ土地から自分の意思ではなく引きはがされる心理的抵抗は大きいし、土地や建物、有形無形の人的ネットワークなども含めた「財産」が、関東地方の電力確保の手段の大規模地震を想定していない結果として放射能や風評による孤立によって失われようとしているマイナスは、計り知れない。

いちもくさんに関西に逃げたらいい、という内田樹の提案は、「ふーん」という程度にしか私には響かなかった。

池田信夫のブログにある
>今回の震度は普通の原発の設計震度をはるかに超えており、
>これで最終的に数万人の一時避難ですめば、むしろ軽水炉の
>安全性を証明することになろう。

ふーん、我々の「いわき」市の現実は、池田信夫的認識においては、軽水炉の安全性の証明という言説に「利用」されてるんだ、と思うといささか腹が立った。これじゃあ、彼が批判している広瀬隆的「それみたことか」言説と表裏一体ですね。

その場所で生きている断片のリアルとは遠いところの議論にすぎない。

現代におけるNIMBY( Not in my backyard=必要なのは分かるけど、うちの近所は困るよ)問題の典型の一つである原発事故

の問題は、単なる軽水炉の安全性の証明の問題でもないし、リスクをオレは知っていた、とか威張るような種類のものでもない。

市民の「政治」としてこういうものと自分たちの「生」とをどう向き合わせるのか。
私達自身の「自立」というか「断片」における倫理が問われなければならない。

その選択をしないかぎり、私達はいつなんどきどんな形で「避難民」から「難民」への道を歩むことになるか分からない。

未曾有の天変地異だったから仕方がないね、なんてあきらめて地元にしがみつくのでない限りは。

福島県民は、池田信夫のいう「数万人の一時避難ですめば」という「程度」の事故によって、自分の土地に住めなくなるかもしれないし、農業や漁業、そして観光などにおける「フクシマ」ブランドの重大な毀損を受けようとしている。

なおもこの地で経済的政治的文化的な営みを続け、「復興」しようとするなら、つまりは「難民」として流浪するのではなく、「一時的避難」で済ませようとするなら、事態を冷徹に分析して、将来に向かって可能性を自ら掲げていくよりほかにないだろうと思う。

しかし、必要なのは単なる冷徹な分析、だけではないと思うよ。
そして、原発の事故はまだ収まっているわけではないのだから、その宙づりの不安に耐えるストレスもかなりなものだと思うしね。

大震災と原発は別の事象で「も」あるけれど、被災地の市民にとっては多重被災であることは間違いないわけだし。








3月21日(月)のこと<父親の死>

2011年03月22日 22時29分03秒 | 大震災の中で
ガソリンも入ったことだし、今日は父親の病院に車で行ける、と思っていたら、付き添っている母からすぐに病院へ、との電話があった。

取るモノもとりあえず病院に行く。

が、到着したときには、父は息を引き取っていた。

享年満91歳。大往生といっていいだろう。

年金を止める手続きや、大学病院への献体のやり方、自分の死去に朋なる口座凍結前に現金を下ろして準備しておくこと、などなど、全て自分で準備をし、指示をだしてからの永眠だった。
最後までマメな人でした。

震災の最中で葬祭場も人寄せができない。自宅に父親を運び、家族で見守りつつお通夜をする。
考えてみれば、昔はこうやって家で夜通しお線香を絶やさず酒など飲みながら「お通夜」をしたものだった。

祖父のときも、祖母のときもそうだったと記憶している。

近年の葬祭場ブームは、住宅事情や隣近所の互助組織の喪失などいろいろな理由があるのだろうが、幸か不幸かこの震災のせいでそういう場所も使えない。

家族で家に残っていたお酒(買いにいけないので!)をテーブルにずらりと並べて夜遅くまでiPhoneで撮影した父親の動画を肴にして飲み続けた。

家族で穏やかに見送るのは、なかなかにいいものだ。

葬祭場の営業の邪魔をするつもりもないし、会葬者が多いお葬式では望むべくもないのだろうが、私の父のように91歳まで生きてしまうと、知り合いもまた故障を抱えてどうせ遠くからはこれないし、第一知り合いも親戚も、同年代はほぼ先に逝ってしまっている。

家族のみでのお通夜、家族葬、意外にお薦めである



3月20日(日)その2<いわきに居残る決心>

2011年03月22日 22時18分16秒 | インポート
夕方、千葉に一時避難していた息子たちが、買い出しに持つを背負って、ガソリンも満タンにして戻ってきた。

本気で逃げるかどうかは、一にかかって原発の飛散放射能の深刻度による。

とりあえずは体勢を立て直して状況を見極める作戦を選択。

まあ、爆発的な事故が起こらない限りは、多少の放射線量ならばこの土地で暮らしていくつもりだ。

本当に60キロ圏内避難指示が出たなら、福島県の半分近くが事実上「地上から消える」事態になる。

この地に踏みとどまって復興まで視野にいれようとする人間にとっては、放射線量についての「危険」に過敏な反応には、正直うんざりする。

本当にどこまで踏みとどまれるのか、どこからどの程度のリスクが発生し、それを取るか捨てるかの基準をどこに置けばよいのか、ということを正確に知りたい。

落ち着いて事態を見守りたいと思う。

と同時に、自らの選択でリスク回避を優先して避難する人の決断も多としたい。
「逃げる」のが賢いのでも、ないし、「とどまる」のが単に愚かなのでもあるまい。
また、「踏みとどまる」のが勇気あるわけでもないし、「避難」するのが過剰な反応というのでもないだろう。

一元化された「正しさ」なんて、個々の「断片」にとってはほとんど意味をなさない。

大切なのは正確な情報による迅速かつ的確な状況の分析判断と、そこから、自分の未来をどう選択するかを、どんなに不可能にちかい隘路であっても、繰り返し決断していくことなのではないだろうか。

そんなことを考えながら、久しぶりに子どもたちと一緒に夕食を取る。
千葉でもガソリンは大分待たないと買えないそうだ。
いわんや「いわき」においてをや。

いつになったら物流が十分になるのやら。





3月20日(日)のこと<震災後、初めてガソリンを入れる>

2011年03月22日 22時06分46秒 | 大震災の中で
ようやく3時間近くならんでガソリンを2000円分入れることができた。

朝8時過ぎから列に並ぶ。軽自動車のエンジンをかけたり切ったりしながら長い下り坂をじりじりと下り、坂道の下にあるガソリンスタンドまで3時間ほどかけて下りていく。ガソリン残量とバッテリーとのせめぎあいであることは分かっていた。

ところが、2時間以上並んだところで、無念のバッテリー上がり。
自動車はスターターの時の電源が一番食うのを分かっていたつもりだったが、あのガガガガガとだけセルモーターが回る音を聞いたときには、「絶望」を久しぶりに味わった。

まあしかし、坂の途中で止まるのも癪だし、坂下の信号は右折車線もあって道が広いので、どうせならそこで車を寄せて止めようと、ニュートラルにして倍力装置の聞かないブレーキを思い切り踏みつつ、惰性で残りの坂を下っていく。

ガソリンスタンドの看板がようやく見えてきたところでついに完全停車。
普段ならGSの人を呼んで押していってもらえるぐらいの距離だが、今日は前後左右に給油待ちの車の列・列・列。
とても誰かに頼める状況ではない。

ダメもとで車を放置してスタンドまで歩いて行き、
「あのお、待っている間にバッテリーが上がってしまったんですが……」
とおそるおそる声をかけると、案の定
「どうしようもないね。昨日もそういう車がたくさんあったよ。なんとかここまで持ってきてもらえばどうにかするけど」
と余裕のない応対。

そりゃそうだ。交通整理もままならないほど車が集中し、しかも皆、きちんと静かに、しかし必死に順番を待っているのだから。

列がはけて、GS販売が一段落し、販売が終了するごろにもう一度助けてもらうしかないか、とあきらめかけて車に戻ろうとしたところ、交差点のところで通り過ぎる車と給油を待つくるまを仕分けしていた若者に、
「もしかしてスタンドの方ですか?」
と声をかけ、実はあそこでバッテリーが上がってしまっているのですが、と小声で呟くと、二人居た若い方のおにいちゃんが、
「じゃあ、おれが押しますから」
といって、交通整理を年配のスーツ姿の人に依頼して、一緒に車まで来てくれたのだ。

うーむ。ありがたくて鼻の奥が「つーん」となった。

幸い軽乗用車なので若い人一人でも十分押して貰えば動かせる。

バッテリーチャージを済ませ、併せて給油もしてもらって、GSを出る。

助けられるって、すごいことだ、とつくづく思う。

しかし、はたと気がついてみると、貴重なガソリンを入手したのに、バッテリー上がりを防止するためにはそのガソリンを使ってムダに走行しなければならない。

仕方がないから小名浜の様子を見ようと、車で15分ぐらい離れた港の方に車を走らせる。

海沿いの道に出たとたん、言葉を失った。
車がおもちゃのように折り重なり、屋根が丸ごと道路の方に飛び出し、その下に車が押しつぶされていたり。
海沿いの県立高校の正門も、車が流されてごちゃごちゃになったままだった。

小名浜の海沿い、いつもお客さんで賑わっていた魚屋さんが並ぶ通りが、10日ちかくたってもまるで廃墟のままである。

本当に恐ろしい光景だった。






3月19日(土)<日常化が始まっている、という恐怖>

2011年03月21日 05時04分28秒 | インポート
昨日のことなのに、なんだか上手く思い出せなくなっている。

こんなにも異常な事態にさえ、脳みそは手慣れた日常として受け止めてしまう、ということなのだろうか。
あるいは、昨日水が出た、という安堵感があまりにも大きなものだったから、ついホッとしてしまったのだろうか。
結局もう新しくなにかやる、ということがなくなってしまった。

被災という非日常にあってさえ脳味噌の中で「日常化」は進行する。
たくましいというか、飽きっぽいというか、頼りにならないというか。

入院中の父の付き添い。
その交代の送迎。
母の薬を主治医にもらいにいく。
合間に食料の調達。

昨日「水汲み」がそのメニューから消えた。

変化はそのぐらいのものだ。

しかしまた、日常化は微妙な変化も生む。

同じく行列を作っているときでも、

給水場所では人は「共同的」に振る舞う傾向があり、

スーパーでは「個別的」な表情を持ち、

ガソリンスタンドでは「競争的」な原理が働いているかのようなのだ。

こんなことは普段経験できないので、メモしておく。

あくまで個人的な印象なのだが、

水<電話<食料<お風呂<家<ガソリン

水と情報は見知らぬ人とも分かち合える。

食料とお風呂は、見知った者、苦労を共にした者となら分かち合える。

そして、家とガソリン(車)は家族の中でしかシェアしにくい。

必要不可欠な生活の基盤であっても、その意味というか、有り様が異なっているようだ。

これも課題のひとつ。

それにしても、こんなに続いていいものかというほどまだ余震が起こる。
そのたびに記憶が蘇り、このまま揺れがあの時のように大きくなったら、とつい思ってしまう。
いちいちパニックは起こさないけれど、気持ちは悪い。


あとは、今日の出来事として特筆すべきは、洗濯の再開だ。

水がでた日は、お風呂しか思い付かなかった。
安定的に水が供給されてはじめて洗濯機は使える。それほどに水を大量に使うのだ、と改めて実感した。








自然か、人為か(その2)

2011年03月20日 10時38分22秒 | インポート
今この国では、原発を新たな「外圧」=「自分以外の場所にある不可視の中心」として機能させ、自らを周縁と位置付け直そうとする物語がいたるところで発動している。

そんな中でハイパーレスキュー隊員が、

「日本の救世主になってください」
という家族のことばを胸に、命がけで倫理的な責任感から、懸命の放水活動を「不可視=不可触」の「負の中心」に向かって続けてくれたことは、福島県民としてどれほど感謝すればよいか分からない。

泣けてくる。

課題は、その個々の自己犠牲的でさえある高い「倫理性」を、社会がどんな形で回収しようとするか、だ。

いっぽうでは、原発事故を無意識のうちにあたかも荒ぶる「自然」の神に喩えてしまい、結果としてそのように振舞うことが考えられる。

けれど、それに対置してそれぞれの「断片」としてのわたし(たち)が「倫理的」責任をそこで徹底的に思考しておくことは、さらに決定的に重要だ。

自然観と倫理の問題といってもいい。

選択の余地、自由が存在するところに初めて責任が生じるのは近代的ルールの基本だろう。

負の中心に全ての根拠を背負わせて、無力の自由を行使し続けるよりは、圧倒的な自然の脅威的力の前にあっても、不自由を承知で自らの倫理を問うことが、福島県民としてのわたしにとっては、今一番大切なことだと思えてならない。

それは、単に自らの無力と無知の結果を、後付けの「不可能な倫理」を遡及して求めることで覆い隠そうというつもりなのではない。

そうではなく、一元化されたモノの見方に対して、断片の側からとこばを発しようとするときには、そういう断片は断片なりに、倫理的であろうとすることが必要不可欠だと考えるからだ。

どんな場合でも、「考え」は後付けでしか立ち上がらないことは確かなんだけどね(笑)。

実務的 ・現実的には、現場の方々には放射能の封じ込めに全力を挙げて欲しいし、周辺住民のわれわれは冷静に事態を見守って対処したい。

その上で政府や東電にはしっかりと結果の責任をとり、補償をして欲しい。

だが、放射能汚染の内部に留まって生活しつづけているモノとしては、これをだれがが引き起こした事件(それが自然であれ電力会社であれ)として「だけ」済ませるわけにはいかないのだ。

たやすく無力&無知の旗を上げる愚だけは犯したくはない。

だって、原発の危険は漠然とであれ、なにしろ「知っていた」のだから。

ただし、これは自分の立場を特権化することではないし、法的に東電や政府の責任を追及することの放棄でもない。

ましてや自虐の身振りでもない。

単純に権力論を意識すると、微細な権力の遍在みたいな話になりかねないから難しい。
政治の話に倫理が入ってくるのはやはり避けられない、と思う。

が、ま、それはさておき。

とにかく、屋内退避圏内までが実質上避難しはじめているということは、このいわき市が、原発地域の最前線、ということになるわけだ。

この場所で物事を考える、ということは、単純に(処世術的に)辺境意識を煽ることであってはなるまい。

ましてやグローバル経済の中の単なるミクロなファクターとして(たとえ絶望の身振りは装っていたとしても)原発事故を扱うようなことはしない。

私にとっての答えは、内田樹的な辺境主義の中にも、池田信夫的グローバルスタンダードな「絶望」の経済認識の中にも、ないことがようやく分かった。

そしてわたしが分かったことそれ自体は、無数にある主体のひとつの揺らぎにすぎないといえばいえる。

それでも、統合を欠いた単なる弱さとしてたけではなく(つまりは本来あるべき統合を失った断片としてだけとらえるのではなく)、一見すると無力であるような個を見つめ直す契機として「倫理」を考えたい、ということなのである。



自然か、人為か。

2011年03月20日 08時59分12秒 | 大震災の中で
広瀬隆というライターがいる。今手元に資料がないが、
『東京に原発を』
などの著書があり、一貫して福島原発を含めてその危険性に警鐘を鳴らし続けて来た、と記憶している。

また、昨日友人からのメールで、こんなサイトを紹介された。

http://www.jcp-fukushima-pref.jp/seisaku/2007/20070724_02.html

チリ地震級の津波が襲ったら、福島原発には間違いなく今回のようなことが起こる、という警鐘が既に
4年以上も前に指摘され、東電側にも福島県の議員から申し入れがなされて来ているわけだ。

1000年に一度の大地震だから誰かの責任を問う前に一丸となって事態に対処すべきだ、という報道や政府の方向付けが、この瞬間の対応として直ちにまちがっているとはいわないが、どうしても苦いものを飲み下すような思いを抱く。

ハイパーレスキュー隊というのだろうか、東京都の消防庁の精鋭が、文字通り命を掛けて放水作業を行い、高い成果を挙げた、ときくと、さらにその苦さは深くなる。

つまり、東電側はこの事態を全く予測もできず、危険性を察知する科学的知見を全然持ち合わせていなかったのか、それとも、今のように首都圏向けの発電量を減らすことはできないから、今回のような事故の可能性を予見しつつも、そのままの状態を続けて来たのか?

そういう疑問が湧く、ということだ。

確かに地震それ自体は、未曾有のモノだったのだろう。

それは分かる。

だが、東電は
上記のサイトのように中越沖地震を踏まえて出された
津波への懸念を、単なる原発忌避を前提とした根拠なき言い掛かりとして、単に無視し続けて来たのだろうか。

今日の疑問点の一つ目。

福島原発が海沿いに立地されていることを考えたとき、もし津波の影響でバックアップの電源が壊滅したのだとしたら、これは明らかに人災ではないのか。

つまり、炉は停止できる(核分裂反応は止めることができる)けれど、冷却関係が弱いことは織り込み済みで、首都圏の電力供給のために古い設計のまま老朽化した福島原発をかどうさせていたのではないか、ということだ。

一ライターや、県議会議員が容易に抱く疑念なのに、そしてそれがこうして現実として起こっているのに、研究者たちがそのリスクを全く認識していなかったと思えるほどに私はナイーブではない。

断っておくが、ここで主張したいのは、とりあえず東電批判ではない。

福島県民の背負うリスクを計算によって知りながら、私たちをきちんと啓蒙しなかった専門家たちの倫理的責任である。

専門家たちの中には無論東電も入るけれど。

他方、上記の原発批判者の言説もまた、疑問の対象となるだろう。

確かに、原発批判者たちはその危険性を言いたてる。反対の声を上げ続ける。

だが、彼らは、私たち「愚かな」福島県民を十分に啓蒙しきることはできなかった。知っているモノには責任があるだろう。
その倫理的責任は、主張の正しさによって、果たして免責されるのか、という疑問を呈したいのだ。


急いで言っておくと、福島県民は無垢であっていい、ということがいいたいのではないし、分かっていたのに行動しなかったか、さらに愚かだった、というのでもない。

私たち被害者たちには、倫理的責任がないのか、ということである。
正しさによる免責と、無知による免責とをどこまで行使しえるのか、という疑問である。


今日の2番目の疑問点

なぜ、正しいひとたちは、その正しさをもって福島県民を啓蒙できなかったのか。

当然これは権力論のはなしにもなるだろう。

「予見可能性」をめぐって東電がどれだけ今回の津波によるバックアップ用冷却系の被害を事前に計算できたかが、裁判の争点になるだろう、とは素人でも予想できる。

二つ目の疑問からは、
だからいってたじゃないか、と「正義の人」が続出してウンザリさせられ、
いっぽうでは計算の範囲でわかってやってるんだけどね、というしたり顔の経済学者やらがあらわれて神経を逆なでし、
はたまた権力者の陰謀論みたいな政治批評が「蔓延してウンザリさせられ
、といったことが予想できる。

だが、ことが起こってみると、「正しさ」も、「啓蒙」も、「陰謀」も、

「後から『先に』分かっていたと分かる物語」

に過ぎない、と「分かって」くる。

私たちは原発の危険性を知ってはいなかっただろうか。
いや、知っていた。

ただ、こんなことになろうとは思わなかっただけだ。

福島県民も、東電も政府も首都圏の電力消費者たちも、こんなことを望んではいなかっただろう。

そして、この危険を察知していたモノたちはその危険から目を逸らし、あるいは警鐘を鳴らしていたモノたちは無力だった。

政府と東電は原発事故の責任を問われていくだろう。
近代的ルールからいえば当然のことだ。

けれど私は、それとは別の次元で、

1.権力者の判断
2.企業の経済論理、
3.首都圏電力消費者の欲望、
4.原発地域の住民の日常化による感覚の鈍磨、

それぞれがそれぞれ明確さの度合いは違っていても危険を認識していたはずなのに、なぜこの事態を止められなかったのか、

「倫理的理由」

が知りたいのだ。