龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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3EのBluetooth Keyboardがすごい!

2015年10月17日 19時52分31秒 | ガジェット
 新しいキーボードを購入した。
Bluetoothキーボードをいろいろ試してきたけれど、今まで買った中では間違いなくベスト。
これから外出時のタブレット&スマホのキーボードはこれで決まり。
もう一台買っておこうかな、とすら思わせる。





商品名は
「3E 折りたたみ式Bluetooth Keyboard」スリーイーコーポレーション

折りたたみ型のBluetooth接続のキーボードである。
値段は5,980円。

ポイントは筐体がアルミ製、ということ。

三つ折りだが、テーブルに置いて使用する限り、まったくガタツキがない。
折りたたみ型のBluetoothキーボードとしては、異次元の安定性といっていいだろう。

膝の上でもまったくギシギシしない。なんだろう、よくできた工業製品の安心がここにはある。
このメーカーのことはよく知らないけれど、今までキーボードを作ってきた企業ではなく、精密機械メーカーが作った、とでもいうべき印象をもった。

圧倒的にしっかりしている筐体の小気味よさを味わうためなら、このキーボード、買いである。



とはいえ、万能ではない。問題点もある。
(しかし、それは主としてこのキーボードのせいというより、小型折りたたみ式の宿命とでもいうべきものなのだが)

大きくいって2点。

1点目はキーボードの配置と表示だ。
3種類のOS(iOS,android,Windows)に対応しているため、白・赤・青のキートップの印刷文字のうち、どれが打ち出されるのか直感的には判別できない。

ただし、これはこの商品に限らない。
折りたたみだけでなく、携帯型のキーボードはどうしてもフルキーボードとは違って無理な配置になってしまう。

気に入ったらしっかりつかって慣れていくことだ。
そうすれば大きな問題にはならないだろう。このキーボードはそれだけの価値がある、と思わせる。


現にこのブログ原稿を書いている最中に、だいぶ慣れてきて、「E」と「-」それに「Delete」の三つのキー以外はほぼブラインドでタッチできるようになってきている。
それでも「E」の打ち漏らしが出てしまうのは、配置というより次の問題点、キーピッチ関係しているようだ。

二点目は、これも携帯型キーボードの宿命ともいえるキーピッチとストロークの問題である。

キーピッチはカタログ値は17mm。
これだけあれば、狭いとはいえ基本的にブラインドタッチが可能だ。

だが実際にブラインドタッチができるかどうかは、キーピッチだけではなく、キーの上下ストローク量が関係する。

このキーボードは折りたたみということもあって、ストローク量はミニマムである。
打鍵のクリック感は明確なので、これも慣れればある程度の速度は確保できるだろう。

1点目も2点目も、要は慣れの問題だ。

そして、アルミボディの堅牢性、びしっと決まって使用時にまったく歪みやたわみが感じられないこの安定感を考えれば、このキーボードとじっくりつきあって慣れていく価値は十分にある。

おすすめのキーボードといっていいだろう。

ただし、ストロークについては、購入前に実際に店頭で使用されることを強く推奨したい。
自分の打鍵の癖のせいなのだろう、どうしても中指「E」が弱いせいか、teのeが落ちることがある。

あとは、最初まったくブラインドタッチができずに少々慌てた。
小さいキーボードなので、体の中央にきちんとキーボードを置かないと、微妙に入力がズレてしまうのだ。

キーボードを体の中央に置き、意識して両手を近づけていけば、大丈夫。
ブラインドタッチは、PCのキーボードならルーズに打てるけれど、コンパクトキーボードの場合は環境がシビアになる、ということを改めて感じた。


よろしかったらいかがですか?


熊倉一雄と橘家圓蔵

2015年10月16日 23時19分24秒 | メディア日記
熊倉一雄と橘家圓蔵の訃報を立て続けに聴いた。
いずれも子供の頃見ていたテレビに出ていた私にとってのスターだった。
熊倉一雄はなんといっても NHKの 人形の声をやっていた「ケペル先生」だったし、橘家圓蔵は 「お笑い 頭の体操 」に出演していた「早いのが取り柄の月ノ家圓鏡」だった。
熊倉一雄は 「ひょっこりひようたん島」のトラヒゲでもあったし、圓鏡は、 「笑点」にも出ていたんじゃなかったかな。
とにかく、声の魅力がすごかった。

落語家としては三遊亭圓生とかが子供の頃は凄いと思ったけれど(談志や志ん朝はまだ 「若手」だったし、先代円楽はやぼったい印象があった)、圓鏡は落語家というより、ラジオやテレビで八面六臂の活躍をしている印象があった。いわゆるお笑いタレントの嚆矢、に近かったのかもしれない。

まあ、ノイジーといえばノイジーな声なのだろうが、その速度感が新しい感じだった。

熊倉一雄は声優として変幻自在のイメージがあった。どちらもその声の魅力に惹かれたものだった。
楽しい時代をありがとう。
御冥福をお祈りします。

「津波に奪われた命、そして今」(未来会議トークイベントに参加して)

2015年10月14日 06時31分43秒 | 大震災の中で

ドキュメンタリー映像上映&トークイベントにいってきた。

参加して良かった。このイベントから以後、

「福島の被災は、放射能だけではない」

のメッセージが自分のところまで届く、という意味をしみじみ考えている。

肉親が津波で行方不明になった上野敬幸(南相馬市)・木村紀夫(大熊町)両氏が、海辺で捜索を続ける様子を取材しつづけたドキュメンタリー映像(制作は笠井千晶氏)を観つつ、改めて二人に笠井氏がインタビューしていく、

というイベントだった。
娘や息子を津波に奪われた父親がその個から発していく深い感情、それが淡々と描かれる映像から伝わってくる。

単に想像力に基づいた共感を求めるのではなく、そういう事実が「ある」、という形でその「姿」が立ち現れてくる、そのことがしだいに心の中に染みこんでいく。

原発事故の被害とが重なり、その中で行方不明になった人を捜索することさえ十分にできない
中で最愛の子どもたちを探す上野・木村両氏の姿が描写されているうちに、私は、「父親」としての自分のあり方を逆照射されているようにも感じた。

彼らは、津波と向き合うことで、津波にのみ込まれた娘や息子、肉親たちと向き合うことで、「遅れた(生き残った)」自分たちと向き合っているようにも思われた。

原発被害は、未来の健康被害(「ただちには影響がない」<枝野>の向こう側ですね)を中心に語られることが圧倒的多い。

だが、それだけではない。
私たちが生きることは、様々な「層」を同時に生きることだ。

「多層性」を積極的にとらえ損ねて生きることがあたかも「効率よく生きる」ことででもあるかのような言葉を発してしまいさえするけれど、「それだけ」で生きているはずがない。

そんなことも考えさせられる。

「個」から始まる、ということは、その複数性を不可避的に生きること、でも、あるのかもしれない。

これはずっとずっと考え続けていかねばならない宿題をもらった、ということだろう。


内容はこちら。(「未来会議」Facebookより引用)

行方不明の二女・汐凪ちゃんを捜す「team汐笑プロジェクト」の木村さん、行方不明の長男倖太郎くんを捜す「福興浜団」の上野さんの写真を中心に、渋谷敦志氏、尾崎孝史氏、岩波友紀氏の3氏が現在に至まで被災地を撮り続けた作品約30点を展示します。

写真展期間中である10月10日は、東京電力福島第一原発から20キロ圏内を中心に故郷の復興に携わり、悲しみを乗り越えようと活動を続ける人たちや「福興浜団」の活動などを、笠井千晶氏が2011年から約4年にわたり撮影し制作したドキュメンタリーの上映と共に、お三方のこれまでの活動や想いを語っていただくトークイベントを開催します。


NNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」を観ている

2015年10月12日 21時25分59秒 | 観光
TVで見逃したNNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」をYOUTUBEで観ている。

2015/10/08 に公開
NNNドキュメント '15
シリーズ戦後70年 南京事件 兵士たちの遺言(YouTube)

[高画質版] https://youtu.be/8IuMBBWB4CQ

https://www.youtube.com/watch?v=QsGC7Qi7Y-8


「正確な死者の数が分からない」と言い募って虐殺を矮小化したり、
「戦争だったのだから」と相対化したり、

日本人として引き受けるべき事実から瞳をそらす言説が、むなしくなる。

大切なのは、「戦争は愚劣だ」ということだ。戦争をして、かつ負けるというのは、その愚劣さを自らの上に引き受けることに他ならない。
勝った側が別に正しいわけじゃあない。勝とうが負けようが、繰り返すが「戦争は愚劣」だ。

こういうものはいろいろな立場もあり、政治的にも複雑だから、発言するのは本当に難しいのだけれど、「日本人」の名の下で、その事件をより小さく受け止めようとするのは、むしろ日本人の尊厳を傷つけることになるのではないか、と改めて思う。

まあ、なかなかそう簡単には、どこが事実かという議論の沼には入っていけないけどね。
そこが歴史修正主義者の付け目なのだろう。

そういう意味でも、このドキュメントの製作者の方々には本当に尊敬の意を表したい。


誰がやったことであっても、それが中国の人であれ日本の人であれ、その非道な行為は詳らかにして後生に伝えるべきだろう。

そう思う。

ただし、国と国との交渉は、政治だから、また別の次元の議論がある。

たとえば、仮に裁判ともなれば全力で無罪を主張するのは当たり前のことだし(見苦しいことはあるにしても、主張やできない検証ですらせねばなるまい)、まして国と国との利害で七〇年も前のことを言い出すのは、否定するにしても肯定するにしても、政治的意図がゼロのはずもない。

だが、一市民としては南京事件に瞳を凝らす義務がある。
一市民の被害に対して、真摯に向き合う義務がある。

国家は、市民としての私と別に同一でもなんでもないし、同一である必要もない。
私は南京事件を国家が否定するのであれば、その国家を否定するだろう。
そうではない人もいるだろうが、それはそれでとりあえずはやむを得ない。

国家は「人格」じゃないから。

だが、人間としてきちんと認めるべきものを認めなければ、その市民が構成している国家だってダメになるでしょう。

国家が裏で取引したりオフレコで薄汚いパワーバランスを考えることと、市民が被害者と向き合うこととは、同じ次元で考えちゃダメ、なんじゃないかな。

国家と自分を同一視しようとすると、歴史もそりゃ修正したくなっちまうんだろうな、と思う。病気だね。

国家なんてクソに決まっている。

それは日本でも中国でもアメリカでもシリアでもたいした変わらないクソなシステムでないはずがない。

ちょっと前までの日本は、左翼はソビエトや中国の支持・指示を受け入れつつも、この国をよりよくしたいと考えてはいただろうし、保守はアメリカのマペットになりつつそれでもなお、日本をなんとか半ば自立させて行こうとは念じていたはずだ。

まあ、とりあえず日本人としては相対的に自分のところの国=日本の方がよりましでありたいとは願うにしても。

繰り返すが、政治がクソだからといって、我々がそそっかしく絶望する必要もなければ、クソのまねをする必要など、ない。

そして戦争は、市民一人一人がそのクソな国家を模倣せざるをえなくなるから、反対なのだよ。

私個人にとっては、ね。

この番組は、そんなことも改めて自覚させてくれた。

『呪文』星野智幸、読むべし。

2015年10月08日 16時49分52秒 | メディア日記
図書館に届いた本。
手に取ったらそのまま、本当に一気読みしてしまった。

物語の 「柄(がら)」は極めて小さい。
商店街の出来事に終始しているのだが、だからこそ 手応えがリアルで、ゆっくり読めなかった。

枠組みとしては 「町おこし」小説でもあるし、 「カルト」小説でもあるし、 「今時の若者」小説でもあるのかもしれない。そしてそこには原因とか分析とか根拠とかが論理的に書き込まれているわけではない。

しかし、 「ああ、そう(なる)かもしれない」というある種の 「絶望」と「可能」が確かに描かれている。2015年の小説としてお薦めの一冊。

honor6plusのOSアップデートがあるらしい。

2015年10月03日 10時21分15秒 | ガジェット
正直あまり期待していなかった

honor6plusのOSメジャーアップデートが実施

されるとのこと。

http://s.kakaku.com/bbs/J0000016630/SortID=19187990/


ユーザーとしてうれしい限り。
ファーウェイ、やるじゃん。

Android4.4.2→5.1.1

かな。

順次対応なので10日ぐらいかかるとのこと。待ち遠しい。