私はとりあえず「衝動」と「ムダ」と「浪費」と「消費」と「依存」と「病気」と「贅沢」の関係が知りたいのだ。
クルマはかつて一家に一台だった。
そういえば「父親のクルマをどうやって借りるか」は、アメリカ映画の青春モノでは定番の課題でもあった。
遅ればせながら、私もそういうところをくぐり抜けて大人になった世代だ。
だから就職したときの最重要課題は、父親の車を借りずに済むよう一刻も早く自分のクルマを買うことだった。
クルマさえあれば自由が手に入る。クルマが良くなれば生活の質も上がる。いや、生活の質が上がれば自然といいクルマもそのシーンに合わせて買い換えるべきだ、そんな消費行動の表象として、クルマは機能し続けてきたような気がする。
それから30年、ライフスタイルというか、生活のシーンに合わせてクルマを買い換えてきた。
2BOXのFFを乗り継いで独身から結婚に到り、子供が出来てから大きな1BOXワゴンに乗り換え、二人の息子が大学にいってからダウンサイジングしてこんどは1.3リッターのクルマになった。
そこまでは、自分達の世代なら誰もが通る「流れ」だった。
しかし、どういうわけかしばらく前から、しだいにクルマがそんなライフサイクルから離れてきたという感じがする。
子供達の世代(今の20代)は、クルマにこだわらない。田舎暮らしだから、クルマはもちろん必要不可欠なのだが、必要最低限の軽自動車で十分だ、と口を揃える。
10年~13年ほどの低年式の(資産価値や趣味性は全くない)純粋な移動手段として見ている。
一方、その世代を育て上げた父親の私は、クルマについて言うなら、逆に、どんどん、実用性から離れていこうとしているかのようだ。
これは「私」の年齢の問題なのだろうか。それとも大きな「産業構造」とか、「時代性」とかの問題なのだろうか。
さて、クルマは一家に一台から一人一台になった。
そこでクルマの数は「飽和」すると思っていた。
ところがどうもそこでは終わらないようなのだ。
たとえば、眼鏡は嘗て壊れたら(あるいは眼に合わなくなったら)買うものだった。
ところが、いつのまにか(老眼が進んで買い換えのスパンが短くなったこともあるかもしれないけれど)、眼鏡を複数持つようになった。
あるいは、通信端末(電話、ですね)は一家に1台あれば良かった。ところか次第に一人一台になり、いつのまにかiPad2なんぞという端末を追加購入してしまった。
そして今回はクルマの2台持ち、である。我ながら、いい加減にしてほしい、と思う。
冷静に考えると、本だって、こんなに大量のテキストを身の回りに置いておく必要が果たしてあるのだろうか、という疑問を抱く。
今では、古典テキストが手元に何冊かあって、そのそれぞれに対して簡潔にして要を得た注釈書が数冊もあれば、あとはブックオフで流通する一冊100円の推理小説を渉猟しておけばそれで足りる。
第一、残された人生の時間で、さほど多量の本が読めるはずもない。
さて、ようやくクルマの話である。
最近は「趣味」とかいう便利な言葉で済ませてしまうけれど、ちょっと前までは「道楽」という言葉があった。
益体(やくたい)もないものに「入れあげ」て「身上を潰す」ようなものを「道楽」といい、そういう馬鹿を「道楽息子」などと落語では読んだりもしていただろう。
そういえば、人によっては庭や家を設計して作るのが「趣味」だ、なんて人もいるらしい。
人は時に、そういうなにかどうでもいい不要のものに「アディクション」(惑溺)してしまうことが不可避なのか。
さてでは、役に立つことと「楽しみ」とはどんな関係があるのか。役に立たないことと「快楽」との関係、といってもいいのかもしれないけれど。
工業製品としてのクルマを購入し、移動の道具としてではなく楽しむ「楽しみ」。
万年筆や高級腕時計を購入し、筆記用具や時間を知るという道具としてではなく楽しむ「楽しみ」。
ようやく、「ムダ」な楽しみを楽しむ「老人」の場所に立とうとしているということだろうか。
クルマはかつて一家に一台だった。
そういえば「父親のクルマをどうやって借りるか」は、アメリカ映画の青春モノでは定番の課題でもあった。
遅ればせながら、私もそういうところをくぐり抜けて大人になった世代だ。
だから就職したときの最重要課題は、父親の車を借りずに済むよう一刻も早く自分のクルマを買うことだった。
クルマさえあれば自由が手に入る。クルマが良くなれば生活の質も上がる。いや、生活の質が上がれば自然といいクルマもそのシーンに合わせて買い換えるべきだ、そんな消費行動の表象として、クルマは機能し続けてきたような気がする。
それから30年、ライフスタイルというか、生活のシーンに合わせてクルマを買い換えてきた。
2BOXのFFを乗り継いで独身から結婚に到り、子供が出来てから大きな1BOXワゴンに乗り換え、二人の息子が大学にいってからダウンサイジングしてこんどは1.3リッターのクルマになった。
そこまでは、自分達の世代なら誰もが通る「流れ」だった。
しかし、どういうわけかしばらく前から、しだいにクルマがそんなライフサイクルから離れてきたという感じがする。
子供達の世代(今の20代)は、クルマにこだわらない。田舎暮らしだから、クルマはもちろん必要不可欠なのだが、必要最低限の軽自動車で十分だ、と口を揃える。
10年~13年ほどの低年式の(資産価値や趣味性は全くない)純粋な移動手段として見ている。
一方、その世代を育て上げた父親の私は、クルマについて言うなら、逆に、どんどん、実用性から離れていこうとしているかのようだ。
これは「私」の年齢の問題なのだろうか。それとも大きな「産業構造」とか、「時代性」とかの問題なのだろうか。
さて、クルマは一家に一台から一人一台になった。
そこでクルマの数は「飽和」すると思っていた。
ところがどうもそこでは終わらないようなのだ。
たとえば、眼鏡は嘗て壊れたら(あるいは眼に合わなくなったら)買うものだった。
ところが、いつのまにか(老眼が進んで買い換えのスパンが短くなったこともあるかもしれないけれど)、眼鏡を複数持つようになった。
あるいは、通信端末(電話、ですね)は一家に1台あれば良かった。ところか次第に一人一台になり、いつのまにかiPad2なんぞという端末を追加購入してしまった。
そして今回はクルマの2台持ち、である。我ながら、いい加減にしてほしい、と思う。
冷静に考えると、本だって、こんなに大量のテキストを身の回りに置いておく必要が果たしてあるのだろうか、という疑問を抱く。
今では、古典テキストが手元に何冊かあって、そのそれぞれに対して簡潔にして要を得た注釈書が数冊もあれば、あとはブックオフで流通する一冊100円の推理小説を渉猟しておけばそれで足りる。
第一、残された人生の時間で、さほど多量の本が読めるはずもない。
さて、ようやくクルマの話である。
最近は「趣味」とかいう便利な言葉で済ませてしまうけれど、ちょっと前までは「道楽」という言葉があった。
益体(やくたい)もないものに「入れあげ」て「身上を潰す」ようなものを「道楽」といい、そういう馬鹿を「道楽息子」などと落語では読んだりもしていただろう。
そういえば、人によっては庭や家を設計して作るのが「趣味」だ、なんて人もいるらしい。
人は時に、そういうなにかどうでもいい不要のものに「アディクション」(惑溺)してしまうことが不可避なのか。
さてでは、役に立つことと「楽しみ」とはどんな関係があるのか。役に立たないことと「快楽」との関係、といってもいいのかもしれないけれど。
工業製品としてのクルマを購入し、移動の道具としてではなく楽しむ「楽しみ」。
万年筆や高級腕時計を購入し、筆記用具や時間を知るという道具としてではなく楽しむ「楽しみ」。
ようやく、「ムダ」な楽しみを楽しむ「老人」の場所に立とうとしているということだろうか。