龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

フリック入力という日本語入力の素晴らしさ

2010年07月22日 12時27分14秒 | インポート
入力方法が分かってきてから、ぐんと手に馴染んできた感がある。
フリック入力という方法が実に素晴らしい。
もしかしたら、これは、慣れてくると、たいへんな速度で入力出来るようになるかもしれない。まだそんなに速くはないけどね。
あ段だけが予め表示されていて、あとは押したままはなせばアカサタナ、左にずらして指を離せばイキシチニ、押した指を上にずらして離せばウクスツヌ、右はエケセテネ、下はオコソトノ……というように、瞬間的に変換出来るので、連打の携帯よりは指に優しくかつ速く入力出来る。
遅まきながら、何百万台も売れるわけがわかりました。
これは携帯には戻れないっす。
携帯のEdyを使い切る時、多少ためらいがあったけど、杞憂でした。
便利で楽しいオモチャですし、意外に使えるのでびっくり!
しばらくは遊べそうです。



携帯をiphoneに替えてみたら。

2010年07月21日 21時53分20秒 | ガジェット
2年ぐらい使ったSoftBankの携帯をiphoneに換えた。
ボタンのないタッチパネルは、
どう考えても操作性に劣る……、
てっきりそう考えていた。

ところが、である。
一日なんやかんやといじっているうちに、しだいに入力のインターフェースに
慣れてきてしまったようなのだ。


なんとコレが意外に使いやすいのである。
画面は伸縮自在だし、ソフトウェアは豊富だし。
まあ、ながらくPDAを使っていた感覚からいうと、良質なソフトウェアが基本的領域をカバーしていれば、数はあまり問題ではない。
iphoneは、使い勝手がよくて、しかもソフトウェアが豊富なのだから最強に違いない。
いろいろ試して いるところだが、とにかく便利だ。
売れるだけのことはある、とおもう。

物事が見えてきた、という迷妄感覚(4)

2010年07月12日 20時04分56秒 | インポート
物事が見えてきた、という迷妄感覚(4)

もしくは、ゾンビとなった身体をどう生きるか、の迷妄日記

内田樹『日本辺境論』が気になっていた。
村上春樹の『1Q84』も気になっていた。

そこで、楽天とユニクロの英語公用論の記事と、それに対する反応を読んで、とっても腑に落ちたので、「迷妄」日記として書いておく。

ユニクロ英語公用化に関する毎日新聞の記事

村上龍主宰のメールマガジンで、冷泉彰彦という書き手が、内田樹のブログに触れて、こんなことを述べている。

>、内田樹氏がブログで書いておられた「「仕事はできるが英語はできない」という人間よりも「仕事はできないが英語ができる」
>という人間が高い格付けを得ることになる。」という懸念でしょう。勿論、ミクロの局面ではそういう「言語能力と中身のねじれ」
>という現象は起きるでしょう。ですが、これも結局は乗り越えて行くしかないのです。

冷泉彰彦は、英語の標準化は不可避のこと、と捉え、内田樹は、日本=「辺境」に敢えて身を置く姿勢を示す。

まあ、1企業が何を公用語にしたって好き好きなわけだけれど、身近な1000円2000円の服を売っているなじみのお店の店長さんクラス以上は英語ができないとダメですよ、っていうのはちょっとショックであることも確かだろう。

この二人の文章を引き比べて読んでいたら、ああ、そうか、村上春樹を内田樹が称揚するのはそういうことか、と腑に落ちた。

私たちは日本人として「ゾンビ」になってしまった。

とすれば、「ゾンビ」踊りをどう踊るか、って「主題」がそこにある。
英語で大きな踊りを踊るのか、日本語で辺境の「武道」踊りを踊るのか、は実はどっちだっていい。

いずれにしても「ゾンビ」踊りなのだ。

だからこそ、内田樹は、村上春樹のように一度「死んだ場所」から小説をもう一度語り始める「作者」を称揚することになる。
村上春樹の作品は、空虚な洞穴を巡って、それをのぞき込むものに対して開かれた優れて「大衆的」なゾンビ作品になっている。
ゾンビとは、とりあえずは「内実を欠いた」、という程度の意味に取ってもらっていいけれど、それはやはり一度「死んだ場所」からいかにして「生」を語るか、という主題を抱えている一群の人、といった方が適切かもしれない。

村上春樹の小説には、空虚な洞穴を覗きこむことを可能にする、遅速度の磁場がある。
その洞穴の中の「生」ならぬ「生」を中で描いたのがカフカや安部公房だとすれば、村上春樹はその洞穴を外から中に向かって臨む=覗く人と、中に入って不条理を生きたい人の、双方に手を伸ばし得る。

いずれにしても、「ゾンビ」たちだ。「ゾンビ」であることを認めず、あたかも自分がまだ「生きているかのように」踊りを踊る人たちよりは信用できるけれど、どんな死人踊りを踊るのか、は趣味の問題には止まらない差異もある。

いずれにしても、内田樹は、「辺境」という場所に「日本」を定位して、そこから身体を伴ったゾンビの踊りを踊る。このとき、「他者」の「他者性」は、微妙に多層化・構造化されていくだろう。いや、内田樹のことばだけではない。

私たちのことばもまた、ゾンビのうめきのようになっている。しかも「無自覚」に!

彼岸と此岸の間のズレを生きることを常態化しているのが「今」だ、ということなのだろう。
私たちはみな「ゾンビ」なのだ。

そうだとすれば、中世的な神学論争が好まれ始めるのも、故なしとしない。

わかりにくいことをいじっている、と人は思うだろうか。

しかし、もうすでに「死んでいる」ようなものだ、という「生」の「実感」(=ゾンビ感覚)は、私たちに今もっとも身近なものなのではないか?

生きているという実感から何かを始める、というより、いったん死んでから、生と死のズレを生きるそのズレのありようをリミットまで瞳を凝らして追いかけ、その上で彼岸から此岸に敢えて戻ってくる瞳の強度が切望されている、といってもいい。

そんな瞳のたどる「道」が果たしてあるのかどうか、といえば、ないに決まっているんだろうけどね。






子供映画を観て

2010年07月11日 14時29分09秒 | インポート
子供映画を観て、すっきりさわやかに泣きました。
いわずと知れた

『トイ・ストーリー3』

すぐに3Dだなんてことは忘れて映画に没頭してまい、涙を拭こうとして初めて3Dメガネの存在を思い出しました。

でも、人間がより自然になってて(生ってことじゃなく、作品の中で)、よかったですよ。

本当に久しぶりに映画に入り込み、「自分の想像世界」を満喫できる映画でした。
たぶん3Dじゃなくても十分。
でも同時に、3Dがとってもこなれていて、作品の自然さ(むろんあくまでも『トイス・トーリー』シリーズとしての、ですが)を支えている印象を、後から感じました。

3D映画か2D映画か、の差異を見に行くわけじゃあるまいし、当たり前、なんですがね。

シリーズとなればどれが一番?ってのはつい考えちゃいますが、
アイディアは1、
プロットは2、
作品は3、
って当たり前の結論かな?

劇場映画としてはこれがいちばんじゃないかしら。これでシリーズは終了?
ブルーレイが出たら3作揃えたいと思います。

50代のおじさんが、カップルと小学生に前後左右挟まれて、でも皆すんげー集中して食い入ってました。そんな映画館の一体感も、よかったです。
エンドロールになってもみんなしみじみ感溢れた静かさでしたよ。

よろしかったらぜひ。



物事が見えてきた、という迷妄感覚(3)

2010年07月08日 20時30分59秒 | 身体
物事が見えてきた、という迷妄感覚(3)

しかしやはり、物事の理解が深まってきた、という手応えは、確かなものがある。
つまり、経験値を単なる知識データベースとしてだけ用いるのではなく、もう一段汎用性を上げたスタンスとして使えるようになってきた、という感覚だ。
つまり、無駄な力を抜くこと、といってもいい。

経験上省けるものを省く、という「職人」の技、ということとはちょっと違う。

ズレやゆらぎ、裂け目と出会ったときのステップ感覚の洗練

とでもいえばいいだろうか。無駄な動きをすると、重心がずれたときにはつまずいたり転びやすくなる。
うまくいかないときのスタンス、というか、そのときに必要な緩急のバランス、というか。

それは、むしろある種のまだらな「ぼけ」というか、ウェイトをかけないようにしつつ、しかしもしそれが必要になったなら、周辺から呼び出すこともできる、みたいなね。

全く新しい分野で、ずぶの素人としてやるのは大変かもしれないけれど、経験をきちんと外部化して、分析をしつづけてくると、その経験が古くなったとしても、外部化し、分析してきた姿勢は、変化に対応できたり、バリエーションが増えてもついていけたりする。

そういう意味で「物事が見えてきた」、ってこともあるような気がする。
むろん、それは体力や知識、記憶や柔軟さ、対応力、洞察力、決断力、持続力、などなど、知的な総合能力としてのバランスの結果にすぎない。
だが、何かに突出しているわけでもない者が物事をきちんと観ようとしたら、ぼける寸前までちまちまと続けてきて、一瞬退却するまえに、蝋燭が消える前のゆらぎのような中で、危ういバランスが取れて「見える」ことを結果するのかもしれない。

少なくても、今はそう思っていたい。そのバランスはむしろ「動的」であってほしい。ずっと「見える」なんて思い込みはこちらから願いさげだ。ぎりぎりの危うい失われていくものと引き替えの瞬間のバランスの中で「見える」もの。
その感じを、脳みその「ショート」現象を受け止めながら、なおもプラスとして楽しみたい、と今は思う。

失われていく体力・知力の下り坂の一瞬だからこそ、の瞳の有効性を、それでもなお、求めていきたい。


ダイエット開始二週間の身辺雑記

2010年07月08日 20時19分43秒 | 身体

クルマで走っていると、普段絶対食べたいとおもわない回転寿司(○○ぱ寿司)の店を、目で追ってしまう。

ちょっとやせたから、と不意にコンビニスイーツを買っても構わないような妄想にとりつかれる。

カロリー計算が早くなった。

じっとしていると食べたくなるので、仕事が進む。

夜、部屋にいるとものが食べたくなるので散歩に出るか、寝るかの選択を迫られる。

家に帰ると、通販で買ったおからクッキーが届いていた。

体重が減った日は、定番の朝ばかりでなく、夕方にも体重計に乗ってしまう。

コロッケやラーメンというチープなものを大量に食べたい、とふと思う。

近所のドラッグストアには「蒟蒻畑Lite(こんにゃくゼリーのさらなる低カロリー版)」が置いていないことを知って、切れそうになる。

食べることを忘れているか、食べることを考えているか、の二種類で自分の人生は進行していると思う。



物事が見えてきた、という迷妄感覚(2)

2010年07月04日 09時46分17秒 | 身体
さてしかし、問題なのは、その「見えてきた」と思ったことを、意図もたやすく、あっけにとられるほど簡単に

忘れてしまう

ようになったことだ。

夢からさめたとき、いいアイディアだったなあ、と思うのに、何がどう良かったのか思い出せないのに似ている。

とすると、「物事の本質が見えてきた」と最近思うようになった、というのは、「白日夢」をよく見るようになった、ということだろうか?

あー、嫌になってしまうなあ。

「分かってきたぞ」感は明らかに増しているんだけれど。

というわけで、最近、書籍にアンダーラインを鬼のように引き、同時にノートにメモを取るようになってきました。

メモを取っても、何が「大事」だと思ったのかが、後で見るともう分からなくなっていて、意味があるのかどうか分からないし、所詮「迷妄」に過ぎないとすれば、病が篤くなった、だけのことかもしれない。

ただ、その「見えた!」感は、死ぬ前に形にしておきたい、と思う。

知人の言うように、ただボケの「きざし」という身体感覚が訪れた、だけ、とも言えるが。
とすれば、今後は長屋のご隠居さんのように、知らないことも知っていることもみんな知っているかのような「姿勢」を生きる、ことになるのだろうか。

無知を隠さない熊さん八っつあんから知を装うご隠居さんへ。

肝心なのは「無知」=「知」の交代じゃなくて、そのズレが生み出す「おかしみのある世界」の多層的で柔軟な「強度」なんだろうから、そこさえ見ておけばいいのかもしれないなぁ。

「汝自身を知れ」ということ(2)

2010年07月02日 23時15分50秒 | 身体
サッカーのことは皆目分からないが、見ていると何かしゃべってみたくなる。
スポーツというのは、幾分かは身体を巡る言説によって空疎な再生産を宿命づけられたイベントなのかもしれない、と思う。

さて、ひるがえって自分自身の身体の不調=病気について考えてみると、自分の体についてもまた、なにやら検査と診断によって外から与えられた言説において初めて自覚し、その外側からの言説によって自分自身を改めて意識し、その身体を伴って再組織していかねばならない事態が招来される。

いい医者に診てもらわないから駄目なんだ、という議論は、どこかサッカーの監督批評に似ていないこともない。
診断される前は全く別の意識、別の基準や習慣に支配されていたのに、病気と診断された瞬間、その前の状況には戻れない。

知らぬが仏、ともいえるが、あの監督だったなら、と「知っている」人は、無知を哀れむしかないのだろう。そして「世界を知らないサッカー」をさげすむことになるのだ。

お医者さんと話をしているとときどき「分かっていたらきちんとしようよ」というオーラを感じることがある。「理屈が分からない人なら言わないけれど、あなたは分かると思うから言うのだ」といって治療方法を示し、それにうなずかない患者(わたしのことです)を哀れむように見たり、あるいは「分かっていてもなかなかね」と共感を示したりもしてくれる。

これもどこかで見た情景ではないか。教育の現場で、「今やればいいのに」と思って生徒にそれを示し、指導して、誘惑しようとするのだが、しかし、そううまくはいかない……。

あれ、これはどこかで見たことがある。ああ、そうだ。

シリーズ・哲学のエッセンス『アリストテレス 何が人間の行為を説明するのか』(NHK出版)
にあった、「意志」の問題でもあるねえ。
わかっちゃいるけど止められない意志の弱さにおいて、「知識」と「行為」の選択の問題がクローズアップされていて、
「思慮」と「善きモノ」の関係には、やっぱり「倫理的な徳がからんでくるんだよねえ。

それは自由意思の問題でもある。

いちいち食べたいものを食べる、しゃべりたいことをしゃべる、ということができない中で、「善く生きる」選択をどうしなおしていくのか。
いろいろ考えちゃうなあ。

単なる無知ではなく、単なる現状依存というだけではなく、どう「善きモノ」にコミットする自分の行為を組織だてていくのか、という課題がそこにはある。

主体が理性的に判断して、知の名のもとに行為を統御する、というだけでは答えはでない、ってことだね。
(またこの項つづきます)

馳星周の岡田監督批判

2010年07月02日 20時35分07秒 | 身体
先日の新聞に、たしか馳星周だったと思うが、岡田監督批判を載せていた。

こんなに岡田ジャパン頑張った一色の日本で、敢えて岡田監督批判を書くことは、その点だけみると、ちょっと楽しい。

頑張ったのは監督じゃなくて選手だ、という主張は、どんな名監督の下であれ、主張する人はいるべきだとも思う。

岡田監督を辞めればいい、といって言っていた人たちが、手のひらを返したように岡田礼賛になるよりは、最後まで敵でいる方がずっと役に立つ。

だが、次の部分にきて、どうしても首をかしげざるをえなかった。
重要なポイントなので、引用する。

>。オシム監督が病魔に倒れさえしなけれぱ。どうしても、そう考えてしまう
>。彼ならば弱気に陥った選手たちを一喝しただろう。もっとクリエーティブ
>な戦い方で我々を魅了しただろう。

オシム監督の力量が、岡田監督の指導力よりも一枚上手だろうな、というのは、素人の私にもうすうす感じられる。
だって、岡田監督っていうのは、監督のスーパーサブとして2度も途中出場しているのだから。
だから、岡田監督を前にして「おまえはサブにすぎない」というのはまあ、そういう原稿でお金をもらうのはどうかとも思うけれど、それも別に不要な言説、ではないだろう。

でも、岡田監督を「スーパーサブ監督」というなら、オシムは日本代表監督を、体調不良で投げ出した監督だ。

日本代表監督である岡田の元で、選手たちは、外国開催のW杯で初めて決勝に進出し、その間のディテールとして、すてきな試合を見せてくれた。

敢えて言えば、ベスト16どまりの監督だった、という批判もあっていい。

しかし、絶対に続けることができなかった体調管理不良の監督の名前を出して、現監督を批判するのは、あまりフェアなことではないだろう。
その尻ぬぐいをしたのが岡田なわけだし。

だから、朝日新聞のコメントは、批評ではない、といって良さそうだ。

批評は、個人的な信念やファンタジーの吐露を超え出ていなければならない。結論がファンタジー、ではね。

ただし、岡田監督批判という文脈を離れてなら、オシムがいたらなあー、というのは個人的には賛成。
オシムはいいキャラしてるよね。小説を書いていないときの馳よりも。
何より、その言葉がいい。

オシムの言葉は、一見すると皮肉な言葉遣いだが、単純ではない「複雑な」ものを表現するのに最適なパフォーマンスを持っている。言葉によってサッカーを愛することができる才能っていうのは、凄いことだと思う。そういう「愛」があるよね。
馳のコラムにはそういう「複雑」なものに対する「ロマンチック」な(つまりは単純な)感傷があるばかりだ。

むろん、それは馳の存在が単純だ、ということを意味しない。

だが、その誰であっても本来、愛すべき「複雑」さは、残念ながらこの馳のコラムの言葉の「外」にある。
馳に限らず、重心を言葉の身体の外に持った瞬間、その言葉の身振りは美しさを失うと思うのだが、どうだろうか。