最後のオウム手配犯が逮捕され、消費税増税で二大政党が合意した。
東電福島原発事故以後の大飯原発の再稼働も決定。
尖閣諸島の都による購入が石原都知事主導で動こうとしている。
出来事は必ずしも一義的に決定などしていないのかもしれない。
多層的に、繰り返し、潜在的に決定され続け、あるいは変容し続けている。
出来事、というものはそういうものかもしれない。
では、存在は?
東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故は、私にとっては単なる出来事ではなく、「存在」の前提とでもいうべき種類の事柄になった。
政治はそれでも、そういう事柄でさえ、多層的な仮定的選択肢から何かを「選ぶ」行為であり得る、と言いたげに大飯原発の再稼働を「決定」していく。
たとえばギリシャの再選挙における市民の緊縮財政を巡る緊迫したせめぎ合いであってもいい。
それは何かを「選択」する「出来事」という種類なのだろうか?
普通の生活者が何が正解なのかを「分かる」ためには出来事の「柄」が大きすぎる。
それなりに「勉強」しないと何も見えてこないのは時代と状況を超えて同じだろう。
私はそのそれなりの「勉強」を、どこかで「真・善・美」という「本質」を巡ってしていきたいという極めて強い欲望に駆られている。
不安だからか?
おそらくその通り。
不安だから安心を求めるのは定義上当然でもある。
だが、「安心」と「錯誤」は「主観」の中ではとりあえず見分けがつかない。
オウムの例を見るまでもあるまい。
何をすべきか、何を信頼するか、安全や安心をどこで担保するか、ということを考えていくときに、単なる「外部の指標」だけでは決定的に不足している、と、この一年で感じるようになったのかもしれない。
だからといって無論、自分の主観の中の「匙加減」なんぞ信用したくてもできはしない。
他人の「匙加減」はもっと信用できない(苦笑)。
とりあえず私達には「分からない」し、「分かる前」に「既に/常に」生は今も生きられてしまっている。
そしてしかしその「今」に瞳を凝らそうとすれば、ますます寄る辺ない「不安」に苛まれることになりかねない。
私とってはあの、津波が人為の全てをなぎ倒しつくした海辺の光景から、今後の「生」を考えて行く以外にない。
繰り返し、そこに還ってくる。
人為の裂け目を覗いた瞳は、全ての微細なもの、全ての捉えきれないほど大きなものに、その「裂け目」の痕跡を「発見」しつづけていくことになるだろう。
裂け目はむしろ事件ではなかったのだ、と今なら理解できる。
それは存在の潜在性が、場所ならぬ不可視の場所としてその身を浮かび上がらせた、その痕跡なのかもしれない。
原発事故を災害や人災という出来事=事件として捉えるならば、それは再び起こる危険性を指し示しもするだろうし、あるいは再び起こる可能性を指摘しつつそれを回避するべき努力を要求しもするだろう。
一度認識された事件は、もはや「想定外」ではないのだから。
しかし、「想定」されたものはどこかで出来事として、ある種のズレというか断絶というか、言葉にならなさを忘れる働きをも同時に持つのではないか?
決して難しいことを言いたいのではない。
とりあえずは、現に起こった東電福島原発の事故が、「二度とあってはならない事故」として既に「忘却」されはじめているのではないか、という疑問が消えない、ということだ。
つまり、事件=出来事は可視化されることでむしろ忘却装置に繰り込まれていくのではないか、という疑問が消えないということ、といってもいい。
潜在的に<常に/既に>そこにある裂け目
に瞳を凝らす簡単なことが、とても難しくなる仕組みについて、やっぱり私は考えていかねばならない。
それがたぶん、「真」とか「善」とか「美」とかいうことについて考えはじめなければならない理由なのだろう。
若い時、おそらくは大学1年の頃「真・善・美」とか「愛知」について語る一般教養の哲学教授の講義を聞いて、5分で居眠りし、3回で出席を止めてしまった記憶が蘇る。
今時、そりゃないよ、と思った。
あれから35年。その古ぼけた「今どき、そりゃないよ」という苔むした門を、私は改めてくぐろうとしているのだろうか。
そうかもしれない。
そうではないかもしれない。
あくまで「今」をもっとよく見たいだけだ。ここで今、何が動いているのかにいくぶんかでも敏感でいたい、と思うだけだ。
東電福島原発事故以後の大飯原発の再稼働も決定。
尖閣諸島の都による購入が石原都知事主導で動こうとしている。
出来事は必ずしも一義的に決定などしていないのかもしれない。
多層的に、繰り返し、潜在的に決定され続け、あるいは変容し続けている。
出来事、というものはそういうものかもしれない。
では、存在は?
東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故は、私にとっては単なる出来事ではなく、「存在」の前提とでもいうべき種類の事柄になった。
政治はそれでも、そういう事柄でさえ、多層的な仮定的選択肢から何かを「選ぶ」行為であり得る、と言いたげに大飯原発の再稼働を「決定」していく。
たとえばギリシャの再選挙における市民の緊縮財政を巡る緊迫したせめぎ合いであってもいい。
それは何かを「選択」する「出来事」という種類なのだろうか?
普通の生活者が何が正解なのかを「分かる」ためには出来事の「柄」が大きすぎる。
それなりに「勉強」しないと何も見えてこないのは時代と状況を超えて同じだろう。
私はそのそれなりの「勉強」を、どこかで「真・善・美」という「本質」を巡ってしていきたいという極めて強い欲望に駆られている。
不安だからか?
おそらくその通り。
不安だから安心を求めるのは定義上当然でもある。
だが、「安心」と「錯誤」は「主観」の中ではとりあえず見分けがつかない。
オウムの例を見るまでもあるまい。
何をすべきか、何を信頼するか、安全や安心をどこで担保するか、ということを考えていくときに、単なる「外部の指標」だけでは決定的に不足している、と、この一年で感じるようになったのかもしれない。
だからといって無論、自分の主観の中の「匙加減」なんぞ信用したくてもできはしない。
他人の「匙加減」はもっと信用できない(苦笑)。
とりあえず私達には「分からない」し、「分かる前」に「既に/常に」生は今も生きられてしまっている。
そしてしかしその「今」に瞳を凝らそうとすれば、ますます寄る辺ない「不安」に苛まれることになりかねない。
私とってはあの、津波が人為の全てをなぎ倒しつくした海辺の光景から、今後の「生」を考えて行く以外にない。
繰り返し、そこに還ってくる。
人為の裂け目を覗いた瞳は、全ての微細なもの、全ての捉えきれないほど大きなものに、その「裂け目」の痕跡を「発見」しつづけていくことになるだろう。
裂け目はむしろ事件ではなかったのだ、と今なら理解できる。
それは存在の潜在性が、場所ならぬ不可視の場所としてその身を浮かび上がらせた、その痕跡なのかもしれない。
原発事故を災害や人災という出来事=事件として捉えるならば、それは再び起こる危険性を指し示しもするだろうし、あるいは再び起こる可能性を指摘しつつそれを回避するべき努力を要求しもするだろう。
一度認識された事件は、もはや「想定外」ではないのだから。
しかし、「想定」されたものはどこかで出来事として、ある種のズレというか断絶というか、言葉にならなさを忘れる働きをも同時に持つのではないか?
決して難しいことを言いたいのではない。
とりあえずは、現に起こった東電福島原発の事故が、「二度とあってはならない事故」として既に「忘却」されはじめているのではないか、という疑問が消えない、ということだ。
つまり、事件=出来事は可視化されることでむしろ忘却装置に繰り込まれていくのではないか、という疑問が消えないということ、といってもいい。
潜在的に<常に/既に>そこにある裂け目
に瞳を凝らす簡単なことが、とても難しくなる仕組みについて、やっぱり私は考えていかねばならない。
それがたぶん、「真」とか「善」とか「美」とかいうことについて考えはじめなければならない理由なのだろう。
若い時、おそらくは大学1年の頃「真・善・美」とか「愛知」について語る一般教養の哲学教授の講義を聞いて、5分で居眠りし、3回で出席を止めてしまった記憶が蘇る。
今時、そりゃないよ、と思った。
あれから35年。その古ぼけた「今どき、そりゃないよ」という苔むした門を、私は改めてくぐろうとしているのだろうか。
そうかもしれない。
そうではないかもしれない。
あくまで「今」をもっとよく見たいだけだ。ここで今、何が動いているのかにいくぶんかでも敏感でいたい、と思うだけだ。