龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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潜在的には<常に/既に>そこにある裂け目

2012年06月16日 16時31分00秒 | 大震災の中で
最後のオウム手配犯が逮捕され、消費税増税で二大政党が合意した。
東電福島原発事故以後の大飯原発の再稼働も決定。
尖閣諸島の都による購入が石原都知事主導で動こうとしている。

出来事は必ずしも一義的に決定などしていないのかもしれない。
多層的に、繰り返し、潜在的に決定され続け、あるいは変容し続けている。

出来事、というものはそういうものかもしれない。

では、存在は?
東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故は、私にとっては単なる出来事ではなく、「存在」の前提とでもいうべき種類の事柄になった。

政治はそれでも、そういう事柄でさえ、多層的な仮定的選択肢から何かを「選ぶ」行為であり得る、と言いたげに大飯原発の再稼働を「決定」していく。

たとえばギリシャの再選挙における市民の緊縮財政を巡る緊迫したせめぎ合いであってもいい。
それは何かを「選択」する「出来事」という種類なのだろうか?

普通の生活者が何が正解なのかを「分かる」ためには出来事の「柄」が大きすぎる。
それなりに「勉強」しないと何も見えてこないのは時代と状況を超えて同じだろう。

私はそのそれなりの「勉強」を、どこかで「真・善・美」という「本質」を巡ってしていきたいという極めて強い欲望に駆られている。

不安だからか?
おそらくその通り。
不安だから安心を求めるのは定義上当然でもある。
だが、「安心」と「錯誤」は「主観」の中ではとりあえず見分けがつかない。

オウムの例を見るまでもあるまい。

何をすべきか、何を信頼するか、安全や安心をどこで担保するか、ということを考えていくときに、単なる「外部の指標」だけでは決定的に不足している、と、この一年で感じるようになったのかもしれない。

だからといって無論、自分の主観の中の「匙加減」なんぞ信用したくてもできはしない。
他人の「匙加減」はもっと信用できない(苦笑)。

とりあえず私達には「分からない」し、「分かる前」に「既に/常に」生は今も生きられてしまっている。
そしてしかしその「今」に瞳を凝らそうとすれば、ますます寄る辺ない「不安」に苛まれることになりかねない。

私とってはあの、津波が人為の全てをなぎ倒しつくした海辺の光景から、今後の「生」を考えて行く以外にない。

繰り返し、そこに還ってくる。

人為の裂け目を覗いた瞳は、全ての微細なもの、全ての捉えきれないほど大きなものに、その「裂け目」の痕跡を「発見」しつづけていくことになるだろう。

裂け目はむしろ事件ではなかったのだ、と今なら理解できる。
それは存在の潜在性が、場所ならぬ不可視の場所としてその身を浮かび上がらせた、その痕跡なのかもしれない。

原発事故を災害や人災という出来事=事件として捉えるならば、それは再び起こる危険性を指し示しもするだろうし、あるいは再び起こる可能性を指摘しつつそれを回避するべき努力を要求しもするだろう。
一度認識された事件は、もはや「想定外」ではないのだから。

しかし、「想定」されたものはどこかで出来事として、ある種のズレというか断絶というか、言葉にならなさを忘れる働きをも同時に持つのではないか?

決して難しいことを言いたいのではない。

とりあえずは、現に起こった東電福島原発の事故が、「二度とあってはならない事故」として既に「忘却」されはじめているのではないか、という疑問が消えない、ということだ。

つまり、事件=出来事は可視化されることでむしろ忘却装置に繰り込まれていくのではないか、という疑問が消えないということ、といってもいい。

潜在的に<常に/既に>そこにある裂け目

に瞳を凝らす簡単なことが、とても難しくなる仕組みについて、やっぱり私は考えていかねばならない。
それがたぶん、「真」とか「善」とか「美」とかいうことについて考えはじめなければならない理由なのだろう。

若い時、おそらくは大学1年の頃「真・善・美」とか「愛知」について語る一般教養の哲学教授の講義を聞いて、5分で居眠りし、3回で出席を止めてしまった記憶が蘇る。
今時、そりゃないよ、と思った。

あれから35年。その古ぼけた「今どき、そりゃないよ」という苔むした門を、私は改めてくぐろうとしているのだろうか。

そうかもしれない。
そうではないかもしれない。

あくまで「今」をもっとよく見たいだけだ。ここで今、何が動いているのかにいくぶんかでも敏感でいたい、と思うだけだ。






「ライプニッツとスピノザ、そして近代における神」の感想

2012年06月11日 23時57分01秒 | 大震災の中で
『宮廷人と異端者』(書肆心水刊)を読んだ。
副題は「ライプニッツとスピノザ、そして近代における神」。

面白い!
ライプニッツがいささかならず戯画化されているし、その現代的意義についてはほとんど触れられていないので、「今」ライプニッツをきちんと読もうとする人にとっては残念本かもしれない。
でも、そこはおそらく著者も織り込み済み。

この本の眼目は、現代におけるライプニッツ自身の哲学の評価ではない。

17世紀における「神」を巡って、ライプニッツという天才と、スピノザという天才が、どんな形で出会い、どんな「問題圏域」を基盤として対立し、それぞれが同じ時代の中でどう生きたか?
という時代のコンテキストを「想像」するためには、本当に素晴らしい本だ、ということだ。

まるで推理小説のような前半のワクワクだけでも、読む価値はあるんじゃないかなあ。
ライプニッツはスピノザの哲学を否定しようとして半生をそれに費やし、しかし結局成功しなかった、みたいなストーリーにしてしまうとお話がいささか貧弱になる。でも、単にそういう話じゃなくて、この本がなぞっていくライプニッツの「葛藤」は、私達にとっても無縁の話じゃないよねってことでもある。

個人的には今のところスピノザ哲学萌えしているのだが、スピノザの影に怯えるライプニッツ、というこの本の描写を読んでいると、よく知らない素人の私でさえ、いやいやライプニッツのモナド論とか、もっとなんか怪しくて面白そうでしょう、という感じがする。



おそらく、その辺りの事情、つまり「もっと別の本でいろいろ読みたくなる効果」は折り込み済みじゃないのかな、著者は。

敢えてライプニッツの近傍にスピノザを置いたら、ライプニッツの半生はどう見えてくるのか、という思考実験を(かなりライプニッツの残した文書を丁寧にたどりながら)している、と見て取れないこともない。

スピノザの、外部に超越的な参照点を持たず、あくまで唯一の「実有」としての神=自然の様態としてこの世界の事物を捉え、ということは全ての物質的存在に神が内在しているという考えの「危険性」を実感するという感じは、ライプニッツではなくても分かる。

私達もまたそのスピノザのあられもない徹底性に「怯える」瞬間があるわけだから。

え、その神様って、もはやあの超越者とはいえ、半ば人格神的な感じもある神様じゃないんじゃね?スピノザは汎神論とか言われるけど、無神論なんじゃね?という多くの人がスピノザを読んだときに感じる「異様さ」(上野修)。徹底性。透明性。謎めいた静けさ。

そういう意味ではここで描かれた戯画化されたライプニッツは、平凡な私達がスピノザと向き合ったときに感じるある種の「たじろぎ」の体現者、でもあるのかもしれない。


まあそれが哲学推理小説、というか映画っぽいいい感じで進行していくのだから、お話としては面白くないはずがない。

加えて、二人が生きた時代、環境、人生、食べ物や衣類など、が具体的に事細かく、しかも生き生きと描かれているのも素晴らしい。
正直、一番感心したのはそういう細かいディテールです。

哲学書として読まれるより、教養エンタ的ジャンルで上手に宣伝したらもっと売れるんじゃないかなあ。
(って、どれだけ売れてるのか知りませんけど。3800円+税という値付けからして、爆発的に売ろうとはしてないのかしら。火が付いたら結構いけると思うけれど)。

後半、17世紀以後の流れのノート的叙述は正直不満&不安。
これをやるなら、もう少し(「啓蒙的」になってもいいから)、ライプニッツとスピノザの現代的意義と課題、みたいなところを丁寧に追ってほしかった。

でもまあ、それは別の著作でやるべき話かな。
当たり前だけど、謎はスピノザの側だけにあるわけではない、ってことです。



1324人の福島県民が東電会長らを告訴

2012年06月11日 23時17分30秒 | インポート
東京電力福島第1原発事故で被ばく被害を受けたとして、発生時の福島県民1324人が11日、東電の勝俣恒久会長や原子力安全委員会の学者ら33人について、業務上過失致傷容疑などで福島地検に告訴状を出した。(毎日新聞)
記事は下のURLで
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120611-00000073-mai-soci

いよいよ長い戦いが始まりました。

今後、最後まで注目していきたいと思います。

私は、被曝被害の責任が刑事的に問われないとしたら、この国に未来はない、と考えています。

東電会長や原子力安全委員会の学者さんは否認すると思いますが、刑事的責任を追及する必要があります。

「人為を超えたもの」をきちんと見つめるためにこそ、人為と自然との臨界面を法的にも明らかにする努力が、私達に課せられた課題の一つだと考えるからです。


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個人的には今回の原告には残念ながら参加できませんでした。
高橋哲哉氏の講演会でその動きは聞いていたが、行動が伴わなかったのです。
反省。
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貴島孝雄のロードスター論を読んだ

2012年06月08日 23時30分08秒 | 大震災の中で
貴島孝雄のロードスター論を読んだ。
本についてはこちら

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980366

で、そこにこんなエピソードが書いてあって、深く納得したのでメモ代わりに。

ビルシュタインの部品(ドイツ製?)をマツダの車に使おうとして、走行テストを行ったところ、あろうことか日本製の部品は壊れないのに、ビルシュタインの部品は封入したダンパーの油が漏れだしたのだ。
当然、貴島さんたちマツダは、「なんだ、ドイツ製とはいっても耐久性は悪いじゃないか、これじゃ社内のレギュレーションを通らない」ということでメーカーにダメだしをしたのだという。
そうしたら、ビルシュタインの技術者は、そのテストコースを確認させろという。
マツダの方が「これだけ厳しい状況をテストしている」と胸を張ると、彼の地の技術者は

「そんなテストをすれば必ず壊れる。非現実的だ。むしろ、日本製のダンパーは、本来の仕事をしていないから壊れないのだ。うちの部品はきちんと仕事をしているから壊れるのだ」

と傲然と言い放ったという。
そこで貴島さんは、まあそのドイツ魂にちょっと呆れつつも、「お前たちの部品は、本来の仕事をしていないから壊れないのだ」というビルシュタイン側の批判から、逆に一流の技術が求めるものは、単に日本製のように壊れないことだけではないのだ、と気づいたのだそうです。

そういうのって大事だよねえ。
同じ事が、スカイマークの「感情労働」拒否宣言にも言える。

「客」は、はした金を払っただけで「感情労働」を無限に奪取する「甘えの構造」を潜在的には持つ。
日本人の生きている基盤=OSは、その「甘えた」の構造に親和性が高い。
(無茶いう客は何も日本人だけじゃないんだろうけれどね)

スカイマークはそこを敢えて非日本的な表現で拒否したから、問題視されたのだろう。

無論、「苦情は受けない。消費生活センターへ」ってのは表現が中途半端だったからダメだしすべきところだけれど、サービス業における「感情労働」の無間地獄に歯止めを掛けた点は評価してもいいんじゃないか。

コストカットには理由があっていい。
むしろ、そこをきちんと説明すればいいのに、という次のブログに共鳴。
河合薫のブログ

もともとこの「感情労働」についての議論は、客室乗務員ばかりではなく、看護とか介護の仕事においてなされてきたと認識している。この議論は非常に難しい側面があって、きちんと勉強しないと簡単には語れないけれど、

1,表面的な演技(「いらっしゃいませ○○へようこそ、おたばこはお吸いになりますか」的マニュアルで済む)
2,場面に応じた演技(客室乗務員レベル。その場限りだが、場合に応じたきめ細かい対応がそれなりに必要。心は売らない)
3,内面的感情をコントロールするレベル(介護や看護、教育。やることは職務で決まっている。そこに心を込める必要あり)
4,内面的感情をコントロールしつつ、それをマネージメントするレベル(医者やカウンセラーなど専門職)

素人が考えてもかなり多様だ。
しかし、ちょっと考えただけでも演技と内面化と運用という3つの面はある。
マニュアルですむレベル、経営者や上司の指導ですむレベル、かなりの訓練を経てスキルとして身につけるレベル、元々持っている性格や才能を必要とするレベル
とさまざまに考えられよう。

これが「サービス業」においては、労働者は、正当な値段がつかないままヘタすると無限に要求される。
勘弁して欲しい。

ま、スカイマークのへたっぴいなやり方は、確かに今までの日本の職業意識と微妙なズレがある。

これからの「感情労働」をコストとしてどう意識し、マネージメントするか、また労働者のその部分をどう正当な対価として評価するか(マニュアルレベルか、指示に従うレベルか、訓練や教育によって支えるレベルか、はたまた個人の持っている「性能」「資質」の部分で理解するのか)、課題として考えていく必要があると思う。

人間だって壊れるんだからねぇ。

日本は日本の価値基準というか文化的OSがあって、今まではやってこれた。
でも、それを無意識で使って世界で通用していた時代が終わったんだろう。

これからは、「肩」も「心」も消耗品だ、ってのも考えていかなくちゃ。
その上で、きちんとメンテナンスして継続した仕事ができ、それなりに生活できる対価が貰えるような形を探していきたいなあ。

結局のところ必要なのはたぶん、どこでも通用するコストカット(とか一流の部品設計とか)とかいう抽象的な話じゃなくて、欲しいのは日本人としてのやり方、なんだけどね。










「安全か/危険か」の二分法ではなく。

2012年06月08日 22時48分40秒 | 大震災の中で
少しだけ補足しておく。
私にとって、大飯原発再稼働の是非は、原発が「安全か/危険か」の二分法で考えるべきことではない。

福島の事故も収束していないし、処理のメドも経っていないし、まして避難者の今後も分からないし、責任も取れていない段階で、再稼働を「決断」する、というのは納得できない、ということだ。

つまり、これだけの事故があっても、その検証やシステムの解体=再構築よりこの夏の電力が大切ってことだよね?
それがやっぱりマズイと思うんだなあ。

再稼働賛成か反対かで国論が二分されているから首相として責任ある判断をする、それが再稼働だっていう趣旨の発言があって、その言葉は、再稼働賛成の人と、再稼働反対の人は賛成するなり反対するなり、そのロジックに反応できるのかもしれないけれど、福島の事故を間近に感じている者にとっては、正直お話にならない。

話のOSが違いすぎて笑ってしまいそうになる。

なぜなら、事故がどの原発にも起こりえるリスクであることは、「安全神話」の延長線上にあった福島原発事故を見れば、ロジックとして自明。
なのに、その事故検証と安全神話解体が完了していないのに見切り発車する。
だから、そこが一番問題、ということだ。

原発は危険。
そして事故が起これば壊滅的な被害を受ける地域がでる。

それでも危険のない場所に電気を送るからには、結果として「間違っていた」政府の安全宣言の裏書きじゃあ、論理的に成立しないでしょう。

電気がないと貧乏になるぞ!電気がないと職がなくなるぞ!電気がないと命があぶないぞ!

と脅されてもねえ。
無論、いきなり病院などで生命維持の装置が停電でストップするとはなはだ危険な状況が切迫して起こりえることは理解できる。
でも、とりあえず考慮すべきはその件だけだ。

福島県もその点では沖縄県と同じように、国民の安全の網の外にあって、人柱的聖なる痕跡を抱えて生きることになるのだろうか。

繰り返しておく。

原発が安全か危険か、の判断を首相に頼んだ覚えはない。政府にはその能力はない。科学者にもなかったし、まして電力会社に判断させてはいけなかった。

その判断をするシステムを再構築するためには、本気でやれば別に何十年もかかるわけではあるまい。

その上で考えるべきだ。

繰り返すが、全部一気に廃炉にしよう、とは私は考えていない。
きちんと福島の汚染された現実と、そのリスクを踏まえた説得になっていないところがうんざりなのだ。

「悪いことは言わないから、今再稼働するのは止めておいたほうがいい」

そう思う。


野田首相、大飯原発再稼働の会見について。

2012年06月08日 22時22分31秒 | 大震災の中で
国民の生活を守るために、大飯原発を期間限定ではなく、稼働させるという趣旨の首相記者会見があった。
大飯原発は暫定的ではあるが「安全だ」との判断もなされた。

なあにを言っているんだろう、と思う。

福島県も国土だし、今避難している人達も国民のはず。でも「安全だ」と言われていた福島の自然や生活は、結果として守られなかった。
それを無視しているとしたら、事故が起こった福島は切り離して「国民の生活」を確保するっていう話になる。
仮にもし、大飯で事故が起こったら、またそこを排除した上で、「残りの国民の生活」を守るんだろうか。

sigh。

石油ショックのような痛み、エネルギー安全保障という危惧を言うけれど、これは経済的利益にすぎない。
起こってしまった事故の責任を負うべき政府の発言としては、にわかに信じがたい。

んー、福島県を国民以外に排除した言説ということになりはしないか?

個人的には、この機会に日本は少し黄昏れていった方がいいと思う。
最近は欧州危機の問題とか原発事故問題とか大震災復興問題とか電力問題とか、大きな話ばかりが目について、誰も経済的な下降を軟着陸させるって話をしてくれないけれど、誰が景気回復とか再成長とかを今の状況で信じられるだろうか。

いったん事故が起こったら、町は自然環境も、土地も、コミュニティも、ほぼ全てを失う。
いや、もう現にそれを失って、回復の見込みもまだ経っていないし、事故収束さえしていない現実がある。

何度でも繰り返して書いておく。

「悪いことは言わないから止めておいた方がいい」

今日の首相会見は、事故の被害を踏み台にしてでも今までの豊かさを断固守る、という宣言だったのだろう。
「気持ちは分かるが安全だから、国民の電気を守る方が優先」
ってことか。
繰り返すが、ヒドイ話だ。福島から見ると、そう見える。


電気を大量に必要とする「国民生活」を人質にとった言説のスタイルも気になるけれど、

それ以上に、福島県が「国民」から排除されている印象にがっかりした。
事故検証も終わっていないし、東電と政治家の刑事責任も全く問われていない中での再稼働宣言は、とてもうなずけないなあ。

余裕がなくなってきて、経済と政治を担っているという人達の「論理」が露わになってきた、という印象を持つのは、福島という「辺境」にいるから感じる偏見だろうか。

原発再稼働反対、というより、この首相の言葉にまず反対の一票を入れておく。
AKB48の選挙だったら、CD100枚ぐらい買って反対を「おしメン」投票したいけどね。


友人から「本が読めなくて」というメールを貰った。

2012年06月07日 22時18分23秒 | 大震災の中で
国語教師をしている友人から、「最近本が読めなくて」というメールを貰った。
商売柄、というか、そこに流れ着いた者の多くは、三度の飯か読書か、という輩が多い。

ただし、教師という仕事は雑用も多く、本好きなはずの国語教師も、意外に本を読まない(つまりは学ばない)人も少なくない。
無論、本を読んでさえいればいいってもんじゃないんですが。

その友人は、しょうがないから「美術史」を眺めているそうです。

本来自分の興味があるはずの分野の本が読めなくなり、それ以外のジャンルの本は「気軽」に読めてしまう時期ってのが間違いなくあると思う。

私は震災以後半年以上、そうでした。
とくにフィクションが読めなかった。圧倒的というか、人生最大規模の初体験が連続して、とてもじゃないけれど小説も詩も、手に取る余裕がありませんでした。

唯一読めたのが哲学。

スピノザを読み始めたのは5年前ぐらいからで、っていうかまだそのころはスピノザの言ってることがちんぷんかんぷんでした。
震災以後、急に傾倒しだした、とはいえるかもしれませんが。

私は

動=ドライブ/静=読書

というバランスで生活していて、さらに読書のバランスでいえば

動=小説/静=哲学

という感じです。
ついでにいえば動と静の間に、人間=「喋ること」=「酒飲み」が入っているような気がします(笑)。

基本、ドライブも読書も一人でやるものだけれど、そう単線的に考える必要も実はなくて、

親しい人とドライブの旅をしながら哲学や本、教育や社会、食べ物やファッションの話をするってのが無類に楽しい。

最近、社会生活に疲れて「山に穴を掘って独りで暮らしたい」と思うことは多いけれど、人と交わりをすっかり断ち切ってしまっては、小説も哲学も、旅行も酒飲みも、世界でたった一人でやってみてもどうにも楽しくはなさそうだとも感じる。

難しいものだ。

そういう意味では、

「ちょっと距離を取り直す」

っていうのは、本でも人でも趣味でも案外「いい感じ」なのかもしれないですね。

でも、仕事をしていると、エンドレスの泥沼が当たり前だったりして、簡単には仕切り直しができない。
そしてだからこそ一人でドライブしたり、哲学書を読むのがそれだけで無上の快楽だったりもする。

だけれど、泥沼がなければ逆に、しばしば隠遁した先から出てきて、人里の周辺を狸のごとくうろうろしてしまうのかもしれない、とも思うのです。

その「うろうろ」ってのも、そう悪くないかも、ですね。


テキストを読む楽しみは、年を経て深くなる。

2012年06月06日 21時55分16秒 | 大震災の中で
テキストを読む快楽は、若い時よりも深くなったような気がする。

若い時は、面白いモノをひたすら追いかけていた。
物語でも、表現でも、スタイルでも、キャラクターでも、作者の姿勢でも、何でも良かった。面白ければそれでいい。
そう思って、本を漁り続けていた。

体力が下り坂になり、目も悪くなって(近眼で乱視なのに老眼。プラス疲れ目で夜はしょぼしょぼ)、読む速度も量も減ってきたころから、テキストをじっくり読み味わうことができるようになった。

なに、ボケが幾分か入って新しいものが入ってこないのにかつて入れたモノも次第に忘れがちになり、大事な大筋だけがつかの間明晰に見えるという

「初老期逆-時分の花」

がきざしているだけのことかもしれないのだが。

それにしても、ちょっとテキストを読んだだけで、そこに直接は見えないものを「参照」する「省力化」の癖がついた。なんとなく脳味噌の中でぼんやりと、そのテキストだけではない、頭の中に澱のように蓄積されたモヤモヤを参照しつつ、眼前のテキストをそれなりに「豊か」に味わうことができるようになったのは、まあ年の功といえば言えるのかもしれない。

読み切れないほど物置に詰め込まれたテキストを、近々処分しようと思う。
捨てられないものは「自炊」でもしようか、と、スキャナを物色しはじめた。

震災で失ったScanSnap(富士通)をもう一度買って、積ん読テキストはipadで読むことにしよう。

もちろん紙媒体でなければならないテキストもある。
しかし、紙媒体で全てを手元に置く必要はない。

第一、死ぬまでに手元にあるテキストさえ全部を読む(あるいは読み直す)ことさえできない量に達している。
まして、死ぬ前には体力的にも能力的にももはやテキストを読むに耐えなくなることだってあるだろう。

そろそろ店じまいの準備ぐらいはしはじめてもいい。



スピノザ本を3冊前にした幸福

2012年06月06日 20時33分06秒 | 大震災の中で
「あなたは神を信じますか?」と尋ねられたとき、アインシュタインは答えた。
「スピノザの神を信じます」
と。

かっけー。
誰か私にも訊いてくれないか、と思う(笑)。

その時期その時期に、ファンになる哲学者がいた。
それは時にメルロ・ポンティだったり、ヴィトゲンシュタインだったり、デリダだったりフーコーだったりした。
大してテキストを読んだわけではないけれど、それなりにそのテキストに触れては、さっぱり理解できないのになんとなくその周辺に立ち上るパラテキストやメタテキストの匂いをかいくぐって、テキスト本体がその内に孕むブラックホールのような不可視の中心をこわごわ覗くぐらいのことはしていた。

でも、正直な話、その「人」のテキストを好む、ということは、幾分かはそういう種類の「行為」なのではないかしらね。

そして、今はスピノザ。

じゃあそのスピノザ萌えは、いったいいつ頃まで?ってことになるのだろうか。

それは分からない。
しかし、老後の楽しみには十分だという根拠無き確信がある。

今、熊野純彦の『レヴィナス入門』(ちくま新書)をちくま文庫の『レヴィナスコレクション』を脇において読んでいる。

ところどころグッと来る。

しかし、同時に疲れる。
一冊読み終える頃には、鬱々とした気分が本文からこちらに憑依してくるのではないか、と思うほどだ。
文学じゃないのだから、グッとくるとか鬱々とする、とかいう感想を書いてもしょうがないのかもしれないが、私はようやく、哲学をそういう風に享受する仕方を身につけた。

何の役にも立たないけれども、テキストを快楽を持って読むことが可能になったのだ。
それは20代のころからやりたかったことかもしれないのだが、「文学」にはいろいろなものが乗っていて、なかなか単純なそれができなかった。

古典ならそれができるのかもしれない、と思い始めたのは30代も後半になってからだ。
『土佐日記』や『更級日記』、『源氏物語』など、教科書に載っているようなテキストが、どれほど魅力的なものであるのかが分かってきたのは、遅ればせながら高校国語教師をはじめて20年以上も経ってからのことである。

それが40代後半から、哲学的テキストにおいてもようやく現象として立ち上がってきたような気がする。
早熟の天才ならいざしらず、普通の人間がテキストを読むためには、「時」が熟してこなければならないのだ、ということなのだろう。

周辺知識の蓄積と活用が必要だっていうことは、半ば当たっていて、半ばは外れている。
確かに源氏のテキストを生で楽しむためには、それ相応の基礎知識なり多少の訓練は要るだろう。
ただ、年を取るというのはそういう知識の蓄積だけではなく、蓄積された澱のような知識がだんだん「ボケ」てきて、自動的に取捨選択され、ある中高年の一時期にだけ、明晰に枝葉と幹のバランスが、その人間の積み重ねた訓練や知識や知的能力の量に応じて、ごく短い間だけ、世界を過度に明晰に示してくれるということがあるのではないか……
そんな風に私は感じている。

主観的にはこの数年、そういう「時期」に差し掛かってきた。

「分かる時には、そのことが分かるということに外部の標識を必要とせず、しかも自分が分かるということが分かっている」

スピノザがおそらく20代で到達していたであろう、ある意味傲慢でさえあるような純粋な「真理体験」の感触の端緒を、今ようやくかすかにその匂いを嗅ぐ程度のところで味わおうとしているのではないか?
そんな風に思わせてくれる「力」が、今の私にとってのスピノザのテキストには内在していると感じられる。

とりあえず、レヴィナスのテキストと、レヴィナスについてのテキストを読んでいても、そういう感じには駆られない。

スピノザを読んでいると、スピノザだけ読んでいれば十分、という感じがしてくるのだけれど、そのスピノザの破門をイスラエルが撤回しようとしたときにレヴィナスが激烈な反対をしたとか、ライプニッツはスピノザの哲学に大きな興味を抱きつつ、その志向を隠し続けたとか、そういう周辺テキストの「お話」を読むと、どうしてもいろいろ広がっていってしまう。

今手元に積んでいるのは次の三冊。

1『宮廷人と異端者』M・スチュアート(2011年11月書肆心水刊)
2『国家・教会・自由』福岡安都子(2007年12月東京大学出版会刊)
3『2010スピノザ-ナ』(2011年4月学樹書院刊)

スピノザ本も探し出すといろいろあるものです。
1はライプニッツとスピノザを対比しながら、とくにライプニッツの未公開原稿を渉猟しつつ論じた、推理小説のような魅力ある1冊。
読み出したら止められない感じです。ついでに当時のヨーロッパの歴史的な背景など、早わかりの勉強になるし。
2は國分功一郎センセがブログか2chかで絶賛紹介していた(はず)の1冊。学問研究ってこうでなくちゃ、という熱い國分節に惹かれて購入。でも、『スピノザの方法』の言葉に対するこだわり、言語表現への妥協無き迫り方は、テキストを読む喜びに敏感な文学好きには堪えられないですねえ。
この2の本は、実に本格的な論文。
姿勢を正して読まないと理解できないかもしれないので、ちょっと「神棚」に置いてあります)(笑)。

3はスピノザ学会の会報。こういう学会があるんですね、びっくり。そして、中に書いてある論文が読みやすいことといったら!
いや、哲学の学会誌とかいったら、普通こんなリーダビリティは期待できません。哲学的ジャーゴンが満載で、どうにもならないのがあたりまえ。

いや、誤解のないように言っておけば、分かりやすいかどうかは別です。

分かりやすい哲学、なんてない、とも言えるわけで。

ただ、スピノザ研究者の文章は、あきらかに他の哲学者についての研究論文よりも、「空気が通っている」感じがするのですね。
それはやっぱり、スピノザのテキストの、あの「あられもない」明晰さと無関係ではないような気がします。
丁寧でしかもとりつく島がない、というか。
だから、研究者の対象は明晰になりやすい。

つまり、普通だったなら哲学者の文章とか哲学の研究っていうのは何が問題なのかが分かるまでにメチャメチャ大変なわけです。
っていうか、何が問題なのかが分かれば、もうその哲学を半分以上は理解したといえちゃうぐらいなわけで。
ところが、スピノザの場合は、そこがもう分かりやすいというか分かりにくいというか、普通の哲学者のテキストとは根本的に違う「修辞」というか「ルール」と言うか「文体」で書かれているとしか思えないのです。

だから、その研究もまた、その圏域の烈風をまともに受けてしまう、みたいな。
そして、その風の受け方ぐらいは、素人にも見えやすい、みたいなね。


ともあれ、ホッブズ、ライプニッツ、レヴィナス、デカルト、ドゥルーズを横に置きつつ、スピノザについてゆっくり考えるのは、楽しい時間です。
もしかすると、何かの横に置いたとき、スピノザは超輝くように出来ているのかしら?
いや、そういう憑依型、ミラーリング型じゃないなあ。
むしろ、スピノザ以外の哲学者たちが、鏡に映し出されてしまうというか、スピノザの光によってそれ以外の哲学者の何かがあぶり出されてしまう、といった方が実情に近いかもしれない。

そういう訓練は文学の方でちっとはしてきているから、スピノザについて語る研究者の何かがあぶりだされる、その焦げた匂いぐらいは嗅ぎつけやすい、ってことでしょうかね、今まで書いていたことは。
「レンズ」の比喩は使わないでおくけれど(苦笑)。

さて、では「幸せ」の中に戻るとしましょう。



スピノザ哲学の射程

2012年06月05日 00時05分12秒 | 大震災の中で
國分功一郎『スピノザ入門』講座第1期のまとめとして、講座の最後に総論的な話をしていただきました。

スピノザ哲学の射程
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980370
としてメディア日記にアップしてあります。よろしかったらぜひ。

デカルト→スピノザ
という流れと
ホッブズ→スピノザ
という流れと

がお話の中に出てきて、いろいろまた考える楽しみが増えました。
特に、
『「「デカルト」を読むスピノザ」を読む』
という形になる第2期(7/7,7/21,9/15)の講座がさらに楽しみです。

「デカルトを脇においてスピノザを考える」
「ホッブズを脇においてスピノザを考える」

つまり、スピノザはスピノザをそこに置いて考えたんじゃよく分からないっていう種類の存在なのかもしれない、と。

文体にもそれは表れていますよね。
というか、文体というのにふさわしくないような、むしろ「態度」とでも言ってしまった方が適切であるかのような表現の様態の特徴。

ある種の徹底性、あっけらかんと行けるところまでいってしまう思考スタイル、とでも言おうか。
その辺りも含めて、ますますワクワクです。

よろしかったら第2期講座(朝日カルチャーセンター新宿校)、いかがでしょう?


ショットノート(キングジム)を使用中。

2012年06月04日 23時56分03秒 | ガジェット
iPhoneやiPadに簡単に取り込み、Evernoteなどのクラウドサービスで簡単に整理できるスマートフォン用のノート、

SHOT NOTE

を使い始めた。写真フォルダにいちいち写真を撮って、それを加工したり切り取ったりして整形した上でクラウドサービスに送るのは二度手間だ。
そういう意味で専用用紙と専用ソフトですぐクラウドのデータベース用データにできるのはありがたい。

でも、実際にはそれほど使っていない(笑)。
電子データになるような種類のものは最初からキーボードで打つことが圧倒的に多いし、使い捨てのメモなら手書きでok。
また、スマートフォンにメモするのもエディタにちょろっと打つぐらいは負担にもならない。
ノートにぎっしり書いて置いて、しかもそれがアナログの手書きノートで、それを多数Evernoteあたりに挙げておいて整理・再利用する、なんていう種類の仕事は、もともとやっていなかったというお粗末なお話でした。

いろいろ考えてはいるけれど、むしろがんがん手書きノートで書き留める人向け、なのかもしれない、と思った。
私も手書きでノートにメモ(講演会とか講義録)するけれど、必ずそれを見直して、PCにデータで打ち直しをしながら整理することにしている。
その方が自分で整理しなおせるし、記憶しなおすにも都合がいい。加えて、電子データに打ち直してブログにアップしておけば、忘備録にもなるし、検索もかけられる。

こういうノートは、その打ち直しなんて手間さえ惜しむようなビジネスパーソン向けのガジェットかもしれません。
これからは、なるべく具体的にどんな利用シーンがあるのか考えてから買うことにしよう。
(でもガジェット類はそんな主題で購入するのじゃないので無理!多分無理!!)


レガシィツーリングワゴン2.5NA(C型)の平均燃費

2012年06月04日 23時29分12秒 | クルマ
レガシィツーリングワゴン2.5LNA B-SPORTS Gパッケージ(2012年3月納車のC型)の平均燃費。

総走行距離 8605km
平均燃費は 13.1km/l(満タン計測)
燃費計表示 13.5km/l(単純平均)

距離にすると7割近くが遠出です。

最高燃費が16.2km/l(竜飛岬から福島県までの750km)
最低燃費が9.8km/l(通勤および市内走行のみ444km)

思ったよりずっと燃費がいいのにびっくりでです。

なにせ、ほぼ同じ乗り方をしているロードスターの8万キロの総平均燃費が11.1km/lですから。

私の乗り方&環境では、ほぼ最低でも10km/lは下らないというのも安心材料。
じわじわ良さが分かってくるタイプですね。
これでAWDかつレギュラーガソリンってのがまたうれしい。

ただし、同時期納車のプリウスαは18km/l、フィットシャトルハイブリッドは20km/l行ってるみたいです(笑)。


悪いことは言わないから止めておけ、ということ。

2012年06月04日 19時56分21秒 | 大震災の中で
大飯原発の再稼働が決まりそうだ。

福島県民の一人として(別に福島も一枚岩じゃないだろうし、代表選手になるつもりはないけれど、やっぱりこの「資格」で語らずにはいられない)、

「悪いことは言わないから再稼働は止めておけ」

と思う。

確かに、原発に雇用を依存する直接の原発近傍居住住民には、むしろ選択の余地は少ないのかもしれない。

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原発がなければ雇用のないここでは暮らせない。
原発事故が起こればどのみちここでは暮らせない。
原発が止まっても、大地震や津波があれば使用済み燃料などなど、危険はいっぱいで暮らせなくなるかもしれない。

とりあえず事故が起こるまでは、雇用のメドが立って、地元で暮らせる。
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というように考えることだってあり得るだろう。
少なくても私がその立場だったら、そうかもしれない。

「事故が起こったら、その時はその時。政府だって電力会社だって経済界のお偉方だって、大新聞の半分だって、電力不足だっていってるんだし、より安全になってるっていってるんだし……。」

なるほどね。でも、地元の土地を放射能汚染という危険な「質入れ」までして地元のたかだか数千人規模?の雇用にこだわるのは、この東京電力福島第一原子力発電所の事故を目の当たりにした後ではどうなんだろう、とやっぱり考えてしまう。

「悪いことは言わないから止めておいた方がいい」

とやっぱり今の私は思うのだ。

知人に、双葉町の神社の(元)宮司がいて、この前酒飲みをした。
彼は、ようやく最近、土地の神と、死者の魂とを響き合わせることができるようになったと思ったら、原発事故で土地を追われた、のだそうだ。
今は「神主」の仕事はしないんですか?と尋ねたら、「それはできません」とのこと。
うん、それはそうだよね、その土地の風景、その土地の季節の中で育まれる「生の営み」に寄り添って生きるのがその土地の神様なわけだし、その神様と人間を繋ぐのが宮司さんなんだもの。

自分はまだそれが分かるけれど、自分達の次の世代になったとき、いったん切り離された土地の神様たちと、どう繋がっていくのか、息子の世代は重い課題を背負ったと思うよ、とも述懐していた。

そういうことなんだよね。

経済活動は、どこにでも流動していける。
日経新聞のWebサイトに、東日本大震災と原発事故で被害を受けた土地は阪神地区とは決定的に違う、という記事が
アップされていて、なるほど、と思った。
本来ならもっと人口が減ってもいいはずなのに、土地や家があるから、生産性の低い田舎にへばりついていた人々がいる。この災害や事故によって、その人達のかなりの部分は戻って来れなくなる。なぜなら雇用を含めた「経済」がそれだけの人口を支える産業構造に元々なっていなかったのだから、というわけだ。

そういう視点で考えるならば、起こってしまった震災や事故でさえ、適正な経済規模に合わせて人口の自然減を促す要素の一つとして捉えられてしまったりもする。なるほどね。

一方、文化・伝統の側面からいえば、100年単位で積み重ねられてきた文化や伝統が根こそぎ切断されて、修復不可能なダメージを受ける、ということだってあるわけだ。

何も神社を守ることだけが大切だ、なんて素っ頓狂なことを言いたいわけではない。
田舎の濃密でにっちもさっちもいかない人間関係とか、マジうざいって側面もある(苦笑)。知ってます。

それでもやっぱり、

「悪いことは言わないから再稼働は止めておけ」

という言葉が、自分のお腹の底から出てくる。

考えてみれば、福島県にとって、大飯原発再稼働は決して対岸の火事ではない。

書きたくはないが、そういうことを考える人はどうせ出てくるだろうから書いておくと、

「どうせ汚染されているのなら、人口密度がさらに低くなったことだし、福島第二原発を稼働させてはいかが?」

なあんて話さえ、冗談ごとではなく語り出されるかもしれない。

今すぐ、はまさか大きな声では語り出すまい。
しかし、数年後、そう、福島第二原子力発電所の耐用年数を勘案しながら、しかるべきときに再稼働を「狙う」言説は、立ち上がってこないとも限らないのではないか?

私は文句なしに絶対反対だけどね。


「悪いことは言わないから、再稼働は止めておけ」

今日もテレビの画面を見て、そう呟いた。呟くことしかできない。
もどかしくて、ここにも書いた。

「悪いことは言わないから、再稼働は止めておけ」

この言葉は事故が起こるかもしれないから、ということを声高に「危険視」するから言うのではないのかもしれない。

だって、危険を証明するのに一番いい方法は、事故が起こることだから。
テロが起こる根源的なロジックの錯誤は、こういうところにも潜んでいる。

そういうロジックは、原発事故が起こると「だからいわんことじゃない」って気分と通じている、と私は感じている。

だから、危険だから止めるべきだ、とは言いたくないのだ。
危険なんだけどね。

危険だけど便利でもある。便利だけど危険でもある。
滅多に事故は起きないかもしれないけれど、起きたら取り返しがつかない。

でも、私達はその土地に囲まれて生きているわけだから。
どこかのディベーターが政治的勝利を目指して争っているわけじゃないから。

だから、「悪いことは言わないから」なのだ。

良きことを良いとして指し示すのに、根拠は要らない。弱い説得でしかないけれど、私達福島県民には分かる。
そして、分かるときには分かっていることをなぜ分かったのか、と説明する必要は感じない。

「悪いことは言わないから、止めておけ」

そういうことだ。





國分功一郎『スピノザ入門』講座の第1期を終えて(感想)

2012年06月03日 12時18分33秒 | 大震災の中で
年間12回でスピノザをじっくり読み解く講座の第1四半期が終了した。

第1期は『知性改善論』という未完の著作中心の内容だった。

 おもしろい!実に面白い。

 違った思考のOSについて考える、という行為は、普段時間をかけて行うことが非常に難しい。

 日常生活には日常生活の習慣化された行動があり、習慣化された思考がある。
 私達の身体と意識は、現代の生活によって縛られると同時に支えられ、また近代以後の思考のOSによって枠づけられ
て発展してきた現状を無意識の前提としている。
 それが悪いとかいい、とかいうことではない。

 ただ、その生活の中にいては、OSの中にいては十分な「問い直し」ができない、ということが考えられるだろう。

 かといって直ちに「出家」するような、エキセントリックな「原理主義的」行動を良しとしないかぎり、頭までどっぷり浸かったこの状態をあたかも「所与」のものとして生きる以外にとりあえず手だてがないように思われてしまう。

 むしろ、現状にたいする「疑問」は薄々感じてもいるのだ。しかし、どこから手を付けたらいいのか分からない。それが正直なところである。

 大飯原発の再稼働問題の報道を見ていて、改めてそう思う。

 私達には、根底的にものを考える哲学に支えられた「倫理」が必要だ。
 少なくても、私には必要になった。
 この震災以後、とくに不可欠だと考えている。
 それをじっくり考えて行く重要な助け、補助線になるのが、スピノザの哲学なのだ。

 スピノザを読み始めたのは、数年前からで、震災や原発被害とは全く関係がない。
 そしてまた今朝も、ばあさんに
「大飯原発再稼働の是非に、スピノザはどう役に立つんだい?」
 と聞かれた(笑)。

 そんなことは知らん。

 答えはスピノザの本の中には無論、ない。

 けれどたとえば、自然権一つとっても、スピノザは人間の中の「力能」は、誰にも奪うことはできず、常にそこに存在する、と考えていた。社会制度や権力や、しがらみや、与えられた思考の枠組みによってその「力能」から隔てられた「私」を、その「隔て」から解放すること。
 断じて、何かどこかの外部に真理の標識があったり思考の型があったりしてそれに自分を合わせていくのではなく、「自然権」を回復し、自己の力能を最大限に発揮すること。
 それは個人の意識の自由とはおよそ正反対の、真理の自己運動と私が一致することだ、ということ。

 そこにこそ「エチカ(倫理)」がある、ということ。

 今私が置かれたこの場所と存在において、必要不可欠な根底的思考の要素と手だてが、スピノザにはぎっしり詰まっている。

 そう、思うのだ。

 ドゥルーズは「意識の価値の切り下げ」というような表現を用いて、そのあたりの事情を説明していた。

 哲学の「表現」としては、スピノザの文章は圧倒的に素っ気ない。
 「分かる人には分かる。」「知っている時には知っていることを知っている」

 とかいっている。一見、私的であり密教的であるかのようだ。
 でも、明晰判明な基準を通して「公共性」にアクセスするだけでは、その「公共性」は狭すぎるのではないか。
 人間は限界もあり、過ちもし、全てを理解することはできないけれど、そこだけに「公共性」を限定するのは人間の「力能」を十全に理解しているとは言い難いのではないか。

 暗黙知とか集合的無意識とか、「外的標準」の言葉を決して語ろうとしないスピノザの哲学だからこそ、その「読めなさ」をなおも適切に読もうとする努力に見合ったものが与えられる可能性を持つのだとも考えるのだ。
 秘儀的ではなく、あくまで公共的なるものにコミットしようとするあっけないほどの姿勢を持ちつつ、それを「説得」しようとはしない文章の「立ち位置」は、今までテキストの欲望が露呈する「文体」ばかりを読んできた私にとって、どれだけ新鮮に感じられたことか。

 このことは、繰り返して書いておかねばならないと思う。
ある種「動物的」とさえ言い得るような「異様さ」「あっけなさ」を抱えつつ、粘り強く「説得にならない」説得を繰り返していくスピノザ。

そのスピノザに魅力というか、必要性を感じている。

 それは、スピノザ哲学自体の「表現」方法の問題である(國分氏が『知性改善論』を引きながら今回論じた内容)と同時に、スピノザ哲学における「表現」の問題(ドゥルーズが指摘しているような本質における)について、同時にきちんと考えていかねばならないということを再確認させられる、ということでもある。


第1期はスピノザ自身がそのテキストにおいて抱える困難を読んだ。
第2期は、スピノザがデカルトのテキストを「読む」ことにおいてその困難をくぐりぬけていった、そのプロセスを読むことになるのかもしれない。

「スピノザはデカルトを側におくと俄然面白くなる」
という國分氏の言葉は、國分氏が博士論文(『スピノザの方法』)で取った方法それ自体についての言葉でもあるだろう。

スピノザ自身のテキストでありながら、デカルト読解でもあり、デカルト批評でもあり、デカルトの脱構築でもある。

そこをくぐり抜けることで、
『知的改善論』→『デカルトの哲学定理』→『エチカ』
とスピノザ自身のテキストが生成・発展していく……

そんな流れになるのかな、と期待しつつ、7月の講座を受講しようと思う。