鎌倉の魅力についてもう少し書く。
別に今更私が書かなくても、鎌倉が関東随一の魅力的な観光地であることはみんな知っている、ことぐらい私も知っている。
が(笑)、ものを考える順序としてもうしばらく。
昨日、渋温泉に泊まってきた。敢えて名を秘すが、その旅館の夕食に出た懐石風料理は、今ひとつだった。
料理の部分部分を取れば、美味しいといえば美味しい。
少なくても「これは困ったぞ」みたいな料理ではない。
暖かいモノが時系列に従って順序よく供されるのはお作法通りだ。
だが、あの鎌倉の小町通りの通りがかりの立ち食いほどの魅力が正直ないのである。
つまりね、「ちょっといい」のよ、鎌倉は。
寺院群がバックグラウンドにあって、頼朝・北条の鎌倉武士の歴史が地面の底に層となって沈殿していて、そこでおにぎやかな商店街通りがあるのだから、ずるいといえばずるい。
だが、いわゆる「観光地」にありがちな「しょうもない」感じを少しズラして、「ちょっといい」が並んでいるのだ。
たとえば、その通り唯一の古書店(たぶん一軒だけだったと思う)にふらりと入った。
同行者が装飾品のお店に釘付けなので、私は仕方なく本でも見て時間つぶしをしようと思っただけだ。
だが、手に取った花田清輝と石川淳のエッセイは、4冊いずれも初版本だった。
そして、松本竣介という画家の話をその旅行の前日していたのだが、その彼の著作の復刻セットがちょうど置いてある。
これは偶然ではないのだよね。
まあ、「復興期の精神」とか「夷齋遊戯」は、全集でも読めるし、そんなに稀覯本ってわけでもない。
私も全集と文庫で両方持っている。でも初版本なら、持っていてもいい、と思う。
鎌倉のお土産屋さんの中でそういう商売でがきているスタンスが、「ちょっといい」の文学的蓄積も感じさせるわけだ。
鎌倉の魅力(1)で書いた東慶寺と鎌倉文学館のパンフレットもそうだ。
普通、そういうパンフは、悪いけれどたいした内容でもないことが圧倒的に多い。我田引水の伝承をまことしやかに書いたり、ゆかりの文学者の顕彰に終始するのが通例だろう。
ここのパンフレットは、そうではない。やっぱり、「ちょっといい」のだ。
永井路子の東慶寺パンフレットは「天秀尼」という女性についてのものだった。
秀頼の側室の娘が、大阪の陣以後、飼い殺し的に家康の命で東慶寺に身柄を移される。その際、千姫の養女として尼になって鎌倉に入るのだが、その彼女の振るまいが、後年東慶寺が関東の駆け込み寺として機能していく礎となったという内容のエッセイである。
いきなり史実にないところを伝承や伝説で跨ぎ越して事足れりとするのではなく、小説家らしい事実の上に「可能を書く」スタイルの文章が、心地よい。
お寺の縁起とか伝承を書いたパンフレットで、これだけ読ませるのは鎌倉の文化力、といってもいいだろう。
気になった方は今度北鎌倉に行かれた時に、ぜひ東慶寺のパンフレットをご購入下さい(笑)。
鎌倉文学館の「義経」というパンフレットも同様だ。
「ちょっといい」のである。
これが、ここ以外のパンフレットだったら、義経記さながらの、というか義経記丸写しの「判官びいき」に終始するに違いない。でもここの「義経」は『平家物語』『源平盛衰記』『吾妻鏡』『義経記』をちらっとそれぞれ参照しつつ、不細工な出っ歯でちびの義経と美形の義経を対照させたり、静御前の舞についても、鶴岡八幡宮の宮司さんが素敵な文章を寄せていたりと、読ませる内容になっているのだ。
当たり前、というなかれ。
これだけのものが、さらりと作られて、単なる観光客に提供されている観光地は、たぶんほかになかなかないんじゃないかな。
屋台骨の気合いの入ったものが素晴らしいのは、どこだってある。
さりげなく「ちょっといい」のは、けっこう難しいのだ。
この土地の「編集力」の高さは、リスペクトすべきだとつくづく思う。
それがどこから来ているのか、はまだよく分からないけれど。
あ、渋温泉の名誉のために付言しておくと、狭い石畳の坂道の両脇に、公共浴場が9つも点在していて、それぞれ違った温泉を楽しめるイベント性は、宿泊客をワクワクさせてくれる。みんな楽しそうに手ぬぐいにハンコを押しながら温泉巡りをしていた。
そして、朝食の岩魚のあぶりものとか、お漬け物とか、おかゆとかは、十二分に美味しかった。
私は温泉街出身の父親の文化があるから、温泉卵は自分の地方のモノの方が美味しいと思ったけれど、それはそれでいい。
へんな懐石料理もどきより、自分の土地に根ざしたものを磨いていって、「ちょっといい」感じを出していったら、それは絶対他所と比較しなくていい「差異」のエンジンになるんじゃないかなあ。
さて、もちろん本題は、「大震災の中で」です。
私、福島に住む者として、その「ちょっといい」感じはどこで求めることができるのか?という問いは、重く切ないものです。
来年は、その私たち自身の「ちょっといい」良さをどこに求めていくのか、を真正面から考えていきます。
どうか、また、覗いてやってください。
よろしくお願いします。
別に今更私が書かなくても、鎌倉が関東随一の魅力的な観光地であることはみんな知っている、ことぐらい私も知っている。
が(笑)、ものを考える順序としてもうしばらく。
昨日、渋温泉に泊まってきた。敢えて名を秘すが、その旅館の夕食に出た懐石風料理は、今ひとつだった。
料理の部分部分を取れば、美味しいといえば美味しい。
少なくても「これは困ったぞ」みたいな料理ではない。
暖かいモノが時系列に従って順序よく供されるのはお作法通りだ。
だが、あの鎌倉の小町通りの通りがかりの立ち食いほどの魅力が正直ないのである。
つまりね、「ちょっといい」のよ、鎌倉は。
寺院群がバックグラウンドにあって、頼朝・北条の鎌倉武士の歴史が地面の底に層となって沈殿していて、そこでおにぎやかな商店街通りがあるのだから、ずるいといえばずるい。
だが、いわゆる「観光地」にありがちな「しょうもない」感じを少しズラして、「ちょっといい」が並んでいるのだ。
たとえば、その通り唯一の古書店(たぶん一軒だけだったと思う)にふらりと入った。
同行者が装飾品のお店に釘付けなので、私は仕方なく本でも見て時間つぶしをしようと思っただけだ。
だが、手に取った花田清輝と石川淳のエッセイは、4冊いずれも初版本だった。
そして、松本竣介という画家の話をその旅行の前日していたのだが、その彼の著作の復刻セットがちょうど置いてある。
これは偶然ではないのだよね。
まあ、「復興期の精神」とか「夷齋遊戯」は、全集でも読めるし、そんなに稀覯本ってわけでもない。
私も全集と文庫で両方持っている。でも初版本なら、持っていてもいい、と思う。
鎌倉のお土産屋さんの中でそういう商売でがきているスタンスが、「ちょっといい」の文学的蓄積も感じさせるわけだ。
鎌倉の魅力(1)で書いた東慶寺と鎌倉文学館のパンフレットもそうだ。
普通、そういうパンフは、悪いけれどたいした内容でもないことが圧倒的に多い。我田引水の伝承をまことしやかに書いたり、ゆかりの文学者の顕彰に終始するのが通例だろう。
ここのパンフレットは、そうではない。やっぱり、「ちょっといい」のだ。
永井路子の東慶寺パンフレットは「天秀尼」という女性についてのものだった。
秀頼の側室の娘が、大阪の陣以後、飼い殺し的に家康の命で東慶寺に身柄を移される。その際、千姫の養女として尼になって鎌倉に入るのだが、その彼女の振るまいが、後年東慶寺が関東の駆け込み寺として機能していく礎となったという内容のエッセイである。
いきなり史実にないところを伝承や伝説で跨ぎ越して事足れりとするのではなく、小説家らしい事実の上に「可能を書く」スタイルの文章が、心地よい。
お寺の縁起とか伝承を書いたパンフレットで、これだけ読ませるのは鎌倉の文化力、といってもいいだろう。
気になった方は今度北鎌倉に行かれた時に、ぜひ東慶寺のパンフレットをご購入下さい(笑)。
鎌倉文学館の「義経」というパンフレットも同様だ。
「ちょっといい」のである。
これが、ここ以外のパンフレットだったら、義経記さながらの、というか義経記丸写しの「判官びいき」に終始するに違いない。でもここの「義経」は『平家物語』『源平盛衰記』『吾妻鏡』『義経記』をちらっとそれぞれ参照しつつ、不細工な出っ歯でちびの義経と美形の義経を対照させたり、静御前の舞についても、鶴岡八幡宮の宮司さんが素敵な文章を寄せていたりと、読ませる内容になっているのだ。
当たり前、というなかれ。
これだけのものが、さらりと作られて、単なる観光客に提供されている観光地は、たぶんほかになかなかないんじゃないかな。
屋台骨の気合いの入ったものが素晴らしいのは、どこだってある。
さりげなく「ちょっといい」のは、けっこう難しいのだ。
この土地の「編集力」の高さは、リスペクトすべきだとつくづく思う。
それがどこから来ているのか、はまだよく分からないけれど。
あ、渋温泉の名誉のために付言しておくと、狭い石畳の坂道の両脇に、公共浴場が9つも点在していて、それぞれ違った温泉を楽しめるイベント性は、宿泊客をワクワクさせてくれる。みんな楽しそうに手ぬぐいにハンコを押しながら温泉巡りをしていた。
そして、朝食の岩魚のあぶりものとか、お漬け物とか、おかゆとかは、十二分に美味しかった。
私は温泉街出身の父親の文化があるから、温泉卵は自分の地方のモノの方が美味しいと思ったけれど、それはそれでいい。
へんな懐石料理もどきより、自分の土地に根ざしたものを磨いていって、「ちょっといい」感じを出していったら、それは絶対他所と比較しなくていい「差異」のエンジンになるんじゃないかなあ。
さて、もちろん本題は、「大震災の中で」です。
私、福島に住む者として、その「ちょっといい」感じはどこで求めることができるのか?という問いは、重く切ないものです。
来年は、その私たち自身の「ちょっといい」良さをどこに求めていくのか、を真正面から考えていきます。
どうか、また、覗いてやってください。
よろしくお願いします。