龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

鎌倉の魅力(2)

2012年12月30日 22時45分49秒 | 大震災の中で
鎌倉の魅力についてもう少し書く。
別に今更私が書かなくても、鎌倉が関東随一の魅力的な観光地であることはみんな知っている、ことぐらい私も知っている。

が(笑)、ものを考える順序としてもうしばらく。

昨日、渋温泉に泊まってきた。敢えて名を秘すが、その旅館の夕食に出た懐石風料理は、今ひとつだった。
料理の部分部分を取れば、美味しいといえば美味しい。

少なくても「これは困ったぞ」みたいな料理ではない。
暖かいモノが時系列に従って順序よく供されるのはお作法通りだ。

だが、あの鎌倉の小町通りの通りがかりの立ち食いほどの魅力が正直ないのである。
つまりね、「ちょっといい」のよ、鎌倉は。
寺院群がバックグラウンドにあって、頼朝・北条の鎌倉武士の歴史が地面の底に層となって沈殿していて、そこでおにぎやかな商店街通りがあるのだから、ずるいといえばずるい。
だが、いわゆる「観光地」にありがちな「しょうもない」感じを少しズラして、「ちょっといい」が並んでいるのだ。

たとえば、その通り唯一の古書店(たぶん一軒だけだったと思う)にふらりと入った。
同行者が装飾品のお店に釘付けなので、私は仕方なく本でも見て時間つぶしをしようと思っただけだ。

だが、手に取った花田清輝と石川淳のエッセイは、4冊いずれも初版本だった。
そして、松本竣介という画家の話をその旅行の前日していたのだが、その彼の著作の復刻セットがちょうど置いてある。
これは偶然ではないのだよね。
まあ、「復興期の精神」とか「夷齋遊戯」は、全集でも読めるし、そんなに稀覯本ってわけでもない。
私も全集と文庫で両方持っている。でも初版本なら、持っていてもいい、と思う。

鎌倉のお土産屋さんの中でそういう商売でがきているスタンスが、「ちょっといい」の文学的蓄積も感じさせるわけだ。

鎌倉の魅力(1)で書いた東慶寺と鎌倉文学館のパンフレットもそうだ。
普通、そういうパンフは、悪いけれどたいした内容でもないことが圧倒的に多い。我田引水の伝承をまことしやかに書いたり、ゆかりの文学者の顕彰に終始するのが通例だろう。

ここのパンフレットは、そうではない。やっぱり、「ちょっといい」のだ。
永井路子の東慶寺パンフレットは「天秀尼」という女性についてのものだった。
秀頼の側室の娘が、大阪の陣以後、飼い殺し的に家康の命で東慶寺に身柄を移される。その際、千姫の養女として尼になって鎌倉に入るのだが、その彼女の振るまいが、後年東慶寺が関東の駆け込み寺として機能していく礎となったという内容のエッセイである。
いきなり史実にないところを伝承や伝説で跨ぎ越して事足れりとするのではなく、小説家らしい事実の上に「可能を書く」スタイルの文章が、心地よい。

お寺の縁起とか伝承を書いたパンフレットで、これだけ読ませるのは鎌倉の文化力、といってもいいだろう。
気になった方は今度北鎌倉に行かれた時に、ぜひ東慶寺のパンフレットをご購入下さい(笑)。

鎌倉文学館の「義経」というパンフレットも同様だ。
「ちょっといい」のである。
これが、ここ以外のパンフレットだったら、義経記さながらの、というか義経記丸写しの「判官びいき」に終始するに違いない。でもここの「義経」は『平家物語』『源平盛衰記』『吾妻鏡』『義経記』をちらっとそれぞれ参照しつつ、不細工な出っ歯でちびの義経と美形の義経を対照させたり、静御前の舞についても、鶴岡八幡宮の宮司さんが素敵な文章を寄せていたりと、読ませる内容になっているのだ。

当たり前、というなかれ。
これだけのものが、さらりと作られて、単なる観光客に提供されている観光地は、たぶんほかになかなかないんじゃないかな。
屋台骨の気合いの入ったものが素晴らしいのは、どこだってある。

さりげなく「ちょっといい」のは、けっこう難しいのだ。
この土地の「編集力」の高さは、リスペクトすべきだとつくづく思う。

それがどこから来ているのか、はまだよく分からないけれど。

あ、渋温泉の名誉のために付言しておくと、狭い石畳の坂道の両脇に、公共浴場が9つも点在していて、それぞれ違った温泉を楽しめるイベント性は、宿泊客をワクワクさせてくれる。みんな楽しそうに手ぬぐいにハンコを押しながら温泉巡りをしていた。
そして、朝食の岩魚のあぶりものとか、お漬け物とか、おかゆとかは、十二分に美味しかった。

私は温泉街出身の父親の文化があるから、温泉卵は自分の地方のモノの方が美味しいと思ったけれど、それはそれでいい。

へんな懐石料理もどきより、自分の土地に根ざしたものを磨いていって、「ちょっといい」感じを出していったら、それは絶対他所と比較しなくていい「差異」のエンジンになるんじゃないかなあ。

さて、もちろん本題は、「大震災の中で」です。
私、福島に住む者として、その「ちょっといい」感じはどこで求めることができるのか?という問いは、重く切ないものです。

来年は、その私たち自身の「ちょっといい」良さをどこに求めていくのか、を真正面から考えていきます。

どうか、また、覗いてやってください。
よろしくお願いします。


7インチタブレット端末が欲しいっ!

2012年12月27日 22時55分10秒 | ガジェット
iPhone→iPad→KindlePaperwhite
と手にして見て、結局私に必要なのはiPadminiだと知った(笑)
来年、高精細型が出たら買います。
でも、文庫本一つを手に持ってどこからでもページを繰ることができる自由さにはかなわないんだなあ。
小説なら単線状のストーリーを読めばいいことも多いからまだいいのだけれど、あっちを読んだりこっちを読んだりする必要のある本や、漠然と何となくあれかなあ、と思いながら探し読みをする時には、タブレット端末はほとんど役に立たない。

本の中の「探し物」の場合、探すべき単語がわかっている時はもうそれは本の中での探しモノじゃあないんだよね。
単語なら、索引があれば足りる。それはそれで大切なことだけれど、一つに収斂していかない思考に沿って表現を探していくには、書籍がなくちゃ。

と言いつつ裁断&スキャンを進めてるんですけどね(^_^;)
ま、当たり前だけれど、道具は時と場合の使い方。
使う本は二つ買って一冊をデジタル用にしたりもしてます。

早くiPadミニのRetinaが出ないかなっ。

鎌倉の魅力(1)

2012年12月26日 22時58分18秒 | 大震災の中で
週末2泊3日の予定で鎌倉に行ってきた。
ところが2泊を終えた時点で、これはもう少し滞在したいと思い、延泊して3泊4日になった。
「多動児」の自分にとって、そういう場所はけっこう珍しい。

それだけ鎌倉には魅力があった。

それは思うに、「参照点」としての魅力だ。

なんでも東日本大震災から考える癖がついている。
おそらく私は生きている限り、この思考のスタイルを続けるのだろう。

そして、鎌倉に行ってその魅力を感じるときも、東日本大震災と原発事故という
「人為=≠自然の裂け目」
について同時に考えている自分を発見する。

鎌倉で考えたのは「参照点」について、だ。

私たちは「広島」「長崎」「沖縄」を決定的な「参照点」として抱えている。
これらはもちろん観光地でもあって、修学旅行のメッカでもあり、また歴史教育の現場でもある。
つまり、私たちはこれらの場所を「参照点」としているのだ。

何かを見て、考え、行動や思考の基点にしている、もしくは自分の何かを移す鏡の作用を受け取っているのではないか。

「参照点」は、その場所自体を見ることが目的ではない。その場所をキックすることによって、思考が起動するフックのようなものだ。あるいは、思考をいったん停止してリセットする働きを持つこともあるかもしれない。

観光地は、ただ景勝地であるだけではいささか不足だ。景勝地が「参照点」であるためには、そこについての言説が積み重ねられていなければならないだろう。それは伝説であっても、歌枕であっても、歴史的不幸であってもいい。
こういう言い方は不謹慎なのかもしれないが、その不謹慎さは同時代故のものであって、鎌倉とか京都まで「熟成」すると、「参照点」としては完成度が高くなっていく。

いいとか悪いとかではなく、福島はその道を辿り始めているのではないか。

そんな思いがあるのだ。
当たり前だが、参照点になるべきだとか、過去の傷を「売り」にするべきではないとか、そんな種類のことがいいたいのではない。

好むと好まざるとに関わらず、福島は参照されつづけている。
その中で、福島に住む人間の声がきちんとそこに届いていかなければ、「都で近頃噂の歌枕」に終わってしまいはしないか。それはいかがなものかと思われる、という思いがあるといえばある、ということだ。

表象として勝手に参照され、それが「フクシマ」になったり「アキラメナイ」になったりするのは止めようもないし、止めるべきでもないのだろう。

ただ、参照される身としては、何がそこで参照され、何が参照され得ないのか、に興味がある。
そしてもちろん、容易には参照され得ないけれども、取りこぼされたままにしてはおけない、という思いがそこに生まれるとしたら、そのことこそ、私(わたしたち)が考え続けていかなければならない「場所」でもあるだろう。

さて、まだここは鎌倉の話だった。

鎌倉の食べ物は、ちょっと旨い。その、ちょっと旨いってのがけっこう大変なことらしい、というのは、旅をしはじめてから分かってきた。お菓子が美味しいのは、たとえば酒田。たとえば金沢。無論京都も旨いし、手っ取り早く手に入りやすいのは東京のデパ地下が一番だったりもする。
今はネット通販でかなりの「旨いもの」がお取り寄せ可能だったりするから、わざわざ現地まで出向くにも及ばないということもある。
むしろ、きちんと検索して情報の中で適切にチョイスしたほうが、単体で美味しいものならば、効率よく収集かのうでさえあるかもしれない。

でも、揚げたての「鎌倉御坊」は小町通りで食べるに限るし、焼きたてのせんべいはせんべい屋さんの前で「じゅっ」と焦げたてのせんべいを醤油に浸してから手早く海苔で挟み、「はいよっ」って手渡してくれるのをフハフハ言って食べるのに叶わない。その上で、鎌倉のせんべい屋よりは松島の遊覧船乗り場前のせんべい屋の方が旨いとかいうはなしはありえるけれど、食べ物はやっぱりライブに叶わない。
そして、物流の集散地には叶わないのだ。
加えて、文化の蓄積、ということになると、酒田が、金沢が、京都が、鎌倉が、なんでもない普通のお菓子でも「ちょっと旨い」というのが理由のあることだと分かってくる。

つまりは、経済や文化、宗教、政治、軍事などのさまざまなエネルギーが集散する場所として、多層的なレイヤーの「熟成」があるかないか、がそこでは大きな違いを生むということでもある。

鎌倉は100年日本の中心を生きて、その後武士の権力と血の匂いが染みついた後、お寺の密集した農漁村としての歴史を積み重ねていく。
その結果、文化的な「参照点」として機能することになっていったわけだ。

なんの話だ、と思うだろうか。

たとえば、買ってきた2冊のパンフレットを見てもいい。
一冊は東慶寺(縁切り寺として有名)の「天秀尼」という人について永井路子が書いた小冊子。
もう一冊は、義経の企画展で作られたとおぼしい鎌倉文学館の「義経」という小冊子。

どちらも小さいながら、一読して鎌倉が文学の参照点なのだ、ということが分かる文化力を備えている。
鎌倉だけでそれが成立しているわけではない。情報の集散地として機能し、だからそれが単なる情報の集合に終わらなくなるのだ。前者は永井路子という作家の力量によって、後者は多数の人の協力によってという違いはあるけれど、適切な「参照点」としての機能は、バラバラな事実という情報を、それ以上のものとして立ち上げる力を持っているということだろう。

京都のお菓子やお漬け物のうまさ(京料理の懐石をきちんと食せるほどの立場ではないので、せいぜいがところお菓子と漬け物を論じるしかないわけだが<笑>)にもちょっと通じるところがある。

たんなる時の経過ではない。たんなる多様性でもない。多層な書き込みがてんでにありながら、それら個々のレイヤーがズレながら重なっていくことで、「ちょっとない」ものがそのズレと重なりから生まれてくる。

そして面白いのが、どこかの田舎でそれがひっそりと蟻塚のように完成するのではなく、観光だったり文学者の移住だったり、権力の要請だったり、なにか自立した文化とは全く異質の「力」がそこを参照することによって輝いて見えてくるという点だ。

鎌倉は、関東における、随一の「参照点」だといっていいだろう。
日光は江戸以後だしね。

福島もまた、そういう「参照点」としての産声を上げ、一歩を踏み出したところではないか、と思われる。
世迷い言もいい加減にしておけ、と言われるだろうか。
その通り、世迷い言かもしれない。
自分がその中で生きているうちに、未来の参照点としての自分の場所を考えるのは、バカもここにきわまれり、ということになるのか。

さてだが、世界の中の「ここ」を考えようとすれば、いずれも世界秩序の具体的な作用点として「参照」されるほかない、とも言える。
私たちは現状を肯定するのでもなく、否定するのでもなく、今ここにある可能性条件を踏まえてでなければ、現状を変えることもできなければ、守ることもできないのではないか。

だとすれば、まず私たちが私たちの「ここ」を参照する手だてを学ばなければならない。誰に?どこで?どんなふうに?
その学びには手本や方法がない。

そんなことを、頼朝の墓から大蔵幕府があったと言われる学校の敷地の方を眺めつつ、ぼんやりと考えた。





私には不要だったKindlePaperwhite

2012年12月26日 22時18分17秒 | ガジェット
一昨日、旅行から帰ったら、KindleParewhiteが届いていた。
年内到着とは、Amazon頑張ったね、と思いながら開封。
とっくに来ていた液晶画面保護シートを装着。革製のカバー(これも購入済みだった)を付けて、さっそくWi-Fi接続。
あっけないほど簡単にダウンロードができた(推理小説をためしに1冊購入)。
これも読みやすい。
ヘルプを読んで、PC接続するとPDFやWordファイルが読めるらしいと知り、早速挑戦。
簡単にディレクトリにコピーすれば終了。


みんなあんまり言わないけれど、iPadとかiPhoneを使っていて一番不便なのがファイル管理。Windowsベースのファイルをすぐにコピーすることが簡単にはできないのだ。なんと、ソフト毎にコピーしなければならないのだから参ってしまう。
(正確には、いったんPCから読み込んだデータは、iPad内のソフト同士では使い回しができるっちゃできるのだが、そのたび毎にデータを読み出すソフトと「関連付け」しなおさなければならない。これは、ある意味iPhoneやiPadの設計のデータ管理の一貫性とかセキュリティ面とかで貢献している側面は間違いなくなるのだが、だからといって、こんな不便はいつまでも続かないだろう)。

その点Kindleはアンドロイド系と同様簡単でいい。

だが、しかし!

私にはKindlePaperwhiteは不要でした……。

自炊した書籍PDFをKidlePaperwhiteにコピーしたら、iPadやiPhoneの画面とは比較にならないほど解像度が悪いというか、スキャンした文字が痩せてしまっていて、見るに堪えないのだ。

自炊書籍1000冊弱を抱えて、新規購入書籍ほど自炊率が高い現状で、このKindlePaperwhiteの「使えなさ」は予想外でした。

がっかり。

まあ、約8000円だったのが不幸中の幸いか。

iPhoneとiPadでは自分で作った自炊書籍のpdfの解像状態に全く問題がなかったので、これはiPadminiのレティーナディスプレイ版(来年か?)を待つしかない。

まあKindleはやっぱりアマゾン端末という位置づけに限定してこそ利用価値があるのだ、と知りました。
汎用的な使用法を考えるなら、

PDF書籍ファイル→テキストファイル変換→Kindle形式変換

をやればいい。
しかし、そりゃまあないでしょう(笑)。そんなことするのであれば、20年も前からやれていた。実際には面倒過ぎてあり得ないんですよね。
ScanSnap→PDF
と一発変換ができるから書籍のデータ化&持ち歩きに意味があるのであって。

さてさて、残念な結論でした。

Kidleだれに使ってもらおうかなあ……。

テザリングで助かるのは

2012年12月15日 10時54分25秒 | 大震災の中で
iPadで書いた文書をどこでもすぐネットにアップ出来る点です。
これでiPadが今の半分ぐらいの重さになれば最高!なんですけど。

まったく贅沢はキリがありません。

もはやネットインフラは生活の前提ですもん。

もちろんたとえネットがなくても、本と本屋さんがあれば生きてはいけるんですがね……たぶん……(苦笑)。




iPhoneのテザリング繋がりました~(^_^)

2012年12月15日 10時49分20秒 | 大震災の中で
本日iPhone5のテザリング開始!!

a u ユーザーは最初からだったのでしょうが、SoftBankユーザーとしては嬉しい本日(12/15)のテザリング開始です。

わざわざiPadを持ち出してこれからトライ(^^;)!

…………………〓

友部S.A.のスタバにて無事繋がりました(^_^)

最初うまく行かなかったけれど、iPhone を
電源off→on
したらOKでした。

iPhone-iPad間は
はBluetoothで接続。

iPhoneがWi-Fiで繋がってるときはiPadはぶら下がれない模様(まあ、それはiPadのWi-Fiを別途契約しろってことですね)。


3Gだけど繋がってしまえば便利至極。

LTE だとさらに快適だね。



ある教師のことば(2)

2012年12月14日 23時43分16秒 | 大震災の中で
小さな水車が一人一人の中にあって
、それらが小さな差異を孕んでくるくるまわりだすの。
そしてそれが絡み合って響き合って、全体がが大きなうねりになって、その結果学校全体ががグルンってうごきだす。

大人はその違いを断崖みたいに大きくしてしまうから、なかなか変われない。

子供たちのようには「発動」しないんだな。私が20歳以下にしか興味がない理由はそこかもしれない。

子供たち同士にはその小さな差異がお互いに見えている。だから、最初の一歩を動かしてやりさえすれば彼ら同士でその差異をエンジンにしてお互いにどんどん動き出していける。
そういうときの生徒同士は教員より教えるのが上手い。

教師の仕事は、その差異を抱えて動き出す小さな水車の初動タイミングを見つけて、逆上がりか蹴上がりの補助のかけ声をかけてあげるだけでいい。あるいは跳び箱のロイター板、かな。

具体的なタイミングを計る直観力(直感力ではなく)が勝負。



柄谷行人の『哲学の起源』を読了。これメチャメチャ面白いです!今の時期、必読かと。

2012年12月14日 14時30分03秒 | 大震災の中で
前半はアーレントを参照しつつ、植民地イオニアにおいてこそ実現していたイソノミア(無支配)の分析をする。

外在的な人格神を否定して自然哲学を展開したイオニアの哲学者は、手仕事を重視し、ピュタゴラスやプラトンに繋がるような、数の神秘性とかイデアとかを私たちの感覚の外部に「神様的」に措定してしまう二重の制度(いわゆる二元論)を否定する。

イオニア的なイソノミアとギリシャのデモクラシーを対比させて、ギリシャの民主制は奴隷制や戦争などによる拡大を前提としなければ成立していなかった、と指摘。

ソフィストはイオニア的だったのではなく、イオニアのイソノミアの思想をギリシャが劣化版としてデモクラシーに受け継いでいったのに過ぎないとも。

後半は、ソクラテスを「最後のイオニア的」な者と位置付け、プラトンの描くソクラテスと、イオニア的なソクラテスの偏差を丁寧に拾っていく。

そのとき、積極的に参照されるのがカントの『啓蒙とは何か』である。

私的なものと公共的なるものの価値転倒がカントの『啓蒙とは何か』には明確に示されている。

私は、今福島の中で生きつつ、社会的な立場や政治的な立場に止まらない公共的なるモノを思考しようとするときに、このカントの『啓蒙とは何か』と、スピノザの神即自然を論じた倫理の書『エチカ』のふたつを参照せずには思考をつづけ得ないと感じている。

また、アーレントがアイヒマン裁判について論じた論を含む遺稿集『責任と判断』も、避けられない参照点だ。

柄谷行人の『哲学の起源』は、イオニアを舞台に、そワタシにとって不可欠の参照点を全て拾っていく。

シンクロニシテイですがな(笑)
ま、時代状況だね。

もちろん、そのイソノミア(無支配)のみを取り出してみれば、ほとんど遠い歴史の中で失われた痕跡のようなものであり、そのまま現実にベタで適用しようとしたら単なる与太話だろう。

ただ、スピノザを読んでいて感じるあの感覚、世界を貫いて認識自体がが立ち上がるような感覚とか、カントが『啓蒙とは何か』において、公共的なるものを社会的な営みから引き剥がすときのあの鳥肌が立つ感じとかは、柄谷の指摘するイオニア的自然哲学ときわめて近いところで魂だか精霊だかが響いているように感じられるのだ。

明日は

宮台×國分×堀内の「私の倫理学」という一発ものの講座も受講してきます。

そのあたりの消息も聞いてみたいですね。



結局、どうして面白いのか―「水曜どうでしょう」のしくみ [著]佐々木玲仁

2012年12月10日 21時45分00秒 | インポート
結局、どうして面白いのか―「水曜どうでしょう」のしくみ 
著 者:佐々木玲仁
出版社:フィルムアート社

などという本が出ているらしい。
なんと1890円もするという。

こんな勉強してるんだったら、どうでしょうのDVD一本買った方がいいですって、絶対(笑)。

でも、この九州大学大学院の教授の気持ちは分かるなあ。つい分析したくなるもんね、この番組。
だって、いったいどこが面白いんだ?!っていうツッコミどころ満載で、それが既にして視聴者を罠にはめていく仕組みになっていたりするわけだし。

私は16巻まで大人買いしましたが、その後予約とかしてないような気がする。いかん、サイトチェックしなくちゃ!


ある教師のことば

2012年12月09日 22時32分51秒 | 大震災の中で

「生徒には、不安とともに生きなさい、っていうんです」

とその教師は語る。

何かに安心したがる大人は多い。
でも、新たな人生を切り開いていくあなたたちは、それじゃいけない。
むしろ不安とともに生きることです……

これは生徒だけでなく、福島において生きる者すべてに関わることばだ、と感じた。

不安とともに生きる勇気が私たちには必要だ、とつくづく思うのだけれど、いかがですか?

安心したいのは分かる。
だれもが放射能ゼロを願いたい。
でもそれは無理。
「無主物」がそこらじゅうに溢れている。
そしてそこの瓦礫は福島県以外に持ち出せるはずもない。

いや、そう強迫的に福島福島いわずとも、実は私たちはどこにいても不安と共に「動的な生」を生きることが、かつては、ホンのちょっと前までは、当たり前ではなかっただろうか。

同一性ではなく差異を生きること。
それを当たり前っていうんじゃないか。

最近は「当たり前」が、何かどこかでいつのまにか都合よく決められた基準値にすぎないことが多いけれど。







山は高くまで登ると、初めて他の峰が見える。

2012年12月09日 13時05分03秒 | 大震災の中で

さまざまなことについて共通すると思うのだけれど、
一つの山をある程度登ると、他の山のいただきがむしろよく見えるようになる瞬間がある。

別の山に登るには一旦今登っている山を下りて登り直さなきゃならないから、当然体験できる登攀路には限りがある。

けれど、それでも高い山を登っていくと、山の麓にいるときには見えなかった遠い峰が、次々に視界に入ってくるような分岐点にたどり着くことがある。

それは(いつも自虐を交えて言うように)もしかするとむしろボケはじめ=脳みその腐り始めゆえの、つかの間神様から与えられた、

「世界把握力の一時的増大」

という面もあるかも知れない。

でも、最近は本当に様々な所で考えを巡らせている人たちの思考が、自分の考え続けていることと響き合ってくるのを実感する。

たとえば、柄谷行人のこの『哲学の起源』の考え方は、スピノザのいう「神=自然」と近いところにあるように思えてならない。

私自身がちまちまと、福島において「倫理」について考えていることも、なぜかそこと響きあってくるように感じられてしまう。

関係妄想か?
あるいは「哲学業界」の「物語」受容」しているだけか?

いずれにしても、何かの「兆候」を読み取るだけでは足りない、ということなら、50歳を過ぎると自然に分かってくる。

単独者として世界と向き合うこと。
何か社会的共同体を前提とした基盤上に立つ主体としてではなく、地べたに直で立って、この世界と向き合うこと。

「兆候」に反応するだけではなく、その反応する身体を伴った理性の運動を動くこと。

そういう「場所」を探している。

どうも、単に山を登頂すれいいというものでもなさそうだ。


柄谷行人『哲学の起源』を読み中~。

2012年12月09日 12時22分20秒 | 大震災の中で

白井聡と國分功一郎のトークを聞いたとき、
「民主主義」の限界というようなところに話が及んで、ちょっとドキッとした記憶がある。
白井さんはなにせ『未完のレーニン』一つとっても尖ってますしね。
國分さんも朝日新聞のインタビューで、そんなことに触れてたかな。

でも、「民主主義って大事!」と刷り込まれてるから、一応びっくりする。

でも、今回は横丁のご隠居さんに分かり易く解説してもらっているような

柄谷行人『哲学の起源』

を読んでいると、なるほど、そこだったら自分が分からなくてコマッテルところに届くお話だ、と納得した。

とりあえず選挙=政治的な話をここで書く気はないが、先日衆議院選挙福島県第5区の立候補予定者の公開討論会に行ったとき、議会の題一党と第二党が揃って
「中間貯蔵施設の受け入れと、特区指定、復興施策の充実」
を掲げたのには困った。
中間貯蔵施設を受け入れなけれぱ除染さえ進まないのは分かる。
予算をもらうためには政府の言うことを聞かないと進まないのも分かる。

でもこれってやっぱり「植民地支配」の典型的パターンだよね?

という疑問がなくならないのだ。

唯一反対した党は、中間貯蔵施設を無人島に持って行け、という話をしていた(笑)。

柄谷行人が哲学の起源について、2000年以上前のイオニアをめぐって書いていることと完全に符合してしまう「今」現状が、ここにあるわけです。

こちらも参照いただければ。

メディア日記「龍の尾亭」
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980403


テキストを読まないといかんなあ、と本当に思う。

無論読んだからって
「どうすればいいのか」
という答えがそこにあるわけじゃない。

でも、「知的」であることと「生きる」ことを分離したり切り分けて平気でいちゃいけない、と思う。
「理性」だけでは足りないのだね。

さて第二章をこれから。



ヤスパース選集23『スピノザ』と柄谷行人『哲学の起源』を平行して読んでいる。

2012年12月08日 18時43分13秒 | 大震災の中で

ヤスパースという人は、何だかスピノザを分かってた人って感じがする。すごく寄り添って考えてるなあ。


そして、柄谷の『哲学の起源』で語られる「イオニア」的なるもの、アーレントを引用しつつ語るイソノミア(無支配=自由)と、ヤスパースがスピノザにみているモノとは、そう遠くないのではないか、そんなことも考えさせられる。

単独者が世界と向き合うときに参照されなければならない「外部」としての、普遍的な何か。

自由?倫理?普遍性?神様?

よくわからないけれど、面白い週末になりそうだ。

伊坂幸太郎の新刊『残り全部バケーション』の割り込む余地がないぐらい!



『菊と刀』を読んで(1)

2012年12月08日 10時13分41秒 | 大震災の中で
読書会がなければ読まなかっただろう。
個人的には『菊と刀』、『日本辺境論』、『甘えの構造』、『日本人とユダヤ人』など、視点の種類、著者、時代を問わず、日本人論なんてものは、自己啓発本と同様、バカが読んで自分を納得させたがる読み物だと思っていた。

ということはもちろん、私は若い頃そういうものを好んで読みもし、深くうなずきもするバカだった、ということだ。

だが、今回この本をはじめとするきちんと読み返してみて、非常に面白かった。

80歳になる同人が、戦後の当時、これを呼ん深くで納得する部分があった、と感想を述べていたのが特に興味深い。

私が日本人論を好んで読んでいた状況(たぶん高校生の頃だったと思う)の感想とは、意味が違う。

小学校で漱石鴎外や芥川、司馬遼太郎などは読んでいたが、中高生になると小松左京や平井和正、半村良、ハインライン、庄司薫、北杜夫、遠藤周作、吉川英治などエンタ系から「世界」をみるものを好むようになる。

マンガに限らず小説でもなんでも、エンタテイメントを一段下にみる「目」が、間違いなくその時代にはまだ存在していたから、
「面白くて何が悪い?」
と思っていたし、口にもしていた。

ただ一方、哲学とやらにも興味がわき、実存主義っていうものがあるらしいときいて、倫理のレポート発表をハイデッガーでやってみたりはしたものの、当然のことながら皆目歯が立たず、小林秀雄は受験に出るらしいが、もったいを付けたいやらしい文章のどこがいいのか全く理解できず、結局頭に入らなかった。

せいぜい
「日本人は日本人論が好きだから」
と「利いた風な口」聞きつつもちょうどこの程度が、私にとっては単純で分かりやすい「物語」だった、のだろう。

ちなみに、小林秀雄が「読める」ようになったのは橋本治の『小林秀雄の恵み』という小林秀雄読解マニュアルを読んでからだったし、ハイデッガーは震災後の原発事故で技術論を参照し始めてからようやく「読む気」になれた。

本というのは、読める「時」というものがあるものである。

それはもしかすると「時代」がテキストを読ませている、ということでもあるだろうか。

そんな中で漱石と鴎外はやっぱりオールタイムベストだった。
全集や選集を買ったから、だけではあるまい。
「面白い」のに、ただそれだけではたくてその向こう側に、分からないながらも「世界」の匂いや手触りを感じていたのだ、と今は懐かしく思い出す。
「国民作家」についてはまた別の機会に。

閑話休題(それはさておき)、『菊と刀』の話だ。


大人になってからは当然ながら「日本人」とかいう雑な括りの本は読めなくなった。血液型占いじゃあるまいし(笑)

けれど、本当にその呪縛というか「戦後の日本人論」の圏域から距離を取り始めたのは、やはり震災以後かもしれない、と思う。
ここ数年の読書傾向の中心は中世キリスト教とか近世哲学のスピノザとかで、もはや日本とはまったく無関係だったし。

震災後も、思考の基盤となったのはスピノザだった。

そのあまりに独特な「単独者」的な思考の基盤がどこにあるのかが気になり、「世界」の把握方法に魅力を感じた。

翻って、『菊と刀』は、日本人をテキストのように「読んで」いるテキストである。

日本人論を日本人が好んで読むと言うことは、それ自体で、幾分は不可避的にそのテキストとして読まれた結果としての「論としての日本人」を内面化して生きることになる、ということを含む。

「日本人」というカテゴリーの問題でもあり、「日本人論」というカテゴリーの問題でもあり、さらにそれは「日本という国」の問題でもある。

考えてみると、『菊と刀』はアメリカの日本占領政策のための1ピースとして「徴発」されたものでもある。

だから無意味だ、というのではない。

ナショナルアイデンティティを構成するべき参照「言説」として、むしろ戦後すぐではなく、ただ占領されている状態が終わってから、その後に「戦後民主主義」として内面化されていく「敗戦忘却」の症状のなかに、少なくても私自身の日本人論は置づけられてきたのではないか、ということだ。

例を挙げるとしたら、天皇制であってもいいし、自衛隊の問題でもいいし広島・長崎の原爆投下であってもいいし、福島県への原子力発電所の設置であってもいい。民主主義と大上段に言ってみてもいい。

何故アメリカが投下した原爆の責任をアメリカに問わないのか、日本が負けた戦争の責任を天皇に問わないのか、なぜ、こんな事故を起こす原発を反対出来なかったのか、自衛隊が違憲なら憲法を改正するか自衛隊を止めるかできなかったのか。
戦後民主主義がどうして単独者同士の対話に発展せず、みんな仲よくしようとして出来ずに数の論理……みたいな話に終わってしまうのか。

そういうことすべての根底には「敗戦」という要素をどのように内面化していったかをとわない非歴史性がそこにあったなあ、と、『菊と刀』を読み返してみて、つくづく感じた。

白井聡が敗戦をしっかり把握しないと原発事故も見えやしないよ、みたいなことを何処かで書いていたような。
(思い出せない……)

※at13の「永続敗戦論」でした。
この論文は必読!

(絶対的平和を祈る崇高な理念が、天皇の国体護持と冷戦状況によって成立したという重要な問題提起をしている加藤典洋の論が、どうして戦後の「主体」のありようの議論に回収されてしまったか、が指摘されていて納得。
ちなみに私個人にとっては、高橋哲哉の真摯さがやるせない理由もかいまみえる視点です。)

赤坂真理の『東京プリズン』が今書かれ、読まれるのは「基盤が動く」感触の中だからこそ、とも見えないことはない。

ただし断っておくけれど私は今も「戦後民主主義派」だと自分では考えている。

たしか、中野重治が戦後すぐ言っていた。

日本の平和や民主主義は背丈の縮まった寸詰まりなものにすぎない。勝ち取ったものではなく、与えられたものに過ぎない。それをどうまっとうなモノにしていくかが課題だ……

そんなことを中野はかいていた。

私は戦後文学を学んできた者の一人として、その時の中野重治に深く共鳴する。

それは今もって変わらない。

だが、「戦後民主主義」が顔を背けてきた側面、軍事的な「戦い」に負けたという国の現実を、経済的技術的な側面によって限定して「回復」させることで忘却し、しかもそれは東西冷戦の中、アメリカの圏域の範囲内で収めるという側面
、そういうことをきちんと把握してこなかったツケを自分自身で支払う必要があるのだ、と思う。
日本という国が、ではない。私自身がツケを払うということだ。
さてでは、国とか日本人とかに任せず自分でツケを払うって、どういうことだろう?


原発誘致自体は、仮に福島がこばみつづけ得たとしても、どこか別の拒み得ない場所が誘致を受け入れていっただろう。

一旦狙いを定められたら、沖縄の例をみれば分かるように覆すことは容易ではない。

だからこそ、今、私たちには「動物のように」生きる知性がどうしても必要だ。
スピノザのテキストの中では例外的に読みやすい『国家論』を読んでいるとそう思う。

私たちは、日常的には「理性1」を持って判断していながら、実際には「人為的な環境」=自然という「基盤」に乗ったまま流されていき、人為に対する環境適応性=擬似的「動物性2」を発揮してしまう。

そうではなく、その「理性1」の尽きるところから、「理性2」を立ち上げ、そこを起点としせて「動物性1」を発揮しなおしていくこと、自分を動物のように、あるいはvehicleのように、社会的には不全を呈した「人為=自然」の裂け目を見つつ、向かうべきところを探る嗅覚を「理性2」において鍛えていきたいのである。

それは決して個人の怖れには止まらない。
個人に止まっていれば、外部参照は所詮空絵事に終わる。

「神」についてずっと考え続けているのはその「裂け目」を単に修復可能な綻びとは見ていないからだ。
かといって、修復不可能な綻びとみている、というわけでもない。

それじゃあハルマゲドンだものね(笑)

ここ、重要です。


インフラ整備は、コンクリートか人か、の二分法の問題ではない。
私たちの生きる基盤について考えることこそが、インフラ整備だ。

「便利な方がいいに決まっている」
ということばかりを続けていては、いつのまにか奴隷仕事の分担が回ってくる。

かといって、インフラ抜きに全部自前でやるわけにもいかない。
風車や馬車だけで生きるわけにはいかないだろう。

自由について考えるためには、そういう二分法だけじゃだめなんだ、ということか。

『菊と刀』からは大分離れてしまった。

このあたり、メモとして残しつつ、あとでもうすこしまとめます。

ただ、人間の振る舞いを読むという方法の限界も感じました。

テキストをがっちり読むことの必要性を改めて感じた。

『菊と刀』だけで終わっては後味が悪い。

デザートとして加藤周一や大岡昇平を読み直したくなる、といったらおかしいかな(苦笑)


リバティというソニーの商品のCM曲。

2012年12月01日 08時44分06秒 | インポート
これなんですが、

http://m.youtube.com/#/watch?v=Ax9ID4Hvj3A&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3DAx9ID4Hvj3A&gl=JP

http://m.youtube.com/#/watch?v=yTqI7aQLPOQ&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3DyTqI7aQLPOQ&gl=JP

CMはこちら。

http://m.youtube.com/watch?feature=related&v=UIyqwWgTgLo

http://jp.youtube.com/watch?v=XxxKOV-nFpE&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=p90nx88T76s

作ったのが吉田美奈子という人だったことを初めて知りました。

私の愛唱歌(笑)

鈴木雅之が歌っているのをいつも聴いていました。

吉田美奈子のセルフカバーも購入してみようっと。