龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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『中動態の世界』の読書会を開催します。

2018年05月21日 06時37分35秒 | 観光

國分功一郎『中動態の世界』の読書会をやります。


Facebookのイベント告知はこちら。
https://www.facebook.com/events/721352934718770/?ti=cl

イベントの参加は上記Facebookで受け付けます。
人数把握のため、参加予定の方はぜひイベントページでのクリックをお願いします。

(宿泊を希望される方は別途後日となります。こちらは人数に限りがありますので、その場合は日帰りでの参加藻十分可能ですので、そちらでお願いします。)

以下、イベントの紹介文です。


去年『中動態の世界』が出版され、人文系の本(ましてや哲学書!)としては格別に大きな話題となりました(小林秀雄賞受賞)。どのぐらい凄いかといえば、普通に職場の同僚の多くが書名を知っていて、かつ何人か「読んだよ」と声をかけてくれる人がいたぐらい凄いのです。哲学者の書いた哲学書の話題を、普通に同僚や上司(おどろくべきことに教頭も校長も読んでいた!)と共有できるというのは、それこそ小林秀雄以来(哲学者ではないけれど)かもしれません。

 医学書のシリーズとして医学書院から出版されたということも興味深いことです。私たちが感じている今この時代の閉塞感、自分たちの生きている現実を自分たちがうまくつかめていないのではないか、というもどかしさ、そんな「息苦しさ」を考えるときに、「中動態」という概念が本当に(自分が置かれた状況を見直すのに)「役に立つ」ということがあったのではないか、と思われます。

 また、この本の主要な主題のひとつに(國分さん自身対談などでも触れていることだが)「アーレントの意志論批判」がある、という点にも興味を惹かれました。
 かつて國分さんが、「アーレントの言うことは納得できないことが多い。だが、読む必要がある。しかも注意深く。」というようなことを言っていました。それは単なるアーレント批判ではなく、アーレント批判をくぐりぬけることによってはじめて考え得る事柄があるんだよ、といっているように聞こえました。
 
 そしてよく考えてみると身近に渡部純というアーレント読みがいるではありませんか。

というわけで、読書会のポイントは二つ。

①「中動態」とはいったいどういうことなのか。哲学以外の分野の人々に大きな反響をもたらした「中動態」は、実際どんな役にたつのか?についてちょっと話をしてみたい。

②著作の中盤でがっぷり四つに組みながらアーレントの意志について論じているところから、我々が読書会をやってきた「アーレント」と國分さんのアーレント批判とを出会わせることで、私たちが今抱える時代的な問題についてより深く考えていくきっかけが掴めるのではないか。

この二点です。

『中動態の世界』を一読しての参加を推奨しますが、

①については島貫が、②については渡部純がレジュメを作成し、ポイントや課題点などをかいつまんで説明した上で話し合いをしたいと考えています。
よろしかったらぜひお気軽にご参加ください。


國分功一郎『中動態の世界』を福島市で開催します。
(宿泊付きですが日帰りも大丈夫)。
場所のは詳細決定し次第改めて連絡します。


『歩道橋の魔術師』作:呉明益 訳:天野健太郎 刊:白水社

2018年05月14日 22時52分14秒 | 観光
『歩道橋の魔術師』作:呉明益 訳:天野健太郎 刊:白水社
を読んだ。
1980年代~90年代にかけて、台湾にかつて存在していた「中華商場」(台北の町中、大きな道路と線路に面した商業ビルの中に小さなお店がなかにぎっしり入っていて、それがが歩道橋で繋げられている、駅前のショッピングモールのようなもの)を舞台にして、その中で生活する人間くさい商店街の人々。当時そこに生活していた少年や少女の回想として語られていくその「中華商場」の物語は、読み進めるうちに、小説家がかつてそこに生活していたとおぼしき不思議な魔術師の存在を聞き書きしながら「この小説」を書き留めていっているような体裁がおぼろげに立ち上がってくる。

私はこの「中華商場」があることに台湾にいったことはないけれど、夜市で怪しげでおもしろいお店をたくさん冷やかしてあるいたことはある。そのときの印象が鮮烈で、なんとなくそういうイメージを重ねながら親しい感じを覚えつつ作品を読んでいった。

魔術師は決して物語りの主人公ではない。敢えていうなら、主人公はかつて存在していた猥雑で人々の生活感にあふれたこの「中華商場」それ自体だろう。
今はもう存在しないその懐かしき「ショッピングモール」は、一見ちょっとノスタルジックな語りの中に漂っているように見えるかもしれない。そしてそう読まれることを、作品はとりあえず拒まないのかもしれない。
しかし、読まれるべき第一の筋は、けっして懐古的な感情、ではないだろう。

その体験はこの中で大人になった元少年、元少女たちの中に沈殿しながら息をしている。主人公たちはそれを昔の物語としてではなく、そこにあったものとして受け止めている、そんな気がしてくる。

まあ、知的な筆致の小説ですから、ワイルドな魔術的リアルがそこにあるわけではありません。しかし、台湾で描かれなければならない小説でありつつ、その台湾の「中華商場」を全く知らない私たちが読んでも、その「記憶」の手触りというか記憶されたものの記述されていく手触りは十二分に手応えとして伝わってくる、すてきな本でした。

こういう小説が読めるということは、間違いなく幸せです。

これからも台湾小説をもっと読みたいという気持ちにさせられる一冊。

ぜひよろしかったら。

『13・67』陳浩基を読むべし。

2018年05月12日 20時22分28秒 | 観光
購入したのはしばらく前で、友人にちょっとこの本の存在を知らせたところ彼は早速読んでしまい、同じ天野健太郎という訳者の台湾小説を紹介してくれ、結果『13・67』が後回しになり、台湾小説の『歩道橋の魔術師』呉明益を先に読むことになってしまった。

この『歩道橋の魔術師』がまたすこぶるおもしろい小説なのだが、今日は『13・67』の話。

ようやく昨夜『13・67』を読み始めたら文句なくすごい。
久しぶりにパワーのある作品に出会ったという喜びが身体の中を駆けめぐる感じがした。



かつで凄腕の警察官だったクワンが年老いて病床にあり、寝たきりではなすこともでこの小説は、断然今の日本で読まれるべき作品だと思う。きない彼が、ローという「弟子」の抱える難事件を解決するという安楽椅子探偵というかベッド探偵の話からスタートし、短編連作の形を取って次第にクワンの過去へと遡りながら物語は展開していく。そしてクワンが警察官になる前まで描かれて終わるのだが、その遡行する連作の中の時間は、そのまま香港がイギリスから中国に変換される歴史を振り返ることにもなっている。
つまり、クワンの50年にわたる人生を遡りつつ、結果として1960年代の反英闘争、香港の中国返還、2010年代になってからの雨傘運動と、香港という街の50年を描くことにもなっている。
一編一編の人物像にも確かな手応えがあり、むろんミステリーとしての味わいも十二分にある。

聞けば、『世界を売った男』という作品で第二回島田荘司推理小説賞を受賞した陳浩基の受賞第一作だという。

もし未読の方がいらっしゃったら、それは幸せなことです。今すぐ本屋へ行きましょう。
電子書籍をクリックすると、一晩眠れなくなるかもしれません。

去年刊行された作品ですが、私が今年読んだ上半期の小説ではベスト3ぐらいには入りそうな1冊。
最近あんまり小説読んでないんですけどね(笑)。

というわけで、ぜひどうぞ。

退職してからの一ヶ月(ご報告)

2018年05月12日 09時39分21秒 | 今日の日記
退職してから一月余り経った。
いろいろと変化が大きく戸惑っている。

語りたいことがないわけではない。
37年間続けてきた公立高校の国語教諭という仕事を終えたわけだから、これだけ饒舌な自分であってみれば、感慨の一つや二つ、いや十や二十は即座にまくし立てたいところだ。

だが、不用意にことばにしてしまうと、「退職者」だったり「退職後の再雇用者」だったりの語りになってしまう。

それが悪いというのではない。ただ、なんといったらいいのか、今までは教員でありながら教員以外の自分がことばを語るという「隙間産業」的なことばの生産方法だったのに、いつのまにか油断すると、その教員という立場を失い、「退職者」になったばかりにそのカテゴリーを背負った発話を意図せずに意図することになってしまいかねない、とでもいいたくなるような状態になりつつあるような気がするのだ。

今までは無意識のうちに身につけた「役割」を前提として、その「役割」との距離感を保っていればそこが語りの基盤にできていたのに、その前提としての「役割」を失ったために、ことばがなかなか形を成してくれない、そんな感じ、とでもいえばいいだろうか。

つまり、ことばは居心地の悪さからはじめるのが通例だったのに、その居心地の悪さというちょっとした「イスに座っているお尻のむずむず」が失われ、イスもなければ床もなくなってしまったような途方に暮れる感じにおそわれてきてしまったということかもしれない。

もしかすると、ことばを見失っているのかもしれない、と思う。
自分が思ったよりもずっと状況依存的にことばを使っていたんだな、とも思う。


今は再雇用の職場が同じで、しかも仕事内容、分掌、部屋、部署のスタッフすべてが同じで、給与だけ約4割減。
お金を以前通りに出してほしい、とは思わない。しかし、4割減で全く同じ仕事、というのは、自分の中で仕事の割合を低くしていかなければバランスがとれないことも確かなのだ。

仕事が同じってのがなあ……(じゃあ辞めればってことでもあるわけですよね、退職金ももらったことなんだし。でもそうもいかないんだ、これが)。
仕事を辞めて新しいことでもやればいい、ってのもわかる。でもさ、無年金だからねえ。社会的に微妙な場所にたたされるわけです。なんとなく。定年延長でもない、雇用うちきりもでない。なんとなく中途半端なもやもやがある。


きっと転職した人には当たり前のことなのかもしれない。
あるいは、退職すればおおかれすくなかれみんなこんなことに直面するのだろう。
人生が続きつつ、別のステージになっていくという意味では、ね。


ただ、今まで言葉ができていたはずの場所からことばがででこなくなる、そんなイメージなのだ。
そうはいってもことばを身体の外に出していかないと、体調も悪くなりそう。

ともあれ、そろそろことばを形にしてリハビリをはじめなければ。