1/9の朝、福島のとある温泉で、朝食後のチェックアウト前、少し時間があったので、ちかくにある源泉掛け流しの外湯に行こうとして雪道を歩いていたら、突然滑って転んでしまった。
素直に転べば良かったのかもしれないが、倒れる前左足でなんとか踏ん張ろうとしたらしく、方向の異なる力が瞬間的に左足くるぶしの上あたりにかかったらしく、転倒した後足に力を入れようとするもまったく入らず。
それ以来痛みはあまりないものの、腫れてきて鈍い痛みがつづいている。
幸い市内の整形外科クリニックが休日診療をしていて、樹脂で形になる副木(添え木?)を当ててもらった。
湿布と痛み止めを使いつつ、不自由な暮らしが始まった。
片足が不自由になると、日常の様々なことが違ってくる。
床に落ちたものが拾えない。
忘れ物を取りに玄関から自室まで戻るのがメチャメチャ大変。着替えに大層な時間がかかる。
そして、足が寒い。
日を経るに従って、痛みが増してくる。あしもあさらに腫れてくる。
そして、「どうしたんですか!?」
と言われる度に説明するのが面倒くさい。
もっとも最後の項目は、現在無職なので、職場での説明は不要なのでだいぶ助かってはいる。
もろもろの結果、自分の「依存先」について改めて考える機会になった。
家族という直接依存可能な範囲を超えて、友人や知人、出会った人たちの厚意が身にしみるし、杖をついてお店など(整形外科医院以外)にはいると、普通ではない自分に向けられた視線(別にそれ自体は多生の珍しさというだけのことだろうが)の強さ、注意喚起力の大きさ、つまりフラグが立っている感をひしひしと感じることになる。
もちろん軽微な怪我で整形外科にかかっている者としては、
「いずれ副木と包帯がとれれば終わる」
ことに過ぎない。
しかし、ヒトに頼りこつ見られる存在になることは、普段の自己像とギャップが大きく、すぐにはなれない。
出来ることは自分でやり、出来ないことは素直に任せる、というさじ加減にも、幾分か学習や訓練が必要なのだとおもった。
今、エピクテトゥスの本を読んでいるのだが、ストア派のこの哲学書のスタンス、つまり自分の「権内」と「権外」を分けて、「権外」のことは思い悩まない、という話が思いの外腑に落ちた。
ストア派は、ギリシャのポリス国家の政治・文化・哲学の没落以後、ギリシャ文化が地中海に、広がったなかで生まれた黄昏の哲学の一種、と言った趣がある。
だから弱った自分に響いてくるのだろう。
年をとる(そして偏屈になっていく)とスピノザ好きが増える、とはある哲学者の言。
エピクテトゥスが流行するのは、自分のできる範囲で「処世」をうまくやる自己啓発的な狭苦しい時代の空気にあっているのだろうか。
もちろん、ストア派は別に自己啓発とは他人の空似程度に似ているに過ぎないのだろうが、なんとなく「運命」や「諦観」の匂いは漂ってくることもたしかだ。
私のプチプチ諦観、プチ運命観は、足が治れば忘却していくのだろうか。
依存先について考えることはしかし、自己啓発が内に抱えるマッチョな孤立とは正反対の方向を内包してもいる。
とりあえずは動けないから、映画と本、だね。