龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

外側靱帯損傷か?

2022年01月12日 11時02分00秒 | 身体
1/9の朝、福島のとある温泉で、朝食後のチェックアウト前、少し時間があったので、ちかくにある源泉掛け流しの外湯に行こうとして雪道を歩いていたら、突然滑って転んでしまった。
素直に転べば良かったのかもしれないが、倒れる前左足でなんとか踏ん張ろうとしたらしく、方向の異なる力が瞬間的に左足くるぶしの上あたりにかかったらしく、転倒した後足に力を入れようとするもまったく入らず。
それ以来痛みはあまりないものの、腫れてきて鈍い痛みがつづいている。
幸い市内の整形外科クリニックが休日診療をしていて、樹脂で形になる副木(添え木?)を当ててもらった。
湿布と痛み止めを使いつつ、不自由な暮らしが始まった。

片足が不自由になると、日常の様々なことが違ってくる。

床に落ちたものが拾えない。
忘れ物を取りに玄関から自室まで戻るのがメチャメチャ大変。着替えに大層な時間がかかる。
そして、足が寒い。
日を経るに従って、痛みが増してくる。あしもあさらに腫れてくる。

そして、「どうしたんですか!?」
と言われる度に説明するのが面倒くさい。
もっとも最後の項目は、現在無職なので、職場での説明は不要なのでだいぶ助かってはいる。

もろもろの結果、自分の「依存先」について改めて考える機会になった。
家族という直接依存可能な範囲を超えて、友人や知人、出会った人たちの厚意が身にしみるし、杖をついてお店など(整形外科医院以外)にはいると、普通ではない自分に向けられた視線(別にそれ自体は多生の珍しさというだけのことだろうが)の強さ、注意喚起力の大きさ、つまりフラグが立っている感をひしひしと感じることになる。

もちろん軽微な怪我で整形外科にかかっている者としては、
「いずれ副木と包帯がとれれば終わる」
ことに過ぎない。

しかし、ヒトに頼りこつ見られる存在になることは、普段の自己像とギャップが大きく、すぐにはなれない。

出来ることは自分でやり、出来ないことは素直に任せる、というさじ加減にも、幾分か学習や訓練が必要なのだとおもった。
今、エピクテトゥスの本を読んでいるのだが、ストア派のこの哲学書のスタンス、つまり自分の「権内」と「権外」を分けて、「権外」のことは思い悩まない、という話が思いの外腑に落ちた。

ストア派は、ギリシャのポリス国家の政治・文化・哲学の没落以後、ギリシャ文化が地中海に、広がったなかで生まれた黄昏の哲学の一種、と言った趣がある。
だから弱った自分に響いてくるのだろう。

年をとる(そして偏屈になっていく)とスピノザ好きが増える、とはある哲学者の言。

エピクテトゥスが流行するのは、自分のできる範囲で「処世」をうまくやる自己啓発的な狭苦しい時代の空気にあっているのだろうか。

もちろん、ストア派は別に自己啓発とは他人の空似程度に似ているに過ぎないのだろうが、なんとなく「運命」や「諦観」の匂いは漂ってくることもたしかだ。

私のプチプチ諦観、プチ運命観は、足が治れば忘却していくのだろうか。

依存先について考えることはしかし、自己啓発が内に抱えるマッチョな孤立とは正反対の方向を内包してもいる。

とりあえずは動けないから、映画と本、だね。








「日経サイエンス」2013年6月号は天才特集

2013年05月03日 11時24分56秒 | 身体
日経サイエンス2013年6月号の特集は

「天才脳の秘密 ー 天才と変人 解き放たれた知性/サヴァンに学ぶ独走のヒント」

科学雑誌といいながら、この「人間中心主義的」テーマの堂々した感じはちょっと笑えるんですがね。
まあ、人間精神は科学ならずともヒトにとって永遠の課題だから、そこに科学が参入したっておかしいことはない。
むしろやれることは徹底的にやってもらいたいよね。

というわけで、「天才脳」。
(ただし論文内で、典型症例として比較されているのは統合失調症とか抑うつ、アルコール依存症が中心です。それを多動にまで結びつけたいのは、ブログ子・foxydogの妄想です<笑>。でも、関係あると思うよ。全ての「変人」は、なりそこねた天才だ、みたいは話なんですけどね。

こういう特集を大まじめでやるところが「日経サイエンス」。むろんアメリカ本家の「SCIENTIFIC AMERICAN」自体の編集方針なのかもしれないけれど。

(ちょっと寄り道)、コラムの中に
「ウジ虫を傷口に当てて治療する療法が、抗生物質耐性菌対応のため見直されている」
的な記事があったりして、この日経サイエンス、本当におもしろいのです。

「科学の前提があれば全てが赦される」

って感じのオーラ全開で、かなり「悪くない」ですよ。
あとは雑誌1400円を高いと見るか安いと見るか。
大まじめに不思議なことどもを研究している研究の「生態学」の報告としてみても、その価値有り、と私は思うのですが、いかがでしょう。


閑話休題、「天才脳」の話です。
詳細はむろん自前で読んでいただくとして特集の中身をざっくりまとめると、

特集論文の最初は「天才と変人」について

1、創造性に富む人物はしばしば奇妙なふるまいをする。その逆もまたしかり。
2,創造性と奇抜さのどちらの原因も、遺伝子の変異によって「認知的脱抑制」と呼ばれる状態が強まることと関係(しているらしい)。


3,非常に知性的な人々は、フィルターに遮られずに入ってきた大量の情報にも圧倒されることがないため、情報が意識にあがってきた際に、並外れたアイディアや知覚が生まれるのだと考えられる。

(「認知的脱抑制」とは、通常は脳が無関係な情報をフィルターにかけて遮断しているが、それができない状態のこと。)

つまり、無意識から意識への「環流」がダダ漏れになっているという点では、統合出張型パーソナリティと創造性に富む人とは共通するって話です。

「天才と○○は紙一重」

ということわざ(こちらは差別的ニュアンスが入っているかもしれません)を大まじめに研究してるんですね。

統合失調型のパーソナリティの顕在化それ自体は、創造性を高めることを示唆してはいないが、奇抜さの根底にある認知的メカニズムが、創造的な思考を高めるとも考えられる。

だって。まあ、当たり前か。

つまり、「認知的脱抑制」、よけいな情報を無視できない状態は、神秘主義的傾向で発現したり、バランスを失うと「電波が命令している」ということにも通じる。統合失調型のパーソナリティの人も、統合失調症患者の人も「潜在抑制機能の低下」が見られる。無意識から意識への刺激の量が増えちゃうってことでしょう。

その状態は、外への拡散よりも内部で生み出される刺激に焦点を合わせることに通じる。
創造的な人が自分の内的世界に集中する傾向と、同じ傾向が統合失調型パーソナリティにもあるって話に展開しています。

その上で、その「認知的脱抑制」を起動する遺伝子があるよって話になる。

「視床の皮質下領域に存在するドーパミン2受容体密度の低さ」
によって視床でのドーパミン結合の現象が、認知的フィルターの機能低下を生んでいる、んですと。

それがneuregulin1という遺伝子の変異によって起こり……
(neuregulin1という遺伝子は、ハンガリーのセンメルヴェイス大学の精神科医Szabolcs Keriが発見2009年)

さて、上のことはまあいいとして、結局結論は、無意識からデータがたくさん来たとして、それをどう捌くか、が問題になりますよね。
その結論は、結構当たり前(凡庸)でした。

「重要なのは知性」

だということです。そこかよ!ですねえ。

別の論文では、

天才は潜在的にはネガティヴな特性を精神病患者と共有しているが、この特性が「ポジディヴな特性」と結びつくことによって精神病ではなく創造性が生み出される。

結局天才とは社会的定義であり、特定分野の知識収得なしにはありえない。

・限られた専門知識で短期間の業績を上げるには遺伝的要因が助けになる。
・全ての創造的天才は、ある共通のプロセスをたどっている鹿瀬意がある。「徹底的な試行錯誤だ」

というところが論じられています。

一つ目の論文では「認知的脱抑制」がキーワードで、知性の高さによってそれを想像に結びつける、という話。

二つ目の論文では、
「天才は、ある問題の解決法を広範囲に(ほとんど持う目的に)探し回り、袋小路を探り尽くし、繰り返し後戻りをした末に、ようやく理想的な答えにたどり着く」
という秩序だったメカニズムの存在を予想している。

その場合に必要となるのは「速度」であり、何が「理想か」ということを導出する、経験が無意識に抑圧=蓄積した全体像を踏まえた「直観」であるだろう(foxydogが考えるに)。

天才と精神病の関連でいえば、

非常に創造的な作家は
・「ミネソタ多面人格検査」の精神病理学関連検査で高スコアの傾向。

創造的芸術家と影響力の大きい心理学者が
・「アイゼンク性格検査」において高スコア傾向。
これは「自己中心的」「冷淡」「攻撃的」「厳格」の性質あり

極めて著名な科学者たちは
「キャッテル16因子性格検査」で
「引きこもる」「厳粛」「内面に没頭」「几帳面」「批判的」に高スコア。

総じて、最高の業績を上げる者達はあまりノーマルな集団ではない。


それを前提としつつ

「セレンディピティ」(偶然に素晴らしい発見をする才能」にたどり着くためには、ということで、こんな指摘をしている。

それは「盲目性」である、ってのがとりあえずの結論でした。

「自分が何をしているかがわかっていたなら、それを研究とは呼ばないだろう」(アインシュタイン<科学者>)

の言葉のあと、ピカソの絵画『ゲルニカ』のデッサンの経緯に触れ

「才人は、他の誰も当てられない的を射る。天才は、他の誰にも見えない的を射る」(ショウペンハウエル<哲学者>)

という引用で論文は終わっています。

以下、感想です。おもしろい。

(foxydog的には「動物性」と言い変えてもいいように思う。人間中心主義的な有用性を無視する能力、といってもいい)

言い換えれば無駄骨と後戻り。

一般に無駄を嫌って「役に立つ」ことを選ぼうとする人は、現状適応的な思考をしてしまう傾向があり、むしろ根底からクリエイティブなことはしない場合が多いような気がする。
改良型のすっきりしたものは作れるけどね。

それに対して、ものごとをゼロベースから(正確にな印象を言うと一からというよりむしろ現状否定のマイナスから)物事を作り上げる場合、この「動物性」というか「盲目性」というのは、圧倒的に重要だ、という印象を持つ。

試行錯誤を怖れ厭う体質は、根本的な創造をなしえない。
まあ、身近にいつも「根本的な創造」を目指す人がいたら、それはそれは迷惑千万に違いないんだけどね(苦笑)。

結局のところ、無意識の抑制が弱かったり、盲目的に試行錯誤を繰り返したり、それ自体としては散漫だったり病的と呼ばれかねない行為が、にもかかわらず真に創造的行為、として天才呼ばわりされる理由は、それがシステムとして自立していて、しかも「人間」に向かってどこかで開かれている必要があるのでしょう。

ただ盲目的だったり、ただ認知的抑制が弱いだけだと、自分も困るだけだし、周りも困る、つまり「病気」
ってことになっちまう。

結局天才の問題って、この「制御」の問題にたどり着くよね。
制御できればいいってもんじゃない。
開かれてることが必要で、しかもシステムとして全体性が作動してることが必要で、しかも抑圧されてる無意識にも、有用・有意味な世界を営んでいる人間にも開かれてるいなければならない。
たぶん、その要素の多くは、当人の知ったことではない。

勝手に天才って呼ばれても困る所以だろう。


さて、でも、多動児の話をここに重ねると、ちょっとおもしろそうだと思いませんか?


人をネタにしていたら……

2013年05月01日 21時41分23秒 | 身体
人の「所業」をネタにしていたら、案の定報いが来ました。

今日の午後、自分の部署の通帳(印鑑は管理職決済)でお金を下ろし、支払いを済ませたあと時間があったので、別の部屋で油を売りながら、机の上がてんこ盛りになっている同僚をひとしきりからかい、さて自分の席に戻ってみると、ない。

通帳がない。通帳がない!ないっっ!

まあ、印鑑は管理職決済だから口座のお金自体は大丈夫です。でも、この前同僚が通帳紛失をしたところ、再発行に1000円以上かかるとかいってがっかりしていたのを思い出し、「うひょっ」ってなりました。

金庫から出して、お金を渡して、油を売って、自分の郵便トレイを覗いて、各部署に届いた資料を配って……。
分からない。

ああ……orz

となって、椅子にへたりこんだら、おしりのポケットになにやら存在感。

ありました。
ズボンのポケットに私のおしりの形通りにひんまがって(笑)。

まあとにかく、関心=シニフィアンが見事なほど次々に転移していくんですよねえ。


多動児ネタをもう一つ。

2013年04月30日 23時16分13秒 | 身体
多動児ネタをもう一つ。

私の友人に、典型的な多動傾向の人がいる。

ある時、私が運転手をし、途中ク彼を拾ってからして温泉飲みをしにいくことになった。
ところが彼はクルマに乗り込み、高速を走り出したとたん
「財布がない」
と言い出した。高速だからもどりようもない。
彼は慌てて家に電話をする。小学生の息子さんに
「テレビの上は?」
などと指示しながら探してもらっている。
しかし、見つからない。その電話の間にも自分のリュックをゴソゴソまさぐりつつ。

結局リモコン探索は不首尾に終わり、電話を切ってバッグに入れたとたん、
「あった!」

いるでしょう、そういう人がみなさんの周りにも。

同行していた知り合いも、ほれぼれしながら
「今日はいい多動をみせたもらいました」

といってました。その知り合いもかなりなもんなんですけどね。

っていうか、多動の人は、そうでない人からみるとイライラの種なんではないか、と思う。
そして圧倒的に男が多いような気もする。
そしてこれは病気みたいに言われるけれど、むしろ「現象」なのではないか、とも思われる(笑)


多動児、茂木健一郎のこと。

2013年04月30日 21時05分50秒 | 身体

茂木健一郎が水道橋博士の『藝人春秋』について書評を書いていて、それを読んだのがきっかけで彼(茂木健一郎)のブログ

クオリア日記

を読むようになった。

間違いなくいわゆるADHD系である。

友人に同じ多動系が一人いて、極めてクリエイティブで、ちっともじっとしていなくて、ものを実に良く無くす。
何かを生産的に考えることの資質の中には、そういう過度な「動き」が必須なのではないか、とさえ思って見たくなる。
最近お会いした映像関係のプロデュースの仕事をしている方も、それ。

彼らの鬼門は、改札口であり、コンビニのレジであり、クルマのドアである。

私のような粗忽者に言われたくないだろうが、さいふと定期券、それに携帯の場所ぐらい、場所を決めておけばいいのに、彼らにはそれができない。

「あれ?、あれ?」

とおなじみの声をだしながら、関所の前で減速し始めるのだ(笑)

決してバカにするわけではなくて、その姿を見ているとホッとしたりする。

でも、神様はその脳みその散らかり具合の代わりに、新しいものやことを生み出したり、状況に対応するフットワークを与えてくれた。
わたしもかつては及ばずながらその仲間だったような気がするのだが、もう財布の場所や携帯電話紛失であわてることがなくなってしまった。
そのぶんだけ、思考が固定的になってきてしまったような気がする。
最近は、もっと大切なものを忘れ始めているような……。

ともあれ、茂木健一郎の日記は、オススメです(笑)




http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/


入院体験記(16)無事退院しました(^^)

2010年08月23日 21時58分13秒 | 身体
10日間に4000キロ走り、10日間は病室の中に籠もって沈黙していた。

これだけ大規模な動と静のリゾートなんて、初めてかもしれない。
ま、もっとお金とお暇があれば、外国のリゾート地にでもいくんだろうけど。

旅行をしても手術入院をしても、おおよそコストは1日1万5千円。

高いのか安いのか分からないけれど、人生の大きな転機になるかもしれない。

30年間仕事をしてきて、これだけ休んだことはない。

のこりは7年半。どんな仕事をし、どんな風に引退準備をしていくのか。
あるいは、残りの人生をどんな形で進めていくのか。

そんな個人的なことも考えつつ、同時にこれかrら日本はどうなるのだろう。
若い人たちにとって、あるいは老人にとってどんな未来絵図が待っているのだろう。
そんなこともじっくり考える機会にもなった。

また明日から日常に戻ってしまえば、その中で考えたこともいつのまにか忘れてしまうのだろうか。
入院体験記は今日で終わりだけれど、この夏のお休みで思いついたことを、これからしばらくゆっくりと反芻
しながら考えて行きたいと思う。

とりあえずは明日からフルタイムで仕事なんですけどね。
病院のベッドの上で10日も過ごすと、日常生活(しかも暑い!)復帰がまずは最大の課題だなあ……。




入院体験記(11)Twitterの面白さ

2010年08月21日 20時28分34秒 | 身体
身近にTwitterにハマっているヒトがいない。

SNSはついに乗り遅れたまま終わった。

Webマガジンは救済中(笑)。


HP更新って形からBlogにはサーバー変更して、ようやく携帯メールから更新というのが定番になった程度のネットワーク度では、やっぱりまだよく分からない。

だいたいフォロワー(つぶやきを聴いてくれる人)もいないのに、バカバカしくて呟く気にもなれない。独り言ならトイレでしろって話で(苦笑)。
Blogは結局自分の思考の外部化、形象化、データベース化という意味があって、加えて他者との出会いがあれば幸甚ってスタンスでなっとくしてずっと書いている。
これはいい。

mixiは、異業種交流もなく、テキスト読むだけの趣味のおじさんでは、所詮毎日「交流」してもなあって感じだった。

Twitterは、知り合いの若者(20代)も、何が面白いんだかって感じのヒトも多く、今のところ謎である。
たぶん謎のまま終わるのかもしれない。

でも、今日Twitterベスト300の一覧が載ってるサイトを見つけて、暇にあかせての表をずっとみていたら、何人かフォローしてみたい人間がいたので登録してみた。
するとこれが面白い。
必ずしも自分でつぶやかなくたって、それなりに楽しいのだ。


みていると、自分のことだけ「がーっ」と喋るカリスマ的なヒト(芸術家におおい)、RTといって自分に返事があったものをフォロワーにも紹介するエディター・セッション系のやりとりを好むヒト(編集者におおい)、仲良しクラブをTwitterでもやろうとしている有名人(顧客フォローかっ?こうかんどあっぷかっ?)など、さまざまに面白い。

最高なのはやっぱりリアルタイムチャットのノリで有名なあの人のツイートを「今」読めるし、突っ込むとすぐ返事がきたりRTされたりして臨場感がある。
気に入らなければあっさりフォローを止めればいいわけだしね。

たまたまあったので、谷川俊太郎のフォローをしたら、履歴をみても1ヶ月に1tweetぐらい(笑)。
でもそれだっていいんだよね、べつに。

「生」の声を切り取って見せてくれるこのTwitterっていうパッケージングは、いわゆるmixiとかのSNSよりは気軽に流しながら覗き見ができて楽しいかもしれない。

とりあえず業界系のヒトとか、海外在住のヒトとか、在留外国人とか、げいじつかとかを20人ほどふぉろー。検索していくと知り合いとかにも会ったりして、意外に世界は狭い(狭くないけど検索かかると距離は無意味)。逆におもうように検索ができないと、これは辛い。
そういうエントリーレベルでの初心者誘導って、もう少しあってもいいんじゃないかしら。
私が知らないだけかな。
「いまさら聞けないTwitter」
とか日経のおじさん雑誌で特集やるまでは待てないもんなあ。

ちなみに典型的な日経おじさん雑誌ハウツー雑誌「日経トレンディ」9月号で特集されてて、iPhoneの最強アプリっていう特集があったから買っちゃいました(笑)。

Twitter初心者で誰をフォローしたらいいかわからん、という方は、とりあえず

下記はお勧めかもです。

http://twpro.jp/ranking/20100731/fld




入院体験記(2)

2010年08月14日 11時00分24秒 | 身体

その後。
簡単な外科的手術で、土日を挟んでいるので、入院していても実質することがないので、すべての説明が終わると外泊許可が出た(笑)。

入院の前は旅行が長かったので、自宅PCを立ち上げるのは久しぶり。
溜まりに溜まった1000通弱のメール(迷惑メールというのではないが、99%は不要メール)を流していたら、その中でこれが目にとまった。

日経ビジネスオンラインのコラム、小田嶋隆の『ア・ピース・オブ・警句』の8/6版
「グーグル、そして英語化される世界について考える」
の中の

引用開始--------------------------
 日本語を使っている限り、英語国民には負けない。これは非常に大切なポイントだ。死守せねばならない。
 もちろん、日本語を使っている限り、英語国民には勝てないわけだが、大切なのは無勝負無判定に持ち込むことだ。英語を使ったところでどうせ勝てないわけだし、のみならず、英語の世界では必ず負けることになっているからだ。完全に。
引用終了--------------------------

というところが印象に残った。

インフォームドコンセントの文書の言葉たちが目指しているのも、この「勝負無判定」に持ち込むこと、だったのではないか、と感じたのだ。

むろん、説明・同意書は日本語で書かれている。
そして昔手術の前に書かされた問答無用の白紙委任状とは全く違う。

手術の目的と得失を相互に理解し、その上で説明を受け、同意した、という筋道だ。

しかしそれは、この異質な文化同士がせめぎ合う中で、「勝負無判定」に持ち込むというスタンスもまた見て取れる。
ポイントは結局、そういうことなのかもしれない、と思う。

完全に対等な立場、等質な理解など、どんな交渉ごとやプロジェクト、商売においても成立はしない。
しかし、日々私たちはそんな中で可能な限り円滑に、自分たちの立場も保持しつつ、なおも他者とお互いを尊重しながら仕事や生活を営んで行かなければならない。

とすれば、交渉ごとなり異質なものの出会いや摩擦においては、適切な「勝負無判定」に持ち込む努力を惜しまない方がいい、ということになる。

大げさな話、だろうか。
でも、「ことば」を尽くす、ということは完璧に等質な理解にたどり着くことではなく、かといって「契約」したのだから、と木で鼻をくくったような門前払いを食わせることでもなく、異質さを丁寧に理解し合った上で「納得」していくことなのだろうと思う。

そのためには、むしろ「等質な理解」を過度に求めないこと、均質化をいらだたしさの中で求めすぎないこと、が大切なのかもしれない。

知識に格差もあり、態度や価値観にも大きな異質性をかかえ、そんな中で「納得」点を見いだし、そこをお互いに大切にしていくこと。

ある場合に危険なのは、むしろ「納得」していないところを「暗黙の了解で済ませ」ようとすることかもしれない。
これも難しいところだけれど、コンパクトに、誰にでも分かる範囲の言葉で丁寧に理解を求めること。それはそういう力のある側がするべきこと、なのだろう。

「異質性」を認識した上での「納得」は、両者の利益を感じるポイントがたとえずれていても、いや、むしろそのズレがあった方がよい場合がありえる。お互いがどこに利益をなぜ感じるのか、が十分に説明されているのならば、その方が「安心度」は高い、とさえ言えるかもしれない。

入院の話に戻れば、医療の場合には「治る」ってことが一番なわけだけれど、どんな状態をもって「治癒」とするのか、だって、患者と医療従事者の側では「ズレ」があるだろう。

自分が医療従事者だったら、あまりに困難な事例は「立ち去り型」の回避をしたくなるだろうなあ、と思ってみたりもする。

消費者=顧客が「完全」な満足を得た、と思うためには、あらかじめその「欲望」をコントロールしておかねばならないだろう。さまざまな方法を用いて。
私たちはむしろ、「完全」な満足を「得た」と思う「パターナル」な上から目線の「結果」ではなく、「不完全」ではあっても、それ相応の「納得」を得つつ、自分自身で自分を「選択」しつづけていく方が「より少なく悪い」。

なんだか、たかだか数ミリのポリープを切除する手術の説明を受けただけで、いろいろ考えさせられて楽しい思いをしたようだ。




物事が見えてきた、という迷妄感覚(3)

2010年07月08日 20時30分59秒 | 身体
物事が見えてきた、という迷妄感覚(3)

しかしやはり、物事の理解が深まってきた、という手応えは、確かなものがある。
つまり、経験値を単なる知識データベースとしてだけ用いるのではなく、もう一段汎用性を上げたスタンスとして使えるようになってきた、という感覚だ。
つまり、無駄な力を抜くこと、といってもいい。

経験上省けるものを省く、という「職人」の技、ということとはちょっと違う。

ズレやゆらぎ、裂け目と出会ったときのステップ感覚の洗練

とでもいえばいいだろうか。無駄な動きをすると、重心がずれたときにはつまずいたり転びやすくなる。
うまくいかないときのスタンス、というか、そのときに必要な緩急のバランス、というか。

それは、むしろある種のまだらな「ぼけ」というか、ウェイトをかけないようにしつつ、しかしもしそれが必要になったなら、周辺から呼び出すこともできる、みたいなね。

全く新しい分野で、ずぶの素人としてやるのは大変かもしれないけれど、経験をきちんと外部化して、分析をしつづけてくると、その経験が古くなったとしても、外部化し、分析してきた姿勢は、変化に対応できたり、バリエーションが増えてもついていけたりする。

そういう意味で「物事が見えてきた」、ってこともあるような気がする。
むろん、それは体力や知識、記憶や柔軟さ、対応力、洞察力、決断力、持続力、などなど、知的な総合能力としてのバランスの結果にすぎない。
だが、何かに突出しているわけでもない者が物事をきちんと観ようとしたら、ぼける寸前までちまちまと続けてきて、一瞬退却するまえに、蝋燭が消える前のゆらぎのような中で、危ういバランスが取れて「見える」ことを結果するのかもしれない。

少なくても、今はそう思っていたい。そのバランスはむしろ「動的」であってほしい。ずっと「見える」なんて思い込みはこちらから願いさげだ。ぎりぎりの危うい失われていくものと引き替えの瞬間のバランスの中で「見える」もの。
その感じを、脳みその「ショート」現象を受け止めながら、なおもプラスとして楽しみたい、と今は思う。

失われていく体力・知力の下り坂の一瞬だからこそ、の瞳の有効性を、それでもなお、求めていきたい。


ダイエット開始二週間の身辺雑記

2010年07月08日 20時19分43秒 | 身体

クルマで走っていると、普段絶対食べたいとおもわない回転寿司(○○ぱ寿司)の店を、目で追ってしまう。

ちょっとやせたから、と不意にコンビニスイーツを買っても構わないような妄想にとりつかれる。

カロリー計算が早くなった。

じっとしていると食べたくなるので、仕事が進む。

夜、部屋にいるとものが食べたくなるので散歩に出るか、寝るかの選択を迫られる。

家に帰ると、通販で買ったおからクッキーが届いていた。

体重が減った日は、定番の朝ばかりでなく、夕方にも体重計に乗ってしまう。

コロッケやラーメンというチープなものを大量に食べたい、とふと思う。

近所のドラッグストアには「蒟蒻畑Lite(こんにゃくゼリーのさらなる低カロリー版)」が置いていないことを知って、切れそうになる。

食べることを忘れているか、食べることを考えているか、の二種類で自分の人生は進行していると思う。



物事が見えてきた、という迷妄感覚(2)

2010年07月04日 09時46分17秒 | 身体
さてしかし、問題なのは、その「見えてきた」と思ったことを、意図もたやすく、あっけにとられるほど簡単に

忘れてしまう

ようになったことだ。

夢からさめたとき、いいアイディアだったなあ、と思うのに、何がどう良かったのか思い出せないのに似ている。

とすると、「物事の本質が見えてきた」と最近思うようになった、というのは、「白日夢」をよく見るようになった、ということだろうか?

あー、嫌になってしまうなあ。

「分かってきたぞ」感は明らかに増しているんだけれど。

というわけで、最近、書籍にアンダーラインを鬼のように引き、同時にノートにメモを取るようになってきました。

メモを取っても、何が「大事」だと思ったのかが、後で見るともう分からなくなっていて、意味があるのかどうか分からないし、所詮「迷妄」に過ぎないとすれば、病が篤くなった、だけのことかもしれない。

ただ、その「見えた!」感は、死ぬ前に形にしておきたい、と思う。

知人の言うように、ただボケの「きざし」という身体感覚が訪れた、だけ、とも言えるが。
とすれば、今後は長屋のご隠居さんのように、知らないことも知っていることもみんな知っているかのような「姿勢」を生きる、ことになるのだろうか。

無知を隠さない熊さん八っつあんから知を装うご隠居さんへ。

肝心なのは「無知」=「知」の交代じゃなくて、そのズレが生み出す「おかしみのある世界」の多層的で柔軟な「強度」なんだろうから、そこさえ見ておけばいいのかもしれないなぁ。

「汝自身を知れ」ということ(2)

2010年07月02日 23時15分50秒 | 身体
サッカーのことは皆目分からないが、見ていると何かしゃべってみたくなる。
スポーツというのは、幾分かは身体を巡る言説によって空疎な再生産を宿命づけられたイベントなのかもしれない、と思う。

さて、ひるがえって自分自身の身体の不調=病気について考えてみると、自分の体についてもまた、なにやら検査と診断によって外から与えられた言説において初めて自覚し、その外側からの言説によって自分自身を改めて意識し、その身体を伴って再組織していかねばならない事態が招来される。

いい医者に診てもらわないから駄目なんだ、という議論は、どこかサッカーの監督批評に似ていないこともない。
診断される前は全く別の意識、別の基準や習慣に支配されていたのに、病気と診断された瞬間、その前の状況には戻れない。

知らぬが仏、ともいえるが、あの監督だったなら、と「知っている」人は、無知を哀れむしかないのだろう。そして「世界を知らないサッカー」をさげすむことになるのだ。

お医者さんと話をしているとときどき「分かっていたらきちんとしようよ」というオーラを感じることがある。「理屈が分からない人なら言わないけれど、あなたは分かると思うから言うのだ」といって治療方法を示し、それにうなずかない患者(わたしのことです)を哀れむように見たり、あるいは「分かっていてもなかなかね」と共感を示したりもしてくれる。

これもどこかで見た情景ではないか。教育の現場で、「今やればいいのに」と思って生徒にそれを示し、指導して、誘惑しようとするのだが、しかし、そううまくはいかない……。

あれ、これはどこかで見たことがある。ああ、そうだ。

シリーズ・哲学のエッセンス『アリストテレス 何が人間の行為を説明するのか』(NHK出版)
にあった、「意志」の問題でもあるねえ。
わかっちゃいるけど止められない意志の弱さにおいて、「知識」と「行為」の選択の問題がクローズアップされていて、
「思慮」と「善きモノ」の関係には、やっぱり「倫理的な徳がからんでくるんだよねえ。

それは自由意思の問題でもある。

いちいち食べたいものを食べる、しゃべりたいことをしゃべる、ということができない中で、「善く生きる」選択をどうしなおしていくのか。
いろいろ考えちゃうなあ。

単なる無知ではなく、単なる現状依存というだけではなく、どう「善きモノ」にコミットする自分の行為を組織だてていくのか、という課題がそこにはある。

主体が理性的に判断して、知の名のもとに行為を統御する、というだけでは答えはでない、ってことだね。
(またこの項つづきます)

馳星周の岡田監督批判

2010年07月02日 20時35分07秒 | 身体
先日の新聞に、たしか馳星周だったと思うが、岡田監督批判を載せていた。

こんなに岡田ジャパン頑張った一色の日本で、敢えて岡田監督批判を書くことは、その点だけみると、ちょっと楽しい。

頑張ったのは監督じゃなくて選手だ、という主張は、どんな名監督の下であれ、主張する人はいるべきだとも思う。

岡田監督を辞めればいい、といって言っていた人たちが、手のひらを返したように岡田礼賛になるよりは、最後まで敵でいる方がずっと役に立つ。

だが、次の部分にきて、どうしても首をかしげざるをえなかった。
重要なポイントなので、引用する。

>。オシム監督が病魔に倒れさえしなけれぱ。どうしても、そう考えてしまう
>。彼ならば弱気に陥った選手たちを一喝しただろう。もっとクリエーティブ
>な戦い方で我々を魅了しただろう。

オシム監督の力量が、岡田監督の指導力よりも一枚上手だろうな、というのは、素人の私にもうすうす感じられる。
だって、岡田監督っていうのは、監督のスーパーサブとして2度も途中出場しているのだから。
だから、岡田監督を前にして「おまえはサブにすぎない」というのはまあ、そういう原稿でお金をもらうのはどうかとも思うけれど、それも別に不要な言説、ではないだろう。

でも、岡田監督を「スーパーサブ監督」というなら、オシムは日本代表監督を、体調不良で投げ出した監督だ。

日本代表監督である岡田の元で、選手たちは、外国開催のW杯で初めて決勝に進出し、その間のディテールとして、すてきな試合を見せてくれた。

敢えて言えば、ベスト16どまりの監督だった、という批判もあっていい。

しかし、絶対に続けることができなかった体調管理不良の監督の名前を出して、現監督を批判するのは、あまりフェアなことではないだろう。
その尻ぬぐいをしたのが岡田なわけだし。

だから、朝日新聞のコメントは、批評ではない、といって良さそうだ。

批評は、個人的な信念やファンタジーの吐露を超え出ていなければならない。結論がファンタジー、ではね。

ただし、岡田監督批判という文脈を離れてなら、オシムがいたらなあー、というのは個人的には賛成。
オシムはいいキャラしてるよね。小説を書いていないときの馳よりも。
何より、その言葉がいい。

オシムの言葉は、一見すると皮肉な言葉遣いだが、単純ではない「複雑な」ものを表現するのに最適なパフォーマンスを持っている。言葉によってサッカーを愛することができる才能っていうのは、凄いことだと思う。そういう「愛」があるよね。
馳のコラムにはそういう「複雑」なものに対する「ロマンチック」な(つまりは単純な)感傷があるばかりだ。

むろん、それは馳の存在が単純だ、ということを意味しない。

だが、その誰であっても本来、愛すべき「複雑」さは、残念ながらこの馳のコラムの言葉の「外」にある。
馳に限らず、重心を言葉の身体の外に持った瞬間、その言葉の身振りは美しさを失うと思うのだが、どうだろうか。






「汝自身を知れ」ということ(1)

2010年06月30日 22時15分53秒 | 身体
「汝自身を知れ」ということ

自己の身体に対する顧慮、など、若いときには考えもしなかった。

「養生」は明確に「老人」の必要悪にすぎない、そう思っていた。
死ぬときはあっさり死ねばいい、そう思ってきた。

つまり、精神=認識=時間超越的/肉体=顧慮(顧慮の他として)の対象=時間従属的

って感じで、頭の中や気持ちの中で追いかけるものだけを追いかけていたい、そう思ってきた。
むろん、玩具としての「モノ」に執着したり、ダイエットというゲームの対象としての「体重制限」などは繰り返し行ってきたことだ。

けれど、そういう二元論の中で、頭の中のこと優先で(欲望全般も、身体からではなく、頭の方優先で生きてきた)生活してきたような気がする。

「汝自身を知れ」っていうのはデルフォイの神殿に刻まれた言葉の一つとかいうものらしい。
数年前にフーコーの講義録の冒頭、そのあたりをぐるぐるミシェル・フーコーが書いていたのが印象的だった。
キリスト教以前のギリシャ哲学における「自己への配慮」と、キリスト教の禁欲的な「自己抑制」、そしてデカルトに至った「真理への欲望」=「精神優先」までを、西洋の哲学における大きな大きな流れの中で捉え直そうとする試み、なのかな。
(あまりよく分かってはいません、いつものことだが)

改めて
「汝自身を知れ」
について、最近考えている。
病気を治す、という現実的な要請なんだけれど、これがどうもうまくその「物語」に接続できないのだ。

自覚症状のある病気と自覚症状のない病気と二つの科をいったりきたりして検査と診察を受けながらカントの空間と時間が人間にとって決定的な二つの純粋直観だ、なんて本を読みながら、「自己の身体に対する配慮」を治療者から求められると、もちろん自分の身体なんだけれど、その身体に自分自身が隔てられていることをつくづくと感じてしまう。

いろいろとこのあたり、考えてみたいことがあります(この項ずっと続きそう)



ノドにポリープが出来た

2010年06月03日 18時54分38秒 | 身体
声がかすれてしばらく直らないので、耳鼻咽喉科に行って内視鏡で覗いてもらったら、ポリープが出来ていた。

まあ、職業病みたいなものだが、気分はよくない。

放っておいてよくなるなら放置しておきたいのだが、現実に日常業務の支障があるる(声が十分に出ない)現状を考え、紹介状をもらって手術の予約を取りに行くことにした。

まったく、身体っていうのはままならないものだ。

老若を問わず病気にはなるものだけれど、さほどのものでない限り、「普通」は(何が普通かってはなしだけど)回復を期待できたりもする。
しかし、加齢とともに、回復ではなく現状維持、いやいや水準を下げてなんとか低空飛行を、と次第になっていかざるを得ないのだ、と実感しはじめている。

中島義道が「人生を半分だけ降りる」っていう処世訓的なものを書いていたが、その路線、「あり」だな、と思う。
いや、病気だから「降りたい」という単純な落ち込みだけではなく、一斉蜂起というか、じわじわいろいろダメになるというか、単純に「衰え」を実感させられるのだ。

脳みその働き方も変わってきているし。
ただ、そちらの方は必ずしもダメになっているだけではなく、脳みその働きは腐りかけが美味しいみたいに最近眼から鱗の連続なんですがね(苦笑)。

それがたとえ脳みその短絡現象の始まりだとしても、花火がぱあっと虚空に火を連鎖的に広げて散るように、今までどれほどのネットワークを構築してきたか、が問われることなのだと思う。
年を取るのも悪いことばかりじゃない、とは間違いなく言えるよ。
持っていた疑問の数だけ、瞬間、あり得るべき道筋が、脳の中の迷路の向こう側まで光を指し示してくれるみたいだから(本当かね……)。