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現代哲学の最前線 (NHK出版新書) https://www.amazon.co.jp/dp/4140886277/ref=cm_sw_r_cp_apan_glt_i_7HJYJZ675D9A1E2YJXEN
アーザル・ナフィーシーの『テヘランでロリータを読む』の読書会をした。
私は、当時(1980年~90年にかけて)のホメイニのイラン、についてほとんど何も知らない状態でこの本を読んだこともあって、まず書かれている状況についての知識が勉強になった。次に、閉塞した状況(イスラム革命当時とパンデミックの今をごっちゃにするのはもちろんどうかと思うが)の中で続けられる、文学作品についての読書会についての本をZoomの読書会で読む、という体験それ自体がちょっと楽しかった。さらに、これは小説ではなく、イラン革命時の時代を生きた,文学に関わる者たちの群像を描いた自伝的回顧録であり、それゆえの平明さというか、大学教授らしい目配りの利いた叙述が、わかりやすくてスッとこちら側に入ってきた。付け加えると、フェミニズムの立場に立った視点も「今」にしっくりきて、読みやすかったといっていい。
また、時代的な背景を考えると、2000年代初頭、イスラムについてこれだけわかりやすく内側にいた人が書いてくれたということで、世界的ベストセラーになったというのもうなずける。20年の時を経ても、そういう意義はまだまだ失われていないという印象を受けた。こちらの不勉強もあるわけだが。
一方、読書会のメンバーからは、結局これは単声的な叙述に終始していて、イラン革命の真っ只中で人間たちが政治的文化的軍事的宗教的混沌と混乱を生きた証として読むには、圧倒的に平板なのではないか?という疑問も出された。
たしかに、ここで大学教授が描く「文学」についての評価は、革命によってみじんも揺るがない。女性たちが日々被り続けている悲惨なリアルに対しても、ギリギリのところでは沈黙を持って遇するしかない。また、教師としての語り手に敬意を持ちつつ、距離を持ちながら革命にコミットしている人間たちについても、その距離を保ったままの語りに終始しているのではないか、という不満というか、食い足りなさを指摘する声もあった。
この単声的という指摘、全てを語り手の認識に回収してしってしまう叙述の型などは、「小説読み」にとっては本当にもったいない、という印象を持つだろうこと、想像に難くない。大学教授であって小説家ではない、というのなら、その小説を読むということ、小説と向き合うこと自体が、アンチイスラム革命としての「教理」を超えた「文学的」な力を生み出していく、そんな試みが全くなかったのはやはり解せない……。
そんな話も出ていました。
ともあれ、そんな不満を言いたくなるほどには、様々な人びとの姿に触れられていることは確か。
人びとの姿も、文学作品も、イスラム革命の悲惨さ、イランイラク戦争の現実も、端正な説明の範囲を超えていないというのも確かで、それをこの叙述の美点とみるか限界とみるかは、読み方によって変わってくるのだと思う。
しかし、いずれにしても読むに値する素敵なテキストであることは間違いありません。ポリフォニックな、登場人物が混沌の中でもがきつつぶつかり合い、すれ違い、奔流に飲み込まれる、そんな「小説」ではありませんが、そんな「小説」をないものねだりしたくなるほどには刺激的でもあり、彼女たちの『ロリータ』彼女たちの『ギャツビー』彼女たちの『ジェイムズ』と私たちのそれを引き比べてみたくなる(つまり未読なら読みたくなり、既読なら読み返してみたくなるという意味で)引力がまちがいなくありました。
驚くほど読みやすいです(なぜかオムハン・パムクの『雪』のことを思い出してしまいましたが、あの猥雑さ、滑稽さ、パワー、訳のわからなさのようなものは、これだけの混乱を描いていても全くといっていいほどありません。そこが賛否両論にもなったわけですけど)。
わたし的にはお勧めだなあ。
木島先生に紹介されて、
河村厚氏「『エチカ』におけるコナトゥスの自己発展性とその必然性について」という論文を読んだ。
http://hdl.handle.net/11094/10353
スピノザにおける垂直的な因果と水平的な因果のお話なのだが、これがすこぶる面白かった。
まあ、神様なんていない、と普通に考えている人にとっては、垂直的因果、なんて話をされても挨拶に困るのが当然だろう。スピノザの神は超越的な人格神ではなく、神=自然=摂理だ、なんていってみたところで、じゃあなんで「神」なんてうさんくさい語を使うのさ、となって終了かもしれない。
だが、一見逆説的な話になってしまうかもしれないのだけれど、東日本大震災および東京電力福島第一原子力発電所の事故によって引き起こされた「核災」についてずっとこの10年考えてきて思うのは、「倫理」について考え続けようとするとき、スピノザのような存在の肯定の仕方が根底に必要なのじゃないかということだ。
平たくいえば、人間は自分で自分を維持し、より良く生きようとするエンジンを持っているのだけれど、神ならぬ限られた資源しか持たない我々は、外的な要因によってあちらに飛ばされこちらに小突かれしながら、まあそれでも自己に固執する力、行為へと向かう力を内在的に持っている。普通は外的要因と内在的な自己保存の力の均衡の中で、なんとかやっているわけだ。
だが、それだけでは足りない。福島で起こった「核災」を目の前にするとき、誰かの「悪しき意志」によってその災害が起こった、という理路だけではどうにもこうにも収まらない思いを抱くのだ。こういうと、東電や政府の「意志」と「責任」を追及すべきときに、何を言っているんだ、と言われてしまいそうだ。
確かに、東電や政府、そしてこんな惨状をもたらすことになる原発プラントを誘致した人たちの責任を問わねばならないことは言うまでも無い。
そんな場面でスピノザの必然とかコナトゥスとか、寝言は寝て言え、と言われるのもまあ分かる。
実際いたるところでそういうことは謂われ続けている(苦笑)。
だが、考えているのは天から降ってくるような「形而上学的」な哲学の体系のことではない。むしろ、実際の場面にあって、自分の内と外でせめぎ合ったり絡み合ったりしながら力が交錯しつつ、その上で「より良く生きる努力」を諦められないというその現場にふさわしい「実践の哲学」はありえないのか?そういう疑問からついついスピノザという言葉を口にしてしまうのだ。
そういう意味で、この河村厚氏のコナトゥスについての「自己発展性」と「必然性」の議論はとても興味深かった。
こう書きつつも、「それって結局単にエゴイズムを垂れ流しに肯定してるだけで、倫理とかとほぼ関係ないじゃん。しかも自由意志はないとか必然とか、運命論かよ!」
という突っ込みも来るんだろうなあ、とも思う。
だが、とくに論文の注16,17の指摘に私は個人として希望を抱く。抱かずには居られない。
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16ただし理性人にとっての「自己利益」とは受動人のそれとは質的に異なるものであり、そこからは「利他
的行為」や「社会形成」の可能性が生まれるようなものである(E/IV/35C1,37・S1,71D,Ap4)。
17 (前略)スピノザ自身は、「受動感情に隷属する無知なる者」は自己自身を知らないままに自己保存を 行っているが、「理性的人間」は自己自身を十分に知った上で自己保存を行っていると考えている(E/IV/56D)。後者の自己認識には、「共通概念」による、自己と自己以外のものに「共通なもの」、つまり自己にとって有益なものの認識も含まれる。ただし自己の「個別的本質」を真に認識するには「直観知」 を待たなければならないであろう(E/IV/D1,30,31,V/24,25D,36S)。
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「直感知」の話も聴きたい!と思ってしまった。
木島先生の論文4本を読んだ。
スピノザにおける観念とコナトゥス1~4
http://doi.org/10.15002/00022414
http://doi.org/10.15002/00023064
http://doi.org/10.15002/00023464
http://doi.org/10.15002/00024071
1番目の論文において木島氏は
「意志と知性は 1 つの同じものである。」(岩波文庫版『エチカ』第2部定理49の系(P187)
を引用しつつ、スピノザが「決定論的な判断の意志説」を取っていると論じている。
たぶんスピノザに関心がない人にとっては、間違いなくなんのこっちゃ、ということになる。
しかし、「自由意志」に関わる幻想が未だ世の中を満たしている2022年初頭の現在、この「判断の意志」という考え方は、私の瞳にはむしろ魅力的に映る。
ただ、そこだけ拾ってみているだけでは、空中戦というか哲学的な「解釈」に関わる遠いお話に感じられる面もある。
思惟と延長、つまり思考と物体というか、精神と身体というか、その二つがどう関わっているのか、について突き詰めて考える必要があるのは間違いない。
マジンガーZのように、人間精神が身体や物質の「操縦者」というか「判断と意志」を持ったプチ神様として振る舞うという二元論的な図式を引きずっている限り、「自由意志」の問題はなかなか厄介なところをぐるぐる巡ってしまう。
倫理的、という言葉がどんな範囲でどんな事柄を指し示すのか、もはっきりとは分からないけれど、存在し続けること、行為に向かうこと、そのことを根源的に肯定すること……スピノザの哲学がそういう場面で役に立つとするなら、そこから「倫理」について考えを広げ深め得るのではないか。
ずっとそんなことをぼんやりと考え続けている。
木島先生の論文が、その辺りに光を当ててくれるのではないか、と期待しつつ、続きを待ちたい!
木島先生のこの論文はとても読みやすかった。
「「 スピノザによる必然主義からの目的論批判と、その古代エピクロス主義との親近性」
「目的論批判」について『自由意志の向こう側』で頭の訓練をしていた、ということもあるのだろう。すんなり納得できた。
もちろん、ストア派と古代エピクロス主義については、木島先生の記述の範囲でしか分からないから、「へー、そうなんだ」という理解ですけど(笑)。
目的論的な思考は、今の自分にとって強く警戒すべき傾向性だと感じている。
何か外部に「善」や「悪」、あるいは「誰か」あるいは「何か」超越的な存在を措定しようとする思考は、未だに強い力を持って私たちの言葉や行為を不自由にしようとしてくる。ただ、それに対して
「自由な意志」
をもって対抗しようとしても、どうもうまくいかないような気がする。
少なくても、「個」の自由意志を措定するだけでは「倫理」は十分に語ることができない。
語りたいのは「倫理」なのだが、そこにたどり着くまでにはまた道のりが遠い。
そのワンステップとして、勉強になる。遠い道のりですけどねぇ。