龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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読むべし(その1)河村厚氏の 『存在・感情・政治-スピノザへの政治心理学的接近-』

2022年02月21日 07時00分00秒 | 大震災の中で
読むべし!
河村厚氏の 『存在・感情・政治-スピノザへの政治心理学的接近-』

もちろん、スピノザに関心がなければほぼ読者になることはないと思う。
だが、私にとっては関心のど真ん中でした。
木島先生、紹介していただいて感謝です!

わたしにとってのポイントは三点。

①コナトゥスについてのわかりやすい説明
②スピノザにおける垂直因果と水平因果の説明
③レヴィナスのスピノザ批判への応答

この3つをこんなに懇切丁寧に説明してくれる本とであえるなんて!
ありがたい。学問をされている方への尊敬を改めて感謝です。

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以下はまとまりのないメモです。

後でまとめますが、ぐだぐだととりあえずのメモの前半です

何がいいって、まずスピノザが繰り返し論じている「コナトゥス」という基本的な語彙について、素人にも分かるように丁寧に論じてくれている点がありがたい。

入門書の多くは、神のみが自己原因であり唯一の実体である、なんて説明をしてくれるんだけれど、これが見事に分からない。

「禅問答」とでもいうなら、まだ「禅」というのが言語を超越した悟りをめざすもの、みたいなざっくりした認識はあるから、訳の分からない話があっても、その訳の分からなさの前提は把握できる。

しかし、いきなり神が唯一の実体だとかいわれると、
「神しかいないんかーい」
となってしまう。
キリスト教やユダヤ教のような超越神じゃない神、って説明を受けても、じゃあどういう神?となる。

そしてスピノザは汎神論だとも合理論で無神論者だとも言われ、ますます意味が分からなくなる。

最初にスピノザを読んだのは『デカルトの哲学原理』だった。
合理論とか汎神論とか言われているスピノザが、デカルトの神の存在証明を説明している、というので手にとってみたのだが、まあ本当に分からない。
神の存在証明とか屁理屈にもなっていないとしか思えなかった。
今にして思えば、禅問答を字義通りたどれば屁理屈にもならないのとおなじようなもので、こういう原理論とかいうのは言わば論がそこから発射されるカタパルトのようなものだ、と考えた方がよいのかもしれない、と思い始めてから、イライラしなくなった。

つまり神が唯一の実体だっていうのは、この世界=神という話に近くて、実際スピノザは
「神すなわち自然」
ともいっている。

キリスト教やユダヤ教のような私たちの理解を超えた、超越している(外部にある)唯一絶対神ではなく、スピノザのいう神は内在神らしい。

全ては神の中にある、というか、我々は神の一つの「表現」だ、みたいな話になる。
というか、私たちの中にも神はいる?

いや、神様がいるとかいないとかそういうOSを走らせている限り、スピノザの話は全く入ってこないのだなあ、とスタートラインに立つまで数年はかかったような気がしている。

しかし、神といわず「自然」とか「環境」とか言い換えると、スピノザの考え方はちょっと分かりやすくなる。

スピノザは徹底的に「自然主義」の哲学だ。
全ては自然の摂理に従って合理的に動いているのであって、私たちは自然のもたらす必然を生きている、という。
合理的とはいっても、これがまたいわゆる近代の「科学的合理性」とは異なる因果関係のことなんだけれど、これもまたいわゆるふつうの原因と結果とは違うらしい(よくわかんないけど)。

というわけで、現代のOS(ものの見方や考え方の前提)ではなく考えていかねば理解できない。

そんなこんなで、スピノザの言う「コナトゥス」(自己の存在を維持しようとする努力・傾向性)というのもずーっと今一つ腑に落ちないままだった。

それが、この河村厚先生の本で、疑問氷解。

スピノザの『エチカ』や『神学政治論』を踏まえながら、諸説の整理をしてくれつつ全体像を丁寧に提示してくれている。

もうこれは読んでもらった方が早いのだけれど、一点だけ書いておきたいのは、レヴィナスのスピノザ批判を吟味して、見かけ上対極的な立場にあるように見えるスピノザとレヴィナスが、実はある部分ではかなり近接した場所に立っているのでないか、というところが本当に私にとっては胸キュンのストライクでした。

なにせ直前に村上靖彦先生(レヴィナスの研究者であり、当事者研究に関心を持って活動されています)と餃子を食べつつ、私が感動した『自閉症の現象学』という村上先生自身の本を自己批判しているお話を直接伺った後だったので、厳しいスピノザ批判をしていたレヴィナスが、どんなにスタンスで物事を考えていたのか、がちょっと前よりも分かってきた実感をもてたのです。

レヴィナスは、スピノザには「疚しさ」がないという。コナトゥスを哲学の基礎に据えているスピノザからは、絶対的な自己肯定しかでてこない。
レヴィナスは
「存在しているだけで他人の場所を不当に占拠してしまっているのでなないか」
という懸念について論じ、その立場から言うとスピノザは徹底的にエゴイスティックで倫理なんぞありゃしない、というのですね。

実は私もスピノザは実はそうではないとは分かっていつつもなにかうっすらと「マッチョ」なところがあって、論の展開が今一つついていけないところを感じていて、そうか、レヴィナスが指摘してる点はなんかあるよなあ、と合点がいったところがあった。

村上先生も、『自閉症の現象学』はどこかしら自閉症の方を上から目線で分析してしまっている側面があるのではないか、そのことによって対象とする方々を傷つけているのではないか、といっておられた。
なるほど、これは間違いなくスピノザでななくレヴィナスだ!
と思った。

他方、スピノザ研究者のである國分功一郎先生も、中動態という切り口から当事者研究に深い関心をもって研究をされている(『責任の生成』)

レヴィナスは徹底的に受動的受苦的な場として自己を捉え、倫理を存在の彼方に求めるのに対し、スピノザはコナトゥス(自己を維持し活動しようとする努力)を根本に据えてあくまでも肯定的にとらえようとする。個体はコナトゥスの表現(神の力の発現みたいな)だから何一つかけていないという。それは絶対的に良いことだというのだ。ただし、自分で何か恣意的に自由ワガママにいきられる、というのでなない。むしろその逆で、神の力の発現としてそーゆーふーにできているのだから、自由とはその神=自然の摂理にしたがうことだ、というのだ。


レヴィナスとスピノザ、一見まったく対極的だ。前者は存在の彼岸に倫理を見ようとし、後者は善悪の彼岸に倫理をみようとする。

でも、って話です。

今、何一つまとまらない形でメモしているので、改めて書きます。

河村厚のコナトゥス論、レヴィナス批判への応答、垂直因果と水平因果の概念の説明、この3つはほんとうに出会ってよかった!ということだけ、今日は書き付けておきます。













続・村上靖彦『ケアとは何か』を読む。

2022年02月11日 07時00分00秒 | メディア日記
この本を読んでいると、だんだん苦しくなってくる。
書かれていることや書かれ方が問題なのではない。読んでいるうちに受け止めるこちら側の心の受容の容量を超えてしまうのだ。

言葉にならないことを言葉にすることは、苦しさそれ自体とはまた違ったレベルでの困難を抱えることになる。

この困難を乗り越えても私たちは存在の肯定を求め続けるものなのか?

これは、単なる問いではなくある種の切なさや闇に関わる辛さだ。
そう思う。筆者は穏やかな筆致でこれを書き進めているけれど、深くて重いリアルがそこにあるのを感じ、たびたび本を置いて深呼吸をしなければ読み進められないという感じになる。

看護士や福祉を職業とする人やそれを志す人にとっては瞳を逸らすことができない営みだし、それは職業の問題ではなくここで取り上げられているのはもちろん生きることのリアルそのものだ。私にもささやかな介護の体験や看取りの経験もある。教員として手出しのできない困難の前で手をこまねいていた負い目もある。
そういう諸々がどっと、心の中から読んでいるうちに召喚されてくる。

難しいことは、書いていない。平易な言葉で、介護や福祉の現場の聞き取りを中心に書かれていく。

しかし、読み手はある種の覚悟が必要になる、そんな種類の本な気がする。

ぜひとも一家に一冊常備されたい。

ただし、読むのは体調に万全を期してから、って思うのはちと大袈裟かな。


村上靖彦『ケアとは何か』(中公新書)を読む

2022年02月10日 07時39分00秒 | メディア日記


ケアとは何か-看護・福祉で大事なこと (中公新書, 2646) https://www.amazon.co.jp/dp/4121026462/ref=cm_sw_r_cp_apan_glt_i_5KRN0DCYK0Q2ZGVJBMNC

を読んだ。昨日著者と餃子屋さんでたまたま少しだけお話をする機会があった。私にとって最も重要な本のうちの一冊である『自閉症の現象学』の著者と会えるというのはメチャメチャ嬉しいことだったが、村上さんは、『自閉症の現象学』の方法というか書き方を批判的に乗り越えようということで、ここ十年ほどは看護師さんなど臨床の現場で聞き取り中心に仕事をしておられる、ということだった。

そういえば私の大好きな医学書院の
シリーズ・ケアをひらくの中の一冊、
『摘便とお花見』
摘便とお花見: 看護の語りの現象学 (シリーズ ケアをひらく) https://www.amazon.co.jp/dp/4260018612/ref=cm_sw_r_cp_apan_glt_i_1HGCNSPQV1FSV8N9DWAD

も村上さんの著作だったのをころっと忘れていた(読んでたのに)。

そこで思い出してしまったのが、ふじみ野市での在宅ケアの医師が猟銃で撃たれる、というあの事件のことだ。

バルネラビリティ(vulnerability)という用語があるらしい。
ネットで調べたらプログラムなどでの(ハッキングされやすい)脆弱性、と出てきた。
ここでの意味はもちろんそういうことではない。
弱さ傷つきやすさとかのことだそうだ。

フラジリティfragility(傷つきやすさ)とは違うのかな?

ともあれ、弱さを支え、肯定するためには、ケアする側が対象となる者に寄り添い、弱さを共有することが重要になってくるわけだけれど、今回のふじみ野の不幸な事件においては、老母の介護をしている老息子に、その介護を支援していた医師が殺害されるという痛ましい結果となった。

無防備で寄り添えば、最悪命を奪われることがある。この事例はもちろん極めて例外的なことだが、そこまではいかなくても、ある種の「危険な領域」に踏み込まねばならない瞬間は間違いなくあるに違いない。

この本では直接的にこのような困難は、主題的には語られていないが、村上さん自身のコトバでいえば、

「こういう研究は人を傷つける加害性を持っているのでなないか?」そういう意識を強く抱いています」

と言っておられた。直接的には『自閉症の現象学』についての極めて厳しいと思われる自評のコトバだったが、ケアの現場に立っている人々も、それを研究している人たちも、弱さを共有するということの持つ、深くて傷つきやすくて難しいなにかに直面しつつその営みを続けているのだろうな、と改めてつよく感じた。

介護の仕事をしていた若者が、ケアをしていた相手を次々に殺してしまうという辛い事件もあった。

ケアの現場にある「弱さを肯定し、支える営み介護については、ぐるぐるしながらなお考えていかねばならないと思う。




続・仲正昌樹『現代哲学の最前線』(NS新書)

2022年02月09日 07時00分00秒 | メディア日記
ざっくりと流し読みしていると、現代における「哲学」の様子が、走馬燈のように流れていくかのようで、とても気持ちがよい(笑)。

もちろん著者による早わかりだし、そのスタンスも読んでいくうちになーんとなく感じるところはある。
でもそこ(著者のスタンス)が重要なわけではなく、現代の哲学プレーヤーが大きく言ってどんな問題意識を持っていて、どんな文脈の中で減給されているのかが、この「走馬燈」を見ているとそこはかとなく分かってくる。

なんていうのかな、目配せの効く大学の先生にゼミの合宿とか飲み会で、「ぶっちゃけ新実在論ってなんですか?世界はないとか偶然だとか、意味分かんないですー」とか「ロールズって何であんなにけちょんけちょんに批判されたんすか?無知の平等とかっていいと思うんすけど」とか「哲学に自然主義とかきーたこともねーす」とかいって、先生に30分ぐらいで的確かつざっくりした説明を受けるような感触、とでもいえばいいだろうか。

もちろん、先生相手にそんなことをきくと、「じゃあ来週までにあれとこれをそれを読んでレジュメ書いてこい」とか言われかねないわけだけれど(笑)。

そして、挙げ句の果てに「答えが欲しくなったらやばいからな」と脅される(笑)

そういう楽しさが、この本にはある。

雑誌『現代思想』とかを読んだりしたことがあるとか、何らかの哲学や思想の本を読んだことがある人向けですけどね。

腰巻き惹句にあるとおり、論争の構図をざっくり知りたい人、つまりなんか読んでみたけどこの人とこの人の対立点とかわかんないし、1グループにまとめられてるけど実際この人たちどこがちがうの?とか困ってる人(私のような人)向け。

ある意味、とても役に立ちます。

いわゆる普通の羅列的な早わかりではないので、「問い」のありかがおぼろげに分かっているか、それが分からなくてイライラしているか、という条件の下での良書、ですかね。

この先には、後書きにもあるように

「なかなか理解させてくれない、身体的に拒否感を覚えるような、手ごわいテキストを読むべきだ」

という新たな「宿題」が待っている。その準備段階の早わかり、見取り図として、こういう本はとてと大切だ思う。



NS新書『現代哲学の最前線』(仲正昌樹)を読む

2022年02月08日 07時00分00秒 | メディア日記

この著者のことは全く存じ上げないので、単なる読後の印象に過ぎないのだが、この本を読んでいると、大学の先生が同じジャンルの専門家(この場合は哲学者)について、自分の専門家の立場は踏まえつつも、単に自分の専門家の立場から一刀両断して終わり、というのではなく、学生と雑談的に話してくれる敷居の低さを観じた。

もちろんちょっと皮肉っぽく(そりゃないだろうけど)みたいな口吻もかんじないでもなく、しかしそれはそれとして早わかり的に教えてくれる感じ、といえばいいのか。

重要なのは、「問い」について説明してくれていることだろう。

あとがきの一句もこの先生らしいビターな「学生たち」への警句が書かれてある。

「今まで全然分からなかった"哲学"が、急に『したたかに生きるための知恵』に思えてきたなら、要注意だ」

これはとても大切だとおもう。
答えじゃなくて問いが大切、ということでもあるし、哲学は基本的に「生き方」とか「啓発」とはおよそ正反対の営みだぜ、という辛さがこのコトバには込められている。
まあ、この仲正昌樹の名前を冠した本にしてはずいぶん「優しい」とは思うけれど。

でも、手ごわいテキストにチャレンジする前には、どうしたって概略の地図は要るよね。

何度哲学者の主著に挑んで玉砕したことか(笑)

そういう素人の経験というか蓄積からいって、この本は、頼りになる。

全部の人の主張を説明したりしていないから、読者はそれぞれその論者の論を参照して初めてこの本の意味が分かる。ただ、おおまかな配置図のようなものは与えられる。

初めから自力でそれを全部やっていては素人は身が持たない。
そういう意味で、ありがたい。

哲学と、それを受容しようとする読者のギャップのさり気ない指摘、後書きだけでも読む価値があるかな(笑)

もう一つの『大怪獣のあとしまつ』論

2022年02月07日 12時26分50秒 | 大震災の中で
こちらはあまり面白い話にはならなくて、野暮といえば野暮なのだろうけれど、ブログに書きつけておいた方がいいと思うので、敢えて書いてみる。

以下、ネタバレありです。



機械仕掛けの神というキーワードがある。
deus ex machina

調べてみると、ギリシャの作劇法の一つで、話が錯綜して収拾のつかなくなった状態に対して、仕掛けによって舞台に神を降臨させ、強引に大団円に導くこと、というような意味らしい。

これが脚本・監督の提示したフレームなのは明らかだ。

敢えてしっちゃかめっちゃかなパロディにもならないような錯綜を描き、最後に帳尻合わせのように作為的な神によって事態を救抜する、というフレームは、最初から提示されている。

やはりこれは、徹底して中途半端を演じる現実たちのパロディそのものであり、その責任があるとしたら、帰責されるべきはむしろリアルの側、なのだろうと思う。

それに対して、作品のギャグが中途半端だ、とかいうのはいくらなんでもちょっとどうなんだろうね。

deus ex machina

は監督の悪ふざけに近い現場不在証明に過ぎない、と人はいうだろうか。
しかしこれは冒頭にある首相のメモと結末に描かれるウルトラマンの影との呼応の枠組みとして、大真面目にあらかじめ提示されている。

現実における原発事故以後の東電と政府のドタバタは、むしろこの映画以上に悪ふざけに近い現場不在証明そのもの、であり、そして驚くべきコトにそれが現実であるが故に、結果としてあまりにもシュールなところに私たちを知らぬ間に(今もなお)横滑りさせ続けているといっていいだろう。

だから、この映画は、その現実が演じ続けている「舞台というスカート=劇場」の裾を、ちょっとだけめくってみた、ということにほかならない。ある意味では「リアリズム」に近いといってもいいだろう。

れが成立するためには、山田涼介と土屋太鳳の二人(ある面では濱田岳も、かな)は、大真面目に狂言回しをしなければならなかった。

だから

「福島に住んでいて、ごねるのは結局『金目でしょ』(by石原伸晃)といった政治家の、パロディにもならない悪い冗談を押しつけられ続けた者でなければ分からない」

なんて皮肉の一つもいってみたくなろうというものだ。

望むなら、そして敢えていうなら

「この映画に感動してしまうほどかわいそうだっだんだね」

という憐憫を頂戴してもよい(笑)

だがでは、知性は、あるいは理性は、どこで発動しているのかな?

そんなことを逆に問うてみたくなる映画だった。

傑作とは言わない。まあ問題作ではあるのだろう。

しかし、福島で観たこの映画は、私にとって大きな意味のある作品だった。

批評にもなっていないかもしれないが、とりあえず書き付けておく。



面白い!映画『大怪獣のあとしまつ』

2022年02月07日 07時00分00秒 | メディア日記
映画『『大怪獣のあとしまつ』
を観てきた。
おもしろい!
何か特別なコトが起こるわけではない。
怪獣の死体処理をどうするか、というだけのお話しで、それ以上でもそれ以下でもない。
ただ、これは間違いなく土屋太鳳の映画だ、と思って観ていた。西田敏行があと何本本編に出られるのか、とか、岩松了の雰囲気はこの監督に合ってるんだろうなあとか、山田涼介、格好いいとか、濱田岳が渋そうに演技してるとか、いろいろあるかもしれないけれど、私は二時間ずっと土屋太鳳を眺めて暮らしていた。

もちろん、福島の住民として、「戦後処理」としての怪獣の後始末はそのまま原発事故の後のドタバタを重ねずにはいられない。
ただ、なんとか50みたいな眉間にしわを寄せた作品ではないから、真面目にみようとすると、ひたすらダダスベリの不出来なギャグで事故が覆い尽くされる印象を持つかもしれない。

自らその危険を感じる人はみない方がいいかも。

無駄にキャストが豪華なもの良かった。『第9地区』のような安価なB級というより、賑やかしの娯楽作だろう。
だいたい怪獣退治といえばウルトラマンと相場は決まっているわけだから、人間には手に負えないと相場が決まっている(笑)

そんなこんなを踏まえて、面白かった。
土屋太鳳が好きになった!
以上でした。



届いた!『存在・感情・政治-スピノザへの政治心理学的接近-』河村厚

2022年02月06日 07時00分00秒 | 大震災の中で




注文していた河村厚氏の
『存在・感情・政治-スピノザへの政治心理学的接近-』
が届いた。
木島泰三先生に紹介してもらった河村厚氏の論文集だ。
「政治心理学」という学問のカテゴリーがよく分かっていないので、正直ぴんとこない。河村氏が引用している『政治論』(岩波文庫によれば『国家論』)第一章第四節のこの部分

「私は、人間的諸感情、たとえば愛・憎・怒・嫉妬・名誉心・同情心および他の様々の激情を人間の本性の過誤としてではなく、かえって人間の本性に属する諸性質として観じた。これらのモノはたとえ不快なものであるとしても、やはり必然的存在てあって、一定の諸原因を有しており」
というところから政治や社会を考察し、そのことに精神の喜びを感じる、というスピノザに賭金を張ってみたいという感じだ。

まあ、果たして「政治心理学」がなんぼのものかは、読んでみてのお楽しみだが、河村厚氏の営為はまことに興味深い。
読み物ではないので簡単に読了、というわけにはいかないが、しばらくこの本とおつきあいさせていただきつつ、考えてみたい。

とくに、レヴィナス批判に(スピノザに代わって)応えているところ、コールバーグとスピノザにおける「臨床」の問題など、ワクワクしそうなテーマが後半には並ぶ。

じっくり読み進めてみたい。

感想は後日!

木島先生のご紹介に感謝しつつ。


【重要】311子ども甲状腺がん裁判弁護団の抗議声明を読む

2022年02月05日 12時09分56秒 | 大震災の中で

この抗議声明は、福島に住む若者とその保護者にとって深刻な課題を含む。

3.11以後の福島における「核災害」による甲状腺がんの不存在を主張し続ける者たちは、その理由として、一斉スクリーニングによって若者の体において次々に発見された甲状腺がんは、過剰な診断によるものであり、過剰診断を止めれば不幸は消失する、という論理を白昼堂々と展開している。

つまりは検査を止めればよい、というのだ。「核災害」によって福島県の若者たちに甲状腺がんが発生したという科学的エビデンスはない、というわけだ。

そして、核災害によって甲状腺がんが、発生したという言説は風評被害だ、というのである。

これが政府や自民党によって支持されているからこそ、元首相たちが福島県で若者の甲状腺がん被害が発生した、と主張することに大反対が起こっているわけだ。

検査などしないことによって核災害の被害者ではないという「日常的な幸福」が得られるという論理はどうみても怪しい。

①核災害を起こした側(政府や自民党)が、
②核災害によって被害を受けたかもしれない人々に対して、
③声高に安全を主張する、

ということ自体がすでに倫理的な疑問を抱かせる。

一つの問題は、ここで利用されている「過剰診断ゆえの過剰(無用の?)な甲状腺がん発見」という科学的エビデンスが、はたしてどれほどのモノなのか、ということについて、科学者の間でも十分なコンセンサスが得られていないという点にある。

おそらくこれは、長期にわたる研究と観察を待たねばならないだろう。

まだその科学的主張には決着がついていないのに、片方の主張を、問題(核災害を原因とする甲状腺がん)がないという結果が都合の良い人たちによって声高に主張されているというのが本当に腹立たしい。

まず、なぜ検査が行われたのか、が問われるべきだし、また、それは短期的に結論がでることではない、ということも明らかな話だ。

過剰診断ゆえに見つけなくてもよいガンを発見してしまい、結果として若者を苦しめた、という医療者側の苦渋の声をきくこともある。それはそれで個人としては「誠実」なつもりなのだろう。
これはその部分だけを切り取るならば、心情的にわからないでもない。しかしそれは所詮医療者側の自己救済の欲望にすぎない。

重要なのは、核災害がおこって、その結果若者の被曝が懸念され、甲状腺がんの悉皆検査が実施されてきた、という経緯だ。
はたして、ここに存在する倫理的課題を、科学的エビデンスがあると主張する「過剰診断」論で解消できるのかどうか。
診断の結果、経過を見ればよい手術不要な岩が発見されたなら、そのエビテンスを患者と共有していけば、よいのではないか。

実は、核災害なり診断なりその結果なりをおそれているのは、実は検査を受けた若者とその保護者(だけ)ではなく、むしろ検査そのものを恐れているのは、核災害の責任や、検査をした責任を背負いたくない大人たちなのではないか?
という疑問がどうしても起こってくる。

科学の仕事は、権力の片棒を担ぐことではない。
だが、科学と技術は、その倫理を失ってしまった。
科学的エビデンスと倫理は、現代においては倒錯した科学神話として結びつけられてしまっているにすぎない。

科学には分かるところまでしか分からない。科学のスケールには私たち人間のいきる営みを裁断できる力は存在しない。

「核災害」についての科学的エビデンスは、試験管の中ではなく自然の中で起こった「この災害」において、限定的な意義しかもちえないだろう。
ことは倫理的な側面を必然として抱えることになる。
限定的なスケールによって導き出された限定的結論に人間を当てはめるのはそろそろ止めた方がいい。

断っておくが、科学的エビデンスの外側に人間の倫理がある、という話ではない。話しはその逆だ。
エチカの下に、科学は語られねばならない。そして科学的な判断はそれ自体が意志であり、様々多様な力のかかわり合いによってその判断もまたなされていく。限定された様態に過ぎない科学的エビデンスに、神話を招き寄せるような愚かな振る舞いを、人はいつまで続けるのだろうか、という話だ。

この弁護団の抗議声明に、理性の適切な働き、すなわち倫理をみるのは、別にスピノザ好きの私だけではあるまい(苦笑)。






続・読むべし『テヘランでロリータを読む』

2022年02月04日 07時00分00秒 | メディア日記

アーザル・ナフィーシーの『テヘランでロリータを読む』の読書会をした。

私は、当時(1980年~90年にかけて)のホメイニのイラン、についてほとんど何も知らない状態でこの本を読んだこともあって、まず書かれている状況についての知識が勉強になった。次に、閉塞した状況(イスラム革命当時とパンデミックの今をごっちゃにするのはもちろんどうかと思うが)の中で続けられる、文学作品についての読書会についての本をZoomの読書会で読む、という体験それ自体がちょっと楽しかった。さらに、これは小説ではなく、イラン革命時の時代を生きた,文学に関わる者たちの群像を描いた自伝的回顧録であり、それゆえの平明さというか、大学教授らしい目配りの利いた叙述が、わかりやすくてスッとこちら側に入ってきた。付け加えると、フェミニズムの立場に立った視点も「今」にしっくりきて、読みやすかったといっていい。

また、時代的な背景を考えると、2000年代初頭、イスラムについてこれだけわかりやすく内側にいた人が書いてくれたということで、世界的ベストセラーになったというのもうなずける。20年の時を経ても、そういう意義はまだまだ失われていないという印象を受けた。こちらの不勉強もあるわけだが。

一方、読書会のメンバーからは、結局これは単声的な叙述に終始していて、イラン革命の真っ只中で人間たちが政治的文化的軍事的宗教的混沌と混乱を生きた証として読むには、圧倒的に平板なのではないか?という疑問も出された。

たしかに、ここで大学教授が描く「文学」についての評価は、革命によってみじんも揺るがない。女性たちが日々被り続けている悲惨なリアルに対しても、ギリギリのところでは沈黙を持って遇するしかない。また、教師としての語り手に敬意を持ちつつ、距離を持ちながら革命にコミットしている人間たちについても、その距離を保ったままの語りに終始しているのではないか、という不満というか、食い足りなさを指摘する声もあった。

この単声的という指摘、全てを語り手の認識に回収してしってしまう叙述の型などは、「小説読み」にとっては本当にもったいない、という印象を持つだろうこと、想像に難くない。大学教授であって小説家ではない、というのなら、その小説を読むということ、小説と向き合うこと自体が、アンチイスラム革命としての「教理」を超えた「文学的」な力を生み出していく、そんな試みが全くなかったのはやはり解せない……。

 

そんな話も出ていました。

ともあれ、そんな不満を言いたくなるほどには、様々な人びとの姿に触れられていることは確か。

人びとの姿も、文学作品も、イスラム革命の悲惨さ、イランイラク戦争の現実も、端正な説明の範囲を超えていないというのも確かで、それをこの叙述の美点とみるか限界とみるかは、読み方によって変わってくるのだと思う。

 

しかし、いずれにしても読むに値する素敵なテキストであることは間違いありません。ポリフォニックな、登場人物が混沌の中でもがきつつぶつかり合い、すれ違い、奔流に飲み込まれる、そんな「小説」ではありませんが、そんな「小説」をないものねだりしたくなるほどには刺激的でもあり、彼女たちの『ロリータ』彼女たちの『ギャツビー』彼女たちの『ジェイムズ』と私たちのそれを引き比べてみたくなる(つまり未読なら読みたくなり、既読なら読み返してみたくなるという意味で)引力がまちがいなくありました。

驚くほど読みやすいです(なぜかオムハン・パムクの『雪』のことを思い出してしまいましたが、あの猥雑さ、滑稽さ、パワー、訳のわからなさのようなものは、これだけの混乱を描いていても全くといっていいほどありません。そこが賛否両論にもなったわけですけど)。

わたし的にはお勧めだなあ。

 


河村厚:『エチカ』におけるコナトゥスの自己発展性とその必然性について

2022年02月03日 13時58分38秒 | 大震災の中で

木島先生に紹介されて、

河村厚氏「『エチカ』におけるコナトゥスの自己発展性とその必然性について」という論文を読んだ。

http://hdl.handle.net/11094/10353

スピノザにおける垂直的な因果と水平的な因果のお話なのだが、これがすこぶる面白かった。

まあ、神様なんていない、と普通に考えている人にとっては、垂直的因果、なんて話をされても挨拶に困るのが当然だろう。スピノザの神は超越的な人格神ではなく、神=自然=摂理だ、なんていってみたところで、じゃあなんで「神」なんてうさんくさい語を使うのさ、となって終了かもしれない。

だが、一見逆説的な話になってしまうかもしれないのだけれど、東日本大震災および東京電力福島第一原子力発電所の事故によって引き起こされた「核災」についてずっとこの10年考えてきて思うのは、「倫理」について考え続けようとするとき、スピノザのような存在の肯定の仕方が根底に必要なのじゃないかということだ。

平たくいえば、人間は自分で自分を維持し、より良く生きようとするエンジンを持っているのだけれど、神ならぬ限られた資源しか持たない我々は、外的な要因によってあちらに飛ばされこちらに小突かれしながら、まあそれでも自己に固執する力、行為へと向かう力を内在的に持っている。普通は外的要因と内在的な自己保存の力の均衡の中で、なんとかやっているわけだ。

だが、それだけでは足りない。福島で起こった「核災」を目の前にするとき、誰かの「悪しき意志」によってその災害が起こった、という理路だけではどうにもこうにも収まらない思いを抱くのだ。こういうと、東電や政府の「意志」と「責任」を追及すべきときに、何を言っているんだ、と言われてしまいそうだ。
確かに、東電や政府、そしてこんな惨状をもたらすことになる原発プラントを誘致した人たちの責任を問わねばならないことは言うまでも無い。

そんな場面でスピノザの必然とかコナトゥスとか、寝言は寝て言え、と言われるのもまあ分かる。

実際いたるところでそういうことは謂われ続けている(苦笑)。

だが、考えているのは天から降ってくるような「形而上学的」な哲学の体系のことではない。むしろ、実際の場面にあって、自分の内と外でせめぎ合ったり絡み合ったりしながら力が交錯しつつ、その上で「より良く生きる努力」を諦められないというその現場にふさわしい「実践の哲学」はありえないのか?そういう疑問からついついスピノザという言葉を口にしてしまうのだ。


そういう意味で、この河村厚氏のコナトゥスについての「自己発展性」と「必然性」の議論はとても興味深かった。

こう書きつつも、「それって結局単にエゴイズムを垂れ流しに肯定してるだけで、倫理とかとほぼ関係ないじゃん。しかも自由意志はないとか必然とか、運命論かよ!」

という突っ込みも来るんだろうなあ、とも思う。
だが、とくに論文の注16,17の指摘に私は個人として希望を抱く。抱かずには居られない。
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16ただし理性人にとっての「自己利益」とは受動人のそれとは質的に異なるものであり、そこからは「利他
的行為」や「社会形成」の可能性が生まれるようなものである(E/IV/35C1,37・S1,71D,Ap4)。

17 (前略)スピノザ自身は、「受動感情に隷属する無知なる者」は自己自身を知らないままに自己保存を 行っているが、「理性的人間」は自己自身を十分に知った上で自己保存を行っていると考えている(E/IV/56D)。後者の自己認識には、「共通概念」による、自己と自己以外のものに「共通なもの」、つまり自己にとって有益なものの認識も含まれる。ただし自己の「個別的本質」を真に認識するには「直観知」 を待たなければならないであろう(E/IV/D1,30,31,V/24,25D,36S)。

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「直感知」の話も聴きたい!と思ってしまった。


木島泰三「スピノザにおける観念とコナトゥス」Ⅰ~Ⅳを読む

2022年02月03日 12時59分53秒 | 大震災の中で

木島先生の論文4本を読んだ。

スピノザにおける観念とコナトゥス1~4
http://doi.org/10.15002/00022414
http://doi.org/10.15002/00023064
http://doi.org/10.15002/00023464
http://doi.org/10.15002/00024071

1番目の論文において木島氏は
「意志と知性は 1 つの同じものである。」(岩波文庫版『エチカ』第2部定理49の系(P187)
を引用しつつ、スピノザが「決定論的な判断の意志説」を取っていると論じている。

たぶんスピノザに関心がない人にとっては、間違いなくなんのこっちゃ、ということになる。
しかし、「自由意志」に関わる幻想が未だ世の中を満たしている2022年初頭の現在、この「判断の意志」という考え方は、私の瞳にはむしろ魅力的に映る。

ただ、そこだけ拾ってみているだけでは、空中戦というか哲学的な「解釈」に関わる遠いお話に感じられる面もある。

思惟と延長、つまり思考と物体というか、精神と身体というか、その二つがどう関わっているのか、について突き詰めて考える必要があるのは間違いない。

マジンガーZのように、人間精神が身体や物質の「操縦者」というか「判断と意志」を持ったプチ神様として振る舞うという二元論的な図式を引きずっている限り、「自由意志」の問題はなかなか厄介なところをぐるぐる巡ってしまう。

倫理的、という言葉がどんな範囲でどんな事柄を指し示すのか、もはっきりとは分からないけれど、存在し続けること、行為に向かうこと、そのことを根源的に肯定すること……スピノザの哲学がそういう場面で役に立つとするなら、そこから「倫理」について考えを広げ深め得るのではないか。
ずっとそんなことをぼんやりと考え続けている。
木島先生の論文が、その辺りに光を当ててくれるのではないか、と期待しつつ、続きを待ちたい!

 

 


木島泰三:「 スピノザによる必然主義からの目的論批判と、その古代エピクロス主義との親近性」を読む。

2022年02月03日 12時59分53秒 | 大震災の中で

木島先生のこの論文はとても読みやすかった。
「「 スピノザによる必然主義からの目的論批判と、その古代エピクロス主義との親近性」

「目的論批判」について『自由意志の向こう側』で頭の訓練をしていた、ということもあるのだろう。すんなり納得できた。
もちろん、ストア派と古代エピクロス主義については、木島先生の記述の範囲でしか分からないから、「へー、そうなんだ」という理解ですけど(笑)。

目的論的な思考は、今の自分にとって強く警戒すべき傾向性だと感じている。

何か外部に「善」や「悪」、あるいは「誰か」あるいは「何か」超越的な存在を措定しようとする思考は、未だに強い力を持って私たちの言葉や行為を不自由にしようとしてくる。ただ、それに対して

「自由な意志」

をもって対抗しようとしても、どうもうまくいかないような気がする。

少なくても、「個」の自由意志を措定するだけでは「倫理」は十分に語ることができない。

語りたいのは「倫理」なのだが、そこにたどり着くまでにはまた道のりが遠い。
そのワンステップとして、勉強になる。遠い道のりですけどねぇ。