龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

いわき市の未来をどう考えるか。

2016年07月24日 12時58分48秒 | 大震災の中で
今週はじめ、地元いわき市の友人と酒飲みをした。

地元の人とではあっても、原発事故による避難してきた人のこととか、廃炉や再稼働の話などを話すことはほとんどない。
いやむしろ地元の人だからこそ話しにくい、とすらいえるかもしれない。

今回は長いつきあいだから、率直に聞いてみた。すると

「結局分からないですよね。今、いわき市は直接潤っているわけですよ。自分は平だから地元の知り合いも多くて、そういう人の中には、『これなら廃炉まで25年は食える』というやつもけっこういるわけです。人やモノ、サービスを廃炉作業に提供する仕事は安定的にある。そうなると、それで回していくことができるなら、ってこともあるわけで」

なるほど。

私は俸給生活者だから、県内どこに転勤しても給与はもらえるわ。
土地も原発事故にのみこまれたわけでもない。

だから、原発事故についても自由に発言できる。
「倫理」だの 「責任」だの 「社会は変わるか」だの、お金を稼ぐという意味での 「生活」とは無縁の視点から考えたり発話したりすることができるわけだ。

だが、現場に近くなればなるほど、語りは様々な側面を抱えるようになっていく。
イデオロギーにエコロジー、町や市、県と国それぞれのレベルでの行政の対応と政治の思惑経済効果や補償のリアルや避難の苦悩、様々な要素が絡み合ってきてもはやナイーブに語ることは不可能に近い。何かが私たちに沈黙を(結果として)強いているかのようだ。

誰も語ることを明示的に禁止したりなどしていないのに。

私は琉球新報社の人を招いて話を聴き、それをふまえて自分の思考と行動にヤスリをかけたいと願う。
だがそれは、浜通りの地元で金を稼ぎながら生きている人たちのリアルとは違ったリアリティの方向を持つだろう。

もちろんそれはや誰かを(たとえば友人の話に出てきた 「人集め」の仕事をしている 「友人の友人」を )「説得」するのが目当てではない。

今は何か一つの正解や真理を 「共有できる時間」は福島には流れてはいない、と改めて思う。
イメージで話をしてもしょうがないのだね。

それでもまだ「語り得る」ことがあるとしたら?

そういう言葉たちの基盤(前提)をもう一度探し出した上でなおも語りたいのだ。

なぜなら私たちはもはや、単に一つの物語を選択するだけでは足りない、そんな場所にもう既に立っている、と思うからだ。

9/17(土)、福島市の橘高校セミナーハウスで14:00~

よろしければ。



第7回エチカ福島、9月17日(土)に開催決定!

2016年07月22日 23時20分04秒 | 大震災の中で
エチカ福島第7回を9月17日(土)に開催します。
よろしかったらぜひおいでください。

【テーマ】 沖縄と福島から〈責任〉を問う
      ―米軍基地と原発事故の〈責任〉とは何か―

【講 師】 新垣 毅(あらかき つよし)氏
      琉球新報社東京支社報道部記者

【日 時】 9月17日(土)
    14:00 開会・あいさつ・エチカ福島の趣旨説明
    14:10 今回のテーマ趣旨説明
    14:20 報告 新垣毅氏「沖縄から責任を呼びかける―沖縄米軍基地県外移設問題」
    15:20 休憩
    15:35 渡部 純(エチカ福島)「福島で責任に応えること/福島から責任を語ること」
    16:00 参加者全体での討議
    17:00 閉会

【会 場】 県立橘高校セミナーハウス(同窓会館)
       福島市宮下町7番41号

【参加費】 300円(飲料代・資料代込み)

【申 込】 不 要 

【連絡先】 ethicafukushima@gmail.com


<開催趣旨より>

あれから5年。
原発事故がなぜ引き起こされたのかという〈責任〉について、私たちはどのように考えてきたでしょうか。
なるほど、検察審査会は事業者である東電の刑事責任を問う起訴を決定し、その審理がこれから始まります。
しかし、「復興」が喧伝される一方で、市井のあいだで原発事故の〈責任〉を問うことは、どこか語りにくさを引きずったままです。

原発政策を推進してきた政治家・官僚の政治責任。
それを支持し、受け入れてきた市民の政治的責任。
科学者、メディア、教育の責任。電力を使用してきた受益者の責任、etc…。
たしかに、これらを問い直すことはお互いの「負い目」にふれざるを得ず、そのことが「寝た子を起こすな」とばかりに、私たちにこの事故の〈責任〉の語りにくさをもたらしている面があることは否めません。
いや、むしろ私たちはその語りにくさに甘んじながら、それと向き合い、問い直すことに目を背けることに慣れ切ってしまったのではないでしょうか。

これは福島だけの問題ではありません。
被害者(社会的弱者)が「負い目」によって自らの声を抑圧するだけでなく、それに乗じて加害者(社会的多数派)が自らの〈責任〉を見て見ぬふりをするさまは、これまで様々な構造的な暴力関係下でくり返されてきたことです。
しかし、人為的に破壊された共同体の傷は、その暴力の〈責任〉を問うことなしに修復されることはありません。
その意味で、私たちは原発事故の様々なレベルにおける〈責任〉を問い直す術を、勇気をもって学ばなければならないでしょう。

今回のエチカ福島では、その手がかりとして琉球新報社の新垣毅氏をお招きし、昨今の沖縄米軍基地問題の現状と県外移設問題についてお話しいただきます。
周知のとおり沖縄では米兵による犯罪が後を絶ちません。
そして、その我慢の臨界に達した翁長雄志沖縄県知事を代表とする沖縄の声は、米軍基地引き取りの〈責任〉を本土へ訴え続けています。
その呼びかけに対し、福島に生きる私たちはどう応えるべきか。
この沖縄からの呼びかけに対する応答を考えることは、重い問いを私たちに突きつけるでしょう。
しかしながら、その問いについて考えることは、とりもなおさず私たちが語りにくくなっている〈責任〉を、いかにして言葉にして語りうるものにするのか考えるヒントが含まれています。

〈責任〉を問うとは、その相手をバッシングして殲滅することでありません。
それは人為によって破壊された側の尊厳や社会的正義を回復させると同時に、将来、同じ失敗を二度とくり返さないために人間が考え出した術です。さらにいえば、それは暴力をふるわざるを得ない加害者と、それを被らざるを得ない被害者のあいだにある構造的な暴力関係から、お互いを解放させるための術でもあります。
第7回エチカ福島では、沖縄からの〈責任〉の呼びかけにいかに応えるかを考えるとともに、そこから福島で〈責任〉を語り出す意味を考える機会とさせていただきます。

2016年7月10日の参院選以降のこと

2016年07月16日 21時12分17秒 | 大震災の中で
参院選で自公が議席数を延ばしてから1週間が過ぎた。あれ以後、政治に対してどう話をしたり書いたりすればいいのか、ちょっと途方に暮れている。衆議院選挙の時もそうだったので、同じようなことを繰り返している。
私の投票行動が別に変わったわけではないので、自分の望むような選挙結果(議席数)ではないからといって後悔したりするということはない。

だが、いわゆる「普通のヒト」たちと自分の感覚にズレがあるのだなあ、ということは感じるし、その中で少数派でありつづけるのはちょっと元気が出ない、ということもある。

とはいえ、少数派はさびしいからといって、みんなが投票する政党や人を選ぶというものでもないから、自分の投票行動の基準はそんなに大きくは変わらないだろうと思う。

さてしかし、選挙はこのままでは「自分の行為」という実感が持てないまま、虚しさが募っていく作業になりかねない。政治はやっぱり自分の中から発信していかないといかん、そう思う。

むろん私は教師だから、職業上のオンタイムに、教壇で演説を打つわけにはいかない。そこでは生徒自身が自分の考えを広げ深めて、政治的な思考と行動ができるように支援することが重要になる。国語の教師になにができるのか分からないが、そういうことをやっていくことが必要だろう。

そして実は、そこのところが充実してくれば、どの党に投票するか、とか、どの政策に賛成するかとかが互いに一致せずとも、この虚しさからは少し離脱できそうな気もしないではない。

政策とかいっても、全部白黒はっきりさせて賛成か反対かをぴたっと二つに分けられるものばかりではないし、課題はいくつもいくつもあるのだから、意見や立場など違うのが当たり前だ。ニヒリスティックになるのは、意見や立場が違っているからでもすれちがっているからでもないのだろうとも思えてくる。

自分たちの中から発生してくる身体的なエネルギーと思考のエネルギーが互いを抑圧しあったりしないように生きること。そういうことができるなら、十分なのだと思う。

おまえはなにがしたい?

と自分の肉体や思考に問いかけるように、よく分からない他者にもそれを問いかける。教師なんぞをやっている大人の代表としてやるべきことは、池上彰のようにわかりやすく世界情勢を解説することではなくて、自分の中から出てくる力に形を与える、自分を構成する表現を持てるように支援することだし、他者に対してそれができるってことは、自分のこともそうできるってことになるんだと思う。

今回の選挙の後、そんなことを考えた。
これもまた、スピノザのおかげ、なんていうと意味が分からない、かなあ。



『有限性の後で』カンタン・メイヤスーを読みはじめた。

2016年07月15日 23時42分46秒 | メディア日記
このブログで2015年1月に触れたことのある

カンタン・メイヤスー『有限性の後で』

を読みはじめた。これが思いの外読みやすい。千葉雅也氏の前宣伝(『動きすぎてはいけない』の出版記念トーク、2015年現代思想対談、ゲンロン2での東浩紀との対談、そして読書人の紹介記事などなど)があったせいか、カンタン・メイヤスーが展開する思弁的実在論(Speculative Realism)の狙いというか、おおまかなツボが見えやすくなっていたからだろう。

どうせ素人のざっくりした感想だから書いてしまうと、カントが周到に丸めて人間の知的な営みの向こう側においた「実在」を、あくまで「思弁的」にだけれどいきなり身近に引き寄せて、そのカント的な「人間」の匂いを粉砕するおもしろさ、がある。

この場合「実在」とはとりあえず「人間」の枠組みの向こう側にある「他者」といってもいいし、望むなら「神」といってもいい。

まあ、人間の側の空気を木っ端みじんに粉砕しておいて「神の救い」とか言ってんじゃないよメイヤスーさん、って感じもするけれど、おもしろい。

だって、世界は突然違った秩序にある瞬間、ズドンと変わる可能性がある、とかいうんだもの。
ベタに受け取ったらこけおどしにもならない。

ただ、千葉雅也氏が彼のドゥルーズ論の補助線として、いわゆる自閉症スペクトラムの症状、つまり世界以前の場所にたたずむありように言及しながら、「非意味的な接続」や「非意味的切断」にフォーカスを当てていたのを思い出し、そこと重ねて考えるなら、この思弁的実在論もあながちこけおどしの荒唐無稽な空理空論、と笑ってすますわけにもいかない、とも感じる。

村上靖夫氏もたしかそんな風な形で触れていたと記憶しているが(本が手元にないのですんません)、自閉症スペクトラムの人にとって、自分自身は世界構築「以前」であり、そこで何とかやっていかなければならないから、擬似的に世界のリズムを整えたり模倣したりしてなんとか仮適応している、というような話だった。

ここからはもう(いや、最初からです、すんません)妄想に近いが、その自閉症スペクトラムの「症状」に近いスタンスを、私たち現代に生きる者たちが幾分か共有しているとするなら、

「世界は突如としてその様相を根本から変えてしまう」

、という経験は、世界「以前」の彼らにとってむしろ親しい感覚かもしれないし、幾分かは私たちにとっても切実な課題にもなりえるだろう。

フランス哲学のケレン味だけを感じてしまうと、「ふざけてるなあ」という感想で終わってしまうが、千葉雅也氏のなんでも拾ってくれる「芸風」のせいばかりではなく、興味深いポイントを素人でも感じられる、そんな種類の本になりそうだ。

まだ途中なのにざっくりした感想を書くんじゃないって?
またまたすみません。最後まで読んでもこれ以上の感想にはならないだろう、と思って書きました。

でも、「なんじゃこりゃ」と思って読み始めた割には、「かなり」おもしろいですよ。

もちろん、「神の存在証明」に惹かれてスピノザを読み出した私の「おもしろい」だから保証はできませんけど。


『ジェンナ 奇跡を生きる少女 』メアリ・E. ピアソン(小学館)を読んだ。

2016年07月15日 22時57分52秒 | メディア日記
おもしろかった。

交通事故で意識を失って昏睡状態を続けていた17歳の少女ジェンナは、事故から1年以上経って意識を回復するが、記憶の多くは失われていた。子供の頃からの動画を観ながら、懸命に自分の人生をたどり直そうとしていく。父、母、祖母との関係、友達との交流などなど、記憶から人生をもう一度捉え直そうとするジェンナの姿は、そのままで十分にすぐれたYA作品の資質を備えたものだが、この作品はそれだけでは終わらない。
 次第にジェンナは自分の記憶を断片的ながら回復していくが、同時にそれは現実との齟齬に気づいていくことでもあった。私とは何か、人間とは、存在するとはどういうことなのか?SFでもありミステリでもあり、青春小説でもあり、家族小説でもあり、哲学的な問いを巡る作品でもある本書は、さまざまな魅力を併せ持っている。

大切なのは結末ではない。むしろ重要なのは描写の力だ。

単に状況設定の奇抜さや、物語を導いていくその「お話の力」ではなく、少女が自分の輪郭にもう一度触れ直していくその繊細でまっすぐな姿勢を描ききっている部分が、この作品の最も大きな魅力だろう。
そこが味わえれば、それ以外はおまけのようなものかもしれない。
だからこそ、そんなに長くない作品なのに読み飛ばせなかった。

作者は私よりもちょっと上の世代。SF的な医療の設定も、SFとして観ればそんなに衝撃的なアイディアではありません。むしろそこに描かれているのは「日常」といってもいいかもしれないような、そんな種類の「近未来」でした。

そういう意味ではふたば未来学園で観た平田オリザのアンドロイド演劇との共通基盤のようなものも感じます。つまり、「不理解」を前提とした接続不可能性を持つ他者(それはもしかすると自分自身かもしれない!)とどうつきあっていくか、という通奏低音のような課題が響いてくる、ということでもありました。

だからこそYA(ヤングアダルト)にふさわしいトーンになっているのかもしれません。


何を読もうか迷って、半日ほどゆっくり本と向き合えるのなら選んで間違いのない1冊かと。


『ジェンナ 奇跡を生きる少女 』メアリ・E. ピアソン(小学館)
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