龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

センター出願を終えて、これから国公立二次対策

2010年01月31日 18時57分14秒 | 教育
センター出願を終えて、これから二次対策になる。
11月からセンター演習中心にやってきたけれど(国語)、12月までは添削や課外で2次問題も続けていた。
だから、そんなに「間に合わない」感はないけれど、それでもどこまでやれば十分、ということはない。
お互い体を壊さない程度にぎりぎりまで絞っていく仕事になるだろう。

受験勉強は時間との戦いだから、自分の今やっている学習の効果について的確に認識し、その情報をフィードバックして最適化する能力が問われる。

もし時間がふんだんにあるのなら、ゆっくり寄り道をしながらでも目的地にはたどり着けるし、むしろその方が「豊か」なこともあるだろう。

まあ、どっちがいいというわけじゃないけれど、社会的な「通過儀礼」として若者の人生に区切りを入れ、「生涯学習競争社会」の書き込みをするには、受験ていうのは意味がなくもないのだろう。
ただ、少子化、集団全体に対する受験モチベーションの低下、「格差感」の増大など、もうこのシステムのままで高校新卒、大学新卒を社会が切り分けていくのは少なからず「まずい」んじゃないか、とは思う。

食っていくのが楽か大変か、というだけで「不安」が計られるわけでもなく、受かるか落ちるか、だけで「絶望」が計られるわけでもないのだからねぇ。

現役・国公立・地元、この三つかこの順番で今年の受験の合い言葉になっている。
現役は最優先。できれば遠い難関の国公立。それがかなわなければ地元ちかくの国立。さらにそれが無理なら地元から通える大学。それも無理なら資格の取れる地元の短大。そして資格の取れる専門学校。

成績の高い生徒から応募するというのではなく、中堅の学生が昨年よりも集中して超激戦なのが「看護」と「教育」。
職業に就くために必ず要資格の安定した職業だ。センター試験60%から70%(平均が60ぐらいだから中の上の層)に、去年の1.3倍ぐらいの応募のピークがある。

他方、今回併せて25点以上平均点が落ちた物理と化学を選択したばりばり理系は、成績上位者も何十点と平均を下げた。
結果、国公立の医学部も普段は85%以上の得点率が基本なのに、ボーダーはもっとずっと下がる、との観測も。

点数で一喜一憂するのも馬鹿馬鹿しいが、一生に一度の「通過」点であれば、それは本気で心配するのが当たり前でもあるだろう。誰もがその可能性を発揮できるシステム、なんてありゃしないが、社会的納得のいくシステムを常に求める義務は体制側の人間に要求されるし、また要求する権利は受験対象の学生の側にはあるだろう。

どんなシステムがいいのか分からないけれど、大学でも高校でも、入ってからいろいろ自分にとっての「最適解」を見つけていけたらいいな、と思う。入り口でだけ絞るのは感心しないよねえ。ま、いずれどこで絞るか、そして絞ったあとの上と下、双方が納得いくそれから先の道筋(社会人としての責任とおもしろさを感じるような、ね)を見つけてあげられたらいいのだけれど。
ともあれ、これから3週間、問題演習漬けです。寝込まないようにしないとなあ。


センター入試の応援に行ってきた

2010年01月17日 13時43分14秒 | 教育
 1月16日(土)17日(日)と、センター試験の入試応援に行ってきた。
 この入試応援、というのも不思議な営みだ。

受験生が各自センター試験会場の大学にいって受験する、その会場の前で、受験生に声をかけるのである。
中学入試とか高校入試で塾の先生がやっていることの大学入試版、といえば言える。

センタ-試験は、受験生のほとんどが受けるという意味では、社会的通過儀礼の側面もある。そして、実力が試される、とはいえ、全国の受験生が「せーの」で一発勝負をする、というのは、さまざまに運や偶然も働くとみるべきだろう。
それをふくめて一発勝負はさばさばと潔いものではあるが、当の本人にとっては時に悔しい思いもするに違いない。

そういう現場に立ち会う切なさは、ある意味で受験の醍醐味。
応援する大人は実質何もできずに、若者を傍から応援し、見送るしかない。
泣いても笑っても本人次第である。

明日は自己採点の日。これもまた悲喜こもごもだ。
この子はほんとうはもっと点数を取ってもいいのにな、と(本人はむやみに同情されても迷惑かもしれないが)そういう思いはこちら側に溢れてもくる。

成功も失敗も含めて成長を見送りつつ、しみじみとする日曜の午後だ。



「死」という言葉

2010年01月11日 10時27分17秒 | インポート
正月、実家の本棚で『向田邦子の恋文』という本が目に止まった。

何気なく読み返すと、向田邦子の亡くなったのが51歳9ヶ月だとある。
才能あふれた脚本家・随筆家の飛行機事故と、のんべんだらりと生き延びている自分と、むろん何の関わりもないのだが、ちょうど自分の年とまるきり同じでちょっとどきりとした。

そう思っていたら、実家の向かいに住んでいる息子の幼なじみの母親(私と同世代のお隣さん)が亡くなったと昨夜電話があって、たまげた。
肺炎で入院していたのだという。

肺炎をこじらせて、というのは幼児か老齢者のことだとばかり思っていたが。
これにはかなり参った。

自分の寿命など分からないが、「死」という言説と事件が重なると、改めて考えさせられてしまう。遠いところで起こる「死」の報道や、フィクションの中での「死」は、数え切れないほど経験しているというのに、年齢が近い、場所が近く、身近な人の死を目の前にすると、とたんに自分の心臓の裏、背中あたりに「死」が張り付いてくるように感じる。
まことに「死」は特権的なものなのだ。
さて、もちろんそれが自分にすぐやってくるとは思わないが、今できることは何か、とは考えずにいられない。

風邪っぴきの休日、快晴の冬の日に。






今は亡き師匠の教え、もしくは井上光晴の文学伝習所のこと

2010年01月06日 23時26分53秒 | 評論
 だいぶ昔のことになるが、井上光晴という作家の弟子の弟子といった格好で「文学伝習所」というものに参加したことがある。

 井上光晴という作家が地方のグループのところにやってきて、一泊二日とかで小説の講座と酒飲み、そして実作の添削を行うというイベントを「文学伝習所」と呼んでいたのだ。

 だいたい、純文学なんて今時、書く人は好き好きだからまだ残存しているとしても、読む人なんているのか、といわれそうだ。
 だがまあしかし、大江健三郎がノーベル賞を受賞し、村上春樹がその候補に取りざたされ、昨年一番売れた『1Q84』も、まあ一応純文学、なのだろうから、ジャンルが存在しないというわけでもあるまい。

 その『文学伝習所』とやらで、昼間っからオールドパーをぐびぐびやりながら、いささかせっかちで甲高い声で、しかし少々べらんめえ的(これはよっていたせいか?)に、あるいは急き込むかのように、
「あのね、みなさんは一日100ページは読みなさい。私は必ず1日250ページは文章を読みますよ。時間がないときは新しいものでなくったっていい。とにかく毎日読むことです。」

「カメラを持って歩くんですよ。実際の情景とか、忘れちゃいますからね。こういうポケットカメラでいいんだ。見たことは写しておくといいんです」

「説明はしちゃだめですよ、描写しなきゃ」

「叙情的なのはいいんです。ただし、清潔でなけりゃいけない。」

なんて警句を次々にたたみかけながら、小説の書き方を白昼堂々、大人たちに教えていく。
今でこそ評論家や小説家がカルチャーセンターで小説志望の人を「教える」のは日常の光景になっているが、当時は普通に考えれば「奇異」のことだったかもしれない。
私の師匠(大学のセンセ)は「うーん、井上光晴はさすがだよ。国からもらう年金とか出版社だのみじゃなくて、自分自身の手で読者を開拓しようとしていたんだから。彼はもともと共産党のオルグでも能力を発揮していたしね」
とコメントしていたが。

ところで、今日思い出してメモしておきたかったのは、毎日読まなくちゃだめだ、という教えのことだった。

正月2日に、私の小説家志望の教え子と飲む機会があって、「やっぱり書かないとどんどん下手になるよね」ということで意見が一致した。
読むこともまた、読まないと下手になる。

昨年は、読むことも書くこともせず、教えることばかりの「アウトプット」が続いてしまった気がする。

「なに、もともと下手なのだから、何をしなくても変わるものか」

という常識論は、いっけん説得力があるが、行為の実情を知らないものの言だ。
続けたからといって上手になるとは限らないが、下手には限界がないのだ。
ちょうど、頭がよいといっても限界があるのに、馬鹿には限界がないのと同じ。

というわけで、今年はできるかぎり毎日本を1冊読み、それについてメモを続けていこうと思います。
1年続ければ365冊になる。
むろん、そんなことは無理だけれど、せめて100冊は。

そういえば、蓮實重彦も映画のゼミ生には年間映画一〇〇本といっていたそうだし、吉本隆明も20年毎日詩を書けば詩人になる、といっていた。たぶん二〇年後にはもうこの世にいないけれど、1年ぐらいそういうことをやってみても悪くはあるまい。

というわけで、よろしかったらこちらも参照してみてください。

http://blog.foxydog.pepper.jp/


センター直前パックテストのこと

2010年01月06日 01時10分55秒 | 教育
昨日・今日と、河合塾系のセンター直前パックテストを、センター試験の順番通りに二日間かけて実施した。

11月に実施した全統プレも国語が壊滅的だったけれど、今回も期待ほど点数が伸びていない。


センター試験およびその模擬試験は不思議なもので、どんなに難しくても5択だから、誰かは当たる。
逆に、有名予備校の先生でも、学生がかなり当たっている問題を落としてしまうことがある。
私もいつも満点は取れない。

何かを勘違いして、自分のストーリーを作ってしまうことがあるのだ。出題者は、その勘違いしやすい語彙や表現を探し出して使ってくるから始末が悪い。

つまり、「思い込み」が一番危険なのだ。

石原千秋(早稲田大学)なども指摘していることだが、センター試験の問題(とくに小説)は、内面の共同体(読者は「普通」どう読むのか、というスタンダード)に参加できるかどうかが正解にたどり着くためのカギになる。

そんな中で自分勝手な「思い込み」を避けるためには、限られた時間で素早く正確に本文を読み、その上で出題者がひねり出す選択肢と本文のズレを軽々と読み解かなければならない。そういう意味では国語はかなり特殊な教科なのだろう。

点数がある程度取れるようになってから読みの速度を上げようとすると、ついつい自分の読めた範囲だけで読んでしまいがち。

簡単な設問はそれでいいけれど、迷彩を施した問題だと、「自分読み」は罠にかかりやすい危険なやり方だ。
繰り返し、自分の読みが本文からずれていないかを確認する作業を続けておきたい。

センター試験まであと10日。

ここまで来たら、プラス思考でどこまでがんばれるか、が勝負になる。
問題が悪い、と逆ギレするぐらいの開き直りも人によっては必要かもしれないね(笑)。


あけましておめでとうございます。

2010年01月06日 00時43分32秒 | インポート
 ことしもよろしくお願いします!

 とはいえ、お正月は意外に落ち着かない。
 仕事が出来る人は切り替えが素早い、というが実にうらやましい限り。
 至って不器用なため、休むとむしろペースが乱れるし、疲れがどっと出てくる。

 休み中に読もうと、大量に本を買い込む割には、また今年もろくに読めずに終わってしまった。
 そしてその本の山を見ながら、持ち帰った仕事もせずに呆然と夜が過ぎていく。

 今夜はひどく冷えますね……。

 さて、明日はもうちょっと仕事を進めないとなあ。