12/4(金)、福島市立森合小学校で開催された国語教育研究会に参加してきた。
午前中は福島大学の佐藤佐敏さんと埼玉県の小学校の校長山本先生との対談。それに続いて福田直樹さんの演奏と講演だった。
福田直樹氏のホームページはこちら。
この講演&演奏が圧倒的に凄かったのです。
小学校の国語教育の勉強をしに行ったつもりで、音楽とは何か、身体表現とは何か、声とは、言葉とは、という「問い」を与えられ、かつその答えまで一挙に指し示されたような圧倒的体験をしてしまいました。
これは彼の語りと共に音楽を聴くことによって初めて成立する体験なのかもしれません。だから、これから私が説明しようとすることは、無駄、というかむしろミスリードなのかもしれない、とすら思います。
それでも、「ここ」が「教育」が持つ力が立ち現れる、有り得ないほどの「事件」の現場であったことを記しておかなければなりません。
彼はまず、題名も作者も告げずに一曲演奏します。それがバッハだとはすぐ分かりました。平均率第一巻の一曲目、誰でも大人なら一度は聴いたことがある曲です。
でも、いつも聴いているバッハとはあきらかに違う。微妙に(というかかすかにというか)」「ゆらぎ」が加わっていて、感情を動かされるのです。
バッハの平均律といえば、いわば「練習曲」のようにというか、アンチロマン的に演奏するものだと思っていましたから、ちょっと意表を突かれました。
演奏を終えて福田さんは、バッハの音楽は基本「祈り」ですから、といいました。
モーツアルトが基本ヒマヒマ星人だった貴族の「遊び」のための音楽だとするなら、バッハは「祈り」のための音楽だ、というのです。
私自身は、音楽が「何かのため」とかいうのはちょっと「不純」な感じがして、そういう考えを基本的にいささか抑圧してきたように思うのですが、あっさりと福田さんはほぼお構いなしに「そういう演奏」を次々にしていってくれました。
たとえばショパン。福田さんが演奏したのは「子犬のワルツ」でした。これも超有名な音楽です。
でも福田さんに言わせると、これは子犬の様子を描こうとした表題音楽では全くなくて、ショパンの生家で行う演奏会に招かれて行ったときに、列車に乗ったら、土地のおばさん達のおしゃべりのリズムがもっの凄く早くて、もう「子犬のワルツ」そのもののリズムだったというのです。
つまり、その音楽はそこに固有の響きがあるというか身体のリズムが表れてくる、というか、そういうものなんだ、と教えていただきました。
福田直樹さん自身が一番好きな音楽は?と生徒から質問を受けて、
「私はバッハが一番好きですね」
と答えていたのも意外でした。
この話を音楽好きの友人にいったら、
「大岡信が『モーツアルトが好きな奴はいい。だがバッハが好きだという奴にろくな者はいない』といってたよ」
というエピソードを教えてくれました。
私もバッハが好きです。うちのかみさんにも「そうよね、あんたはそういう人よ」と、なんだか悪者みたいに言われます(笑)。
念のため、福田さんが「ろくな者じゃない」という話ではありません(当然です!)。
むしろバッハのような音楽「でさえ」、そこにありうべき身体のリズムが反映され得る(というよりそういう風に演奏することが<楽譜>から求められている)のだ、ということなのでしょう。
「楽譜はちょうどメールのようなものだ、私たちは楽譜だけを見ていると間違える。それを書いた人を考え、楽譜からどんな音楽を立ち上げるのか、が重要だ。それはメールも一緒なのではないか。メールを書いた人のことを考えてそれを読むのか、字面だけを読むのかで全く意味は変わってくるだろう」
そんな風にもおっしゃっていました。
こういう風に書くと、あたかも「人間的」な話になってしまうおそれがあります。
福田さんのお話と演奏は、圧倒的に「身体」に直接すっと響き渡ってしまう、そういういう種類のものであって、いつも頭で想像する「人間的」とかいう概念とは全く別のところで「鳴って」いました。
忘備録代わりに。