龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

福島から発信するということ(31)

2011年08月31日 20時57分49秒 | 大震災の中で
福島県の人口が住民票ベースで3月以降、2万7千人ほど減ったという。
まだ住民票を移さずにいて、いつか戻ってきたいと思っている人たちのことを勘定に入れると県外に移住した人の数はもっと増えているのかもしれない。

そして、避難している人の多くは若い世代ではないのか。
切ないことだが、当然だろう。

私達残って生活しているものにできることは何だろう、と思う。
3月から仕事場の机が6回も変わった。毎月引っ越しをしているぐらいの勘定になる。

同じ建物の中で1度目、その棟が立ち入り禁止になって隣の棟に2度目、そこがイエローゾーンになってさらに離れた棟に3度目、市内の大学で仮授業がはじまるので4度目、夏休みになって借りていた大学を引き払って5度目、その後3週間してようやく仮設校舎が完成して6度目。

正直、日々の仕事をしていくだけで精一杯。心身ともに限界が近いと思う。
3月までは当たり前のことだと思っていたことが、少しも当たり前ではなかったことにひとつひとつ気づかされながら、しかし日々の生活の基盤が不安定なところだからこそ、その「当たり前」を手探りしながら確保していかねばならない。

「非常時」というのは面白いといえば面白い。
だが、いささかならず疲れてきた。

どんなことを基盤として考えるのか、これからどうしてもやらねばならないことは何か。
不便で不自由で、こづき回されるような「被災者」として流浪の生活を送っていると、以前ぼんやりと考えては途中で放棄していた「ミニマムエッセンス」についての思考が、自然と深まってくるのを感じたりして、もう心も体も「引退」を望んでいるのが明らかなのに、手遅れに近くなってから物事が見えてくるような気にもなってくるから不思議なものだ。

授業のミニマムエッセンスとはなんだろう。
自分の人生における必須かつ最小限の「荷物」とはなんだろう。

石川淳がその自選選集の序に
「日暮れて途を急ぐ。道中重いつづらをねがはない」
と書いていたのを思い出す。まことに、そんな心境だ。
では、「軽いつづら」に何を入れるか。

ようやく仮設校舎に居を据えて、これからしばらく(本校舎を建築する財政的な余裕が、果たして福島県にあるのだろうか、と心配になるが)、ここで仕事をする。また日常に埋没してしまう前に、「つづら」の中身をせめて考えていきたい。もうこの仕事も数年で先が見えてくるころになって、神様も面倒な宿題を出すものだ。

でも、本当はそういう「宿題」を出してもらって良かったのかもしれない。そうでもなければもっと早くにお爺さん予備軍の身振りを探し始るところだった。

そう、この大震災は幾分か自分自身を生き直す舞台に上がる「切っ掛け」を与えてくれたのかもしれない。
ま、だからといって何かが「分かる」ってものでもないんだろうけれど、考えることは止めずに済む。それだけでも、いや、それこそがなにより有り難い。


福島から発信するということ(30)

2011年08月30日 09時39分16秒 | インポート
上野千鶴子が退官記念講演に代えて行った震災支援特別講演が「週刊読書人」に採録されていた。
その冒頭、上野は原発事故以前と以後で意見を変えなかった人だけを信用する、という意味のことを言っていた。
その部分を読んだとき、少なからぬ違和感があった。

変わらないのは「神さま」だけだ、と瞬間的に思ったからだ。

それに続いて高木仁三郎という最後まで原発の危険性について警鐘を鳴らし続けた人の話に触れているので、文脈としては一応分かる。

最初からちゃんと主張していた人はえらかった、ってことだよね。

だが「正しいこと」はほぼ事後的にしか分からない。これは「所詮」とかいう諦めではなく、人間が「正しさ」を扱う時の「戒め」でさえある。

上野千鶴子の言葉はどちらかといえば、確信犯的に、いつも当事者の立っている場所から、「敢えて」遡及的にであっても「正しさ」を求めようとする身振りを持つから、特段驚きはしないが、やはり違和感は大きかった。

ただし、その後で上野が指摘している「実は事故が起こる前から薄々その危険の大きさは分かっていたはずなのに、原発事故を止められなかった」という「無力感」と「苦い思い」は、私自身もまた極めて強く感じていることである。

たとえば、菅首相が最後っ屁のように福島にやってきて、放射性廃棄物の中間貯蔵場所を福島県に設置したいといったとき、佐藤福島県知事は何度も何度もその「唐突な提案」に「驚いて」見せた。

だがもちろん、そこにはなんの「驚き」もない。これだけ高濃度の汚染が明らかになった以上、その除去物や汚染瓦礫を、福島県以外に運び出す選択肢など、初めから考えることさえできなかったのではないか?

県知事が驚いて見せるのは、駆け引きのうち、なのだろう。でも、現実には、私たち福島県は、この高濃度の放射性物質にまみれた状況を、ここに住む限り引き受けていくしかない。それはあの水蒸気爆発と、それに伴う避難が始まったときから、「うすうす」分かっていたことなのではないか。

この「うすうす」分かっていることと、現実に悲惨な事態が起こってから初めてそれと向き合うこととの関係は、実に「嫌な感じ」である。誰に対してでもない、なによりもまず自分自身に対して。

上野千鶴子の言葉を、私自身はかなり頼りにして生きてきた部分がある。「正しさ」のいささかならず「強引」な使い方も含めて。

しかし、そういうことも踏まえた上で、いよいよ自前でものごとと向き合い、考えてぬいていかねばならない、という思いが、今はとても強くなっている。

正確な表現は忘れてしまったけれど、中野重治も敗戦後のアメリカ占領下における日本の民主主義化を、他人頼みの寸詰まりのものだ、と自己批評していた記憶がある。

60年以上たっても、そう簡単に人間は進歩などしないということか。

垂直統合型の、どこかの「お上」が集約的に「安全」や「成長」を宣言して、避難範囲を決定して、汚染限度を決めれば済む、ってことじゃなくなったのだろう。

ただ一方、デジタルな格子空間における「自由」、経済活動のグローバル化によるヒトの過剰流動化は、私たちをいっそう「追いつめて」もいくだろう。

上野千鶴子の、原発事故以前から警鐘を鳴らし続けていた「態度を変えない人」しか信用しないといいつつ、自らは「うすうす感じて」いながらそうはできなかった「反省」を抱えているというスタンス(その「ミゾ」がこの講演の肝、なんですが)は、単なる個人的な「弱さ」の問題でないことだけは確かだ。

橋頭堡が必要だと思う。

反原発のカリスマが持つ「正しさ」でもなく、原子力ムラの擬似制度的な「共同体」でもなく、「お上」と地方との従属関係でもなく、当事者がその場で生きていくために必要な「地面」=基盤とネットワーク。

それを支える中間的な公共システム。
それによって支えられる自由と超越性。

上野千鶴子は、「女性」というキーワードでその地平をあるいは敢えて過度に「近代的」に切り開いてきた、のだろう。

私たちは決して彼女の「先」に立っているわけではない。

たまたま、見えない「焼け野原」のようにセシウムにあまねく覆われた負の「聖域」の脇っちょである「いわき市」というどちら側からも中途半端な「周縁」に立つものとして、さまざまなことをこの場所で一から考え直す機会に恵まれている、ということにすぎない。

福島の人たちは、小名浜に水揚げされたカツオを食べ、福島から出荷された桃を食べつつ、その放射性廃棄物の「中間貯蔵場所にもなっていくであろう「負の聖域」の存在を身近に感じながら、それでもなお、そこに生きることを徹底的に考えていくのだ。

いささかヤケクソ気味に聞こえるかもしれないけれどそうではない。

「地産地消」や、自分たちの郷土に住むことが「異常事態」になっていること自体が異常なのだと思う。

ただ、事故から5ヶ月を経て、私たちは「避難を検討すべき濃度」とか「除染」のコストとか「避難」→「移住」のコストとか、共同体の選択」とか、仕事の選択とか、自分の人生について根本的な思考を求められ、大きな「選択」を迫られつづけている。

50年以上生きてきて、こんなことに出会ったのは初めてだ。

どうみても簡単には答えがでない。「どうすればいいのか」という対症療法的、
状況適合的な発想では立ち行かなくなっている。


じっくり腰を据えて残りの時間を「考え」つつ生きる課題が与えられてと言う意味では、与えられた「負」の「聖痕」は、逆説的かもしれないけれど
「新たなる生へのうながし」
と見て取れないこともない。

そういう意味で、大震災以後間違いなく私にとっての風景は大きく「変わった」。

上野講演の持つ「自負」と「反省」とは別の軸に「神様」と「人為」そして「自然」を設定しながら、私は私で考え抜いていこうと思う。
大きな学問の恩義は感じつつも。





セシウムの放出量 大震災以後を生きる(33)

2011年08月29日 21時45分52秒 | 大震災の中で
原子力保安院の試算によると今回の原子力発電所の事故で放出されたセシウム137の総量は広島の約原爆168個分なのだそうだ。

詳細はこちらの記事を。
http://headlines.yahoo.co.jp/smartphone/hl?a=20110826-00000116-mai-soci

そこでこのコメントが気になった。

引用開始
 保安院の森山善範原子力災害対策監は
「原子爆弾は一瞬に爆風や熱線、中性子線を放出し、破壊するもので、単純に放出量で比較するのは合理的ではない」
と述べた。
引用終了

誰が単純に放出量で比較するんだろう。コメントするにしても能がない。

せめて、福島ではその大量の放射性物質が広域に広がっていて、回収除染が困難を極める事が予想される、っていう現状を踏まえたコメントがほしいじゃないか。
どこぞの単なる「煽り」を恐れて言わずもがなの予防線を張る程度の心構えなのかと思うと、いささかうんざりさせられる。

これじゃあ「市民は反対するから会社の社員には賛成させておこう」という類の、市民を見下したヤラセ的心性と通底する、受け取り手を他者として尊重しなさすぎる姿勢の現れじゃないかなあ、とさえ考え得る。

「えぇっ?!168倍!?」

とかいってむやみに原爆と単純比較した挙げ句にパニックを起こす人が多数だとはとてもおもえない。

しかし「深刻さはかなりのものなのだ」という認識をする人がいるとしたら、それは適切な思考と言うべきではないか。

いいわけがましい(しかも的外れな)コメントを出す暇があるなら、黙って事態の深刻さを少しでも必死に考えたらいいと思う。

それにしても多いよね……(> <)〓



防災指針の見直しに思う   大震災以後を生きる(32)

2011年08月29日 21時13分55秒 | 大震災の中で

内閣府原子力安全委員会の作業部会で、原子力発電所の重大事故に際する防災指針の見直しが進んでいる、という記事があった。
詳細はこちら。
http://mainichi.jp/s/select/news/20110827k0000m040148000c.html

〉実際に重大事故が起きると、
〉放射性物質の広がりを予測
〉するシステム(SPEEDI)
〉の計算などを参考に避難区域が
〉設定される。
とある。

今回の事故対応の不備を踏まえて改善されていくのだとは思うが、今ひとつ納得行かない思いも残る。

たしかに今度同様のことがおこったら、もっと適切に、つまりは今回よりは「上手に」対応できるようになるのだろう。

でも、本当にそういう風にしていくしかないのだろうか。

所詮、「パニックを起こさない範囲で」あるいは「お金が間に合う範囲で」という行政側の匙加減はそのままなのではないか、という疑念が拭えない。

今回と同じ程度の規模の事故しか起こらないかどうかだってわからないのに。理論的にあり得べき最大の「避難」を想定しておく必要があるはずなのに。
今回の事故が最悪ってわけでもなかろう。
事故を踏まえて、あるいはIAEAの指針通り、程度のことしかできない、というのは、どこか真面目さが足りないんじゃないか、と感じてしまうのだ。
こういう苛立ちと不満、不安は、根拠のないもの、なのだろうか。
学芸会のリハと本番の関係じゃないんだから、と思う。

ホットスポットの情報公開の遅さとかは、SPEEDIとかの公開だけじゃ間に合わない。
お上の査定を待つ、みたいな事じゃなくてさあ。
根本的な情報の共有と、住民サイドでの緊急避難への支援に何が必要なのかを真剣に考える姿勢に乏しいと感じます。

そんなことは一見防災指針とは無関係にも見える。でもさあ。
飯舘村の場合などを考えると、防災指針以前に市民を守るっていう根本的な教育を企業や役人、政治家ににしてからじゃなきゃ意味がないんじゃないか、と思えてならない。

もしかして仕事でやってるだけなんじゃない?戦争とか、こういう国策的な事柄による事故とかは、いくら「自分の子供がそこにいると考えて」なんていっても通じないのかねぇ。
30キロ以上離れたところにドンドン降り注いでたじゃないか、と思わざるを得ない。SPEEDIのデータを使っても、判断する側の姿勢まで問わなければ、本当のみ防災指針にはならないんじゃないかな。もっと哲学が必要。

以下、毎日.jpより引用。
 
国の原子力防災指針を見直している内閣府原子力安全委員会の作業部会は26日、原子力施設で重大事故が発生した場合に直ちに住民が避難する区域としてPAZ(予防的措置範囲)を新たに設定する方針を決めた。具体的な範囲は10月をめどに決めるが、国際原子力機関(IAEA)の安全指針に基づき、半径3~5キロ圏内を目安とする。
 PAZは、原子力施設周辺の自治体が地域防災計画を策定する際に反映される見通し。
 現行では、放射性物質拡散が予想される半径8~10キロ圏内に、自治体が屋内退避などの対応を準備するEPZ(防災対策重点地域)を設定。実際に重大事故が起きると、放射性物質の広がりを予測するシステム(SPEEDI)の計算などを参考に避難区域が設定される。PAZ内では事故とほぼ同時に避難を求める。【比嘉洋】



大震災以後を生きる(31)NHK合唱コンクール福島大会での地震

2011年08月20日 10時36分37秒 | 大震災の中で
昨日(8/19金)、福島市音楽堂でNHK合唱コンクールの福島県大会があった。
福島県は合唱王国で有名だ。審査員もコメントしていたが、圧倒的力量の高校生団体が多数活動している。
今回も、橘高校、安積黎明高校、葵高校など全国大会で名を聞くところが出場した。

今回は副顧問で引率手伝いだったため、久しぶりに参加校全ての演奏を聴くことができた。
しかも無料(笑)。
仕事なのにとても贅沢な1日になった。
印象的だったのは、郡山高校の演奏だ。豊かな表情の声が指揮者と対話しつつ、その結果より高次のアンサンブルとして観客に提示することが叶っていると感じた。

高校生のいわゆる普通に上手な高校の演奏は、指揮者が合唱を自在に「操り」、その結果の「音楽」を生徒が「楽しんで」観客に差し出す、というものが少なくない。
でも、こういっちゃなんだけれど、高校の教師の指揮棒程度の音楽を、手下の高校生を使って「表現」しようなんざ、ちゃんちゃらおかしい、と思ってしまうときがある。

別に高校生がそれで本当に楽しければいいんですけどね。
あるいは、その高校教師の棒がそれなりに高い水準の解釈であれば、今ひとつ教育活動としては釈然としなくても、まあ聴けてしまうということもある。

でも、郡山高校の演奏は、生徒が楽しそうでね。しかも、それが「売り」じゃない。指揮者の「音楽」も全く押し売りじゃない。

そこに成立した音楽、指揮者と演奏者の間、音と音との間、その間に観客の耳が立ち尽くす快感、そんなものを感じました。ホールの響きとか、こちら聞き手のコンディションとかもあるから、一概には言えないんですが、私としては1押しでした(^^)。
結果は
橘高校1位、郡山2位、安積黎明3位で3校東北大会出場
だったんですけどね。

橘うまいけど、観客とコラボって感じじゃなかったなあ。
安積黎明は何かやろうとしてるけど、完成してない感じ。

素人が何いうかって話ですが。
でも、あらかじめ存在する何かを表現するために、あるいはあらかじめ向こう側に存在する何かを受け取るために、ホールに足を運ぶんじゃない、と思う。
その場で音楽が成立するその「間」に立つからこそ、ライブで聴く意義があるのでしょう。

震災後、ライブの演奏の意義の大きさを、改めて感じています。
審査員も最後にコメントしていたとおり、これだけの高水準の音楽が高校生の手によってなされている福島県の合唱の豊かさを、被災民でもある福島の県民ともっともっと共有してほしいし、そういう企画がたくさんほしい、と思いました。

ちなみに、喜多方高校の演奏中、午後2時半過ぎの福島県沖地震によって演奏が中断しました。
ステージに立っていても、観客の側にいても、地震で演奏が中断したのは初めての経験でした。
確かに福島県は体感余震がほぼ毎日のように続いているけれど、こうして生の演奏が中断されることが自分の「日常」で起こってくるとは。

そういえば福島県を離れて旅行していたときには地面が揺れなかったなあ、と改めて実感。

原発の事故(起こってしまった現実&今続いている現実&将来起こるかもしれない不安)

今後長く続く放射能汚染

日々起こっている余震

に囲まれながら生きている私達の生活は、まあ「あり得ない」ことだと改めて感じました。

直接関係ないけど、北海道の原発再稼働は止めた方がいいと福島にすむ住民の一人として切実に思います。

北海道が福島のようになったらほんと、大変です。それは青森でも新潟でも佐賀でも福井でも同じなんですがね。

原発は第一次産業を根こそぎ圧倒的長期に渡って「ダメ」にしてしまうリスクを背負っている、ってことです。
コスト高とか経済言語に還元する人もいるけど、そしてそういう言語しか通じない人もいるけれど、これはそーゆーことの次元ではなくて。
実際に起こった事故を見て、

そのリスク管理の必要性と、
私達の経済空間、生活空間、政治空間の根本的な組み替えの必要性と
を切実に感じているということです。福島の住民の一人として、ね。

既存の原発推進路線と枠組みの中で「安全宣言」とかいくら出しても、議論は噛み合わない。
単なる手続きや法律遵守の問題でもありませんね。現状・現実が大きく変わったのだから。

悪いことは言わないから第一次産業中心の場所の原発再稼働は止めておけって話です。
農業や漁業、林業の場所は、原発事故にはなじまない。
無論、だからといって人口密集地帯である東京や大阪近辺が「向いている」ってわけでもないでしょう。
繰り返すけれど、悪いことは言わないから、とにかく北海道の原発再稼働は止めておいた方がいいと思います。

ま、電力会社にそれをストップする志向が生じるわけもないし、地方自治体の首長に、ストップの意思を示す志向の枠組みもあるわけがないし、だから福島の現状からすると非常に現実と乖離した選択がなされてしまうのでしょう。

「それでも日本は原発を選んだ」にならないためには、
原発推進vs原発廃止
の二項対立に止まらない基盤・枠組みの根底からの立ち上げを粘り強くやっていく必要がありそうです。






福島から発信すると言うこと(29)

2011年08月17日 14時32分04秒 | 大震災の中で
「考えるネコ 走るイヌ」
http://plaza.rakuten.co.jp/gato814/
のことを書いた。

ブログは、自動でTwitterとFacebookにも流れるように設定してあるのだが、
Facebookの方友人からコメントがあった。

「最近ますます相反する2つのものの間で今自分が何をしたいのか、これから何をすればいいのか全く分かりません…」

と書いてあった。

福島に住むことは、引き裂かれる場所に立つことだと正直思う。

もっともっと声を出してそれをつたえていくべきじゃないかな。
裂け目を引き受けるのが福島に住むことの「権利と義務」なのだとも。

ただし。

引き裂かれ続けると、人は言葉を失い、隙間に身を閉じ込められ、その閉じこめられた状況に隷属した「サバルタン」な、自らの声を失った存在になってしまいかねない。

そうならないために大切なのは「初期衝動」だろう。

「逃げる」も「住む」も「迷う」も、各々の力能に応じた「初期衝動」に支えられた行為であるなら、自分をより高めることになり得る。

迷信にとらわれた受動的な存在として生きるのでないかぎり。

「安全だ」も「危険だ」も、それだけでは私たちに受動的な枠組みを与えて世界を半分に縮減して生きるように仕向ける「迷信のコトバ」として作用しかねない。

そのコトバがどんなところから絞り出された
「初期衝動」=「神の一滴」
なのか?

いつもそのに瞳を凝らしたい。



ちなみに、ブログの書き手とこの前飲んだとき、「サンボマスター」のボーカルが佐野元春とのトークで
「大切にしているのは初期衝動」
って言ってた、と教えてくれたのがのが印象的だった。それをふと思い出す。

「ネコとイヌ」
「考えることと走ること」
初期衝動を巡る「人間未満」の大切なことに対する視線がうかがえる。

考えてみれば人間とは違って、「人間未満」の動物こそが、「初期衝動」=「神の一滴」の匂いを見誤らないのだろう 。

「人間の言葉は存在から切り離されている」

というのが中世哲学の唯名論の「論理」だった、と昨夜読み返した八木センセの本に書いてあった。

「普遍」とは、素人には「神」の姿がちらつく「裳裾」のごとくに見える。

私たちは近世以降、資本主義というカタパルトに「普遍」を載せ、未来に放り投げた挙句、投機の対象にしてしまった。

その結果、「普遍」から「ことば」を遠ざけてしまったのではないか?
そんな思いすら抱く。

ま、もちろん「言霊(コトダマ)」とか今更言われても困るわけだけれど、私たちに残された「感染力(ミメーシス)」のある資源の確保は、「初期衝動」から切り離されていない「ことば」をどれだけ紡げるか、に依存しているのかもしれない、と、しみじみおもう。

動物には言葉がなく、人間には「初期衝動」から切り離された「唯名」しかないとしたら。

神の「裳裾」という見えないモノに瞳をこらそうとすることも、福島に住んで引き裂かれたが故の思考の混迷とだけいってすませるわけにはいかないんじゃないかな。

少なくても、声高に「震災以前」を懐かしみ、称揚して歌い上げるより、引き裂かれて病気になるぐらいが教師としてよほどまともだと思うよ(笑)

精神的な「資源」を、私たち福島の民は、しばらくここで掘り続けていこう。





福島から発信すると言うこと(28)

2011年08月16日 21時19分27秒 | 大震災の中で
福島人必見です。
福島市在住の友人が始めたブログ「考えるネコ、走る犬」
福島フォーラム“Imaje.Fukushima”のトークイベント報告がアップされてます。
http://plaza.rakuten.co.jp/gato814/
(開沼博/玄侑宗久/佐藤栄佐久/大宮浩一の各氏が参加)

ぜひともご覧くださいませ。

福島人は今引き裂かれている、そしてそのどちらもが必要だ

という玄侑宗久氏の言葉には本当に実感がこもっている。同じことを私もずっと感じています。
「危険だ/安全だ」
「逃げなきゃ/とどまらなきゃ」
「除染されたら戻りたい/新しい町をつくるんだ」

思考停止しないで、その「間」の「裂け目」を見つめ続けていかなきゃね。

そして、その上で何らかの行動を起こしかつそれを生きている限り続けていきたい。

いまだかつて、人生の中でこんなに真剣に状況と向き合ったことがあるだろうか、とふと思います。
福島に住む人の「権利と義務」という彼のコメントに深く納得。

共に考え続けていきたいですね。



8/15の昼下がり、スピノザ『神学・政治論(上)』を読んでいる。

2011年08月15日 15時42分20秒 | 大震災の中で

このあたりスピノザかっこいいなあ。

「事実余は、神がキリストに現れたり語ったりしたことを何処でも読んでおらぬ。ただ、神がキリストを通して使徒たちに自らを示したこと(中略)を読んでいるに過ぎぬ。」(岩波新書P71)

「かくて我々はこう主張する。キリストの外には誰もが表象力の助けに依ってのみ、即ち言葉や影像の助けに依ってのみ神の啓示を受け取ったのであり、従ってまた予言する為に必要なのはより完全な精神ではなくてより活発な表象力なのである、と。」(岩波新書P72)

それに続いて、旧約聖書のヘブライ語における「神」と「霊」の用例を次々に挙げていく。

300年の時を超えてスピノザ本人と同じテキストを「読む」という感触の幸福。

そしてさらに、普通古典を読む為には様々なる予備知識やサポートが必要なのだけれど、この『神学・政治論』(少なくても第一章)は「ノーガード戦法」で読んでもすこぶる読みやすい。
(言うまでもなく、読みやすいからといってきちんと分かっているかどうかはまた別なんですがね)

しかしとにかく、中世の神学のお話に比べると圧倒的に身近であることは間違いない。
『エチカ』以前の外堀が少しは埋まることを期待できるかな。

それにしても、せめて引用されている旧約聖書の部分ぐらいは目を通しておきたくなります。
古典はいつも(いや、読書はいつも)数珠繋ぎです。

じゃあスピノザにとってじ他の預言者と違う「キリスト」とはどんな位置づけになるんだろう?
ってのも気になってきます。



大震災以後を生きる(30)お盆の夜、福島にて。

2011年08月15日 12時39分46秒 | 大震災の中で
昨夕、福島市内で、高校の同級会があり、担任として混ぜてもらってきた。
20歳~21歳、大学3年生が主である。

現役合格の人たちは、3年後半の就活開始に向けて進路の心配をしはじめている。
「メディア関係行きたいと思ってるんですよね」
「JICA就職ってどうなんでしょう、TOEICスコアめっちゃ低いんですけど」

一浪組はまだ2年生の夏。
アメリカでレンタカー借りてグランドキャニオンとラスベガス、なんて脳天気な計画を話している。

短大卒の保育士のお姉さんは、2歳児を受け持って日々「トイレ」も「ことば」もぐんぐん成長していく様子を「アメージング!」という表情でうれしそうに話してくれた。

同級生で昔付き合っていた元カップルの片割れの女子は、「なんで貴男に彼女ができて、私に彼氏がいないのっ!ビッグになって見返してやるからね」と気合いを入れていた。

仕送りなしで週6日バイトをこなしている3年の元気印の男の子は、一気コールを続けた挙げ句、階段の踊り場で沈没していた。

今日の昼間はバンドのオーディションだった、っていう彼は、二日の練習じゃ合格しないよね、といいながら楽しそうだった。

ドリカムのバックダンサーオーディションに合格してツアーに参加したというダンサーの彼氏は、
「教職もいいけど、もう少し人生をこっちに賭けてみたい」
って述懐していた。

集まった18人はそれぞれに、二十歳の人生をきらきら多面体に輝かせていて、53歳のおじさんにはいささか眩しい。

でもやっぱり、法学系のゼミでは中央大でも東海大でも「原発事故賠償法の演習やりましたよ」と言っていたし、福島の大学生は「農産物の被害状況や補償関係のことをゼミでフィールドワークしています」とも言っていた。

そして、

「福島に帰りたいんだけれど、今は東京かな」
「東京は嫌だから仙台かな」
「福島の就職はどうなんですかね?」
「福島の教師になりたいけれど、採用がなかったですよね。来年採用があるって保障もないですよね。関東圏なら倍率が低いんだけれど……」

そんな言葉を次々口にする。

「田舎に戻る可能性があるなら教職は取っておいたほうがいいよ」
といつも通りのアドバイス。
でも、今までと違って福島は今後就学人口がさらに減っていくだろう。

それでも、教員は、関東に就職して何年か経てば県をまたいで就職地を変える仕組みがある。
合格の年齢制限もずっと高いし、年齢はハンデにならない。

「ひとまず倍率の低い関東圏の正式採用を狙うのも手だね」
と付け加えた。

本当は戻りたい、という彼らの全てを受け入れる就職口があればいいのに、と思う。
でも、若い彼らを今ただちに強引に引き戻すアドバイスはできなかった。

福島を支えたいという若者のエナジーを活かすためにも、長期的な線量低下のプログラムが不可欠だし、被災地の復興を後押しする雇用のヴィジョンが大切だと切実に思う。

勤務校の普通高校生対象の地元求人は、本当に限られた数と職種だ。

来年の夏の再開を約束して別れたけれど、彼らのうち、福島で仕事を選択する者は多くあるまい。
今はそれでいいと思う。
長く厳しい道のりになるだろう福島県の将来と、彼らの若々しい未来がどこかで出会うことをただ願うばかりである。



大震災以後を生きる(29)除染した結果の廃棄物をどう処理するか?

2011年08月13日 12時48分09秒 | 大震災の中で
昨日の夕方、福島ローカルのTVニュースで、伊達市の除染した放射性物質の保管場所についての問題を取り上げていた。
学校校庭の表土などを取り除いて除染するのはいいけれど、それらの物質を長期的にどう保管するか、その候補地に伊達市の職員が説明会を開いたところ、地区住民から
「学校を除染することと、自分たちのそばに処分/保管場所を作るのは別」
「いったん認めてしまったら、あそこは<処分場>だとなって、たくさんの汚染物質が持ち込まれるのではないか、という不安があるから反対だ」
という声が上がる。
市職員は
「その通りだけれども、真っ正面から説明して、必要性を理解してもらう以外にない」
というコメント。

難しい問題だ。京都市の陸前高田からの薪を受け入れるか拒否するか、の問題でも二転三転揺れ動く。
こういっちゃなんだが低線量とおぼしき一回限りの「薪」だってそんな風に「大問題」なのだ。

ましてや除染した汚染物質は、当然のことながら高線量で、長期保管・管理の対象である。
「うちの地区へどうぞ」なんて請け合える人はいるわけがない。

さてではどうすればいいのか?
たぶん、問題の円満な解決策はないのではないか。
そう思えてならない。

福島県の、原発事故現場の近く、高線量地区に、そういう耐震機能の高い保管所を隣接させ、除染した物質を保管する、ぐらいしか思いつかないのだ。

完全に安全だっていうのなら、東京都庁の地下にでも保管してもらいたいぐらいだけれど、まあ、ないわね。
だって、人口密度が高いし、それを拒否できるお金や権力もあるし。

人口密度が比較的低くて、お金が比較的なくて、他の産業がないところだからこそ、たとえば六ヶ所村もたとえば福島県の双葉郡も「選ばれた」わけだ。
それが原発事故が起こったからといって、その「構造」はまだ何も変わってはいない。

そしてたとえば京都が自己防衛するのは、遙かに高線量汚染地域にいる者としては「なんだあ、期待させといて」とつまらなくは思うけれど、「外側」の反応としては「当然」だと思う。玄侑宗久氏も「責めるまい」とコメントを出していた。私もそうだと思う。

さてでは、どうすればいいのか。
高い線量の地区は、高い線量の地区なりに、問題と向き合っていかねばならないのだ。
繰り返しになるが、「全部逃げろ」でもなく「今のままで大丈夫」でもなく。

たとえば飯舘村では、どこか谷一つを汚染物質の保管場所として埋めなければ低線量化ができないのだという。

どの谷を選ぶのか。そんな選定を果たして誰ができるのか。選ばれた地区の人は承服できるのか。

万人が満足する「解」など存在しないのだ、というところから、私達は思考と議論と選択をしていかねばならないのだ。
そろそろ、福島県人は、本当に粘り強く「思考」することを、「世界」から求められているのだ、と気づきはじめている。
他の地区の人たちはどうかな。

別にそんなに頭を使いたいわけじゃないんだけど、たぶんそうする以外に手はない。

もはや、単純明快な「解」など存在しないのだからねぇ。

伊達市の職員と地域の人たちは、どんな形でこの問題と向き合っていくのだろうか。
「国」や「東電」の補償を考えるにしても、それは明確に法で認められた「損害」が必要だ。
そしてそれは生活を元通りにするものではない。

除染費用を請求し、保管費用を請求し、ということは可能だろうが、ただ座して全ての放射能をここから別の世界に転送しろ、みた
いなファンタジーを要求したって実現するはずもない。

微妙な境界線においてこういう問題は無数に起こっている。

さて、明確な「解」のないところで「合意」を形成し、どう「共同体」としてこの「負」の現実に「参加」していくのか。
注視しつづけるとともに、自分の問題として考えなければ。

私なりに方向性はあるけれど、もう少し考えを練り続けていくつもりです。

大震災以後を生きる(28)

2011年08月10日 14時00分19秒 | 大震災の中で
青森のねぶた、弘前のねぷた、五所川原の立佞武多の三つの祭りを見てきた。
それぞれに面白かった。福島から出て生活したことのない私にとって、同じ東北でも十分に異文化体験である。

だいたい東北地方と一口にいっても、南北の長さは半端ではない。福島の南端いわきから青森までざっと500キロあるのだから。

50歳を過ぎてから、
「老後をあてにせず今を楽しむ」
方針に舵を切って、全国をクルマで移動することを始めた。
観光旅行、といえばそうなのだが、特に定まった目的は必ずしも必要ない。土地の空気を吸い込んで風景を見て、そこの野菜や果物、そして少量の肉とお菓子を食べればそれでよい。

今回はとりあえず青森の和風エレクトリカルパレードを見ようという初期衝動で動いた。
同僚には
「観るだけの祭りは飽きますよ。やっぱり山車はぶつからないと」
てなことをいわれて正直いささか弱気になったが、ねぶた=ねぷた=立佞武多をみて、こりゃ「けんかねぷた」をしてちゃ勿体無い、と思った。
(戦前は投石などもあってかなり警察も手を焼いたらしい)

弘前ねぷたの歴史
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/8849/neputa_his/ne-rekisi.htm


確かにあの「御柱」に乗って死ぬ?!典型的な神に向けられた「タナトス」的衝動はここにはない。
戦争の代わりにエナジーを蕩尽しつくすけんか山車のような激しさも(少なくても今は)ない。
変わりに、囃子と踊りとエネルギッシュな掛け声、それに華やかな山車の美しさがある。

青森ねぶたでは、先導役の女性が、笛一つで巨大なねぶたを自在に操る姿に惚れ惚れした。観客ギリギリで回転しながら、見得を切っている表情のねぶたたちがあたかもそこで動いているかのように迫ってくる。

巨大な祭りそれ自体をコントロールするノウハウもすごい。ただし、それと引き換えに、人数が多すぎて踊りに制限があるっぽいのが残念。
十年以上前だったか、跳ね人(踊り手)の無秩序な飛び入りとか、泥酔、乱行などが問題になっていたと記憶している。祭りにめちゃめちゃなエナジーがなかったらやる意味がなくなる。
他方、そのヒトを魅了し、結集させる力は必然的に一大観光産業を生み出すわけで、「ジェットコースター的安全」も求められてしまうのだから難しい。
そんな中での「解」を探りつつ、大きな祭りという「生物」を地域で飼い続けていくのは大変だなだ、なんてことまで考えてしまった。

弘前のねぷたは、青森のような「全国区」を自覚的に演じる」のではなく、手作り感のある小型の山車を地元の人が出す、地元民のソウルを感じる。青森のねぶたは大きい分それだけ大きな企業スポンサー資本が不可欠。
こちらはそういう大きな資本力ではなく地元勢の熱気がある。

青森県は好きな県だ。
中でも弘前は、阿蘇と並んでお気に入りに入っている。どこかに出かけようか、と思うと、500キロ飛ばしでここにくるのだ。何がいいのか、ときかれてもにわかには答えにくいのだが。

岩木山がいいのかな。

そうそう、五所川原の立ちねぷたは平成に入ってから、とかで、意外に歴史は新しいらしい。
明治期に行われていたと言われる20メートル以上の巨大ねぷたはその後長く廃れていて、ごく最近復活したのだそうだ。全国をあっと言わせる、みたいなことが紹介に書いてあったが、確かに圧倒的存在感。
明らかに運行経路の電線配下埋設でもしたんでしょうね。何せ高い。道路脇で見上げると遠近感が失調し、逆に吸い込まれそうな感じさえある。

一方踊り手は青森ねぶたに比べてたいそう「緩く」て、子供を抱えながらヤンママが踊っていたり、親子で楽しそうにしていたり。
運行経路以外の道は人っ子ひとりいない「祭りの裏路地の寂しさ」
もあってしみじみ。
祭りは、その灯りを目指して歩いていって、お囃子や灯り、屋台の匂いを背にしつつ帰るのが田舎の基本。
忘れていたそういうことを思い出した。

それにしても、ねぶた=ねぷたのように目に見えるオブジェを介した祭りという共有財を持つ地域は羨ましい。

自分が子どもの頃は福島の「お稲荷さん」の祭りが大きな祭りだったが、御神輿や争いの神事もなく、お詣りしたら屋台を流してべっこう飴なんぞを買って帰るだけだった。
一度ぐらいお化け屋敷に入ったことがあったかなかったか。
後年、福島は冬のわらじ奉納祭を夏に移して夏祭りを「創った」が、今しばらく時間が必要だ。お祭りはつくづく伝統の力である。

そういえば教え子に、「飯坂太鼓」の奏者がいる。高校生のとき進路指導の面談をしたら

「将来は飯坂に戻って飯坂太鼓をやる気のが目標です」

と宣言したのにはたまげた。
今、彼は一浪して早稲田の二年生。福島に戻って飯坂の祭りを支えるその気持ちは変わっていないそうだ。

今回の大震災がなかったら、
「祭りも太鼓もそりゃいいけれど、田舎の祭りで人生食ってはいけないんじゃないの?」

という思いは消えなかっただろう。我が不明を恥じる。胸に響いてくる太鼓の鼓動や笛の音、山車がぶつかるスリル、お腹が暑くなるような祭りの熱狂……そういうものなしに、他県からの物流支援だけでは、人は生きられないのだ。

ねぷた=ねぶたも、祭りの為に冬からお囃子方は練習し、何ヶ月間もまえからねぶた=ねぷたを作る。

お祭り騒ぎがそのときだけという印象を持つのは、実はハレを切り取って流通させはじめてから「後」の感覚なのかもしれない。

幾重にもうらやましく思いながら帰ってきた。
祭りとか、歌や音楽、踊りとかが、土地とその歴史に根ざした伝統に支えられていることの意義を改めて感じつつ。

たぶん、超面倒臭いんだけどね、そういう伝統とか(苦笑)。

太宰の小説『津軽』を思い出した。



大震災以後を生きる(27)

2011年08月09日 15時16分00秒 | 大震災の中で
今これを打っている新宿の喫茶店のテーブルに
「当店では十五穀パンはアメリカ産米を、白玉はタイ産米を使用しています。」
とある。これは日本産米(とか福島県米とか)じゃないから安全ってこと?
指し示してる「文脈」を考えてしまう。日本産米じゃないからゴメンナサイっていう話じゃないよね(こんなことを書くとタイとアメリカにゴメンナサイですが)。

いろいろゴメンナサイ的排除が進行してるなあ。そのうち「土地」も汚染されてない日本以外のものがよい、ということになったりして(日本の国にゴメンナサイ)。

ちなみに、東京のホテル、線量そんなに変わらないですね。
福島県のいわき市と。
0.1~0.18マイクロシーベルト/hの表示。
たぶん首都圏だってマダラに線量が高いのでしょうね。
「フクシマ」もマダラに線量が高いのだけれど、記号化されて便利に排除されている。

その枠組みを大きく取ると、外国産米が安全って話になるのかな(考え過ぎ)?

この「ケガレ」をカテゴリカルに排除して安心してしまう心性は、放っておくとどんどん世界が狭くなる。

他方、その偏狭な視野のまま「世界標準」を目指すと、これはこれでえらいことになりそう。

後者の例でいえば、米の先物市場再開も、市場に米を委ねる前にやることがいっぱいあると思うなぁ。

生産者側からいえば、急激な市場化は零細な兼業農家を一気に排除する危険がある。
消費者から言えば、貧乏人はいざとなったらやすい米を食べろということになりかねない。

爆発的な高騰を防ぐのが先物取引の目的だっていう原理論はわからないでもない。

しかし「主食としての米」っていう私たちの「了解」をまな板に乗せて切り刻むためには、まず小さい現実と大きな改革の二つを同時に進める繊細さとしたたかさが必要だ。

まずは徹底した情報の公開とシミュレーションの提示、そして方向性の哲学と、考えられるリスクの徹底的な説明が必須だ

今の米の生産・流通の現状が中途半端な感じがするのは素人の私でもよくわかる。

だが、繰り返すが米は主食だ。
農民が土地を離れては日本の米作は成り立たない。

高齢化する兼業農家に将来を任せられないのは自明だとしても、その改革がどうして米の先物市場からなのか。

むしろ日本人は、そして日本の若者は今むしろ、土地と、自然と、モノと向き合うことを潜在的には求めているのではないか。
たんなる「自然」に親しむ快適生活のレベル、個人的ライフスタイルのレベルではなくて、生き方というか哲学のレベルで「日本人の主食としての米」は考えられるべきだろう。

経済の問題から先に語れること自体の不幸を感じる。

もっと人が農業に流れていける仕組みを(福島は放射能除去が先だけれど)整えていくことが必要なんじゃないかな。
そういうグランドデザインがあって、兼業零細農家の高齢化&後継者不足をどうするか、トータルな議論をしましょう。

なんだか、「改革」という名の「効率化」「透明化」だけが先行しそうでいやな雰囲気がするなあ。
どうなんでしょう、そのあたり。
ウォッチしてかなくちゃならないです。

今までなんにも考えていなかったことを自覚。



福島から発信するということ(27)

2011年08月09日 14時32分10秒 | 大震災の中で
以前

「外側から安全だと言われると腹が立つ、危険だから逃げろといわれるとイラつく」

と書いたことがある。それは

「被害者として扱われると憮然とするし、原子力ムラの一員として見られると釈然としない」

ということにもつながっている。

しかし、
外部からの言説に反応しているだけでは、いつまでもアンビバレンツな心的状況が続くばかりだ。

数ヶ月が経って、そうやって他者の言説の隙間で立ち尽くしてばかりいるわけにもいかないとも思い始めた。

どちらの「言説」の側にも立てないのだとすれば、自分たちの言葉を立ち上げるしかない。

当たり前のことだし「福島から発信するということ」という題名もそこを目指している。

でもこれが難しいんだな。

いつのまにか、どこか別のことばの共同体からの発話になってしまいそうで。

福島の牛乳は流通していないけれど、大手メーカーの牛乳は店頭に並んでいる。
福島の桃は例年に比べて全国発送量は少なくなっているのかもしれないけれど、県内には潤沢に出回っている。
お米はどうだろう。古米が安く流通中。でも新米が出てきたら(福島県産は流通できるの?だれが買ってくれるの?)どうなるのだろう。

牛肉は?全頭検査なんて実質できるの?そのあいだに福島の畜産農家は壊滅的打撃を受けて廃業してしまうんじゃないの?

子どもたちはどんどんここ(福島)から外へ避難していくのだろうか。
来年の今ごろは、もっと福島は人が少なくなっているのだろうか。

今は本格的に操業再開していないから話題にならないし、水揚げする港も復旧していないけれど、福島の漁業は再起不能なの?

不安や疑念はどんどん膨らんで来て、言葉は押しつぶされてしまいそうだ。


誰一人、以前のような生活を営むことができない「空白地域」を抱えている福島を生きるということは、ブラックホールのように問答無用の闇を内部に抱えて生きることでもある。
そしてそれは「人為の裂け目」という意味では「自然」の「闇」でもあるのだ。セシウムは原子力以前にはこんな形で
自然界に存在しなかったとも聞く。人為の究極である原子力発電は、そういうものを「自然」として産出したわけだ。

私たちはその「産出された自然」と共に生きることを学ばねばならない。十分に制御することはできず、始末することもできずに数十年もおつきあいしなければならないのだ。核燃料に至っては数万年単位でのおつきあい!

そんな中で「辺境」を生きる哲学をどう立てていこうか。
現実が負の闇に捉えられているからこそ、世界の強度を確かめるには「哲学」が必要だ。


ケガレを排除して清浄な擬似自然を設定し、その中での最適化胃を探る「箱庭的処世術」が私たち日本の技だとするなら、それを単なる排除の論理として「ムラ」を形成するばかりではなく、その得意技を使って、この福島の現実を「繰り込んだ」上で「最適解」を見つけていかねばなるまい。
ちまちました処世術の「結果」に押しつぶされてはいられない。人間の営みは自然にとってはちっぽけなものだが、その「ちっぽけだ」という認識を「箱庭的処世術」に還元してすませるわけにはいかないのだから。

与えられた現実を第二の「所与」=「自然」として捉えるのがこの国の「処世術」的得意技だとするなら、この福島も勘定に入れてほしい。

いや、誰かに頼むばかりではいかんね。

「差別」され「排除」され、活動停止させられていく「ケガレ」というオブジェクト(客体)ではなく、「ケガレ」という状況に縛られたサブジェクト(主体)ではあっても、その場所から声を出し続けていきたい。

青森に3日滞在し、青森・五所川原・弘前のねぶた・ねぷた祭りを観てきた。同じ青森県のお祭りとはいっても、それぞれにテイストは大きく違う。
お祭りは眺められる客体であるばかりではなく(観光として流通するためにはそういう透明化・統制化も必須だけれど)、主体として参加するエナジーが必須だ。
それぞれのバランスの違いが感じられておもしろかった。

今年、地元いわき市は小名浜港の花火大会の実施が見送られた。復興を禁じられたかのように未だに信号が点灯しない湾岸道路を走り、復旧しない魚市場とその周辺の魚屋さんの店舗を観ると、胸が締め付けられる。ここだって、青森ほどではないけれど、花火大会では身動きができないほどの人手になった。寺泊に負けないほどの海産物のお店が並んでいた。

私たちには、これから先、長い長い黄昏を生きる覚悟が要る。

何ベクレルのどんな食べ物をどれだけ食し続けたら、内部被曝が、外部被曝の何とかシーベルト/hと同じ水準で比較できるのかもわからないまま。

今、地元を離れた旅の途中、新宿でこのブログを書いている。隣では年輩の女性が相方に、ネットショッピングの便利さを力説している。アマゾンの送料について思わず教えて上げたくなった。

それぞれの「辺境」を私たちは生きていて、その「辺境」の暗黙的ルールを前提にして日々の生活を営んでいる。そういうことを旅は改めて教えてくれる。

ちょっと前までは、この東京の喫茶店のような会話が日常だったのにね。

今は、全ての事象を、震災と原発事故の「聖なる痕跡」と照らし合わせて考えずにはいられない。

自分がそこにいつづけることの前提を問いながら、そこに居続ける生活を続けていくことになったということか。


原発事故を前提として考慮しない言説は時代の検証に耐えない、という社会学者の指摘が胸にしみる。

なかったことにするよりは、排除されるほうがまだましだ。
異議申し立てが可能だから。

上手く行っているうちは(そしてうまくいかなくなりはじめても決定的崩壊に至るまでは)透明化・効率化を目指す言説で世界を固めていこう……そういう考え方、そういう「縮減された処世術」的言説を「敵」とすべきなのが、次第にわかってくる。

出発点は「どうすべきか、どうすればいいのか」よりも「どうしたいか」だね。

「どうしたいのか」を前提にして支援し続ける声を日々出していこう。

小さな「初期衝動」のボールを、へんてこりんではあっても拾いつづけていくことかな、とりあえずは。



大震災以後を生きる(26)「辺境の処世術その2」

2011年08月09日 13時03分11秒 | 大震災の中で
勤務校の高校2年生に
「大震災の中で」
というテーマでレポートを書いてもらった。夏休み3200字×300人を読むのが私の宿題。その中にこんな一節があった。

災害救援ボランティアが全国から集まって来てくれた。しかし東電原発の水蒸気爆発が起こり、その影響は地元の人ばかりではなくボランティアの人を動揺させる。そのときいったんボランティアの人たちが引き上げるのだが、広島・長崎の被曝地から来たボランティアだけは自分たちと共に行動してくれた、という。

生徒が見聞した限られた例にすぎないが、「辺境」を生きるって、そういうことなんだ、と私は感じた。

別に被曝の危険を犯してその地の人と共に動くことが単純に「えらい」=
善な訳じゃない。

見方によっては「愚か」という評価すら可能かもしれない。わざわざ外から来て危険を冒す必要はないだろう。帰るところがあるならいったん戻って安全を確認してからまたくればいい。

所詮ボランティアなんだしね。
その通り。

でも、汚染が検出されていない薪を拒否した京都の「賢明」さより、寄り添う「覚悟」(愚かさとは違う)のある被曝地出身のボランティアの方がカッコイイ。ただしもちろん、他人に称揚される言われはないけどさ(海江田大臣が線量計無視で作業をした人を「英雄」扱いしていたけれど、それは他人のフンドシで取る相撲の典型)。錯誤もはなはだしい。

だからといって、鬼頭秀一氏が駒場の公共哲学のシンポでそれこそ「声高に」叫んでいた「大人は被曝覚悟で被災地の食べ物を食べるぐらいの姿勢が必要だ」みたいな「日本はひとつ」的なことを言われても正直困るんじゃないか。

中西準子氏の環境リスク論にもあるように、重要なのはトータルなリスク管理だ。

どういう「基盤」を据えて生きるのか、というグランドデザインを踏まえ、どこまでのリスクを全員が共有し、また享受するインフラなり「自然」なりと捉え、なにを個人にゆだね、どういう方向性をもって現実を少しずつ動かしていくための支援を行うのか。

自主避難を補償・支援しないこの国の行政には心底がっかりです。
同時に、とてつもない初めての現実を前にしてもなお、法律上の破綻なき「行政」や「組織」を優先してしまう「処世術」にはめまいがします。

いたるところでそういう縮減した「ムラ」に「最適化」した「処世術」の誤謬が見受けられる。

原子力ムラへの(今となっては)「過剰適応」も、頭のいい人地位の高い地位の人ほど「バカ」というわけではないのだろうから、どうしてその与えられた「箱庭」的フィクションに自分を最適化する「処世術」を選択してしまったのか、は徹底的に問われるべきでしょう。

根本的にその「処世術」で生きている人は、その行為が「私的」であるという認識が欠如しているのだろうと思う。
あたかもそれが「公的」空気を支えるものになっている「現実」があったのでしょう。

そうでなければ人々が次々に脳みそをヤられていく理由がわからない。

だから、「利権」で私服を肥やした的個人への追及では、この「現象」は解明できない。

「処世術」の原因を単純に「個人」に還元したりあるいは「社会」に還元する限り、「先」は見えてこない。

なんか「竜馬」や「黒船」を待望するしかないってことになりかねない。

30年のセシウム半減期を背負った福島には、竜馬も黒船も期待はできないわけだし。

「辺境」の文脈を踏まえた「処世術」(大臣の進退を云々している政局報道自体、適用を間違えた「処世術」の典型ですよね)の有効射程をきちんと考えた上で、それをどこでどういう風に「有効利用」しなおしていくのか、が私たち(これは日本人全員に)問われているのだと思うのです。

イタリアとドイツは(日本ともある意味通底する)「ファシズム体質」的?なるものを有効利用して「脱原発」の一歩を踏み出した。

それはアメリカのスタンダードではないし、ある意味「斜陽」していくリスクを取ることかもしれない。

でも、原発の電力は日本経済に必須だ、と言い続ける日経のような主張は、虚構の箱庭における「最適解」にすぎないのじゃないか。

片方のリスクだけを言い募る縮減された言説の匂いを感じるのは私だけではないだろう。

大間のマグロ漁港のすぐ隣にも原発が建設中だし、日本の穀倉地帯新潟にも柏崎原発があるし、首都圏の喉元には浜岡原発があある。

そして福島ではこうして現実にひでえ汚染がおこった。

正常な感覚でいえば、「原子力発電」を所与の前提として虚構の箱庭的日本経済の「豊かさ」をいつまでも握りしめるのはどうかと思うなあ。

つまり、反原発を30年も言い続けてきて実現しなかった「反原発ムラ」の人たちも「原子力ムラ」の人たちと同様に、「縮減化」した処世術的言説の限界をきちんと自覚してもらいたいということです。

むろんそれは、まず何よりも事故が起こるまで自分の土地や生活を危険にさらしているのに「容認」し続けてきた福島県民の問題なんだけどね。

原発の善悪を問うて見ることが大事なのではない。当然、放射能をゼロに限りなく近い生活をすることは大切だが、放射能=絶対悪=究極のケガレとして世界を縮減し、「清浄な自然」を京都で守ることが「善」なのでも(むろん「悪」なのでも)ない。

私たちはもはや、

「辺境」に生きることを所与としてその中で「清浄な自然」を探し求めて生き方を最適化する

という処世術=「思想」だけでは足りないのだ。

その「辺境」はいたるところに多様に現れ続けている。福島はその波頭の一つにすぎまい。

日本を一つに考えて簡単に「所与」とするような縮減的言説に、ねばり強くNoを言い続けよう。

同時に、限定されたところで最適解を見つける我々「辺境人」の知恵や身振りの特質を、バラバラに「辺境」が偏在=遍在する「今」において、どういうグランドデザインを描くことと結びつけていけるのかを、さらにねばり強く考えていきたい。

世界標準なんてクソ食らえ、だ。
だが同時に、「縮減された」擬似制度的共同体だけに最適化する「処世術」と堕した「辺境人」の身振りもまた、クソ食らえ、だろう。

原子力行政は、そのねじれの中でできあがり、上から目線では植民地政策的に執行することによって、地元からはお上からの利権を「所与」とすることによってねじれた「合意」が成立してきた。

その結果中央では政財官学の「原子力ムラ」が、地元自治体では補助金と雇用に支えられた「原子力ムラ」が、それぞれ小さな「処世術」をフル稼働させて維持されてきたわけだ。

私たちの自然観は、「見立て」を虚構として楽しむ限界と健全さを取り戻すべきときだろう。

改めてそれは想像力の問題になる。

モノと自然は裏切らない。

個人の生き方に還元されない「処世術」。それはやっぱり「哲学」と呼ばれるべきものになるんだろうね。

モノと自然について哲学的想像力を巡らしつづけること。
今まで考えられていた文学的想像力とは別種の、
ね。


「辺境」における「自由」の問題にもつながるのかな。




大震災以後を生きる(25)「辺境の処世術その1」

2011年08月09日 11時37分09秒 | 大震災の中で

『日本辺境論』内田樹という本がある。
日本人はずっと「辺境」を生きてきたのだし、そこに生きる身振りの最適解があるのだから、「中心」を生きるなどと考えないで自分たちの生きぶりを再確認し、むしろ「辺境」でGo!だぜ、という話だ。
卓抜な日本人論(懐かしい響き!)である。

他方、今や誰も知らないと思うが『辺境』というのは、井上光晴という作家が作っていた雑誌の名前。
  石牟礼道子(1927- )の『苦海浄土――わが水俣病』や永山則夫の読書ノートが掲載されていた季刊誌。それをふと思い出した。
小説『地の群れ』は被差別と「被爆者ムラ」(フィクションなんですが)の絶望的な確執を描いたもの。
小説『明日』は長崎原爆投下の前日の生活を描いたもの。
そういう意味では原発事故の真っ直中でフリーズしたままの福島県は、「辺境」であることによって世界の「負の中心」を瞬間的には生きてしまっている場所だといえるかもしれない。

そういう意味で世界の『辺境』と化した感もある福島にいると(思いこみとさじ加減もあるんでしょうが、これからじわじわ厳しい現実が後から迫ってくるのだという覚悟はしています)、「辺境」とは何かと改めて考えさせられます。

関連して考えたいこと。

「京都五山送り火」(16日)で陸前高田の松を薪として燃やす計画が中止になった(市長ではなく、地元保存会の決定だという)ことに、今日(8/9)は朝から批判的TV報道が流されていた。
検査してセシウムが出なかったのに拒否された陸前高田の被災者のみなさんは「期待させといてがっかり」という思いに駆られるのだろう。

京都は「セシウム」の汚れの「おそれ」をふくめて排除したんだと思う。首長じゃなくて、という京都市長の「いいわけ」コメントも振るっていたし、行事の「保存会」の人のコメントもぐだぐだだったけれど、それはそれで見識、とまでは行かないけれど、「中心」としての「辺境」=京都を守る意識は徹底していていっそすがすがしい。

田舎者は石でもぶっつけておくよりほかに手だてがないだろう(苦笑)。

万一「抽出検査」では大丈夫だったんですけど、気がついたらその灰で京都も汚染しました、なんてなっちゃあシャレにならないものね。

ま、明確にセシウム汚染されている福島はそういう土俵にも立てないまま、セシウム汚染瓦礫を「移動できない」自体をもしかするとこれから数十年生きなくちゃいけないわけで。

皮肉を言うつもりはないのだけれど、「ニッポンはひとつ」
ではないってことは重々承知しておけばいいのだ、と思うのです。お祭りはその地元の神様との交渉ごとだから。

だから、京都も「中心」といういわゆるひとつの「辺境」なわけでね。
守れるものなら、それを文化としてでも観光資源としてでも守ったらいい。

ケガレを払う「清浄な自然」というフィクションを懸命に守る身振りは、ちょっと前までの自分の中にもあったものだ。
ちょっと前までは外国産の食べ物が心配だった日本人は、原発事故以降、外国産の食べ物の方が安全になった。

つまり、結局箱庭的に縮減された虚構の中で「清浄な自然」を再現してその中に身を投じて最適化していくのが「辺境の処世術」だとするなら、それを伝統芸として続ける人には続けてもらっていていいと思う。「京都」は大きな政治の中心ではなくて、コップの中の精緻な文化装置を逆説的に「辺境の中心」として機能させ続けてきたのだろう。そういう歴史の匂いは感じるよね。無理矢理平等に薪を受け入れない方が京都らしいともいえる。


逆に、その「閉鎖性」に苛立つかのようにグローバルスタンダードに追いつこうと懸命になってTPP参加を急いだり、米の相場を旧態依然としたコントロール下に置くのではなく、市場原理によって「合理的」にすることで農業を再編成して生き延びようとする人たちもいる。

彼らはもしかすると「辺境の処世術」を乗り越えるべき困難と見ているのかもしれない、と思う。

でも、とりあえず短期的には「絶対的辺境」として名を挙げてしまった福島から見ていると、どちらも少し異和の感触がある。
それについて少し書いておきたい。
(この項続く)