龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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本当は書きたくもない開沼博論のために(その2)もしくは『植民地主義の時代)を生きて』を読む(その2)

2017年04月24日 12時44分10秒 | 大震災の中で
開沼博さん本人(個人)にはいささか申し訳ない題名で始めてしまったが、開沼博の名前で展開されている言葉たちの特徴について考える必要があるので、ちょっと仕方がなくこの項を続ける。

まず、
「ほんとうは書きたくない、論じたくない」のなら止めておけって話なのたが、それがそうもいかないという事情を書く。

それは、今読んでいる
『植民地主義の時代を生きて』西川長夫
に示されている「課題」というか問題点と重なっている。

どういうことか。

「国民が国民であることを一度受け入れてしまえば、徴兵反対や徴兵忌避を正当化する根拠は見出しがたい。残された問題は(中略)現実といかに折り合いをつけるかであって、戦争と軍隊の本質にかかわる問題が問われる機会は失われる」(『植民地の時代を生きて』P31)

ここで指摘されていることが、今の福島の 「復興と絆」が抱える問題にそのまま当てはまる側面がある、と考えずにはいられない、から、ということだ。

国民国家の「植民地主義」が「中央に対する地方」と「宗主国に対する植民地」という二重の構造を持ち続けてきたとするなら、アジアの国の宗主国として振る舞う経験と同時に、アメリカの「植民地」として振る舞うという二重性の中で原発政策が展開されてきたことを無視するわけにはいかないだろう。
つまり、 「東京と田舎」は 「宗主国と植民地」の関係だ、という、開沼も指摘している問題だ。
高橋哲哉氏のいう「犠牲のシステム」、という概念を重ねてもよい。

もちろん

P2「権力は常に抑圧的であるが、抑圧の形態と対象はつねに同じとは限らない」(同P27)

わけだし、その中で現実と折り合いをつけながら生きていくことはとても大切。

しかし、「植民地主義」論理の内部に取り込まれる前に 「ふと」感じる庶民の 「直感」はもっと大事だ。

それは、気の迷いなんかじゃないだろう。

むしろ、いったん権力の論理の内部に入ってしまうと、いくら考えても 「無思考」の枠組みから離れられなくなる。その意味では、論理的に思考し続ける上で、取り込まれる前の 「初期衝動」はむしろ思考の基盤であり、エンジンであるかもしれない。

ただし、その契機はつねにすでにここにあるのだけれど、論理の内部からは見えない。

国家が示す論理が、果たして 「この道しかない」のかどうか、ちゃんと考えてみたいと思うのは当たり前だ。

「書きたくもない開沼博論」のモチーフはここにある。

論理の内部に入ってしまうと 「無思考」から逃れられなくなる典型例を開沼博的発話に見て取ることができる。

内部の論理に入った発話者は 「分かっているのは私だ」という主張はできる。だから正しさは論じられるだろう。だが、考え続けるためのエネルギーにおいては決定的に劣る。つまり、決め打ちしか出来ないということだ。

他方、ややこしいのは、自分は全くの「外部」いると勘違いして、「開沼博的発話」を批判しようとする者たちもまた(私も含めて)、相手を

「非国民=わかっていない人」

呼ばわりするという決め打ちをし、結果として、基準の符号は違っていても結局は決め打ちの「無思考」の応酬にとどまってしまいかねないという点。

そうでなくても、分断や格差は、構造的な「決め打ち」のコトバを再生産しやすい。

でもそういう種類の決め打ちのコトバは、世界を「善と悪」や「正解と誤答」に分けて、そのどちらか半分だけを取り出そうとする「貧乏」な身振りを、身の回りに招き寄せるだけだ。

にもかかわらず、これからしばらくは
「決め打ちの時代」(ヤな時代だ)
がつづきそうだ。

決め打ちで自分達の生きる範囲を「縮減」して生き延びようとするのは、ある意味人間が危機に際して採る態度としてむしろ「自然」なのかもしれない。

だが、結果だけを握りしめて環境に反応する感情を基盤とした選択は、結局のところ、外部に振り回されるばかりになってしまうのではないか。

外部の環境が激変している今だからこそ、しっかりと精神の「身体的」な準備運動をしておく必要がある。

そのための体操の一つが、もしかすると「もう一人の自分」が立っていた場所だったかもしれない「開沼博的発話」について考えること、というわけだ。

その思考ををとりあえず今日支えてくれ、「決め打ち=無思考」から精神の身体をズラしてくれているのが

『植民地主義の時代を生きて』西川長夫

だ、ということか。


ちにみに、西川氏が元々は国際関係の専門家ではなくフランス文学が専門で、それを脱-構築していく中で編まれたのがこのスタンスだということを知って、なるほど私にとって読みやすいわけだ、と個人的には納得。

思考が単なる「縮減」に終わらないために出来ることを考えて、その考えを形にし続けなくては、と思う。

『植民地主義時代を生きて』西川長夫は本当に必読かも。

2017年04月24日 08時26分33秒 | 大震災の中で
今日は月曜日だけれど、仕事の代休がはいったのでぽっかり空いた一日。
友人が勝手に 「必読」と推奨していた

『植民地主義時代を生きて』西川長夫

を朝から読み始める。

かなりのボリューム(600ページ超)だが、冒頭の序論、幸徳秋水・田山花袋・永井荷風3人の引用からぐいぐい引き込まれる。筆者の思うつぼ、つまりは、想定された 「なるべく多くの読者」の一人、ということか。

一世紀前、1900年代から 「国民国家と植民地主義」に歩んでいく日本の道程を、100年後の今と重ねて論じていく姿勢の、ぶれのない的確さがその冒頭の瞬間からひしひしと感じられる。

確かに友人の言うように、今の時代必読かもしれない。

「戦争が国民と国民国家を作り、帝国主義戦争が帝国を作り出す」(P33)

そういうことだ。

今日はこれ一本、かな。


共謀罪のこと。

2017年04月22日 23時25分03秒 | 大震災の中で
このテロ等準備罪?共謀罪?って、アメリカとかオーストラリアとか、軍事的同盟の方を向いて作られたものなのかなあ、と思う。

長期的にはアメリカの存在感が希薄になるであろう極東は、中国の支配下に置かれていくことになる可能性が高い。それが実現してしまえば、日本は今までアメリカの動きを忖度していた姿勢を変えて、中国の意向を中心に考えるようになるのかもしれない。だがそれは10年単位の未来のことで、実際にどうなるかは神のみぞ知る、だ。
で、もちろん今の時点で日本がすぐに中国の軍事的圈域に自ら進んで参加するわけにはいかない以上、しばらくはアメリカと、そして中期的にはアメリカ以外と組んで極東のバランスを取らなくてはならない。
そうなると、アメリカの諜報網に連結するためには、それに近いシステムを作る必要があり、だからそのための前提として 「準備」を罪に問える法律整備がある、ということなのではないか。

加えて、大臣は法務大臣も防衛大臣もよく分かっていない人を当てているのは、その方が実はやりやすいと考えているからじゃないか、とすら思えてくる。

さらに言えば、日本固有の重要事項として存在するのは、もちろん朝鮮半島有事とそれにともなう軍事的なテロだろう。


戦時中に苛烈な弾圧を受けた創価学会が母体の公明党がここまで唯々諾々と現状を傍観しているこの態度は、対外的な軍事事情を想定しないと、到底理解できない。

さて、問題はここからだ。
上記のようなことだけを想定している人はきっと、取り越し苦労だよ、と笑うのかもしれない。私の周囲にも 「感心ないよ、私は関係ないし」というオーラを出している人は多い。まあ、生活すると言うことは善し悪し以前にそういうものだろう、ということも分かる。

けれど、私はこの法律が成立したら日本はかなり 「変質」してしまうと思う。

この手の法律はいったん成立してしまったら、為政者にとってこんな便利な法律はない。それが誰であっても(左翼だろうが右翼だろうが中道だろうが)、二度と手放せるとは到底思えない。

だからこの法律は天下の悪法なわけだ。 

ジル・ドゥルーズが『アヴェセデール』で、

左翼とは、遠くのことを思考するということだ。だから政権を取り、権力を持った左翼というものは存在しない、というような意味のことを語っていたのを思い出す。

権力を握ると、遠くにいるもの(弱者やマイノリティ)ことを考えられなくなる。権力の側からしか思考できなくなる、という指摘だろう。

共謀罪、成立するのかな。
ぜっっったい反対、だけどね。

本当は書きたくもない開沼博論のために(1)

2017年04月22日 10時52分27秒 | 大震災の中で
開沼博はルサンチマン(怨念)の人だ。
見ていると悲しくなってくる。
福島は大震災と原発事故以後、無数の分断線に苦しめられてきたし、今も苦しめられ続けている。
それを 「自分のため」に強化・再生産する開沼博の姿は端的に悲しいというべきではないか。

開沼博は、てつカフェ@ふくしま
にゲストとして参加したとき、
東電と国家の責任を問うことの重要性を語る参加者に対して
「私のゼミ生だったらボコボコにしていますよ」
とイヤミをいい(しかしその根拠は遅れている、という指摘のみだったが)、東京で私の話を聞いてくれる人たちは違う、と 東京の先進的な読者たちの側に身を寄せつつ、内側で悩む参加者たちを恫喝していた。
そこに見えるのはなによりも、学問的な検証性を少しも持たないまま、自分の劣等感なのか立場を守りたいという欲望なのか、その源泉はいずれであるにせよ、とにかく権力的な恫喝をするか、沈黙してしまうか、の両極端の姿勢だった。

もしかれが誠実な学者なら、一般市民にたいしても(配慮は必要であるにしても)きびしい主張を丁寧に提示すべきだ。だが彼にはそれができていない。なぜなら、彼の言説はルサンチマン(恨み)をそのエンジンとした行為になってしまっているからだ。
私の知る限り、どんな学者であろうが、意見の違う相手にこんな恫喝をする人を知らない。

それが一点。

もう一点は、彼の『はじめての福島学』の姿勢と内容の貧しさだ。数字を見れば分かる、と言う形で、風評の無根拠性を言い立てるのだが、かれが想定している 潜在的な「聞き手」は、ここでもまた自分の話を聞いてくれる人たちだけだ。

つまり、無知な人に対して 「福島を面倒くさい」と思う 「あなた」と指差し、最初から無知を貶める形で 「開沼的発話者」は語り始める。
つまり読者を予め無知の場所におき、あたかも 「客観的ででもあるかのような」数字を並べ立て、人々を 「脱政治化」して自らの読者へと繰り込んでいくのだ。

それが悲しい。

先ほどのてつカフェの場合とは逆に、ここでは 「開沼的発話者」は「内/外」の内に身を置き、外の人の無関心の無知にイヤミを言う。

もちろん、たとえば福島のお米は全量検査でクリアしているし、福島のお米は首都圏で食され続けている。そういうことを知るのは大切だし、そこには意味がある。それは認めよう。

だがこの発話行為は基本的に恫喝だ。

中の人には外を、外の人には中を振りかざしてコウモリ人間的発話を続けているだけではないか。つまり、かれの言説戦略は恫喝と沈黙の使い分けにつきているのだ。

その恫喝と政治的な沈黙はセットとなって、この大震災と原発事故によって生じた大きな課題と向き合う者たちの姿勢を、 みごとに葬り去ろうとしつづけているのである。

この本について、アマゾンのレビューには、「避難者にも読ませたい」 と、 避難者たちが風評に踊らされているかのような 「善意」を書き込んでいた人がいた。

開沼博的発話が成し遂げているのは、その程度のことだ。

なるほど、東京と田舎の植民地的な関係は、開沼博の指摘するとおり簡単には変わらないだろう。

だが、私たちは、被害を 「風評」と 「無理解」に縮減する政治家のような言葉を福島から発信し続ける 「開沼的発話」の貧しさを悲しく思う。

彼は、もっと引き裂かれた場所に立ち止まって思考を続けるべきだった。普通の市民が 「避難/帰還」 「安全/危険」の二項対立に口を噤んでいるときこそ、その隙間に身をおいて、困難な語りを語る倫理を(学者なら)抱えつつ語るべきだった、と思う。

彼の中に葛藤がないとは言わない。おそらく、抱えきれないほどの葛藤があるのかもしれない(葛藤の痕跡もなかったらただのアホだ)。

しかし、選んだのは 「風評被害」を叩くという決め打ちだった。

悪いけれど、それは政治家がすることだろう。もしくは政治家に都合よく利用される、くだらない学者崩れの。

学者が結果として政治家に利用されてしまうことはたくさんある。意見が異なって腹の立つ学者もたくさんいる。

だが、開沼博はそこまでもたどりつかない。

彼の 「知見」と言うべき学問的成果はいったいどこにあるのか?

密かになにかを企んでいるのか。

しかしそれなら、私たちフクシマの民はみな 「まつろわぬ心」を唇の奥にかみしめているよ。

開沼博のように自らしゃべっているかのように見えてじつはルサンチマンに憑かれているだけが福島の民じゃないはずだ。

私は開沼博論を書く意味などほとんど感じていない。

なぜなら私は文学の隅っこで哲学を頬張って何も語れずにいる意気地なしだから。

ただ、そんな意気地なしでも許せないことはある。
だからこれについてはいずれ生きている内に形にせねばなるまい。

今はただ学問を中途半端に扱い、福島を半面だけ守ろうとし、

「無数の分断を抱えつつ物語を語ることすらできない普通の人たち」

を抑圧し続ける開沼博の言語行為を、ただ悲しいと思うだけだ。
開沼博が櫻井よしことつるんでいる時点で、立場はあまりにも異なっていことは明らかなんだけれど、それにしてもどうなの、と思わずにいられない私が単に政治的に甘いだけ、なのだろうか。

もしそうだとしても、私はそれぞれの物語を噛み締めつつそれをことばにすることができずにいる、 「まつろわぬ者たち」の側の一人でありたい、と強く願う。

「原発を東京に」

ルサンチマン(恨み)をもしことばにするなら、かつて原発反対の政治的スローガンに過ぎなかったこの言葉を、もう一度こんどはせめて正直かつ素直に、死ぬまで東京に対して語り続けたい、と思う。
祈りにも近い叫びとして。