読んだ本の感想は、普段は別のサイトの分担なのだが、今回はこちらに書く。
野矢茂樹『語りえないものを語る』(講談社刊)
がメチャメチャ面白かった。
講談社のPR誌『本』に連載されていたものの単行本。
(注の方が長くなった、なんて書いてあるけれど、それはもしかするとこの本の魅力の本質の一つかもしれません)
ヴィトゲンシュタインとかデイヴィドソンとかグッドマンとか永井均とか野矢茂樹自身の以前の著作とか、まあ「そっち系」の、かつて読みかじったり耽読したりした哲学者の言葉が、この著者の思考の歩みの中できれいに再配置されていき、それらが道々見えてくる風景とか標識とか里程標とかになり、かつその「遊歩」とでも言うべき思考の歩幅と相俟って、えもいわれぬ楽しさがココロのそこから湧き上がってくるのを押さえることができなかった。
楽しさを満喫しつつ、この本を読んでこんなに楽しいと思う人は世界でどれだけいるんだろう、とも、ふと思った。普通の本ならそんなことは思わないのに。
この相対主義とか独我論とか、言語と世界との関わりとか、どう考えても狭い路地に入っていく哲学っぽくもあり、同時に哲学プロパーには軽んじられかねない「ああそっちね」系のテーマでもある(ように感じられる)この領域を、こんな風な足取りで一緒に遊びながら歩いてくれる筆者がいることに、驚きつつ、果たして読者はどれほどいるのだろう、とちょっと気になるのである。
國分功一郎の『スピノザの方法』なら手放しで誰にでも薦めたくなる。
この野矢茂樹の『語りえないものを語る』は、薦める人も選ばなくちゃ、と思う、そんな感じだ。
どちらも私にとっては今年最大級の収穫です。あと1冊見つかったら、今年のベスト3は決まり、かな。
何がいいって、たとえば
「一般的に言って、ウィトゲンシュタインになんらかの哲学的学説を帰すことには慎重にならねばならない。(中略)そういうときのウィトゲンシュタインの通例として、とりあえずそれで行けるところまでいってみるという態度がある」
とか書いてあって、まあその指摘自体は、たしか『論理哲学論考』の後書きでも『青色本』の後書きでも繰り返し触れていることなのだけれど、そういう哲学の「文体」に対する言及がさりげなくしかも適切になされていて、それがこの文章では自らの文体についても適切な距離感が保たれている。
以前はウィトゲンシュタインを読んで「勘違い」する「そっち系」の輩を諭す感じがあったのに、それが影を潜めて、『水曜どうでしょう』的快楽に近くなってきた、とでもいうか(笑)。
それがなんともいえない文章の「タメ」をもたらしていて、読み終わるのが惜しいほどだったのです。
それは、デイヴィドソンを引用するにしてもグッドマンを持ち出すにしても、クワインに言及するにしても、バランスの取れた言及では必ずしもなく、筆者の文章と引用とが、たかも筆者自身が言及した「ウィトゲンシュタインの通例」のごとくに「タメ」のあるつきあい方をしていく、その「保留」したり「同意」したり「反論」したりする「間合い」が爽快で、とても気持ちがいいのです。
素人の私が読んでいても、必ずしも公平に引用されているのではないのかもしれない、と思う。
でも、それが分かる「公平さ」っていうのは、ちょっとない「公共感覚」なのです。
これは國分功一郎さんの『スピノザの方法』を読んだときのきわめてクリアな感じと通底しています。
もちろん、野矢茂樹さんの文章のクリアさとは同じじゃないんですがね。
野矢さんの方は見通しがいいクリアさではなく、その場の焦点距離の取り方や絞りの選択が的確、という感じ。
國分さんの方は、若い研究者の序論、って感じだから、もっと明晰に語れることを語るっていう方にウェイトがかかっている感じです。
哲学書を読んでいてこういう喜びの感覚を味わうのは、かつてはそう多くなかった。
20年前ぐらいになるだろうか、永井均の『子どものための哲学』(講談社現代新書)を読んだときかなあ、初めて味わったのは。つまりは、学説の話じゃなくて、素手で付き合ってくれる感じ、というか。
最近はこちらが年をとったせいか、手練れの書き手が現れてきたせいか、喜びの頻度が心なしか増しているような気がします。
実のところ、自分の置かれた状況(心境)が、哲学的文章を渇望するほど現実に躓いている、というのが実情なのかもしれないけれどもね。
ともあれ断然お薦めの1冊。
でもたぶん人を選ぶと思う。
安い本じゃありませんから購入にはご注意を(2700円)。
野矢茂樹『語りえないものを語る』(講談社刊)
がメチャメチャ面白かった。
講談社のPR誌『本』に連載されていたものの単行本。
(注の方が長くなった、なんて書いてあるけれど、それはもしかするとこの本の魅力の本質の一つかもしれません)
ヴィトゲンシュタインとかデイヴィドソンとかグッドマンとか永井均とか野矢茂樹自身の以前の著作とか、まあ「そっち系」の、かつて読みかじったり耽読したりした哲学者の言葉が、この著者の思考の歩みの中できれいに再配置されていき、それらが道々見えてくる風景とか標識とか里程標とかになり、かつその「遊歩」とでも言うべき思考の歩幅と相俟って、えもいわれぬ楽しさがココロのそこから湧き上がってくるのを押さえることができなかった。
楽しさを満喫しつつ、この本を読んでこんなに楽しいと思う人は世界でどれだけいるんだろう、とも、ふと思った。普通の本ならそんなことは思わないのに。
この相対主義とか独我論とか、言語と世界との関わりとか、どう考えても狭い路地に入っていく哲学っぽくもあり、同時に哲学プロパーには軽んじられかねない「ああそっちね」系のテーマでもある(ように感じられる)この領域を、こんな風な足取りで一緒に遊びながら歩いてくれる筆者がいることに、驚きつつ、果たして読者はどれほどいるのだろう、とちょっと気になるのである。
國分功一郎の『スピノザの方法』なら手放しで誰にでも薦めたくなる。
この野矢茂樹の『語りえないものを語る』は、薦める人も選ばなくちゃ、と思う、そんな感じだ。
どちらも私にとっては今年最大級の収穫です。あと1冊見つかったら、今年のベスト3は決まり、かな。
何がいいって、たとえば
「一般的に言って、ウィトゲンシュタインになんらかの哲学的学説を帰すことには慎重にならねばならない。(中略)そういうときのウィトゲンシュタインの通例として、とりあえずそれで行けるところまでいってみるという態度がある」
とか書いてあって、まあその指摘自体は、たしか『論理哲学論考』の後書きでも『青色本』の後書きでも繰り返し触れていることなのだけれど、そういう哲学の「文体」に対する言及がさりげなくしかも適切になされていて、それがこの文章では自らの文体についても適切な距離感が保たれている。
以前はウィトゲンシュタインを読んで「勘違い」する「そっち系」の輩を諭す感じがあったのに、それが影を潜めて、『水曜どうでしょう』的快楽に近くなってきた、とでもいうか(笑)。
それがなんともいえない文章の「タメ」をもたらしていて、読み終わるのが惜しいほどだったのです。
それは、デイヴィドソンを引用するにしてもグッドマンを持ち出すにしても、クワインに言及するにしても、バランスの取れた言及では必ずしもなく、筆者の文章と引用とが、たかも筆者自身が言及した「ウィトゲンシュタインの通例」のごとくに「タメ」のあるつきあい方をしていく、その「保留」したり「同意」したり「反論」したりする「間合い」が爽快で、とても気持ちがいいのです。
素人の私が読んでいても、必ずしも公平に引用されているのではないのかもしれない、と思う。
でも、それが分かる「公平さ」っていうのは、ちょっとない「公共感覚」なのです。
これは國分功一郎さんの『スピノザの方法』を読んだときのきわめてクリアな感じと通底しています。
もちろん、野矢茂樹さんの文章のクリアさとは同じじゃないんですがね。
野矢さんの方は見通しがいいクリアさではなく、その場の焦点距離の取り方や絞りの選択が的確、という感じ。
國分さんの方は、若い研究者の序論、って感じだから、もっと明晰に語れることを語るっていう方にウェイトがかかっている感じです。
哲学書を読んでいてこういう喜びの感覚を味わうのは、かつてはそう多くなかった。
20年前ぐらいになるだろうか、永井均の『子どものための哲学』(講談社現代新書)を読んだときかなあ、初めて味わったのは。つまりは、学説の話じゃなくて、素手で付き合ってくれる感じ、というか。
最近はこちらが年をとったせいか、手練れの書き手が現れてきたせいか、喜びの頻度が心なしか増しているような気がします。
実のところ、自分の置かれた状況(心境)が、哲学的文章を渇望するほど現実に躓いている、というのが実情なのかもしれないけれどもね。
ともあれ断然お薦めの1冊。
でもたぶん人を選ぶと思う。
安い本じゃありませんから購入にはご注意を(2700円)。