「汝自身を知れ」ということ
自己の身体に対する顧慮、など、若いときには考えもしなかった。
「養生」は明確に「老人」の必要悪にすぎない、そう思っていた。
死ぬときはあっさり死ねばいい、そう思ってきた。
つまり、精神=認識=時間超越的/肉体=顧慮(顧慮の他として)の対象=時間従属的
って感じで、頭の中や気持ちの中で追いかけるものだけを追いかけていたい、そう思ってきた。
むろん、玩具としての「モノ」に執着したり、ダイエットというゲームの対象としての「体重制限」などは繰り返し行ってきたことだ。
けれど、そういう二元論の中で、頭の中のこと優先で(欲望全般も、身体からではなく、頭の方優先で生きてきた)生活してきたような気がする。
「汝自身を知れ」っていうのはデルフォイの神殿に刻まれた言葉の一つとかいうものらしい。
数年前にフーコーの講義録の冒頭、そのあたりをぐるぐるミシェル・フーコーが書いていたのが印象的だった。
キリスト教以前のギリシャ哲学における「自己への配慮」と、キリスト教の禁欲的な「自己抑制」、そしてデカルトに至った「真理への欲望」=「精神優先」までを、西洋の哲学における大きな大きな流れの中で捉え直そうとする試み、なのかな。
(あまりよく分かってはいません、いつものことだが)
改めて
「汝自身を知れ」
について、最近考えている。
病気を治す、という現実的な要請なんだけれど、これがどうもうまくその「物語」に接続できないのだ。
自覚症状のある病気と自覚症状のない病気と二つの科をいったりきたりして検査と診察を受けながらカントの空間と時間が人間にとって決定的な二つの純粋直観だ、なんて本を読みながら、「自己の身体に対する配慮」を治療者から求められると、もちろん自分の身体なんだけれど、その身体に自分自身が隔てられていることをつくづくと感じてしまう。
いろいろとこのあたり、考えてみたいことがあります(この項ずっと続きそう)
自己の身体に対する顧慮、など、若いときには考えもしなかった。
「養生」は明確に「老人」の必要悪にすぎない、そう思っていた。
死ぬときはあっさり死ねばいい、そう思ってきた。
つまり、精神=認識=時間超越的/肉体=顧慮(顧慮の他として)の対象=時間従属的
って感じで、頭の中や気持ちの中で追いかけるものだけを追いかけていたい、そう思ってきた。
むろん、玩具としての「モノ」に執着したり、ダイエットというゲームの対象としての「体重制限」などは繰り返し行ってきたことだ。
けれど、そういう二元論の中で、頭の中のこと優先で(欲望全般も、身体からではなく、頭の方優先で生きてきた)生活してきたような気がする。
「汝自身を知れ」っていうのはデルフォイの神殿に刻まれた言葉の一つとかいうものらしい。
数年前にフーコーの講義録の冒頭、そのあたりをぐるぐるミシェル・フーコーが書いていたのが印象的だった。
キリスト教以前のギリシャ哲学における「自己への配慮」と、キリスト教の禁欲的な「自己抑制」、そしてデカルトに至った「真理への欲望」=「精神優先」までを、西洋の哲学における大きな大きな流れの中で捉え直そうとする試み、なのかな。
(あまりよく分かってはいません、いつものことだが)
改めて
「汝自身を知れ」
について、最近考えている。
病気を治す、という現実的な要請なんだけれど、これがどうもうまくその「物語」に接続できないのだ。
自覚症状のある病気と自覚症状のない病気と二つの科をいったりきたりして検査と診察を受けながらカントの空間と時間が人間にとって決定的な二つの純粋直観だ、なんて本を読みながら、「自己の身体に対する配慮」を治療者から求められると、もちろん自分の身体なんだけれど、その身体に自分自身が隔てられていることをつくづくと感じてしまう。
いろいろとこのあたり、考えてみたいことがあります(この項ずっと続きそう)