もう少し映画に沿った感想を書いておきたい。
映画の中の佐村河内守はそれなりにうさんくさい。
例えば、アメリカの雑誌記者が取材に来て、「目の前で作曲しろ」という。
その二人の記者午後にやってきて午前2時すぎまで取材を続けていたそうだ。
森監督もカメラを持ってそこに立ち会い、その様子を撮影している。
だが、佐村河内はその場で作曲をしてみせることはしなかった。
また、2014年大晦日の番組に出演して自分の言いたいことを言わないか、とフジテレビが出演交渉にやってくる(これもドキュメンタリーに撮影している)が、いろいろあって出演を断っている。
監督の言によれば、映画を観た知人から
「あなた(森監督)があの外国人記者のように質問しなきゃだめじゃないか」
と言われたそうだ。
作品の後半、名古屋在住の自らも聾者でありつつ支援をしている人のところに夫婦と森監督3人(スタッフも随伴していたはずだが)で尋ねる場面は、作品中数少ない部屋の「外」の場面で、ちょっとほっとする感じがした。
その人は、音が完全に「は」聞こえない聾者であっても音楽は聞くんだよ、といって、携帯型の音楽端末と補聴器をつなぐための器具を示してくれていた。つまり、障害にはグラデーションがあって当たり前だということ、症状は体調によっても変わるし、連続性(スペクトラム)を持ったものなのだということが示されていた。
記者会見で、「聞こえているじゃないか」声高に迫ったジャーナリストを、この人は厳しく批判していた。
後日、聾者の支援の現場を知っている人から聞いた話だが、聞こえるか聞こえないかには程度があって、しかし支援をする立場の人は「聞こえているかいないか」その程度を基本区別(差別)しない姿勢をとるんだよ、と教えてくれた。だから、佐村河内守の耳がある程度聞こえていること、しかし「感音性難聴」であれば聞き取りにくいということが当然にあって、奥さんの口話だから読みとりがすぐにできるけれど、他の人が相手だとよく分からないとかいうのは当たり前にあることだ、ということも。
さて、そんなこんなで最後ちかくの場面になるのだが、一つポイントになると感じたのは、「奥さん」の存在である。
最初私は、『FAKE』というシーンから奥さんを猫と同様、画面に映り込む日常の一部として、FAKEなるものの外部として受け止めながら映画を観ていた。
だが、映画を見終える直前になって、次第に奥さんの存在感が増すにつれ、奥さんが本当になにも知らなかった、(新垣氏との合作の実状などすべてについて)という話とか、それを初めて聞いたときの話とか、彼女の姿をスクリーンで観ていると、もしかすると(全く根拠はないのだけれど)彼女はどこかで佐村河内守氏の怪しさを既に(常に)受け止める形でこの何十年かを生きて生きてきているのではないか、と、ふと思うようになった。
繰り返すがもちろん根拠はない。そのことについて映画は全くふれていない。
彼女が佐村河内守の行動における「FAKE」性をどこまで知り、あるいはそれにどれほど関与していたのかも全く分からない。
だが全くなにも知らない、ということがあるのだろうか、と改めて疑問が心の中に広がっていくのを止めることができなかった。
それは、必ずしも夫婦そろって嘘をついているのだろう、という感想にはつながらない。
しかし、高校生ぐらいのころから佐村河内守本人を知っていて、彼がどれほどの音楽的訓練を積んでいるかいないか(佐村河内は、音楽の専門的教育を全く受けていない)そしてどれだけの音楽が作れるのか作れないのか、について、全く分からないということはどれだけ可能なのだろうか、と思ってしまうわけだ。
薄々気づいていたのではないか、とか、夫の音楽には基本全く関心がなかったのか、とか(そういう夫婦も稀ではない)いろいろ考えさせられてしまうのだ。
猫は間違いなくすべてを観ていて、しかしなにも知らないといえば知らない。
しかし彼女(奥さん)は猫ではないだろう。特に佐村河内守氏にとって奥さんの存在はとてつもなく大きいというのが映画を見た人は間違いなく感じるはずだ。
ゴシップ的な興味ではなく、映画全体が「猫」と彼女に向かって開かれているような手触りを感じた、ということだ。
もちろん最後まで佐村河内守という人はどこかうさんくさい雰囲気を醸し出してはいる。
映画の終わり方もちょっと意地悪だといえば意地悪だ。
だが、佐村河内守というキャラクターの撮影から始まった小さい枠組みの映画であるはずなのに、映画を見終えると、どこか茫漠とした広い荒野にたたされているような気持ちになってくる。
森達也監督が久し振りに撮ったというこの映画、観て損のない1本だ。
第一、ドキュメンタリーなのにぜんぜん眠くならないのだ(笑)。
真実を巡る「FAKE」の身振りほど、「人間」を引きつける題材はないのかもしれない。
映画の中に答えはないが、映画の外の世界の広さを指し示すベクトルなら、映画全体にちりばめられている。
それを味わうためにぜひ劇場へ。
この夏は『帰ってきたヒトラー』と『シンゴジラ』ぐらいは観ておこうかな。
映画の中の佐村河内守はそれなりにうさんくさい。
例えば、アメリカの雑誌記者が取材に来て、「目の前で作曲しろ」という。
その二人の記者午後にやってきて午前2時すぎまで取材を続けていたそうだ。
森監督もカメラを持ってそこに立ち会い、その様子を撮影している。
だが、佐村河内はその場で作曲をしてみせることはしなかった。
また、2014年大晦日の番組に出演して自分の言いたいことを言わないか、とフジテレビが出演交渉にやってくる(これもドキュメンタリーに撮影している)が、いろいろあって出演を断っている。
監督の言によれば、映画を観た知人から
「あなた(森監督)があの外国人記者のように質問しなきゃだめじゃないか」
と言われたそうだ。
作品の後半、名古屋在住の自らも聾者でありつつ支援をしている人のところに夫婦と森監督3人(スタッフも随伴していたはずだが)で尋ねる場面は、作品中数少ない部屋の「外」の場面で、ちょっとほっとする感じがした。
その人は、音が完全に「は」聞こえない聾者であっても音楽は聞くんだよ、といって、携帯型の音楽端末と補聴器をつなぐための器具を示してくれていた。つまり、障害にはグラデーションがあって当たり前だということ、症状は体調によっても変わるし、連続性(スペクトラム)を持ったものなのだということが示されていた。
記者会見で、「聞こえているじゃないか」声高に迫ったジャーナリストを、この人は厳しく批判していた。
後日、聾者の支援の現場を知っている人から聞いた話だが、聞こえるか聞こえないかには程度があって、しかし支援をする立場の人は「聞こえているかいないか」その程度を基本区別(差別)しない姿勢をとるんだよ、と教えてくれた。だから、佐村河内守の耳がある程度聞こえていること、しかし「感音性難聴」であれば聞き取りにくいということが当然にあって、奥さんの口話だから読みとりがすぐにできるけれど、他の人が相手だとよく分からないとかいうのは当たり前にあることだ、ということも。
さて、そんなこんなで最後ちかくの場面になるのだが、一つポイントになると感じたのは、「奥さん」の存在である。
最初私は、『FAKE』というシーンから奥さんを猫と同様、画面に映り込む日常の一部として、FAKEなるものの外部として受け止めながら映画を観ていた。
だが、映画を見終える直前になって、次第に奥さんの存在感が増すにつれ、奥さんが本当になにも知らなかった、(新垣氏との合作の実状などすべてについて)という話とか、それを初めて聞いたときの話とか、彼女の姿をスクリーンで観ていると、もしかすると(全く根拠はないのだけれど)彼女はどこかで佐村河内守氏の怪しさを既に(常に)受け止める形でこの何十年かを生きて生きてきているのではないか、と、ふと思うようになった。
繰り返すがもちろん根拠はない。そのことについて映画は全くふれていない。
彼女が佐村河内守の行動における「FAKE」性をどこまで知り、あるいはそれにどれほど関与していたのかも全く分からない。
だが全くなにも知らない、ということがあるのだろうか、と改めて疑問が心の中に広がっていくのを止めることができなかった。
それは、必ずしも夫婦そろって嘘をついているのだろう、という感想にはつながらない。
しかし、高校生ぐらいのころから佐村河内守本人を知っていて、彼がどれほどの音楽的訓練を積んでいるかいないか(佐村河内は、音楽の専門的教育を全く受けていない)そしてどれだけの音楽が作れるのか作れないのか、について、全く分からないということはどれだけ可能なのだろうか、と思ってしまうわけだ。
薄々気づいていたのではないか、とか、夫の音楽には基本全く関心がなかったのか、とか(そういう夫婦も稀ではない)いろいろ考えさせられてしまうのだ。
猫は間違いなくすべてを観ていて、しかしなにも知らないといえば知らない。
しかし彼女(奥さん)は猫ではないだろう。特に佐村河内守氏にとって奥さんの存在はとてつもなく大きいというのが映画を見た人は間違いなく感じるはずだ。
ゴシップ的な興味ではなく、映画全体が「猫」と彼女に向かって開かれているような手触りを感じた、ということだ。
もちろん最後まで佐村河内守という人はどこかうさんくさい雰囲気を醸し出してはいる。
映画の終わり方もちょっと意地悪だといえば意地悪だ。
だが、佐村河内守というキャラクターの撮影から始まった小さい枠組みの映画であるはずなのに、映画を見終えると、どこか茫漠とした広い荒野にたたされているような気持ちになってくる。
森達也監督が久し振りに撮ったというこの映画、観て損のない1本だ。
第一、ドキュメンタリーなのにぜんぜん眠くならないのだ(笑)。
真実を巡る「FAKE」の身振りほど、「人間」を引きつける題材はないのかもしれない。
映画の中に答えはないが、映画の外の世界の広さを指し示すベクトルなら、映画全体にちりばめられている。
それを味わうためにぜひ劇場へ。
この夏は『帰ってきたヒトラー』と『シンゴジラ』ぐらいは観ておこうかな。