龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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第17回エチカ福島「水俣の漁師たちと出会う夜」(2023年11月27日(月)

2023年10月26日 08時34分25秒 | 大震災の中で
今回は、第12回に続いて、水俣の方を招いてお話をいただき、その後参加者との討論をします。
詳細は以下の通りです。
平日、しかも福島市での開催になります。前日にはいわき市で別団体でのイベントも開催されるはず。
よろしかったら連絡先までご予約を。


イベントの詳しい趣旨・内容は、下記(エチカ福島を共同でやっているメンバーのブログです)まで。



映画『生きる』 大川小学校 津波裁判を戦った人たち を観てきた。

2023年03月25日 21時39分34秒 | 大震災の中で

フォーラム福島で、

『生きる』 大川小学校 津波裁判を戦った人たち

https://ikiru-okawafilm.com/

を観てきた。
たくさん涙を流しながら見た。

小学校で亡くなられた児童の遺族の方々の、

「本当の最後の様子を知りたい」
「他にも津波被害を被った学校はたくさんあるのに、大川学校なぜ子どもたちが亡くならねばならなかったのか、その本当の理由が知りたい」

その真っ当な願いと、当時の校長(出張に行っていて無事だった)・市教委・石巻市長などの態度との間にある、おそろしいまでの乖離に言葉を失った。

短くない教員経験をそこに重ねてみると、校長出張時に起こった大災害に対応する場合、教頭がリーダーシップをとる必要があるだろう。

とくに、教務主任の先生をはじめ先生方の中には山に避難すべきだと主張していたというし、映画でも、子どもたちの中でもそういう声は出ていたのではないか、というシーンもあった。

それなのに、50分近く経っても山への移動ができなかったのは、管理職の制止があったとみるべきだろうと容易に推測ができる。

そのことを、アフタートークに来てくださったご遺族の方に問いかけたところ、

たしかにそういうこと(教頭が山へ移動する決断をしなかったということ)はあるだろう。
ただ、教頭が誰の指示も仰がなかったのか、と考えた場合…………

というお話もあった。

なるほど、と腑に落ちた。
本当のことは裁判でも十分には明らかにされていないのだ。

学校は子どもたちが命を落とす場であってはならない、という判決のことばは重い。
自分は果たしてそのことを十分に考えて生徒と向き合ってきたのか、といえば決して十分ではなかったといわざるをえない。
自問しつづけなければならないことはたくさんある。

だが、それにもまして、誠実さのかけらもなく、また信頼を前提としない当時の校長、市教委、市長、そして第三者検討委員会のそらぞらしい(と私には感じられる)応対の全てには、心が凍えた。

裁判記録は別にまとめられていると聞く(書籍化されているとのこと)。

映画の最後の部分、もしこの画期的な判決がなければ、大震災によってこれだけ多くの方々の命が奪われたのにもかかわらず、そのことの意味や原因が十分に問われることなく終わってしまう、ここから初めていかなければならない、という記者会見の言葉が身体に染みてくる。

弁護士の方々が繰り返していた「困難な裁判だ」という言葉の重さも改めて厳しいものだと思わされる。

「本当は裁判なんてやりたくない」

という遺族の方々が口にする言葉もまた、深く、重い。

とうてい受け止めきれないが、忘れないために当日のまとまらない感想をとりあえず書いておく。

 

 

は市教委か校長に打診をする

 


岩田靖夫『神なき時代の神』を読む

2022年03月16日 22時09分58秒 | 大震災の中で

岩田靖夫『神なき時代の神』を読む

を読んだ。

レヴィナスは、近年ケアのシーンで参照されることの多い哲学者、との印象がある。
他方、スピノザを批判しているということでも名前は出てきている。
もう一つは「他者論」というか絶対的な他者についての論(そこにユダヤ教の思想が加わる)、というイメージもある。
今回、ケアにおけるレヴィナスという理解の目標は一つありつつ、また遠回りしてスピノザのコナトゥスとレヴィナスの関係の論文(河村厚氏)を読んだところからの興味もあり、ちょっと手に取ってみた。

今回のレヴィナスの本丸は主著の一つ『全体性と無限』を小手川正二郎さんの『蘇るレヴィナス』をガイドに読んでみるということ。

そしてそこからさらに『個と普遍 レヴィナス哲学の新たな広がり』の第二部「レヴィナスとケアの倫理」を理解しようというもくろみもある。

その上で、自分はなぜスピノザが読みたいのか、って話になればいいのだけれど、どんどん遠回りしていく気も、する。


岩田靖夫氏のレヴィナス論は、二つの軸に拠っている。

一つはキルケゴールの神様のいる方の実存主義からの切り口。
もう一つはユダヤ教における苦難というか、シビアな神様の絶対他者との関係。

私にとってはとても興味深かった。
ただ、キルケゴールの話はいちおう実存主義の早わかり的には理解できるけれども、ユダヤ教の記述についてはへーそうなんだー、と読むしかないので、ちょっとこのエッセイ風の岩田氏の文章では、レヴィナスの勘所というより、岩田氏の読解というか積み重ねられた深い理解の様子、が見えてくるということになりそうだ。

 

勝手な理解の範囲で言えば、第二次世界大戦の全体主義によるユダヤ人虐殺を辛くも生き延びた著者にとって、他者、そして他者の顔と向き合うという主題は、存在とか自己とか認識とかいった西欧哲学の形而上学を切り崩して戦いながら思考する必然があったのだろう……と推測する。
その厳しさ、激しさは簡単には想像できない。

ただ、『全体性と無限』を読み始めてみると、佐藤義之氏『レヴィナスの倫理』や岩田氏のこの本は、私にはまだ早い、という感じもしてくる。レヴィナスはキレイに説明されるだけじゃ足りない、って熱い感じが本文の中に渦巻いている感じがする。自分でレヴィナスを読んでみるってことも必要だなあと。

ちなみに、先達から勧められている熊野純彦『レヴィナス』岩波現代文庫

は、一度通読したはずなのに、ほぼ覚えていない(苦笑)。
もう一度おさらいもしておこうかな。そしてこの作業が終わったら、「倫理」についてもなんか勉強しないといけないかなあ。
読む本は無限に湧いてきますね。

でも、とりあえず主著の一つに挑戦したいという思いと、当面の主目的の一つである『個と普遍 レヴィナス哲学の新たな広がり』を早く読みたいので、頑張って勉強してみようと思う。

 

 


読むべし(その1)河村厚氏の 『存在・感情・政治-スピノザへの政治心理学的接近-』

2022年02月21日 07時00分00秒 | 大震災の中で
読むべし!
河村厚氏の 『存在・感情・政治-スピノザへの政治心理学的接近-』

もちろん、スピノザに関心がなければほぼ読者になることはないと思う。
だが、私にとっては関心のど真ん中でした。
木島先生、紹介していただいて感謝です!

わたしにとってのポイントは三点。

①コナトゥスについてのわかりやすい説明
②スピノザにおける垂直因果と水平因果の説明
③レヴィナスのスピノザ批判への応答

この3つをこんなに懇切丁寧に説明してくれる本とであえるなんて!
ありがたい。学問をされている方への尊敬を改めて感謝です。

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以下はまとまりのないメモです。

後でまとめますが、ぐだぐだととりあえずのメモの前半です

何がいいって、まずスピノザが繰り返し論じている「コナトゥス」という基本的な語彙について、素人にも分かるように丁寧に論じてくれている点がありがたい。

入門書の多くは、神のみが自己原因であり唯一の実体である、なんて説明をしてくれるんだけれど、これが見事に分からない。

「禅問答」とでもいうなら、まだ「禅」というのが言語を超越した悟りをめざすもの、みたいなざっくりした認識はあるから、訳の分からない話があっても、その訳の分からなさの前提は把握できる。

しかし、いきなり神が唯一の実体だとかいわれると、
「神しかいないんかーい」
となってしまう。
キリスト教やユダヤ教のような超越神じゃない神、って説明を受けても、じゃあどういう神?となる。

そしてスピノザは汎神論だとも合理論で無神論者だとも言われ、ますます意味が分からなくなる。

最初にスピノザを読んだのは『デカルトの哲学原理』だった。
合理論とか汎神論とか言われているスピノザが、デカルトの神の存在証明を説明している、というので手にとってみたのだが、まあ本当に分からない。
神の存在証明とか屁理屈にもなっていないとしか思えなかった。
今にして思えば、禅問答を字義通りたどれば屁理屈にもならないのとおなじようなもので、こういう原理論とかいうのは言わば論がそこから発射されるカタパルトのようなものだ、と考えた方がよいのかもしれない、と思い始めてから、イライラしなくなった。

つまり神が唯一の実体だっていうのは、この世界=神という話に近くて、実際スピノザは
「神すなわち自然」
ともいっている。

キリスト教やユダヤ教のような私たちの理解を超えた、超越している(外部にある)唯一絶対神ではなく、スピノザのいう神は内在神らしい。

全ては神の中にある、というか、我々は神の一つの「表現」だ、みたいな話になる。
というか、私たちの中にも神はいる?

いや、神様がいるとかいないとかそういうOSを走らせている限り、スピノザの話は全く入ってこないのだなあ、とスタートラインに立つまで数年はかかったような気がしている。

しかし、神といわず「自然」とか「環境」とか言い換えると、スピノザの考え方はちょっと分かりやすくなる。

スピノザは徹底的に「自然主義」の哲学だ。
全ては自然の摂理に従って合理的に動いているのであって、私たちは自然のもたらす必然を生きている、という。
合理的とはいっても、これがまたいわゆる近代の「科学的合理性」とは異なる因果関係のことなんだけれど、これもまたいわゆるふつうの原因と結果とは違うらしい(よくわかんないけど)。

というわけで、現代のOS(ものの見方や考え方の前提)ではなく考えていかねば理解できない。

そんなこんなで、スピノザの言う「コナトゥス」(自己の存在を維持しようとする努力・傾向性)というのもずーっと今一つ腑に落ちないままだった。

それが、この河村厚先生の本で、疑問氷解。

スピノザの『エチカ』や『神学政治論』を踏まえながら、諸説の整理をしてくれつつ全体像を丁寧に提示してくれている。

もうこれは読んでもらった方が早いのだけれど、一点だけ書いておきたいのは、レヴィナスのスピノザ批判を吟味して、見かけ上対極的な立場にあるように見えるスピノザとレヴィナスが、実はある部分ではかなり近接した場所に立っているのでないか、というところが本当に私にとっては胸キュンのストライクでした。

なにせ直前に村上靖彦先生(レヴィナスの研究者であり、当事者研究に関心を持って活動されています)と餃子を食べつつ、私が感動した『自閉症の現象学』という村上先生自身の本を自己批判しているお話を直接伺った後だったので、厳しいスピノザ批判をしていたレヴィナスが、どんなにスタンスで物事を考えていたのか、がちょっと前よりも分かってきた実感をもてたのです。

レヴィナスは、スピノザには「疚しさ」がないという。コナトゥスを哲学の基礎に据えているスピノザからは、絶対的な自己肯定しかでてこない。
レヴィナスは
「存在しているだけで他人の場所を不当に占拠してしまっているのでなないか」
という懸念について論じ、その立場から言うとスピノザは徹底的にエゴイスティックで倫理なんぞありゃしない、というのですね。

実は私もスピノザは実はそうではないとは分かっていつつもなにかうっすらと「マッチョ」なところがあって、論の展開が今一つついていけないところを感じていて、そうか、レヴィナスが指摘してる点はなんかあるよなあ、と合点がいったところがあった。

村上先生も、『自閉症の現象学』はどこかしら自閉症の方を上から目線で分析してしまっている側面があるのではないか、そのことによって対象とする方々を傷つけているのではないか、といっておられた。
なるほど、これは間違いなくスピノザでななくレヴィナスだ!
と思った。

他方、スピノザ研究者のである國分功一郎先生も、中動態という切り口から当事者研究に深い関心をもって研究をされている(『責任の生成』)

レヴィナスは徹底的に受動的受苦的な場として自己を捉え、倫理を存在の彼方に求めるのに対し、スピノザはコナトゥス(自己を維持し活動しようとする努力)を根本に据えてあくまでも肯定的にとらえようとする。個体はコナトゥスの表現(神の力の発現みたいな)だから何一つかけていないという。それは絶対的に良いことだというのだ。ただし、自分で何か恣意的に自由ワガママにいきられる、というのでなない。むしろその逆で、神の力の発現としてそーゆーふーにできているのだから、自由とはその神=自然の摂理にしたがうことだ、というのだ。


レヴィナスとスピノザ、一見まったく対極的だ。前者は存在の彼岸に倫理を見ようとし、後者は善悪の彼岸に倫理をみようとする。

でも、って話です。

今、何一つまとまらない形でメモしているので、改めて書きます。

河村厚のコナトゥス論、レヴィナス批判への応答、垂直因果と水平因果の概念の説明、この3つはほんとうに出会ってよかった!ということだけ、今日は書き付けておきます。













もう一つの『大怪獣のあとしまつ』論

2022年02月07日 12時26分50秒 | 大震災の中で
こちらはあまり面白い話にはならなくて、野暮といえば野暮なのだろうけれど、ブログに書きつけておいた方がいいと思うので、敢えて書いてみる。

以下、ネタバレありです。



機械仕掛けの神というキーワードがある。
deus ex machina

調べてみると、ギリシャの作劇法の一つで、話が錯綜して収拾のつかなくなった状態に対して、仕掛けによって舞台に神を降臨させ、強引に大団円に導くこと、というような意味らしい。

これが脚本・監督の提示したフレームなのは明らかだ。

敢えてしっちゃかめっちゃかなパロディにもならないような錯綜を描き、最後に帳尻合わせのように作為的な神によって事態を救抜する、というフレームは、最初から提示されている。

やはりこれは、徹底して中途半端を演じる現実たちのパロディそのものであり、その責任があるとしたら、帰責されるべきはむしろリアルの側、なのだろうと思う。

それに対して、作品のギャグが中途半端だ、とかいうのはいくらなんでもちょっとどうなんだろうね。

deus ex machina

は監督の悪ふざけに近い現場不在証明に過ぎない、と人はいうだろうか。
しかしこれは冒頭にある首相のメモと結末に描かれるウルトラマンの影との呼応の枠組みとして、大真面目にあらかじめ提示されている。

現実における原発事故以後の東電と政府のドタバタは、むしろこの映画以上に悪ふざけに近い現場不在証明そのもの、であり、そして驚くべきコトにそれが現実であるが故に、結果としてあまりにもシュールなところに私たちを知らぬ間に(今もなお)横滑りさせ続けているといっていいだろう。

だから、この映画は、その現実が演じ続けている「舞台というスカート=劇場」の裾を、ちょっとだけめくってみた、ということにほかならない。ある意味では「リアリズム」に近いといってもいいだろう。

れが成立するためには、山田涼介と土屋太鳳の二人(ある面では濱田岳も、かな)は、大真面目に狂言回しをしなければならなかった。

だから

「福島に住んでいて、ごねるのは結局『金目でしょ』(by石原伸晃)といった政治家の、パロディにもならない悪い冗談を押しつけられ続けた者でなければ分からない」

なんて皮肉の一つもいってみたくなろうというものだ。

望むなら、そして敢えていうなら

「この映画に感動してしまうほどかわいそうだっだんだね」

という憐憫を頂戴してもよい(笑)

だがでは、知性は、あるいは理性は、どこで発動しているのかな?

そんなことを逆に問うてみたくなる映画だった。

傑作とは言わない。まあ問題作ではあるのだろう。

しかし、福島で観たこの映画は、私にとって大きな意味のある作品だった。

批評にもなっていないかもしれないが、とりあえず書き付けておく。



届いた!『存在・感情・政治-スピノザへの政治心理学的接近-』河村厚

2022年02月06日 07時00分00秒 | 大震災の中で




注文していた河村厚氏の
『存在・感情・政治-スピノザへの政治心理学的接近-』
が届いた。
木島泰三先生に紹介してもらった河村厚氏の論文集だ。
「政治心理学」という学問のカテゴリーがよく分かっていないので、正直ぴんとこない。河村氏が引用している『政治論』(岩波文庫によれば『国家論』)第一章第四節のこの部分

「私は、人間的諸感情、たとえば愛・憎・怒・嫉妬・名誉心・同情心および他の様々の激情を人間の本性の過誤としてではなく、かえって人間の本性に属する諸性質として観じた。これらのモノはたとえ不快なものであるとしても、やはり必然的存在てあって、一定の諸原因を有しており」
というところから政治や社会を考察し、そのことに精神の喜びを感じる、というスピノザに賭金を張ってみたいという感じだ。

まあ、果たして「政治心理学」がなんぼのものかは、読んでみてのお楽しみだが、河村厚氏の営為はまことに興味深い。
読み物ではないので簡単に読了、というわけにはいかないが、しばらくこの本とおつきあいさせていただきつつ、考えてみたい。

とくに、レヴィナス批判に(スピノザに代わって)応えているところ、コールバーグとスピノザにおける「臨床」の問題など、ワクワクしそうなテーマが後半には並ぶ。

じっくり読み進めてみたい。

感想は後日!

木島先生のご紹介に感謝しつつ。


【重要】311子ども甲状腺がん裁判弁護団の抗議声明を読む

2022年02月05日 12時09分56秒 | 大震災の中で

この抗議声明は、福島に住む若者とその保護者にとって深刻な課題を含む。

3.11以後の福島における「核災害」による甲状腺がんの不存在を主張し続ける者たちは、その理由として、一斉スクリーニングによって若者の体において次々に発見された甲状腺がんは、過剰な診断によるものであり、過剰診断を止めれば不幸は消失する、という論理を白昼堂々と展開している。

つまりは検査を止めればよい、というのだ。「核災害」によって福島県の若者たちに甲状腺がんが発生したという科学的エビデンスはない、というわけだ。

そして、核災害によって甲状腺がんが、発生したという言説は風評被害だ、というのである。

これが政府や自民党によって支持されているからこそ、元首相たちが福島県で若者の甲状腺がん被害が発生した、と主張することに大反対が起こっているわけだ。

検査などしないことによって核災害の被害者ではないという「日常的な幸福」が得られるという論理はどうみても怪しい。

①核災害を起こした側(政府や自民党)が、
②核災害によって被害を受けたかもしれない人々に対して、
③声高に安全を主張する、

ということ自体がすでに倫理的な疑問を抱かせる。

一つの問題は、ここで利用されている「過剰診断ゆえの過剰(無用の?)な甲状腺がん発見」という科学的エビデンスが、はたしてどれほどのモノなのか、ということについて、科学者の間でも十分なコンセンサスが得られていないという点にある。

おそらくこれは、長期にわたる研究と観察を待たねばならないだろう。

まだその科学的主張には決着がついていないのに、片方の主張を、問題(核災害を原因とする甲状腺がん)がないという結果が都合の良い人たちによって声高に主張されているというのが本当に腹立たしい。

まず、なぜ検査が行われたのか、が問われるべきだし、また、それは短期的に結論がでることではない、ということも明らかな話だ。

過剰診断ゆえに見つけなくてもよいガンを発見してしまい、結果として若者を苦しめた、という医療者側の苦渋の声をきくこともある。それはそれで個人としては「誠実」なつもりなのだろう。
これはその部分だけを切り取るならば、心情的にわからないでもない。しかしそれは所詮医療者側の自己救済の欲望にすぎない。

重要なのは、核災害がおこって、その結果若者の被曝が懸念され、甲状腺がんの悉皆検査が実施されてきた、という経緯だ。
はたして、ここに存在する倫理的課題を、科学的エビデンスがあると主張する「過剰診断」論で解消できるのかどうか。
診断の結果、経過を見ればよい手術不要な岩が発見されたなら、そのエビテンスを患者と共有していけば、よいのではないか。

実は、核災害なり診断なりその結果なりをおそれているのは、実は検査を受けた若者とその保護者(だけ)ではなく、むしろ検査そのものを恐れているのは、核災害の責任や、検査をした責任を背負いたくない大人たちなのではないか?
という疑問がどうしても起こってくる。

科学の仕事は、権力の片棒を担ぐことではない。
だが、科学と技術は、その倫理を失ってしまった。
科学的エビデンスと倫理は、現代においては倒錯した科学神話として結びつけられてしまっているにすぎない。

科学には分かるところまでしか分からない。科学のスケールには私たち人間のいきる営みを裁断できる力は存在しない。

「核災害」についての科学的エビデンスは、試験管の中ではなく自然の中で起こった「この災害」において、限定的な意義しかもちえないだろう。
ことは倫理的な側面を必然として抱えることになる。
限定的なスケールによって導き出された限定的結論に人間を当てはめるのはそろそろ止めた方がいい。

断っておくが、科学的エビデンスの外側に人間の倫理がある、という話ではない。話しはその逆だ。
エチカの下に、科学は語られねばならない。そして科学的な判断はそれ自体が意志であり、様々多様な力のかかわり合いによってその判断もまたなされていく。限定された様態に過ぎない科学的エビデンスに、神話を招き寄せるような愚かな振る舞いを、人はいつまで続けるのだろうか、という話だ。

この弁護団の抗議声明に、理性の適切な働き、すなわち倫理をみるのは、別にスピノザ好きの私だけではあるまい(苦笑)。






河村厚:『エチカ』におけるコナトゥスの自己発展性とその必然性について

2022年02月03日 13時58分38秒 | 大震災の中で

木島先生に紹介されて、

河村厚氏「『エチカ』におけるコナトゥスの自己発展性とその必然性について」という論文を読んだ。

http://hdl.handle.net/11094/10353

スピノザにおける垂直的な因果と水平的な因果のお話なのだが、これがすこぶる面白かった。

まあ、神様なんていない、と普通に考えている人にとっては、垂直的因果、なんて話をされても挨拶に困るのが当然だろう。スピノザの神は超越的な人格神ではなく、神=自然=摂理だ、なんていってみたところで、じゃあなんで「神」なんてうさんくさい語を使うのさ、となって終了かもしれない。

だが、一見逆説的な話になってしまうかもしれないのだけれど、東日本大震災および東京電力福島第一原子力発電所の事故によって引き起こされた「核災」についてずっとこの10年考えてきて思うのは、「倫理」について考え続けようとするとき、スピノザのような存在の肯定の仕方が根底に必要なのじゃないかということだ。

平たくいえば、人間は自分で自分を維持し、より良く生きようとするエンジンを持っているのだけれど、神ならぬ限られた資源しか持たない我々は、外的な要因によってあちらに飛ばされこちらに小突かれしながら、まあそれでも自己に固執する力、行為へと向かう力を内在的に持っている。普通は外的要因と内在的な自己保存の力の均衡の中で、なんとかやっているわけだ。

だが、それだけでは足りない。福島で起こった「核災」を目の前にするとき、誰かの「悪しき意志」によってその災害が起こった、という理路だけではどうにもこうにも収まらない思いを抱くのだ。こういうと、東電や政府の「意志」と「責任」を追及すべきときに、何を言っているんだ、と言われてしまいそうだ。
確かに、東電や政府、そしてこんな惨状をもたらすことになる原発プラントを誘致した人たちの責任を問わねばならないことは言うまでも無い。

そんな場面でスピノザの必然とかコナトゥスとか、寝言は寝て言え、と言われるのもまあ分かる。

実際いたるところでそういうことは謂われ続けている(苦笑)。

だが、考えているのは天から降ってくるような「形而上学的」な哲学の体系のことではない。むしろ、実際の場面にあって、自分の内と外でせめぎ合ったり絡み合ったりしながら力が交錯しつつ、その上で「より良く生きる努力」を諦められないというその現場にふさわしい「実践の哲学」はありえないのか?そういう疑問からついついスピノザという言葉を口にしてしまうのだ。


そういう意味で、この河村厚氏のコナトゥスについての「自己発展性」と「必然性」の議論はとても興味深かった。

こう書きつつも、「それって結局単にエゴイズムを垂れ流しに肯定してるだけで、倫理とかとほぼ関係ないじゃん。しかも自由意志はないとか必然とか、運命論かよ!」

という突っ込みも来るんだろうなあ、とも思う。
だが、とくに論文の注16,17の指摘に私は個人として希望を抱く。抱かずには居られない。
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16ただし理性人にとっての「自己利益」とは受動人のそれとは質的に異なるものであり、そこからは「利他
的行為」や「社会形成」の可能性が生まれるようなものである(E/IV/35C1,37・S1,71D,Ap4)。

17 (前略)スピノザ自身は、「受動感情に隷属する無知なる者」は自己自身を知らないままに自己保存を 行っているが、「理性的人間」は自己自身を十分に知った上で自己保存を行っていると考えている(E/IV/56D)。後者の自己認識には、「共通概念」による、自己と自己以外のものに「共通なもの」、つまり自己にとって有益なものの認識も含まれる。ただし自己の「個別的本質」を真に認識するには「直観知」 を待たなければならないであろう(E/IV/D1,30,31,V/24,25D,36S)。

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「直感知」の話も聴きたい!と思ってしまった。


木島泰三:「 スピノザによる必然主義からの目的論批判と、その古代エピクロス主義との親近性」を読む。

2022年02月03日 12時59分53秒 | 大震災の中で

木島先生のこの論文はとても読みやすかった。
「「 スピノザによる必然主義からの目的論批判と、その古代エピクロス主義との親近性」

「目的論批判」について『自由意志の向こう側』で頭の訓練をしていた、ということもあるのだろう。すんなり納得できた。
もちろん、ストア派と古代エピクロス主義については、木島先生の記述の範囲でしか分からないから、「へー、そうなんだ」という理解ですけど(笑)。

目的論的な思考は、今の自分にとって強く警戒すべき傾向性だと感じている。

何か外部に「善」や「悪」、あるいは「誰か」あるいは「何か」超越的な存在を措定しようとする思考は、未だに強い力を持って私たちの言葉や行為を不自由にしようとしてくる。ただ、それに対して

「自由な意志」

をもって対抗しようとしても、どうもうまくいかないような気がする。

少なくても、「個」の自由意志を措定するだけでは「倫理」は十分に語ることができない。

語りたいのは「倫理」なのだが、そこにたどり着くまでにはまた道のりが遠い。
そのワンステップとして、勉強になる。遠い道のりですけどねぇ。

 

 


木島泰三「スピノザにおける観念とコナトゥス」Ⅰ~Ⅳを読む

2022年02月03日 12時59分53秒 | 大震災の中で

木島先生の論文4本を読んだ。

スピノザにおける観念とコナトゥス1~4
http://doi.org/10.15002/00022414
http://doi.org/10.15002/00023064
http://doi.org/10.15002/00023464
http://doi.org/10.15002/00024071

1番目の論文において木島氏は
「意志と知性は 1 つの同じものである。」(岩波文庫版『エチカ』第2部定理49の系(P187)
を引用しつつ、スピノザが「決定論的な判断の意志説」を取っていると論じている。

たぶんスピノザに関心がない人にとっては、間違いなくなんのこっちゃ、ということになる。
しかし、「自由意志」に関わる幻想が未だ世の中を満たしている2022年初頭の現在、この「判断の意志」という考え方は、私の瞳にはむしろ魅力的に映る。

ただ、そこだけ拾ってみているだけでは、空中戦というか哲学的な「解釈」に関わる遠いお話に感じられる面もある。

思惟と延長、つまり思考と物体というか、精神と身体というか、その二つがどう関わっているのか、について突き詰めて考える必要があるのは間違いない。

マジンガーZのように、人間精神が身体や物質の「操縦者」というか「判断と意志」を持ったプチ神様として振る舞うという二元論的な図式を引きずっている限り、「自由意志」の問題はなかなか厄介なところをぐるぐる巡ってしまう。

倫理的、という言葉がどんな範囲でどんな事柄を指し示すのか、もはっきりとは分からないけれど、存在し続けること、行為に向かうこと、そのことを根源的に肯定すること……スピノザの哲学がそういう場面で役に立つとするなら、そこから「倫理」について考えを広げ深め得るのではないか。
ずっとそんなことをぼんやりと考え続けている。
木島先生の論文が、その辺りに光を当ててくれるのではないか、と期待しつつ、続きを待ちたい!

 

 


直ちに読むべし、上間陽子『海をあげる』筑摩書房

2022年01月22日 07時00分00秒 | 大震災の中で


『海をあげる』上間陽子

を読んだ。著者についてはこちらを参照されたい。


彼女の厳しく優しく切なく苦しく、そして力に満ちたコトバを全身で感じる。そういう受け取り方以外にないエッセイだ。
今ここにいる自分のコトバの根っ子を問われていると感じる。
それはこのエッセイのコトバが、自らその汲み上げられてくる根っ子の場所に対して、瞳を一瞬も逸らしていないからだ。その場所から湧いて出る、あるいは絞り出される静かなコトバたちに、わたし(わたしたち)は向き合うよりほかにない。

ああでも、「ほかにない」、というと強制された感じになってしまうなあ。

そうではないのです。

この本が書かれたことに感謝せずにはいられない。と同時に、上間陽子の仕事から目が離せない、とも感じる。わたしが、私自身のコトバの根っ子のことを突き詰めて考えなければならないのだ、というところに立たされる。

強制や受動ではなく、私の中からこのエッセイのコトバに、呼応しなければ、というコトバが出てこようとするのだ。
だが、それは容易なことではない。厳しい、とは、そういう意味だ。
上間陽子のコトバは厳しく優しく静かでなにかに満ちている。
それは単なる力、ではない。

次はこの人の
『裸足で逃げる』を読まねばなるまい。



『スピノザの自然主義的プログラム』を読む

2022年01月18日 07時00分00秒 | 大震災の中で


課題になっているわけでもなく、頼まれもしないのにスピノザに関わる本を買い続けかつ読み続けるのは悪い趣味かもしれないし、あるいは軽い依存なのかもしれないとも思う。

実際、もし木島泰三氏の本を読むなら
『自由意志の向こう側』

の方が一般書としてはおすすめだ。

しかし、この本は興味深い。
まだ半分しか読み終えていないが、因果について、
「水平的因果」
「垂直的因果」
に分けて説明する枠組みが特に関心を惹く。

水平的因果とは平たく言うと私たちが出来事について原因と結果の因果関係を理解する枠組みだ。いわゆる普通の因果関係とみてとりあえずはよいだろう。

それにたいして垂直的因果とは、内在的原因、本性的原因があって、その結果として生まれる「自動詞的な」現れのことを指す。

前者に比べて後者はなんだか歯切れが悪そうだが、それはおそらく私の理解の限界で、端的に言うと、「神様」は外部に原因を持たず(これは神様以上に偉いものがないから自明)その神様由来のもの、というのがひとつの範例になるのだろうか。
まあしかし、神様を
設定しなくても、内在的原因は設定しうるし、それは必要な視点でもある。
これ以上は面倒な議論になるからざっくりと理解したところをメモするにとどめるけれど、水平的因果だけでは世界の因果を記述するには不十分だっていう流れなんだろう。

ここに重要なポイントがある。
ここからはこの本から触発された思いつきになる。
つまり垂直的因果、内在的因果を考慮にいれる方が、水平的因果、出来事の因果関係だけで世界を見つめるよりも、よりよく私たちの「自由」を生き延びさせることができるのではないか、という提案がここにある。

意志を設定する方が自由を確保できるじゃないか、という反論は当然あり得る。

しかし、一方に出来事の因果関係を認め、他方で自由意志を設定するだけでは、私たちは十分には自由になれないのではないか。

むしろ(何か命令をして人を束縛しかつ支えるような人格神は論外だが)今問題になっているのは、水平的な因果の大きな波に飲まれて、本当には自由を確保できていない「自由意志」の小舟に乗せられた私たちの困難、なのではないか?

今更、神様(あるいは大きな教理や信仰)に依拠して何かを決定することはもちろんできない。
しかし単なる運命論に組するのもいかがなものかと思われる。

とはいえまた、むやみに自己決定とか自由意志とか言われても、挨拶に困るのが実情では?

この不自由な世界において、なおも自由を構想しうるとしたらいったいどんな形で、なのか。

そういうヒントをもらえるなら、という思いでスピノザを読み続けている。

そんなやり方は偏っている、のかもしない。

一見ありもしない「本質」(神様とか本来性)を自分の中に発見しようとするムダな努力、とも見える。

だが、神様や本来性からの疎外を主題とするのではなく、また外在的な要因に自己を馴致させていくのでもなく、自分の中の傾向性をいつも感じながら、外に吹く烈風や大波に対しつつ、この船(のような私)を航行させていく術がどこかにないのか、と考え続けていきたい。

そういうことを考えるためにはとても愉しい論文だった。
内容の理解はさておき。

繰り返しになるが、一般書としては

木島泰三『自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史』講談社選書メチエ
がオススメ。
その前提となるスピノザについての論文がこちら、ということですね。

私はここ(スピノザの周辺をうろうろすること)からいつも「エチカ(倫理)」ということの意味を考える。

明晰判明な水平的因果の範囲内では「倫理」など語り得る余地はそもそもないのではないか、という気持ちを持ちつつ、そでもなお私たちが語り得るコトバの中には、水平的因果に止まらない「力」なり「傾き」があると言う確信は揺らがない。

それは表現の問題なのか。
表現とは果たして主体を前提とするのか?
そんなことも考えさせられる。




國分功一郎と一ノ瀬正樹、もしくは「である」と「べき」の間について

2022年01月10日 08時00分00秒 | 大震災の中で
先日、「しあわせのための『福島差別』論」批判をここにアップした。未完の草稿だから突っ込みどころ満載かもしれないが、まあ現状の立ち位置の確認にはなったかな、という程度のところか。

さて、それをかいているときに知人と前掲書の批判を酒飲みしていながら、 
一ノ瀬批判は当然として分かる(と知人)けど、國分さんはどうなの?
『原子力時代の哲学』も釈然としなかったし、高橋哲哉氏の退官時のイベントでもいわゆる反原発の運動について國分さんはかなり否定的なこと入ってたけど

という話をされた。

気になっていたところだし、極めて微妙な話でもあるので、その時ははっきりと論評することができなかった。 

実は、一ノ瀬正樹氏も國分功一郎氏も、哲学者として原発事故に向き合うという姿勢を明らかにしているという点では共通している。

反原発ドクトリン(教理)の原発は廃炉すべきだという「べき」から距離を取って哲学者としての立場から、まず「である」というところを突き詰めようとしている、といえばいいだろうか。

一ノ瀬正樹氏は反原発ドクトリンに「凝り固まっ」て氏を御用学者呼ばわりする人々を哲学的訓練を経ていない不幸な無知のヒトとして切り捨て、自らは「原因と結果の迷宮」に回帰していく。

それに対して、國分功一郎氏は、神様の話を持ち出して(核分裂とか核融合を直接扱おうとする)無媒介的エネルギーを求める原発がダメだ、、辞めるべきだ、という中沢新一氏に対して「ほとんど」「政治的には」「それでよい」としつつ、國分氏自身としてはその「べき」論に対して保留を表明する。


おそらく、2人の政治的立場は大きく異なっている。しかし同時により大きな枠組みで見るとき、どちらも「反原発ドクトリン」を振りかざして活動する人々とは別の次元で思考をしようとする姿勢においては選ぶところがない。

知人は
『だからさ原子力時代の哲学』響かねえんだよなあ』
と言って、とりあえずの会話は終わった。

私は國分功一郎ファンではあるけれど、当然ながら原発事故以後、死ぬまで

「悪いことは言わないから原発は止めておけ」

派である。ブログでも、SNSでもそう流し続けている。さてでは、この先日批判したばかりの一ノ瀬正樹氏と國分功一郎氏の違いはどこ(か)にあるのだろうか?

とりあえず原発事故以後に発せられるコトバには、科学的な水準と政治的な水準、哲学的な水準と表現的な水準、理性的な水準と感情的な水準などなど、様々な水準が層のように重なって、それが交わらないままちょうど描画ソフトのレイヤーのように重ね合わせられている。
全体を見通す言葉など望むべくもない。
そんな中で、一ノ瀬正樹と國分功一郎の共通性と差異は、私の中では放っておけない問題だ。以下、このことについて少し続けてみたい。

「しあわせになるための『福島差別』論」批判

2022年01月08日 07時00分00秒 | 大震災の中で

「しあわせになるための『福島差別』論」」

https://www.amazon.co.jp/dp/4780309395/ref=cm_sw_r_cp_apan_glt_i_FCX8K58J9NBY3SMCK5SN



という書籍がある。2018年1月に、かもがわ出版から刊行された。清水修二、開沼博、池田香代子、野口邦和、児玉一八、松本春野の六氏(それ以外に寄稿者もいる)が企画から関与し、東京電力福島第一原子力発電所の事故によって生じた様々な事柄に対して


「それぞれの判断と選択を尊重する」

「科学的な議論の土俵を共有する」

「めざすのは、福島の人たちの『しあわせ』」

(以上腰巻き惹句より)

 

という視点から編集された論集だ。


私は、この本を読むのが本当に辛かった。読んでいて切ない気持ちになるのだ。執筆者全員の著作を通読したわけではないが、


清水修二には『NIMBYシンドローム考』という迷惑施設とどう向き合っていくか、について丁寧な論を重ねた貴重な著作があり、一ノ瀬正樹には『低線量被曝のモラル』にみられたような多様な立場からの論考をふまえた討論の仕事もある。また、開沼博には『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』という、中央と地方の「植民地的」関係についての考察もある。


それぞれ重要な仕事をしている三人、といっていいだろう。東京電力福島第一原子力発電所の事故について彼らが言及するのは決して不自然なことではない。

 しかし、たとえば前書きと後書きに相当する部分を担当している清水修二の文章を読んでいると、原発事故以後に起こった事態を全体として受け止めようとするのではなく、巨大な原発事故という事態を被曝線量の低さに限定することによって、科学的な知見を共通基盤として論じることを求め、結果としては、福島においていきることの「しあわせ」を、(結果として)縮減によって実現しようとしてしまっているとうい印象を受ける。以下、清水の『NIMBYシンドローム考』から引用しつつその点について論じる。


 清水はかつて、沖縄の基地の土地使用について、


「歴史に残る『沖縄軍用地紛争』は、いたいけな少女の悲劇に触発された人権の

叫びからはじまって『一握りの不逞分子』の抵抗を排除する政治的処分によって終わった。『はじめ』と『おわり』との間には、絶望的な深淵(アピス)が横たわっている」(『NIMBYシンドローム考P237ー238』


と述べている。事態の深刻さを憂慮する視点、現実の悲惨さを受け止める視点は失われていないといっていいだろう。それを前提としつつも


「いってみれば、本土ー沖縄関係は『現象』にすぎず、安保体制こそが事の『本質』である、ここは問題のとらえ方として大事な点で、原子力発電にも廃棄物の件にも共通する方法的論点だ。けれども私はあえて現象にこだわりたい。わかりやすく言うなら、原子力発電にかんして出発点で『原発の是非論はさておいて』と述べたのと同じように、『安保の是非論はさておいて』という土俵の設定を、とりあえず私は行いたいのである。不徹底だとか中途半端だとか言われるかもしれないが、『現象に徹底する』のも、これはこれで一苦労だ。こうした方法論の意図するところについては、いずれ最終章であらためて述べるつもりだ」(同書P217)


と、敢えて「土俵」を設定すると宣言する。その上で、


「しかしそういった、まず白か黒かをはっきりさせないと先に進ませないような論理はまったく不生産的だ。(中略)原子力立地問題の議論を深めていけば、早晩、原子力発電の是非論に突き当たるであろうことも、容易に予想がつく。(中略)だれにいわれなくても自明である。我々の社会において問題なのは、そうした『本質論』についての空中戦が雲の上で展開されているときに、地上では現実の迷惑施設の立地が、リアルな認識ぬきで、金ずくで、ずるずると進められていることである。」(同書P257)


という指摘に至るのだ。


①迷惑が進行している悲惨の現場、現実に注目すべきだ。

②敢えて「是非論」はさておく。

③「本質論」はNIMBYにとって不生産的だ。


さて、その視点で今回の論集をみてみよう。清水は、この論集の執筆者たちを「御用学者」だと断定する者たちを敵と認定する。なぜなら、彼らは、反原発を主張することに「正義」を見いだし、その正義に依拠して科学的な知見を無視した主張を繰り返して自分たちを攻撃しつづけているからだ。しかし自分たち執筆者は、彼らのように反原発ドクトリン(教理)に毒されてはおらず、現実を科学的に認識しつつ論じている。もとよ私たちは御用学者などと呼ばれるいわれはない。対立・分断や混乱を招いているのはむしろ、「被害者/加害者」の二分法を振りかざし、被害者に寄り添って反原発を声高に論じて、非科学的な言を弄して(科学的に正当な結論を導いている)私たちを攻撃する者たちがいるからだ。その偏見を去って科学的な基盤を共有して正当に議論をすれば、福島の人たちは「しあわせ」になれる……といった論理展開をしている。


反原発というドクトリンに適合しないと自分たちが考えた場合に、その論者を「御用学者」認定してSNSなどで攻撃するふざけた者たちを擁護するいわれはない。その清水の姿勢には同意するし、御用学者認定を受けた時に、おそらく憤懣やるかたない思いを抱いたであろうことについては同意するのにやぶさかではない。


だが、今回の事例(私たちが被った福島第一原子力発電所の原発事故)においては『NIMBYシンドローム考』において展開されていた①②③が、きわめて縮減された形で適用されてしまっている。どういうことか。


第一に、ふくしまにおける人々の亀裂・対立・分断・あつれきを生んだ主要因が何かということについての考察が全くなされていないという点が問題だ。

 確かに、「御用学者」、と執筆者諸氏を白昼堂々指弾して憚らないのは、反原発ドクトリン(教理)に流された無思考な発言だろう。安易なレッテル貼りはそれをする側にとってもされる側にとっても有害であること、論をまたない。

そういった跳ね返りたちの「踏み越し」は、


「市民・住民の側にたって『御用学者』と対峙する対抗専門家が、権力側の専門家による価値判断の提示にまさに『対抗』してオルタナティブな価値判断を提示するとき、そこにもまた『踏み越え』の危険性がある」(科学者に委ねてはいけないことP27)


との指摘もあるように、反対していればいいというドクトリンに流された無視考を戒めねばならない。

では、清水たちの議論それ自体に、反原発ドクトリン派の踏み越えのような踏み越えがあるのかどうか、が次に問題になる。これは清水にも一ノ瀬にも開沼にも共通しているが、初期の混乱が終わってみれば、結果としては原発事故由来の被曝線量は低いということで概ね専門家の意見は一致しており、だから安全だったのだ、むしろ反原発のドクトリン(開沼は「最終審級開という言い方をし、一ノ瀬は「である」ことへの「べき」の侵入と論じている)こそが、分断の主原因なのだと主張している点では選ぶところがない。


ここがこの論集において考慮しなければならない大きな問題点の第一である。


「そこ(制度としての御用学者問題)に共通の課題は何かを探ると、そこには科学的知見というものは誰が導いてもひとつに決まる、と見る「固い科学観」が存在している。裏返せば、セカンド・オピニオンの意義への視点が欠如しているのだ。セカンド・オピニオンには、異なった組織や立場から、異なった見解がもたらされることが前提とされており、知の多様性が重要であることを科学的思考の基盤として確認するものである。『営みとしての科学観』において、そうした思考の基盤が不可欠であることは言をまたない」(同書P28)



この本の執筆者が、政府や東電(反原発側から見た「敵」)から特別な利益供与やバックアップを受けているかどうかは、慎重に精査されてから判断されるべきであって、その検証がないまま加害者の味方認定をすることはもちろんできない。

しかし、彼らがこの本で行っている


対象の縮減と科学の最終審級化、および仮想敵としての反原発派をたたくこと



この三つを重ねて論じることによって、人びとの分断を見かけ上封じ込め、その結果素朴な疑問や自然な感情の表出を根絶やしにした上で、彼らのいう科学的な議論の基盤において「語らせよう」とするこの姿勢は、犯罪的といっていいだろう。


1,縮減について

彼らは前掲書の指摘のようには、「踏み越し」を行わない。あくまで「科学的に結論の出た」とされる低線量の被曝について、問題がないということを前提として、その縮減された彼らのいう「科学的な事実」のみを前提として立論していく。しかし、「そこにもまた踏み越え野危険性がある」というのは、御用学者の意識的・無意識的踏み越えを前提として、反原発側に発せられた批評にすぎない。ここで展開されているのは


反原発側→踏み越しを行う跳ね返りがいる→かえって分断を生む。

私たち→踏み越しを行わない→科学的基盤の上に議論を共有できる→分断を解消してしあわせになれる


という程度の粗雑な展開でしかない。『科学者に委ねてはいけないこと』を参照するまでもなく、今なお議論されているのは、科学における解明の限界であり、解釈の複数せいである。仮に、彼らの議論の前提「科学的な基盤の上に議論をする」をみとめたとしても、セカンドオピニオンの必要性があることは当然だろう。

だが、彼らは極端な事象の縮減によって、「正しさ」を獲得するのだ。するとどうなるか。


清水修二にとっては福島大学の役員として避難指示しなかったことが問題ではなくなり、池田香代子にとって、反対する人は心理的な負荷を背負わされた不幸な治療の対象となり(「科学的には問題」がなかったので、当然そうなる)、一ノ瀬正樹にとっては、不勉強な活動家が残念な主張をして、「である」という事実認定の領域に「べき」というドクトリン(教理)を持ち込んで暴れていただけだということがもはや結果として分かってしまったのだ、と得意げに語る……


そういうことばの欲望の群れが立ち現れることになるだろう。


開沼は、人は最終審級によって物事の価値を判断するものだ、という「認識」を述べたあとで、今放射線量がどれだけさがり、どれだけ廃炉作業がコントロールされているか、という数字を並べることによってその科学を数値化して強化していく。


これらはそれは、原発事故全体の問題を矮小化する大きな「効果」を持ことになるだろう。




2,ことばを奪い、改めて語らせること

こうした縮減による「科学的な議論」の基盤化は、福島に住む人びとの言葉を奪い、改めて被曝線量を心配せずに、かれらのいう「しあわせ」なことばを口にすることが促されていく。原発事故は清水修二も『NIMBYシンドローム考』で述べているように、様々な水準の利害が関わり、価値観の対立も含むものだ。清水がその著書で行ったのは、原理的な対立をいったん宙づりにすることで、対立の現象それ自体に目を向けて議論が結果としては深まるということだった。ところが、この本の清水では、立場の対立や葛藤は驚くべき事にどこにも語られていない。言説の複数性を担保した前著(結論は宙づりにしたにせよ)に比して、まったく単数の語りに終始している。

これはこの発話者個人の欲望がただ噴出しているだけで、言説としては読むに耐えない。そして、読者がもし仮に(そんなお人好しの読者がいたとすれば、の話だが)この単線的な主張を受け入れてしまえば、原発による被曝の問題は「解消」してしまうのである。原理的には、福島県だけではない、日本全国どこでも通用する問題の「解消」がなされてしまうのだ。


池田香代子は文学的側面から、私たちの言葉を奪う。つまり、心理的に追い詰められた住民の気持ちは分かる、譲歩することによって、住民の心理的な負担に対するケアの必要性を語るのだ。たしかにケアは必要だろう。しかし、問題を語ることがケアの対象になるというその片務的な扱いを、このような小文で実現してしまっているということは、この「科学的な基盤の上に議論しよう」という縮減された「公正性」が、どんなことを生み出すか、見えてくると思われる。


一ノ瀬正樹の場合は、原発事故以後の被爆が科学的に低線量で影響がないと分かった以上、それは発生点に遡及して考えれば、避難もふくめてまったく痛ましいことだった、とまで言い切る。そして、哲学的思考を学ばない素人の無知をあげつらい、認知的バイアスがどんな被害をもたらすかを嘆いてみせる。象牙の塔へお帰り、というほかないほどのてっていぶりだ。


開沼博は、主著『フクシマ論』で分析した、原子力ムラの構造には全く触れること無く(ここにはあきらかに開沼の意図的目的的な選択がある)、数字だけを論じていく(『はじめての福島学』でも展開されている姿勢だ)。数字だけをみればよい、現状を価値中立的にみればよい、という確信犯にたどりつく。



以上みてきたように、彼らがおこなった縮減によって、それをいったん受け入れたならば、かれらの言説の圏域における主体として、それに適合した言葉を発するか、もしくは「非科学的」な言説として抹殺されるかの二択を求められることになる。ことばはもとより、嘘をついていてさえ真理への欲望に支えられている。だから、彼らがこのようなことばを白昼堂々と語るのには、おそらく理由がある。だが、重要なことは「科学的な基盤」を主張する彼らのことばたちは、真理ではなく真理への欲望が渦巻いている場所なのだという点だ。それが見えなくなると、人びとの中から出てくる言葉を奪い、その上で彼らの「科学的基盤」に乗ったことばを語らされることになるだろう。「科学」概念を単数化し、事象を縮減したことの効果は、事実認定や事象の課題を縮小するだけでなく、私たちの言葉=思考をも縮減してしまう力を持っているのだ。


3,ここに書かれた言葉によって「しあわせ」になるのは誰か?


これはもはや明らかなことだが、この言葉たちによってしあわせになるのは、一義的には執筆者であって、原発事故について思考を巡らす全ての人ではない。現に私は、一字一句詠むたびに切なく、悲しい気持ちになった。ここにあるのは、「科学的基盤」を最終審級(開沼によることば)として、低線量被曝の危険はない、と言い切ってしまえば、多くの対立や分断がみかけのものになる、というきわめて単線的なことばの流れだ。


少なくてもその「科学」その「正しさ」への信頼が根こそぎ奪われたからこそことばを紡ぎ続けていかねばならないと考えたエチカ福島とは全くことなることばに対する姿勢がここにはある。


4,彼らの言葉がもつ暴力の波及する範囲


非歴史性をもった歴史主義的実証

科学的に小さな値や現状を持って基盤とする擬似的な実証主義

むしろ「正しさ」をふりかざすパターナリズム

ルサンチマンを公共性とすりかえる手さばき


かれらの言葉たちが持つ暴力の波及する範囲はきわめて広い。

そのことによってどんな被害がさらに再生産していくのか。

(未完、続く)

















読むべし!『ホハレ峠』もしくは辿り着かない大西暢夫論のために(その2)

2020年05月18日 12時45分36秒 | 大震災の中で
なかなか大西暢夫さんの『ホハレ峠』にたどり着かない。
そんな中、エチカ福島の仲間の一人が幻の第14回(イベント中止が決まった後の大西監督との飲み会)での監督の言葉をピックアップしていた。

大西監督曰く

「今の時代の価値観はたかだか100年程度、人間の歴史から見ると一瞬に過ぎない。
今の価値観が見直されるときがきっとくる、自分の仕事がその時の資料になればと思っている。」

100年、か。なるほど。

というわけでたどり着かない大西暢夫論の第2回は、最近読んだばかりの『100年の孤独』との関わりについて書く。

100年といえば、その1で書いた母親の聞き書きの範囲もまた、おおよそその程度の長さになる。

30年一世代とよくいうが、当時は10代で子供を産むこともめずらしくなかったし、100年程度のうちに5世代が重なりながら広がっていて、二つ上の世代(祖父母)までは直接話が聞けることも多いということもあり、ざっと100年程度が私たちの生きた言葉の語りが届く範囲、と考えても良さそうだ。

祖父母の祖父母まで、自分を含めて5世代。
これはそのまま『百年の孤独』の世代とぴったり対応している。
ガルシア・マルケスの小説『百年の孤独』には、コロンビアとおぼしき未開の土地にマコンドという町を開拓し、その中心にあった一族とマコンドという町の盛衰記が描かれているのだが、ほぼ要約は不可能だし、大河ドラマのようなたった一人の主人公がいるわけでもない。語りの中心には一族のグレイトマザー的なその100年を見つめていく第一世代の長寿な女性と、その女性よりもさらに長生きする陰の語りの担い手であるもう一人の女性が二つの視点人物になっているとも見える。ふたりの女性は「語り手」ではないが、明らかな視点人物であり、日本の小説でいえば中上健次の「オリュウノオバ」(『千年の愉楽』)に比することもできそうだ。当然、中上健次が影響を受けている、というべきなのだろうが。

ここでは、千年ではなく百年、というところにこだわっておきたい。
千年は無時間的な語りの時間という喩えを感じるが、百年は、その一でも書いたように、顔の見える人の営みの広がりの限界とでもいえる長さだ。高祖父母も曾祖父母も見たことはないが、祖父母の話なら直接聞いたことがある。その祖父母が直接出会っていたのが私の祖父母にとっての祖父母、(つまり私にとっての曾祖父母)だ。

写真があったかなかったぐらいの世代、でもあろう。

その長さを大西暢夫監督は「一瞬」と語る。私の中ではその『ホハレ峠』における一瞬が『百年の孤独』の百年と重なって見えるのだ。

『百年の孤独』の「孤独」の意味、ということについて考えをめぐらす、ということにもなるだろう。
一読しただけの素人の管見だが、この「孤独」は、間違っても「近代的個人」の孤独ではない。
中南米の奥地に花開き、そこに川の治水がなされ鉄道が敷設され、バナナ農園が作られ、そして衰退していくマコンドに存在する「孤独」があるとするなら、それはそういう近代化とは全く別のものだろう。
『地球の長い午後』ブライアン・オールディス
に描かれている圧倒的な生命力に満ちあふれた植物やアリが全盛の世界にむしろ近い、といったらそれはそれでミスリードかもしれないが、少なくても、北アメリカ主導で展開され、中南米に押しつけられるインチキくさい「近代化」とは全く別の豊穣なエネルギーの充溢が抱える「孤独」として読まねばなるまい。

個人個人の「孤独」に苦悩する「近代」とかいうものとは対極の、オルタナティブとしての「孤独」。

大西監督の「百年は一瞬」という時間認識は、その「孤独」と通底している。

『ホハレ峠』のことばたちは、ダム工事が究極の無駄だということを声高に語ることをしない。
ひたすら廣瀨ゆきえさんの人生を丁寧に取材していくだけだ。
しかし、

「現金化したら、何もかもおしまいやな」
「国の話を聞いてやろうと思った瞬間に、国は金を持って村民の心の中に入り込んでくるのだ。……集団移転などというのはわるで筋違いのことで、そこには村や家族の形はない。すべてがそれに似せたもの」

というところにも、「似せたもの」ではない「村や家族の形」を生きてきた廣瀨ゆきえさんの傍らに立ち続ける大西監督の姿勢が見える。

近代的個人の孤独に対置された村や血や家族の物語の称揚、ということではない。
そんなものがあるとすれば近代個人のノスタルジーにすぎまい。
もう一つの姿が私たちに迫ってくるのは、その生きることそのものの峻厳さと向き合うという意味での「孤独」がそこに表現されているからだろう。たかだか100年は一瞬だということの意味は、そこにあるのではないか。




母親が語る私(たち)の上の世代の人々の栄枯盛衰の様子ともそれはズレながら重なりあう。
母親の父(私の祖父)は炭鉱の糧食(生協のようなものか?)の仕事から、無尽講の開拓(後の相互銀行)に身を転じた男だが炭鉱の盛衰と相互銀行の盛衰は、私の周辺における語りの広がりの限界に近いといっていいものだが、その百年とも重なる。生きるということそのものの姿が持つエネルギーの豊かさ。

そういうものを感じたということだ。

さて、まとまらないままだが、もう一回だけ大西暢夫監督のいる場所にもう少し近づいてから終わりたい。
もしもメモにもならないメモにもう少しつきあっていただけるなら、の話だが。