龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

人は「やりたいことをしたい」とは限らないというお話

2009年12月30日 00時48分35秒 | インポート
人は、必ずしも「夢」をかなえたかったり「やりたいこと」がしたかったりするけではないらしい。

最近どうも、そう思う。

「ほんとうにしたいことは?」

と改めて尋ねられたり自問したりすると、本当にしたいこと、なんて実は何もないのじゃないか。

そりゃ、聞かれれば「年末ジャンボ3億円」とか「酒池肉林」とか、「毎日が日曜日」とか、「世界一周旅行」とか、定型的な答えはつぶやくこともできる。受験生だったら合格、病気だったらその平癒などなど、手にしていないものを口にすることは簡単だ。

でも、口にすることと、実現させたいこととはやっぱり違っているのだろう。

最近、歴史小説とファンタジーばかりが売れる、と本屋のお兄ちゃんが嘆いていた。
別のレイヤーに書き込まれていて、現実と重ねて想像することはできても、現実のレイヤーとは無関係にことが進行する、そんな物語だからこそいいのかもしれない。

実際に自分の居住する「レイヤー」でことが起こると、意外にびびったり尻込みしたり、あるいは回避行動に出たりする人が多いのじゃないかしらん。
そんな風にさえ思えてくる。

なぜなら、欲しいことを鷲掴みにする身振りが、身の回りにほとんど見えないからだ。

過剰な「被害者意識」と「守り」に入った保守的な身振りばかりが目につく。景気が悪いからだ、とだけいって済ませていていいのだろうか?
相対的に「貧乏」になっていく感じとか、将来に漠然とした不安を感じるのは私にも分かる。実際そんな雰囲気はあるものね。

でも、茨木のり子の詩じゃないけれど、「もっと願っていいのだ」って感じはするなあ。っていうか、日頃からちゃんと形にして願っておかないと、何が願いか分からなくなってしまうもの。

ちなみに私はとりあえず隠遁したいですが(苦笑)。

いや、そういう後ろ向きというか緩い希望はさておき、とにかく来年は「読んで書く」を極限までやってみたいものだと思う。
そんなことは、やろうと思えばいくらでもできるはずなわけで、睡眠時間を多少削ってでも、「読んで書く」日常の実現を目指そう。

口にしておかないと、いざというときに行動できない病いに犯されてしまうかも、だから。
何かのせいにもしたくないしね、そんなちっぽけな望みまで。





プロの言葉の凄みを感じる

2009年12月28日 20時38分27秒 | 教育
 2009年12月27日・28日の両日、NHKの千代田放送会館で行われた放送講座に初めて参加してきた。

 びっくりしたのは講師が豪華だったことだ。

 NHKアナウンス室次長の渡部英美さん。
 NHK日本語センターエグテティブアナウンサー 榊寿之さん。
 NHK制作局第一制作センター 青少年・教育番組制作部 チーフ・プロデューサー 市谷壮さん。

 放送のプロであり、話すことのプロであり、制作のプロであり、一流でありつつ指導者でもある層が直に教えてくれるそれはそれは贅沢な講座でした。

 普段、現役で一流の仕事をしている人と接する機会があまりない仕事をしているから余計なのかもしれない。

現場に立ち続け、今も成果を出しつつ、後進の指導もしつつ、っていう現場の先頭に立つ人の魅力は、やっぱり凄い。
どんな球でも対応して打てるだけの準備をし続けてきて、しかも「昔話」じゃなく今も現役でそのボールが打てる人の「指導」って、細部と全体が響き合っていて、その場にいられるだけでとても快楽的でした。

軸がぶれなくて、柔軟で、最適例が瞬時に出せて、大きな視点と、具体的で小さな現場のポイントとを同時に示してくれる。
そしてこちらが無意識に感じていることを、適切に、難しくないことばでぱっと展開してくれ、しかもその向こう側まで指し示してくれること、とでもいえばいいだろうか。
技術的な中身の話はこれからゆっくり復習するとして、その「臨場感」がまずもって大きな収穫だった。忙しい中の出張で、行くまでは気重だったけれど、意外な年末のプレゼントでした。

 



センター試験が近くなると

2009年12月25日 21時28分15秒 | 教育
「先生、点数が取れすぎて怖いんです」

国語の場合センター試験が近くなると、少なからずこういう生徒が出てくる。
そしてそういう生徒の場合、本当に本番では思ったように点数が取れないことがある(必ずってわけじゃないんだけどね)。

国語のセンター試験の問題演習は麻薬のようなもので、やりはじめたら、間をおかずに続けていかないと不安になるし、感覚も鈍る。
感覚でセンター試験の国語問題を解いている限り、そこから逃れられないのだ。

自分の理解した筋道で問題を解いていると、最初は点数が伸びない。
だたし、その時点ではただ分からないだけだから、不安にもならない。
ところが、点数が取れだしてからが問題だ。

本文と設問に即して答えるのではなく、自分で理解した道筋がそれなりに精緻になってくると、時々、本文と自分の読解とがぴったりと重なる時がある。
そうすると、当然のことながら高得点が取れるようになる。
そして、実はそこから不安が始まる。

テキストと設問に寄り添って、その論理展開に沿って答えを出したわけではなく、あくまで「自分」の「理解」をなぞっただけだから。

本文と自分の読みがずれたとき、こういう生徒はなすすべを持たない。

自分の読んだ結果を「読んでいる」だけでは、間違いはいつも自分の主観の外にある。

だから、ここから先いくら練習を積んでも、感覚が鋭敏になるだけで、自分の読みの「外部」に出られないのだ。

この恐怖は、味わった人でないと分からないかもしれない。

本当はここからほんのちょっと先に、安定した読解があるんだけどね。
やり方は二つ。 一つはイチローのように読解に必要なルーティンワークをしっかりやって、「自分」の「読み」の水準のぶれをなくすこと。

もう一つは、自分の読みを相対化して、もう一度テキストや設問に近づけて検証してやること。

どちらかができれば80%は堅くとれる。両方できれば90%が狙える。
もちろん、言うは易く行うは難し、なんだけど。 さらにもう一つ余計なことを言えば、実はそのルーティンワークをしっかりやることと、自分の読みを相対化することとは同じことの表裏になっている。ただ相対化しただけでは、混迷を深めるだけだし、ただ決まり切った手順をなぞるだけで点数が伸びるはずもない。一方で基準をたしかなものにするためにルーチンをしっかりとやって、その上で自分自身と対象の距離を測り直す。プロのやることは結局そういうことなんだろうなぁ。

息子が来た

2009年12月23日 14時41分50秒 | 教育
息子が卒論を終えて帰省してきた。帰省と言っても実家ではなく、単身赴任の私のところに遊びに来たのだ。

私が新しく買ったPS3のソフトを届けがてら、卒論終了の息抜きに。

週末は温泉にいって10割蕎麦をたぐり、酒飲みをして一緒にゲームをし、文学談義を交わす

年の離れた、気心の知れた友人とのひととき、のようだった。

ということは、「普通」の親子の関係とは違う、ということでもあるだろうか。
友達ではなく、友人ってところがポイントなんだけどね。

ヤツも私も、頑固で人のいうことを聞かない。そのくせ周りのことばかり気になる。

どんな性格であれ、親子なんだから(環境&遺伝子の共有)似ていてなんの不思議もないのだけれど、家族っていうのは似ていると同時に人間関係ないのポジショニングの必要上、対抗的だったり対蹠的だったり、反対に大きく振れることも少なくない。


そういう意味(どういう意味だ?)で、そのスタンスの共通性と差異をいちばん近いところで検証できるのは、もしかしたら親子なのじゃないかなあ。

まあ親子関係なんて、自分たちには最後まで分からないのかもしれないけれど。 とにかく楽しい週末だった。
家族だからといってわかりあえると思うなよな、というのが基本スタンスであることは、家族全員が共有している。そういう意味では「ことばなんていらない」家族よりはよほど「孤独」なのだろう。
でも、言葉にすることで生まれる距離を自覚できない「家族」も辛いだろう。距離を自覚できないことは、一体であることとは違うから。

不幸になっても言葉にしたい、という衝動は、いくぶんか「確認小僧」的症例でもあり、それは自閉的な自己の組み立て直し作業、にも似ている。そういうお互いの「飼い慣らし」を、家族同士の言葉のやりとりで行っている、ということもであるのだろう。

「家族とそんなに話すことがあるのか」
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運転代行屋さんと「出家したい」が口癖の友人のこと

2009年12月08日 22時33分02秒 | 社会
職場の部署での忘年会があったのだが、すっかり忘れて残業していたら、上司から携帯で連絡が入った。

たぶんあいつのことだから忘れているのでは、と心配されたらしい。
当たっていました(笑)。

慌ててお客さんとのやりとりを切り上げて車で直行。田舎は運転代行というものが常識だから、つい飲んでしまう。

酒飲みは平日ゆえ一次会で切り上げ、代行を拾ってアパートへ。

「忘年会ですか?」「ええ」「いいですね、忘年会をやれるっていうのは」

なんだか日曜日の床屋の親父さんの会話が再現されそうな気配であった。

景気はどうですか、いやー悪いねぇ、というたぐいの話題は、今どきの定番なのだろう。新規大卒の就職率の低さから事業仕分け、そして日本の人材育成の問題、年金あたりまでしゃべったところで家に着いた(^^;)。

定番の、当たり障りのない話題だが、「忘年会」ができないってレベルの話は今までなかったぞ、やっぱり。床屋さんの話のように収入1/3という話も初めての経験だ。

不況、不況とばかりいっていては、これからどこかに「好況」がやってくるかのような幻想を招き寄せてしまうという躊躇いは抱く。しかしまあ、景気は良くはあるまい。首にはならないものの、収入はほんとうに少なくなっている。

副業もままならないとすれば、ぼやくだけでなく、どんな満足感をどこで抱けばいいのか。真剣に生活改善というか、生き方の見直しというか、処世術レベルではない世界観の書き換えというか、人生の攻め直しというか、そのあたりを考えなければならないような気がする。

最近、はちゃめちゃ冒険家高野秀行という人の本を立て続けに読んでいるのは、むろん逃避といえば逃避だが、「今」いる場所を相対化しなければ生きづらくてしょうがない、という自然な心の要求かもしれない、とも思った。

友人の一人の口癖に「あ~出家して~」というのがあって、聞くたびに苦笑するのだが、最近私の心の中でリアリティが増してきている。出家など、不自由だった身分制度の中での限定的装置だとしか考えていなかったが、源氏物語の紫式部が、源氏に出家を止められて具合が悪くなる件などを最近読むと、リアルすぎてどきどきする……のだが、それは古典フェチだろうか。

代ゼミの東北大入試研究会に行ってきた

2009年12月07日 20時13分48秒 | 教育
今日、代ゼミの東北大入試研究会に行ってきた。

全体会1時間、分科会2時間。分科会は当然国語に参加。

いろいろ印象的なことはあったけれど、
 漢文は用字や句法ばかりではなく、結局のところ構文(主語を画定し、述語をしっかりと押さえる)じゃないか、という指摘は生徒に早速還元しなければ、と。
 ある意味句法や用字は当然として、結局最終的には構文を正確に把握できるか、ってことだよね。

入試問題の古文単語は、すべてを含めても500語レベルで十分。実質的な「単語」としては200を切るぐらいだろう、とも。

また、現代文では、傍線部の引き方や設問の誘導を丁寧に見ていくと、必然的にどんな「採点基準」になるのかも見えてくるのではないか、という話も印象的だった。

難関大受験者ぐらいになると段落を大づかみにするのは割と得意だから、むしろ細かい答案の表現で減点しやすい基準が設定できる「解答」が、出題者の方に想定されているのではないか?という指摘もありましたね。

あとは「想像力」の問題、かな。基本的に受験国語では、「想像力」を駆使して「読む」ことは求められていないのは周知だが、これからそこに踏み込むのか?東北大の小説問題は、所詮踏み込めないだろう、とは国井先生の予想。

実際、センター試験もそうだが、書いてあること、設問の意図の範囲を超えた「想像力」は、「誤読」として扱われかねない(予備校講師の秘術を尽くした解答もまた、減点対象ではないのか、という指摘も興味深かったが)。

実はその前に代ゼミの偉い方の挨拶があって、首都圏のサピックスという中高入試の塾?を吸収合併したとの話があったのも興味深かった。
業界再編と改革は、教育産業も急務なのね。公立高校もぼーっとしてはいられないのだろうなぁ。

しみじみと、大変だ。

2009年12月07日 01時19分19秒 | 社会
 食っていくのが難しい時代だとつくづく思う。

 ただ右肩上がりの幻想を捨てられない、というだけではあるまい。
 地縁的共同体意識の弱まりもよく言われることだが、地縁的つながりだって、いくら高くても地元のお店にいくという話ではなかった。
 「激安」ならば安いお店に行くのは「当たり前」だし、サービスの悪い売り手は退場してもらおう、というのも「当たり前」。

 しかしその「当たり前」だけ声高に言われても、状況に翻弄される現場の者にとってはその指摘は恫喝に似る。

 「仕事を継続的にその地域で行って、しかも食っていく」
 その当たり前の場所を探そうとしても、それが難しいとしたら。

 これでは、小さい生活を守ろうとしてますます縮んでしまい、本来なら人と人とがつながり合うべき中間領域までもが希薄になってしまうのでは、と危惧を抱く。

 もちろん処世術としては、お金をあまり使わないで人生を楽しむ方法が見つかり、その新しいバランスで人とほどよく関わりあう生活が成り立てば、とりあえずはそれでいいともいえる。

 理髪店の親父さんの選択は、既存の設備で人を減らし、自分一人で低価格路線を選ぶことだった。子供さんを別のところで働かせれば、給料払わなくていいし、むしろ家庭としては差し引きプラスになる。
 かつて、自営の商売ならパパママでやっていればなんとかなる、のが一般的だったけれど、そうばかりいっていられないところまで来たのか。
勤め人もまた、「安定と引き替えに、経済的プレーヤーとしてアマチュアのままでいいや」とばかり言ってはいられない。

 ではいったいどんな絵図面を書けばいいのか。問われているのは、お金の流通の中で生きる生活をしている私たち(老若男女を問わず)すべての「経済」的な力(お金の持ち高ではなく)なのかもしれない。

見識とか生き方とか政治に対する判断まで含めて。

雨の日の理髪店にて

2009年12月06日 21時54分37秒 | 社会
 体調不良のため部屋に引きこもっていた週末、歩いて病院に行こうとしたら、道路沿いの理髪店に安売りの看板が出ていた。今日び、医者&クスリも通い続けるとかなりの負担だ。安さに惹かれて、帰りがけふらりと立ち寄った。

店主一人に椅子二つ、の典型的な街の床屋さん。値段はカットのみ週末1250円。

2年前からその値段にしたのだという。以前は手広くやっていたが、二年前息子さんも使用人もよそにいってもらって、一人でやる低料金の店、にリニューアルしたのだそうだ。

親父さんによると、近所に出来たディスカウント理髪店も、「たぶん赤字じゃないの?」

結局根本的に、食えない。今年の市内の理美容学校の生徒数はなんとゼロ、だそうだ。個人でやっている高齢者の経営する理髪店も、今後数年で廃業が相次ぐだろう、とも。

今年の夏前に旅行したときの、弘前の喫茶店のマスターの呟きがよみがえる。

「後10年は弘前の農業も保つだろうけど、20年後は農業を支えている老人がいなくなるからね」

理髪店は、実質1/3ぐらいまで単価が下がっている。

「おれは昔のお客さんもいるからこうやって続けられるけど、これから新規投資をしては、とうてい回収できないだろう」

とも親父さんは言っていた。

「サラリーマンは早期退職すればまだ何年分かもらえるからいいよね」そういって送り出してくれた。

降っていた小雨はもう止んでいたけれど、気持ちは晴れなかった。

高校での書類出願ミスのこと

2009年12月06日 13時54分35秒 | 教育
今年もまた、高校での書類出願ミスの報道があった。

今回はA0入試の出願書類を生徒から預かって、期限を思い違いして間に合わなかったミスだとか。

「生徒の人生を変えてしまうようなミスを、どうして簡単にできてしまうのか信じられない」

というのが当たり前の感想だろう。でも、正~直に言ってしまえば、現場にいると「ヒヤリ」とすることは少なくない。
今回の問題は、たいした覚悟もない(だから結果的に間違えた)のに、AOの書類を学校が預かったのはなぜか?という疑問が残る。
AO入試は、大学当局と学生が双方直接アクセスして互いに吟味しあうシステムだったはずだ。

だからなぜ高校がそのプロセスに関与したのかが解せない。進学校なら、責任を持つのは学校長が推薦する推薦入試のみであるべきだ、というのは、少し前までの常識だったはずなのだが。

守れもしないサービスを背負えば、顧客に償えない不利益を与えることにもなりかねない。

抱え切れない仕事を漫然と抱え、それを「善意」かなにかのように考えていては、生徒も教師自身も、学校も立ちゆかない。

徹底的に責任を持ってやるべきことと、守備範囲外なのに安易な「善意」や気弱な「同意」をはびこらせることとは違うはずだ。

では何をどこまでやり、何を学校の業務から排除すべきなのか?

「人間」という漠然としたしかし強力な近代概念に寄り添っているだけでは、もはや学校は保たない。今はやりの「仕分け」じゃないけれど、仕事の仕分けが急務だろう。公務員の給料はもっと下げてもいいから、コストに見合った仕事の量と質を、プロの側もアマの側も真剣に考えなければ。
教育は現況、あたかもパンドラの箱みたいなものだからね。

もし仮にそれが「政治的」な意味での「緩衝材」になっているのだとしたら?まあ、またそれは別の話か。

ホームページと日記を一つ移動しただけでも大変でした

2009年12月06日 04時11分57秒 | インポート
5年ほど使っていた有料ブログ(いまどきそんなものにお金を払う人がいるんですかね<苦笑>)自体が、無料ブログにちゃっかり移管してしまったため、もうお金を払う意味が少なくなって(ホームページとかブログとかメールとか、CGIとか、容量の面とか、無料よりよい点がゼロではないのかもしれなけれど、もはやこれまで、と思って、この土日に引っ越しをもくろみました。
文字を書くだけの日記二つと、メールフォーム、それに日記のアーカイブの併せて4つの作業を一つのホームページでつないでいるだけなので、たいした代わり映えはしない。
もちろん書き連ねた本の感想はそれなりの数にはなっているので、自分自身にとっては忘備録の役には立つけれど。
玄関前の掃除や机の上の整頓をしている暇があったら、せめてコンテンツをまじめに書けって話なんですけどねえ。

とりあえず、しばらくはこれで。

文房四宝、とか文房清玩なんて言葉もあったような。昔でいえば筆とか墨とか文鎮とかが、ちょっと時代が下ると万年筆だったりもし、今でいえばサーバーだったり、ブログのテンプレートだったりしないかなあ。
モノとしての手触りがないから駄目かな、やっぱり。
いずれにしても、精神的にはその後、当然、「玩物喪志」ってのが次にくるわけです(^^;)。

ま、遊びながら、ですね。