龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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てつカフェ@湯本高校『茶色の朝』を読む、をやりました。

2018年09月19日 11時45分23秒 | 大震災の中で



『茶色の朝』

文:フランク・パヴロフ 絵:ヴィンセント・ギャロ メッセージ:高橋哲哉


をテキストにして、てつカフェ@湯本高校をやってみました。

国語演習という三年生の選択授業9人のメンバーで、9月12日(水曜)の3、4校時二時間。

時間的にはちょうどいい感じでした。



1、まず自由に感想を出していきました。



「なぜ国が茶色推しなのか知りたい」という疑問が出されました。確かに犬・猫の色というのはいささか馬鹿馬鹿しい話だし、どうでも良いこと、のようにも思われます。

別の人からは、  「法律で決まっているというが、おかしいものはおかしい。遺族が反対しても犯罪者が社会に戻れる例と似た理不尽さを感じた。」という感想が出てきました。

「狂っているのはどっちなのか。」

という感想も。


次に、物語の展開について感想が出てきます。

 「主人公は、最初はどうなのと思っていたが、茶色に合わせていって、最後に気づく

。最初から自分の考えを信じ続ければ良かったのに、社会の雰囲気に自分も合わせてしまった。」


 「私たちの日常でもあり得るのではないか。」

と、自分たちのことに重ねて考える視点も出てきます。

さらに、

 「俺やシャルリがこの後どうなったのか?」

と、物語のその後に注目する視点もだされました。


今度は、強制する国や政府側、状況全体についての視点も出てきます。


 「この話では、国や政府は国民に押しつける者だ。国民は意見を言えないままそれに従い、最後には『今いくから』と諦めてしまっている。いろいろ考えさせられる」


 「自分の犬や猫を殺したり、本を廃棄させられたりと、登場人物は薄々おかしいんじゃないか、と感じてはいる。しかし次第に「ただ従っているだけだ」と自分に言い聞かせ、自分を正当化していくプロセスがある。そして最後自分が窮地に陥った時に初めて気づく。さらには自分自身に「どうしようもなかった」といいわけし出す。これは私たちにも当てはまる。」


 「新聞の廃刊の例は、それに従わなければ罪に問われる(弾圧される)というのを強く感じたと思う。そうなると人々は権力を恐れて自分から茶色を選ぶようになる。さらには、クジに当たったことで、本来は無関係なのに『茶色も悪くない』という感覚まで植え付けられてしまう。これは一種のみ情報操作の側面もあり、政府の圧力の存在がどんな影響をもたらすかの例になっている」


など、国や政府の企みと、結果としてそれに巻き込まれていく人々の様子が読み込まれていきました。

そこで、どうすれば良かったのか、という意見も出てきます。


・人間社会のルールは大事

・しかしおかしいルールもある

・従わなければ自分の犬・猫を殺さずに済んだかもしれない。

・でも、従わないと周囲の目がある

・(いいわけはしているが)一応気づいた。

・愛する者のために勇気を持って行動するのが大事


などなど。


2、一通り意見がでたところで、この作品の意義について論じられていきます。


① 動物に対する 「愛情」は変わらないはずだが、  「茶色に染まる」と、それが変質してしまう。こういうのは明らかにおかしいと思うが、私たちでは解決できないのか。

②普段意見を言えていない人が、意見を押しつけてくる人に流されて合わせてしまうという現実に教官した。

③絵本という形式を取ったのは、どうすることもできないという絶望的な現実を踏まえて、せめて絵本という形式で思ったことを自由に表現しようとしたのではないか?

④登場人物は「どうしようもなかった」と言い訳しているが、この作品には  「~すべきだった」という批評の視点があるのではないか。

⑤この本は絵本という形式を取っている。カタイブンショウハ読みにくい。どんな人でも社会の問題をたくさんの人に考えてもらいたかったのではないか。


⑥歴史的事実はよく分からない。目に見える形での独裁者は今はいないが、もし現れたら同じようになってしまうのではないか。そういう危機感を表しているのではないか。


3、その後、感想・課題をふまえて意見を出し合う討議のような形になりました。


・今の学校、社会、読んでくれている人全員に考えてほしいのだとおもう。  「おかしいと思ったときに言わなければ後悔する」と。


・しかし、いつのまにか当たり前になり、慣れてしまうということもある。知らず知らずのうちに従わなくちゃ、となるのではないか。


・そう、必ずしも最初からすごい圧力で押し付けられたというわけではない。  「気づいていない」というだけでなく、自分に得がある場合さえある。現状を肯定する姿勢がさらに正当化を生むという悪循環があるのではないか。


・別の視点から考えると、最初から少数派の人はそれだけで圧力を感じている。すると少数派の人は目立たないようにむしろ積極的に同調する場合さえあるかもしれない。


・本当に外それ以外の選択はなかったのか。こういうことが起こるからこそみんなで話し合うことが重要になる。押しつけではなくちゃんと説明し、話し合って決定することが(当たり前だけど)重要だ、ということが、分かる。


・今の自分たちにもいえることだが、圧力を感じている側と不自由を感じていない側で意見がすれ違ってしまうことも考えられる。シャルリーが連れて行かれて主人公は初めて気がついた、と本文にもある。他人事の人はこのほんの終わりでも  「まだいい」と思っているかもしれない。


・こういう場合、

よく知らないのに乗っかる人がいる

    ↓

乗っからないではいられなくなる

    ↓

上の圧力がさらに強くなってしまう


という、メカニズムがあるのではないか。


・別の角度で。今までは従う市民の側の話が中心だったが、強行する側の問題、国や行政のあり方も考える必要がある。


・国や政府はどうやって国民に強制していくのか。法律が決まる前にきちんと議論がなされているのか。この本ではそこが全く書かれていない。そこがとても重要だと思う。


・法律にきちんと人々が関われることが重要ではないか。そうじゃないとただ法律だから従え、となってしまう。

十分に自分たちで話し合いをしていない。

署名をしたりとか市民が活動したりとか、そういうことも必要だ。


・もうひとつ付け加えたい。

話し合いはもちろん重要であるが、それを支える条件がある。

外部との比較(標準性)

専門家の意見(正当性)

情報の公開(公平性)

そういう話し合いを支える条件があって初めて十分な議論ができ、適切な意志決定ができるのではないか。


以上、充実したイベントになりました。







『中動態の世界』を読む会 まとめ②

2018年09月01日 19時14分12秒 | メディア日記
 國分功一郎『中動態の世界』を読んで  島貫 真

2018年8月25日(土)福島市飯坂 温泉のみちのく荘において、國分功一郎氏の『中動態の世界』の読書会を開いた。
14人の参加者を迎え、13:00から終了予定を大幅に超える17:30まで、二回の休憩を挟みつつ約4時間にわたってじっくり読むことができた。
『スピノザの方法』以来(ということは実質東日本大震災&東京電力福島原第一原子力発電所の事故以来ということでもある)約7年間、國分ウォッチャーとして著作を読み継いできた身としては感慨深いものがある。その間、國分氏にはエチカ福島の助言者として来福いただいたこともあった。

当日の読書会では、中動態それ自体についての読解(第一部)を島貫真が報告し、アーレントの意志論批判の部分に関するアーレント読みからの応答(第二部)を渡部純が担当した。

以下は、島貫が担当した第一部についてのまとめである。
出来るのが遅かったのでまとめ②になってますが(笑)
第二部については別途渡部のまとめ①を参照されたい。

https://blog.goo.ne.jp/cafelogos2017/e/ff49a8b2f5d4fdb11384ffd1b7961d42

1、今なぜ中動態か
 今は、仕事をしていても医療の場面でも、教育についてでも、様々な場面で生きにくさを覚えずにはいられない。能動か受動かという問いが至る所に蔓延していて私たちを「尋問」してくる。だが、その能動/受動という二分法ではうまく捉えることができないことがたくさんある、と私たちは感じる。
 そこに「中動態」という概念を当てはめてみるとどうなるのか。それがこの本の前半におけるポイントのひとつだ。


 例
a殺人か過失致死か、加害者か被害者か、原告か被告か
  b謝罪と恋愛(第一章)
  c中毒症状の治療(プロローグ)
  d強制避難と自主避難(島貫が当てはめたこと)


たとえばaでは、犯罪を裁く裁判においては徹底的に「意志」が問われる。つまり自らが能動的にその行為を行ったのかどうかが厳しく尋問されるわけだ。実際の裁判の過程では加害者と被害者、行為を能動的に行った者とその行為を受動的に被った者との対比・対立が鮮明にされていく。また、その能動性が立証されなければ被告を罪に問うことは難しい。
ところが、b謝罪や恋愛になると、その能動/受動の二分法はとたんに不便なものになる。
謝るのか謝らされるのか、もしくは愛するのか愛されるのか。
 もちろんそこでも能動/受動の区分を無理やり適用することはできるが、本当の意味での謝罪は、自分が心の底から申し訳なかった、と感じることによって初めて成立するわけだし、恋愛は愛しているのか愛されているのか、という二分法がおよそ無意味な場所、愛が自分の中から立ち現れ、かつ二人で愛し合っている「恋愛」のまっただ中の場所に身を置くことこそが恋愛に他ならない。恋愛というプロセスの中に主体があって、その中で行為が完結する、といってもよい。

 cになるとむしろ能動/受動という二分法の弊害に注目しなければならなくなる。
麻薬中毒患者においては、「ダメ、ぜったい」と、本人の意志を強く持つように仕向けるのは「ぜったい、ダメ」なのだそうだ。むしろ、薬がなくて寂しいけれど、なんとか今日も薬に頼らない一日を過ごすことができた、という感覚が治療プログラム上は極めて重要なのだという。つまり、回復は意志の力では実現せず、「回復し続けていく」プロセスの中に身をおくことこそが「回復」なのだというのである。

以上のことを踏まえた上でdの例を考えてみたい。

 dは私たち福島に住み、あるいは関心を持つ者たちが避けて通ることのできない事柄である。そしてここでもまた、自ら(能動的に)避難したのか、(受動的に)避難させられたのか、は大きな問題であり続けてきた。
 国によって避難させられた人は受動であり、自主避難した人は能動である、とひとまず仮に言ってみることは可能だ。だが、だからといって自主避難した人は自ら進んで好むままにゼロからその行動をとった訳ではない。

福島が危険な状態だからやむを得ずに「自主避難」したという側面が間違いなくある。というか、好き好んで動いた場合は単なる移住であって、自らも避難とは言わないだろう。そこには純粋な意志で行動したのではない、危機的な環境の中でやむを得ず避難した「自主」避難という側面がある。
 他方、強制的に避難させられていた人も、何年も経って地元のコミュニティも経済も従前通りからはほど遠い状態のまま避難解除が宣言されると、その後はなんと強制避難から「自主避難者」に分類されてしまうことになるという不条理に直面している。
 このdの状況をみた場合、どう考えても能動/受動の区分でこの福島の状況を考えることには大きな限界、不都合があることが分かる。
 むしろ、汚染され非常事態となった福島の環境の「中」でどう振る舞うかが私たちに問われているのであり、意志的にゼロから自由に出入りしたり場所をフリーに選択できるわけではない。避難していようが避難していまいが、大震災と原発事故という大きな進行中のプロセスの「中」にあって私たちはいろいろ考え、また行動し続けているのだった。

そう考えていくと、「尋問する言語」としての「能動態/受動態」でものごとを考えていくと見えなくなってしまうこと、大きな不都合が生じてくることが身近にもたくさんあることが分かる。しかし、近代以降、意志と責任をセットにして法と言葉はあくまで私たちを尋問し続けてきた。「それはおまえの意志なのか?」と。そして、その尋問する言語の根底には「能動/受動」の二項がある。それによって見えなくなってしまうものごとをうまく捉えることができるパースペクティブとして「中動態」を考えたい、そのようにしてこの本は書かれ始めたと考えることができる。


2、中動態の定義

 本文では何種類もの定義が提示されてそれぞれ詳しく吟味されているが、國分氏がもっとも適切なものとして取り上げているのが言語学者バンヴェニストの次の定義である。

「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり主語は過程の内部にある」バンヴェニスト(本文P88)
(ちなみに、アンダーソンという研究者は、能動は遂行、中動は経験、ととらえている。)

 つまり、この定義を通して見えてくるのは、能動/受動の区分をいくら駆使してみても、動詞が描写している出来事のプロセス内部に主語が存在するようなタイプの現象すなわち前項のb~dのようなことどもを、(その能動/受動の区分を前提にしているうちは)適切に記述できない、ということである。

3、なぜ文法か

さてでは、なぜ文法を丁寧に論じなければならないのか、というポイントは、この『中動態の世界』という本を論じる上ではずせない。なにせ前半の第2章~第4章までは、医療でも恋愛でもなく、文法とその歴史、それに対する批判と反論などで埋め尽くされているのだから。
そこで繰り返し強調されているのは次の点だ。

 私たちの思考の枠組みや論理の説明には文法や構文など言語的な要素が大きく関わっているから。(第2章)
 「人が考えうることは言語に影響される」
 「言語は思考の可能性条件である」(第4章)P111
 
 つまり、言語は私たちが思考する上で大きな(可能性を保障し時には制約する)条件になっている、というのだ。言語=思考でもなければ思考=言語でもない。この「可能性条件」という視点を確認しておきたい。
 つまり、神様のような視点を持たない私たち人間は、普段使っている言語の文法規則に則って思考をしているので、いってみれば私たちの視点(パースペクティヴ)は言語を基盤として展開し、言語のあり方に大きく条件付けられているということになる。
 ということは、能動態/受動態という文法の区分に則って思考することと、能動態/中動態という文法の区分によって思考することとはかなり違った世界の見え方になるのではないか、ということになる。
これが文法にこだわる大きな理由のひとつだ。

 まあ國分氏が冗談混じりに言う通り、「自身が文法ヲタク」だから、ということもあるかもしれない。それはそれで國分功一郎論を展開する上では重要なのだろうが、それはまた別の話(笑)。



4、なぜ文法の歴史なのか

「今現在の状態は完成品では少しもないからむしろ今存在している抑圧を知るためには、歴史を参照しなければならない。」P195
「(言語が思考の可能性を規定する)場とは、それは言語が語られ、思考が紡ぎ出されている現実そのもの、すなわち、社会であり歴史に他ならない」p112
「言語が変化するのはその抑圧の形が変わるということである。」p196

今だけをみていると抑圧の姿=全体像が見えてこない。

どんな変化の中で何が抑圧され、何が前景化してきたのか、歴史を参照することで、その今は存在しない痕跡を丁寧にたどることができ、その結果、はじめて

「今何が見えていてかつて見えていた何が見えなくなってしまっているのか、それはどんな視点、思考の枠組みの変化に因っているのか」

が見えてくる。

だから歴史を参照することが重要だ、ということだろう。

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(さて、ここでちょっと本文から離れて立ち止まっておきます)

 実は日本語にはそこいら中に中動態の名残が現存している。

 助動詞「れる・られる」の自発(自然と~なる)
 自動詞「起きる」「見える」「感じる」「分かる」「変わる」「開く」「消える」

 しかし、その中動態的な自動詞があふれている日本で、能動/受動のフレームにおける「責任」が厳しく問われている現実がある。そしてその矛盾が放置されている印象もある。新自由主義的な「自己責任論」などは能動/受動を前提とした究極のクソな視点だが、この中動態にみちあふれているような日本で同時に我々は能動態/受動態の視点にさらされているのだ。

伏見瞬『<二者>の哲学者、國分功一郎』からの孫引きで恐縮だが、
東裕紀は
「日本はそもそも責任主体を明確にしない中動態的な社会である」
とのべている。

國分氏はこの本では直接このことについて触れていないが、とりあえず補足が必要だろう。

 たしかに、軍国主義的<無責任体制>や<空気の支配>といったところに、中動態の匂いがする。全体主義においては、主体がプロセスの中にあることに間違いはない、全体がひとつのプロセスになっているわけだから。

 その<無責任>や<空気の支配>は国全体が中動態におおわれてしまい、責任なんてとれないよ、と無責任体制が蔓延していくってなことにもなりかねない。そうなると中動態は、一見、無責任体制の中で庶民が生きていく言い訳、つまりは

「だってやりたくなはいけどしょうがないよね、その中でなんとか生きていくしかないんだもん」

 といったいいわけの話に使われやすいような気もしないではない。

 だが、この本で語られている「中動態」はそれとはまったく正反対だ。
それ(全体主義的な無責任や空気の支配)はむしろ徹底的に主体を外部に取り拐われてしまった状態だ、ということを論じているものだと思われる。

 それはこういうことだ。

 中動態は、主語がその動作=出来事=プロセスの内部にある、と定義できる。

つまり、無責任体制や空気を読むといった全体主義的傾向において主語は、むしろ為政者や「国体」の側に収斂してしまい、プロセスの内部にあるどころか、私たちの「主語」は空気や無責任体制の中で拡散し、その結果私たちは徹底的に「受動的」なところに追い込まれていくことになるのだ。
 
 だから、少し先回りして書けば、「中動態」について考えることは「自己」と向き合うとはどういうことか、そして「他者」とどう向き合うか、という課題につながっている。つまり、「主体」をどう捉え直すかという現代の「困難」について考えるための手立てにもなる。

<空気の支配>や<無責任体制>が気持ち悪いのは、実は主体が私たちの生きているプロセスの中にあるのではなく、一見主体的にそれを支持しているかのようでありながら、実際には、体制や空気に対して徹底的に受動的に生きさせられているからだ。


「中動態」は「能動態でも受動態でもない」<隙間>や<残余>や<神秘>という説明の方向では不十分だという大きな理由のひとつがここにある。。そういう説明では、能動/受動のパースペクティブを前提としているため、結局強化してしまうことになる。主客図式の乗り越え、というだけではないすまないデリケートな問題なのだ。

近代の超克的な図式は、それこそが全体主義を招き寄せてしまった。
まあ歴史をみれば明らかになるわけだが。

歴史を見る必要がある、というのもそこから必然的に出てくる結論だろう。

繰り返しになるが、ポイントは

「能動/受動の二項対立では見えないものがある……そしてそこには抑圧された重要な見方が隠されている……それこそが中動態だ(ジャジャジャーン)!」

というのはむしろ危険でさえある、という点だ。

そういうロマンチックなあるいは神秘主義的な、つまりは非歴史的な話では、動詞のプロセスの中に主語があるどころか、国家や国体などに主体が取りさらわれしまい、プロセスの中でものごとを考えていくという視点からはもっとも遠いところにたどり着いてしまいかねない(と島貫は感じる)。
 
 そしてまたここにはアーレントの全体主義批判や意志論と切り結ぶ重要なポイントがあると思われるわけだが、それは後述。

 とにかく、中動態を論じるのは、能動/受動という呪縛から私たちを解放してくれるマジックワードを探すためのものではない、ということは強調しておくべきだろう。

そこを丁寧に説明するためには、第7章スピノザ=ドゥルーズの章の読解が必要だが、今回はそこまではたどりつかなかった。一言だけ早手回しに言及しておくなら、歴史を考えるという視点は、ドゥルーズ=スピノザ的にいえば「発生」から考えるという風に言い換えてみることもできるかもしれない。つまり、どこから発生して、どういう経緯(プロセス)を経て今ここの「抑圧」が成立したのか、を考えずには真理が見えてこない、ということだ。中動態という概念はだから、単に目の前の現実をうまく説明するためのフィルタなのではなく、ドゥルーズ=スピノザ=國分氏にとって基盤となるものの見方、ということにもなろうか。

(さて、では本題に戻ります。)

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5、中動態の歴史的発生は?

名詞文→非人称動詞→(中動態的な?)動詞→中動態と能動態が対になる→中動態の中から受動態が派生する→中動態が痩せ細っていき、その後は能動/受動の二項で語られるようになる。

・能動/受動と分けた時と、中動/能動と分けた時とでは、「能動」の意味も変わってくる。
だから、中動は、能動/受動の「間」ではないし、あるいは「外部」にある「残余」でもない(それは能動/受動を前提としているからダメ)。
能動/受動というパースペクティヴではない、中動/能動のパースペクティヴによって世界の見え方がどう変わるのか、そしてそれがどんなプロセスを経て変化したのかという捉え方が重要。


6、プロセスの重要性って?

・ギリシャのアテナイの民主制で
 人民を支配する法律→能動態
 自分たちを統治する法律を自分達で作る→中動態
今だと「法律を定める」とどちらも能動態になってしまうが。

・薬物依存から回復する場合、有効なのは
「回復とは回復し続けること」
決して切断ではない。
「ダメ、ゼッタイ」は「ゼッタイ、ダメ」

ちょっとちょっと寂しいけど、ちょっと退屈だけど、まあいいか、こんなもんかというぐらいの状態に自然にはいっていけるようになると、だんだん依存症から回復していける。
薬物治療も勉強も中動態。プロセスだけがある。

7、では責任の問題はどうなるのか?

(以下は、國分功一郎氏と千葉雅也氏の対談から拾っている)

法だけじゃない。宗教とか文法とか、さまざまな規則がある。
そもそも法律には限界がある。程度がある。

世の中は法的な帰責性の判断だけでうごいているわけじゃないということですよね(中略)。もっとグレーゾーンでうごいていることがたくさんある。(千葉)

僕らが使っている言葉の文法が、今の社会を規定している法と非常に密着している(國分)。
 ↓
尋問している言語が僕らを大きく規定している。ということは近代以降我々は尋問する言語に支配されている、


エビデンス(証拠による論証、ということか)中心主義は大嫌い。(千葉・國分)
でも、僕自身はすごく尋問するタイプ(國分)。

そういう自分をすごく反省している。

デカルトは「我思う、故に我あり」(cogito ergo sum)証明的
それに対してスピノザは「私は考えつつ、存在している」(ego sum cogitanse)描写的
証拠もクソもない、実際にそうなのだ。

「真理であることが確かになるためには、真の観念を持つこと以外何ら他の標識を必要としない」(『知性改善論』P32)


それに対して、デカルトは、みんなで共有できるエビデンスを出せたときに初めて真理は真理。こちらはスピノザに比して尋問的、といえる。


8、國分氏のアレント評価は?

 アレントは哲学の伝統の中から意志の概念を救いだそうとするが、國分氏はむしろ意志は特殊な世界観の中でしか現れないものであって、それを立てた途端見えなくなるものがあるんだという立場。

では、國分氏はアレントをどう評価するのか。


例:アメリカの独立革命についての評価で比較
  アレント
  フランス革命よりもアメリカ独立革命の方が偉いという。
  永続性のあるものを人間が作ることに価値を見出すアーレント。ゼロからの創造を支
 える意志を救い出そうとする。そこはどうか?

國分
 アメリカの憲法がなぜそこまで権威を持つことができるのかというと、自分たちで自分たちに憲法を与える、つまり能動態というより中動態で記述されるべき過程がそこにあったからではないか。
 軍国主義における「無責任の体系」は中動態で説明することができる。でも、これを積極的に使うこともできるはずだし、憲法についても(漱石的な)内発/外発の図式とは違うところでこれを捉えられるのではないか。

 アレントは、古代ギリシャの意志概念は全部ポテンシャルだと言う。過去に事情があるから何かをやるということだ、と。
これまでの哲学史は未来に向けての意志という議論に対する反対を表明している、と書いている。そこで彼女はその哲学史をひっくり返し、意志を救い出そうととするのである。

そして國分氏は、アレントがなんで 「未来に向けての絶対的なゼロからの意志」というものを擁護する方向に進むのか分からないと書いている。

 でも僕、そうは思わないんです(千葉)。
P136の「読みにくい」(分からない)というのは要するに、國分さんがわからないということなのに、その國分さんの「疑問」に読者を巻き込んでいく。(千葉)

國分さんの応答。
 合理主義に基づいて物事を考える道筋から行くと、もはや意志という概念を、しかもアレントが定義した意志という概念を支持することは不可能である、とそういうことになる。
合理主義というのは必ず、どんなことにも原因はあると考えるから。
ゼロからの意志概念は支持できない。つまりこの本は徹底した合理主義(スピノザ主義)の立場から書かれている。

意志という概念は、最晩年のアレントにおいてクローズアップされる。それ以前のアレントは、自由とは言っていても、それは「フリーダム」のことでいわゆる「意志の自由」というものと区別していた。なぜ晩年の著作『精神の生活』において、アーレントは意志に注目するようになったのか。

アレントは、意志の自由は「経緯があっての選択」の問題に還元してはいけないといっている。

國分+千葉
パレーシア(フーコーのいう)の問題。自分が絶対的な起点になるということ。
ゼロからの意志。非合理的な意志。アーレントはそれI(パレーシア)にたどり着いたともいえるか。
なぜなら、政治に参加する自由をつきつめていったから。政治に参加する自由をつきつめていくと、意志の問題は避けられないということなのかもしれない。

・では、無からの創造を認めるのか?

國分

 認めないのがここでのこの本における立場。(國分)
 僕は無を認めてるから認めますね。メイヤスーに関連することですが。(千葉)
意志を認めると周りが「神様」だらけになってしまう(ような感じ?)なのかな。(千葉)

 だが一方、それまでの物事の流れを中断、ぶったぎることができるのが奇跡。(國分)
それをイエスは起こした。それは実際起こっている。(國分)
スピノザ主義的な神みたいな視点から見たら、それにも全部原因があるという話になっちゃう。でも、人間ぐらいの知性から見たら、それはやっぱり大きな変化。それは使い分けた方がいいと思っている。
精神分析的に言えば、象徴秩序が変わった、といってもいい。
しかし、この本ではとりあえず一度、そういう行為というか、尋問する言語に冒されまくったものの考え方を、スピノザ的な視点で全部説明したかった。(國分)

9、レポーターの感想

 ・スピノザ-ドゥルーズ-國分の流れはどちらかというと「発生的」
  だから、他者のないところには自己もないという当たり前のところからはじまる。
  あるいはそこまで遡行して考える。存在が原因、みたいな記述の姿勢がある。
  ある意味では、アレントのいう「闇」から始めようとする。

 ・アレントはそこには手をつけてはならぬ、という。
  むしろ、その闇をくぐり抜けた上で、個人が個人として市民が市民として「複数性」をもって議論すること、彼女が理想とする「政治」の場における「意志」を論じるということ、に力点がある(ように見える)

 ここには明らかに「二者」……自己と他者という重要な存在の基本設定の違い、いわば「OS」の決定的な違いがある。

「中動態」について論じているこの本は、「中動態」を歴史的に論じることによって、その「OS」がどうしてそういう「文法」を持っているのか、そしてそれはどんな抑圧を抱えているのか、またそのことによって何が見え、何が見えなくなっているのか、そしてさらにその抑圧はどんな変遷をたどって「今」のこの「不均衡」にたどり着いているのか、ということをある意味で根底から論じようとしているのではないか。

⑩、参加者のコメント

参加された方の感想を、思い出せる範囲で書いておきます(漏れがありますので、ぜひコメントをくださいませ)

・参加者の中の英語の先生は、⑤の歴史について次第に洗練されてきた、進歩してきたということではないか。
と指摘していた。確かに、名詞文から動詞が発生し、それが中動態的なものから能動態を生み、さらに中動態から受動態が分かれていくというのは、シンプルな区分が洗練・進化していく過程と言える。
その洗練・進化の中で能動/受動の区分が「普通」になっていくプロセス、シンプルに見える二つの態がいかにして「当たり前」になっていったか、を見ていこうというのがこの本のテーマのひとつ、ということになろうか。

・同じく⑤の歴史について、「この名詞文」を見ている主体はどこにいるのか?という疑問があがった。
 この時点では恐らく、主体と客体という区分はなかったのだろうと思われる。
 敢えて言えば、ただそう「見えている」ということか。つまり名詞文の段階では、「見る/見られる」という区分は存在しない、と想像できる。島貫にもよくわかっていないが、主客の二分方以前の、そしてさらに「見ゆ」「思ほゆ」という動詞が析出する以前の、原初的な名付けだけがあるという感じかな、というところで。

・スピノザの話をしていたところ、どうも親鸞に近いのでは、という感想が出てきた。
 「今ここが浄土」という鎌倉仏教の過激さと、スピノザの神が唯一の実体であって、すべてはその様態だという過激さとは、どこかで響きあっているように思われる。参照する外部を持たないという点では確かに。
そういえば、親鸞とスピノザの響き合いを論じた本もありますね。
『親鸞と学的精神』今村仁司(岩波書店)

・会の最中だったか、二次会でのことだったから、純さんの師匠である佐藤和夫さんが「(スピノザには、あるいは國分さんのこの本には)他者がいないね」という評を言っていた、というお話があった。
私が佐藤和夫さんから直接聞いたコメントは
「(『中動態の世界』におけるアーレントの意志論批判について)國分さんは誠実かつ丁寧に論じているが、正面からは論じていないね」
という評だった。
なるほど、と思った。その辺りのことは純さんの報告に委ねていいと思うが、端的にいって、國分さんの考えている「他者」と佐藤和夫=アーレントの考えている「他者」ではかなり大きな隔たりがあるのだと感じている。

この辺り、國分さんが去年のアーレント研究会で発表した「ハンナ・アーレントにおける二者の問題」で話題にした、「二者」という「数」をどう捉えるかということとも関連してくる。伏見瞬の論文「<二者>の哲学者、國分功一郎」でも言及されているポイントだ。

分かる範囲でノートから國分氏の発表を思い出してメモを再現し、今回のまとめの結語にしておく。

①アーレントは哲学者は真理を求めるから一人にならざるを得ない、という。政治は違う。政治はそれぞれにどう見えているかを前提とするから、当然複数の見方があることを前提とする。政治の根本条件は複数性だ。つまり哲学者は真理を求めるから「一者」であり、政治を行う者は複数の意見を前提とするから必ず「多数」だ。

単数か、複数か、という問題。

②しかし同時に、アレントは哲学者は常に一人で思考するが、実は一人ではない、という。必ず哲学者は対話している。「思考というのは自分自身との対話、声なき対話」だともいっている。「一者における二者の経験」(ゴルギアスの表現)。
一者における二者の経験が思考であるとアレント。

その文脈でアレントはSolitude (孤独)と Loneliness(寂しさ)は違うという。

孤独は私が私自身と一緒にいて対話ができる状態、寂しさは私が私自身と一緒にいられない状態のこと。
前者は一人でいられるけれど、後者のさみしさは、誰か一緒にいてくれる非とを追い求めてしまう、とアレントは『全体主義の起源』で書いている。このLonelinessを全体主義は利用するのだ、と。

③上の①と②を踏まえて、アレントは例によって哲学者に厳しい姿勢で望む。哲学者は政治に関与できない。なぜなら一人ならそれは真理といえるが、多数の人が考えたときにはそれは単なる「意見」になってしまうから。政治に「真理」なんぞ持ち込んだらえらいことになる、とアレントは考えている。

だが、ここからがアレントらしいといえばらしいけれど、哲学者も、政治の実践的なシーンで役割を果たすことができるかのうせいがある。それは、自らの命を真理に賭けて、その真理を「範例」にすることだ、と言う(ソクラテスみたいにね)。範例とはつまり、自らやって見せることのことである。つまり、逃げられるし、周りも逃げていいよっていってたのに、敢えて命を賭けて死刑宣告を受け入れる。冤罪だけれども受け入れる……そうやってはじめて哲学者は政治的な役割を果たせるのだと。
厳しい(例によってアレントは厳しすぎる:島貫)。
「哲学者はいつも自分自身を同伴しているという考えに慰められる」アレント

④さてここまでは哲学と政治との関係における1(真理)と多(政治)と2(思考)の関係のお話。
 次に、アレントは2(島貫的にいえばやはりこれはある意味究極の他者概念と関連してると思うんですがね)の話において、哲学と宗教を比べている(正確にいうとアレントの読み手である國分さんがそう対比しているというべきかな)。
つまり哲学者の「2」の実践をソクラテスで代表させているとすると、宗教における「2」を代表しているのは無論、ナザレのイエス。「善行を行う者」としてのイエス。
イエスの有名な教えに「右手のしていることを左手に知らしめるなかれ」というものがある。つまり、善行はそれを他者に見られてはならない。そればかりか、自分自身でさえそれを意識してはならない、他者や自己を意識したとたん、善行は変質してしまうというのだ。

アレントはこのことについて、『人間の条件』でこんなことをいっている
「善行を行う者が生きなければならない寂しさ(Loneliness)というのは、多数性という人間の条件にあまりにも矛盾している。だから長時間に渡ってはとてもそれに耐えられない。それが人間存在を完全に滅ぼしてしまわないためには、善行を目撃する唯一の想像上の証人、神の同伴を必要とする」
つまり、善行を徹底すると、人は寂しさのなかで絶対的な孤独に陥るから、超越的な存在を要請えざるを得ないというのである。
哲学者は自己との対話をしつつ思考するわけだから常に「2」を抱えている。ある意味では分裂している。他方、絶対善を行う者は絶対的に「1」でなければならないために、それには耐えられず、逆説的に神との二者関係に入っていかざるをえないのだ。
ここでは哲学と宗教が対立していて、どちらも「2」という数が問題になっている、と。

だいたい國分氏の発表の概要は以上。


私はこの発表を聞いて、この「2」って、「他者」のあり方と大きく関わってるんじゃね?と思った。
もちろん、この多様な他者のありようを容易に単純化はできない。
言えるのは、このぎりぎりの地点での自己/他者という「2」の関係を、どう位置付けるかという究極において、アレントと國分氏のOSは各々まったく異なった扱いをしているという程度のことだ。

だが、間違いなく、國分氏はアレントを単に否定しているのではないことぐらいは私にも分かる。
ツンデレというのもどうかと思うが、國分氏はダメ出しを続けながら、アレントの核心のところにじわじわと端から近づいていく営為を続けている。佐藤和夫氏は正面から論じていないといい、千葉雅也氏はその疑問は國分さんのさじ加減でしょうという突っ込みをいれている。それはそれとして納得なのだが、この<2>の発表を聞いていると、アレントのやり方ではないやり方で、しかしアレントの求めた「善く生きる」という意味での自己への配慮をなす、ということを、スピノザ主義者の國分氏はスピノザ=ドゥルーズ的なOSで論じようとしているのではないか、そう期待を込めて受け止めておきたい。

終わり。





参考資料
URL『中動態の世界』読書会の予習としてよろしければこんなものが。
①対談:大澤真幸×國分功一郎
https://dokushojin.com/article.html?i=1580
②「<二者>の哲学者、國分功一郎」伏見瞬
http://school.genron.co.jp/…/…/2017/students/shunnnn00/2738/
③対談:千葉雅也×國分功一郎
その1
人生は「それはお前の意志が弱いからだ」では解決できない問題で満ちている
http://www.gentosha.jp/articles/-/8263
その2
僕たちは「尋問する言語」に支配されている
http://www.gentosha.jp/articles/-/8343
その3
一発ですべてを変える「革命」を求めても、世界は変わらない
http://www.gentosha.jp/articles/-/8414
その4
「勉強は楽しい」なんてウソ。でもその先に……
http://www.gentosha.jp/articles/-/8466
(大澤真幸、千葉雅也との対談、および「<二者>の哲学者、國分功一郎」伏見瞬」)

『文明の恐怖に直面したら読む本』がすこぶる面白い。

2018年09月01日 14時59分43秒 | メディア日記
栗原康×白石嘉治『文明の恐怖に直面したら読む本』が面白い。

引用

「われわれは仲が悪くなってしまった。モノによる支配を支えるのは科学的言説です。それがうまくいかないから原発が爆発したのに、血で血を洗うように科学的にどうこうって議論するからいけない。出口が見いだせない」
「三・一一以後、『絆』ということがずいぶんいわれたけれど、それは現実にもとづいた結び付きのことだった。その現実というのは、実のところ文明の再建にすぎない。原発の爆発におって、むしろ文明そのものからの離脱が問題になっているのであれば、文明の現実にねざすのではなく、フィクションから出発するべきだと思う。フィクションは単なる現実の表象ではなく、そこからはみでるもの(中略)徴候的なもの」

引用終了
アナーキスト二人の対談が、胸に沁みる。
文明的なもの、すなわち構築的なものへの不信に被われ尽くした中で、なにかを新たに作っていこうという傾向性よりは、自分の中にあるエネルギーにたいしてより良くいきるためにはいったい「何がしたいの?」と聞いてみる方がしっくりくる。

とりあえずいろいろあって、退職後に就職した仕事を9月いっぱいで辞めることにした。
この本の文脈で言えば、表象や文明より「徴候的なもの」の傍らに立とうということかな。

スピノザは「真理であることがたしかになるためには、真の観念を持つこと以外、何ら他の標識を必要としない」(知性改善論)と言っていた。アナーキスト二人の言葉は、このところずっとスピノザを読んでいる私の心に染みてくる。スピノザも、外部にある表象に振り回されたり、感情に影響されると受動的になってしまうよ、と繰り返している。
ま、もちろん、スピノザはハイパー合理主義だから、アナーキスト達とは違って「こわしちまえー、ひゃっほー」なんて言ったりしないけどね(笑)。
でも、スピノザがいう「永遠の相の下で見れば」ってのも、かなり「とぼけた」表現にも見える。
このスピノザの「永遠の相」は唯一の実体である神=自然の摂理ってことなんだろうけれど、アナーキストの言う「エクリチュールの零度」「今ここの徴候を感じ取って爆発すっっお!」というあばれっぷりと、どこかで背中合わせの接点があるようにも感じられるのだ。

スピノザが「無神論」といわれて弾圧された、その弾圧側の「恐怖」というか拒否感と同じようなものを、アナーキストたちは背負っている。つまり、徹底して考えていくと、この世界の人間の営みの範囲の偏りがあからさまになってしまうというような意味で。

栗原&白石は民意というのはポピュリズムの「手口」だと、口を極めて罵る。重要なのは民意なんぞという表象じゃなくて、ピープルだ、というのだ。その辺の事情も、スピノザのいう民衆たち(そんなに言及しているわけでもないけれど)と他人の空似程度には似ているような気がしてくる。

とにかく、読むべし『文明の恐怖に直面したら読む本』。