広島市長が「原爆と原発は違う」という趣旨で平和宣言にエネルギー政策を盛り込む、とインタビューに答えたそうだ。
詳細はこちら
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130726-00000599-san-soci&1374846214
なるほど、昨年の記念式典中も、反原発運動家が騒々しかった、とか、具体的迷惑もあったらしい。
この市長の姿勢についてコメントしておきたい。
以下は昨日友人のシェアに投稿したもの。
自己引用開始--------------------
昨夜、俺もこれ、シェアしようかと思った。
なんか平和記念式典でも原発反対運動の人が勝手に騒いでたし、みたいなことが記事で触れられてあったね。
私たちはこういう分断線を自分たちで作っていく「傾向」が確かにある。
でもね。
この広島市長のインタビューは、原発は戦争の道具だから「悪」原子力発電は平和利用だから「善」という、1950年代の亡霊を再度召喚するようなものだと個人的には思う。
広島市長のコメントとしてはいささか「今ひとつ残念」の 感があるね。
1950年代のハイデッガー的(『放下』)にいえば、「平和利用」こそが思考停止をもたらすという点で真に危険であり、そここそ熟慮すべき問題なんだけど。
引用終了---------------
もう一つ。原発にノーといえない日本ってなんなの?というコメントへの返事
引用開始---------------
村の談合以下、だね。私は山村の廃屋に3年間住んだことがあり、村の集会にも出たけれど、水路の水をいつ引き、いつせき止めるか、でナイフをテーブルに突き刺す(酔っ払ってからですが)ぐらいの「闇」の闘争はあったよ。だって稲の生育に直接関わる一大事だからね、水は。
ところが、今は「原爆」とか「原発」を語るのに、その「闇」と「暴力性」についてあまりにも言及されなすぎる。
原発と原爆は違うとか、そりゃ違うだろうさ。
んなことは小学生だってわかるよ。
もう少し、根底から考えぬこうという姿勢が必要なんじゃないかな、政治家なら。
意見を旗幟鮮明にすればいいってもんじゃない。
小学生の学級会だって今日びはもうちょっと深刻な対立について考えを深める、と思うなあ。
原発か原爆か、といった二分法を、広島市長が語ってしまうのには、私も失望しました。
二分法がいかんといっているのではなく、それで終わっちゃうと「分断」と「排除」と「忘却」が再生産されちゃうんじゃないの?ってことです。
引用終了---------------
よしんば本当に原爆はいかん、原発は必要、と考えているのだとしても、それならばむしろなおさら、単純な「脱原発原理主義」の人よりも、その闇と暴力性についてキチンと思考が届いているシグナルが必要なんじゃなかろうか。
もし仮に市長が本気で
「原爆の痕跡は残すべきだが、原発事故の痕跡は乗り越え、忘却すべきもの」
と考えているなら、むしろ私たちはそこにこそ深い絶望を感じなけれはならない。
まあ、福島に住む者としては、
「この汚染の現実とバランスし得る原発維持なんてあり得ない。それなのに、よりによって広島市長が言うかなあ」
という残念さを感じたということです。
政治家がプルトニウム保持による潜在的核保持能力の一環として原発サイクルを考えてきた、ってこともあるし。
違いに言及するだけでは不足、との印象は拭えなかった。