龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

LECCAの『Right Direction』をヘヴィー・ローテーションしている

2012年05月25日 20時45分10秒 | 大震災の中で
LECCAというシンガーの
『Step One』
というアルバムの収録曲
「Right Direction」・「再生」・「ファミリア!」
の3曲を、現在ヘビー・ローテーション中。

これらはほとんど宗教曲に近い。

今流通している歌のほとんどは、ラブソングか元気ソングに二分される。
そしてLECCAの曲は本人も言っている通り、ラブソングばかりではなく後者の曲も多い。

とくに私が現在お気に入りの「Right Direction」は凄いです。

歌のサワリはavexからアップロードされているビデオクリップは以下のURLで。
http://www.youtube.com/watch?v=udIsp7JY0qs

歌詞はこちらで。
Right Direction lecca 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND121699/index.html

「素晴らしいと思うもの それは正しいと増えること」

なんて歌詞は
「悲しみ」それ自体は何ものでもない、自己の「力能」に拠って生きることだよねっていう感じがあって、それは、なにやらスピノザ的な匂いさえしてくる(笑)。あ、もちろんこれもフォーマットはラブソングなんですが(家族愛、ですかね)。

「再生」も、別れ歌なんだけれど、彼氏によって生まれ充実してきた自分の中の「力能」を見つめて、よりよき生を生きようってことになってて、これはやっぱりかなりこのLECCAっていう人は優れて「宗教的」な楽曲を作る人だと感じた。

それと、「レゲエ歌手」という肩書がある(wiki)ことが関係しているのかどうかわからないけれど、歌詞のフレーズがリズムの拍をまたぐ特徴がある。

それはいわゆる日本語の歌の桎梏(しっこく)から言葉を解き放つ力を持っているのではないか、と感じる。

レゲエからラップが生まれた、という話も聞いたが(真偽は不明)、私のような年寄りが普段耳にするラップなんぞよりは数段豊かな「差異」を、このLECCAの「歌」ははらんでいる。
とにかく凄い。
日本語を自在に操るその「発話」=「発声」は唯一無二の印象を受ける。

歌詞は、まあちょっと油断して聞くと「ベタ」に聞こえるかもしれないが、それは聴き手が曲の使用法を間違えているだけのことだ。

第一、かなり集中しないとおじさんには歌詞が聞き取れない(笑)。
しかし、このリズムが身体になじんでくると、ある瞬間突然「歌詞」が既にこちらの身体の中に「もう」「以前から」存在していたかのように響きだすのである。

この歌詞にこのリズム、このボーカル、このソウルが組み合わさると、とんでもないことが起こるということだろう。

「分かるときには、分かることがわかっている」

そういうことが身体のバイブレーションとして感じられる楽曲。
やっぱりこれは「宗教曲」に分類されるべきかと。

LECCA、かなりのお薦めです。


高橋哲哉『原発事故の責任をどう考えるか』を聞いてきました。

2012年05月24日 00時07分51秒 | 大震災の中で
昨日(5/22火曜)、福島高校の梅苑会館で東京大学大学院総合文化研究科教授の高橋哲哉先生の講演会がありました。
演題は『原発事故の責任をどう考えるか』。
高橋先生は福島高校の出身で、幼少時富岡にも住んでいた経験があるそうです。

たまたま時間があったので、お願いして(本当は地区の社会の先生の研究会)聴講させてもらいました。
内容のポイントはヤスパースのナチス・ドイツ戦争責任論
『罪の問題』平凡社ライブラリー
から4つの責任区分を引用し、丁寧に原発事故の責任を解きほぐして論じてくれるところにありました。

「みんな」に責任がある、という思考停止は、原発の安全神話の思考停止と「表裏一体」のもので、今問われるべきはその「思考停止」それ自体だ、という指摘は重要。

そのために、きちんと責任の質・種類を見極めるという姿勢も大切。

ヤスパースは4つの区分を示している。
1,刑事上の罪
2,政治上の罪
3,道徳上の罪
4,形而上の罪

このうち高橋先生は1~3に言及しつつ、誰が、どんな責任を負うべきか、を実に丁寧に解きほぐしてくれます。
この1年の間に聞いた「責任論」としては一番重要かと感じました。

講演内容はこちらにメモをアップしてあるので詳しくは参照を。
メディア日記龍の尾亭
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120523

いちばん納得したのは、「みんなに責任がある」として、責任の質も内容も大きさも問わずに思考停止することに対する、きちんと丁寧に、しかも説得力ある批判がなされていた点でした。
これだけきちんと
「みんなに責任」=結果としての思考停止
の危険を説明してもらったのは、この1年間で初めてでした。

ただし、私はヤスパースが触れた4つめの形而上の罪に、高橋先生が言及しなかったことが不満です。
まあ、敢えてそこは外してあるんだと思うけれど、「強大な自然と向き合う」哲学こそが、むしろ高橋先生が言う、粘り強い思考を続けていくエンジンになると思う。

高橋先生は戦後も国に対する不信が高まった、今回もまたそういうチャンスだ、と指摘している。
なるほどそうかもしれない。第二の敗戦だ、っていうのも一理はある。
けれど、それはその通りなんだけれど、私は高橋先生のスタンスとは異なり、4の形而上の罪について考えることこそが、1~3までの罪を「思考停止」せずに粘り強く追及していく「基盤」となると考えている。なぜなら、私達は、制御可能な限界を超えて「自然」の力をコントロールしようとしてしまったのだから。
そこを触れずに1~3の「人為」の範囲だけで論を完結させることはできないでしょう。
もちろん、自然とか神とか安易に「外部」として設定するのは問題けれど。


質問もしたのですが、ダライ・ラマの時もそうだったし、東大駒場の3/11以後の公共哲学のシンポの時もそうだったし、今回もそうだったんだけど、うまく通じないのです。

質問の仕方がよっぽどへたくそなんだろうか。
問題の風呂敷の大きさに、こちらの言葉が追いついていかない、ということか。問題のありか自体は大事なツボに間違いないと思うんだけどねえ。

修業だ……。

と考えていたら、仙人広場のブログ子が後の飲み会で話を進めてくれたようです。
blog仙人広場
http://blogs.yahoo.co.jp/yamakawasennin/folder/430689.html#4161942

よろしかったらこちらも参照を。




國分功一郎 スピノザ入門第2回 (その2)

2012年05月23日 21時05分15秒 | インポート
國分功一郎 スピノザ入門第2回(その2)
を下のブログに書きました。
メディア日記
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120522

『知性改善論』のポイントとなるところに入って来ました。
これを踏まえて7・8・9月は『デカルトの哲学原理』を中心に読むことになります。
よろしかったらこの夏、スピノザなどご一緒にいかがでしょう?

スピノザのテキストには、不思議なほど透明な「風」が吹いていると最近思います。


國分功一郎 スピノザ入門第2回 (その1)

2012年05月20日 19時42分00秒 | 大震災の中で
朝日カルチャーセンターでのスピノザ講義12回中の第2回を受講してきました。

下記に概要メモをアップしました。よろしければご覧下さい。
國分功一郎 スピノザ入門第2回(その1)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?PHPSESSID=5002c1fec50b88a6bd34bec8b396976c

早わかり的にえば、『知性改善論』は永遠に未完になるしかなかった失敗作。
しかし、その失敗は本質的なものだった。

スピノザは「分かっている人には分かっている」「それを事前に説明はできない(方法についての方法、方法についての方法についての方法と無限遡行を招来してしまう)」「真の観念の獲得後にそれを検討してはいけない(懐疑がきざしてしまう)という真理についての考えを持っているのだから、
Pre方法論/Post方法論
ともに不可能。
よって「方法」についての記述も「方法論」についての記述も矛盾をきたす。

うまくいくときはうまくいくというだけでは、ヘラクレイトス的世捨て人になっちゃう。
他方
ガイドラインを設定して、コギトで「寸止め」しては、ある地点で懐疑を止めているだけ(デカルトのこと)。

スピノザはは、にもかかわらず私達には方法が必要だ、と考え、この困難に立ち向かったのではないか。

完成を見なかったこの「絶対に完成しないことを試みた失敗」が、遺稿として出版され、私達が読めるのは奇跡に近い。
そしてこれが『エチカ』読解にとても重要ではないか、ということでした。

面白い!実に面白い。

講座修了後、セミプロパーとおぼしき人二人が質問していて、その質問の「高度」さにびっくりしましたが、國分功一郎という人の二つの「読み方」の特徴が、その二人の質問でより鮮明になったような気がしました。

それは、2点あります。
1点目→テキストをテキスト自身において内在的に読む身振り
2点目→完成した『エチカ』の論を先取りして整理・説明するのではなく、「分からない感じ」を模倣する身振りを、教え手として学習者と共感しつつ進もうとする姿勢
です。

一人目の質問者がスピノザは主体が読む、というのと真理自体がそれを示すというのとが合わさって、主体の消失と真理の自己運動?(もっ別のとテクニカルタームを使ってたと思うけど、素人には不明)が成立するのではないか

と質問したのに対し、「そこがポイント」と共感しつつも、スピノザは「主体」に最初から触れていない、とも指摘。
質問者の物語とのズレをテキストの有り様自体によって示していました。


3人目の質問者が、もっとエチカの「神」から説明した方が説明としては適切ではないか?國分氏の説明は、「普通」ではないし、その独自の説明の仕方は最適解ではないのではないか、と「提案」したのに対し(論証なしで共感を強要しつつ、自分が正しいという雰囲気を漂わせる質問者の姿勢は、スピノザ的でも國分的でもなく、ただのスノビズムに見えましたけどね:foxydog注)、國分さんは、たしかにスタンダードな切り口ではないかもしれないけれど、むしろ、スピノザも抱えていた困難を、学習者と共に共有しながらエチカに向かうやり方の方がいいと思っている、と応接。

私は國分氏の「知」の「遅速度」(今村仁司の用語)に満ちた、じっくり分からなさや困難の近傍に立ちながら共に思考する、というスタイルに、深い時代性を感じて共感しました。

でも、質問者のレベルも高いなあ、と感じました。私のようなエチカが読めないという素人も、早くエチカに行ってくれーという上記お二方の質問者も、期待に盛り上がってきているのは間違いありません。
『エチカ』は秋口になるらしいですが、よろしかったらいかが?
お薦めですよ!





上野修『デカルト、ホッブズ、スピノザ』(講談社文庫)を読了した。

2012年05月17日 22時11分52秒 | 評論
上野修『デカルト、ホッブズ、スピノザ』(講談社文庫)を読了した。
メディア日記に書くべきところだが、今日はこちらに。

上野修『デカルト、ホッブズ、スピノザ 哲学する十七世紀』講談社学術文庫

を本日読了。1999年に単行本として出版されたものの文庫化。去年の暮れの発行だったらしい。

上野修という人に初めて出会ったのは、数年前、スピノザの入門書を二冊買ったら、たまたま二冊とも上野修という人が書いたものだった。

NHK出版 シリーズ哲学のエッセンス『スピノザ』上野修
講談社現代新書 『スピノザの世界-神あるいは自然-』上野修について

過去のブログ(メディア日記)を見るとフーコーコレクションの文庫と同時期、萱野稔人『国家とは何か』のちょっと後に、スピノザの著作とスピノザについての本を10冊ぐらい連続して購入している。

それにしてもなぜ、スピノザだったのだろう。
もうよく覚えていない。自分自身の、「スピノザ以前」を思い出すことがかなり難しくなっている(笑)。

ただ、今回『デカルト、ホッブズ、スピノザ』を通読してみて、なんだかとても懐かしい感じを覚えたのである。
それは明らかに80年代の匂い、といっていい。
ドゥルーズとかラカンに言及しているから、だけではない。
思考のスタイルというか、文体が前提としている「了解事項」を「脱構築」していく、その「脱構築」すべき前提となる「了解事項」自体が懐かしかったのだ。

上野修はスピノザの哲学がきわめて「異様」だ、と繰り返す。
まあ、そうだったんだろう、と思う。
80年代にフーコーやデリダを読んだ時の、脳味噌を裏側から掻いているような不思議な「異和感」もまた、その「異様さ」を身に纏っていた。

何がいいたいか、というと、ドゥルーズを経由したスピノザ「発見」の文脈がそこにあったのだなあ、という感慨を抱く、ということかもしれない。

しかし、私にとってドゥルーズは、遠い存在だった。フーコーは夢中になって「読めなさ」を楽しんで読んでいたし、デリダは「読めない」のではなく「分からない」という感じも持ちつつ、惹かれていた。
でも、ドゥルーズは、ドゥルーズ自身の思想を語らないので、誰かが「利用」したドゥルーズしか知らなかったのだ。
そして、それはほぼ決定的に面白くなかった。
だから、ドゥルーズも「分かりやすい」人なんだろう、とてっきり思ってしまっていたのだ。

ところが、そのドゥルーズ像が、スピノザを読んでいて覆される。それが

ドゥルースの『スピノザ』平凡社文庫

との出会いだった。
上野修さんは入門書本文ではドゥルーズには言及していなかったと記憶しているけれど。
ところが、この『デカルト、ホッブズ、スピノザ』は、明らかスピノザ論が中心になっていて、しかもドゥルーズ的解釈によるスピノザが中核にある。

そういうことか、と今日、思ったのだ。

でも。

入門書2冊の学恩は忘れないけれど、私にとってこの『デカルト、ホッブズ、スピノザ』はちょっと懐かしすぎる。
つまりは、過去のものになっている。
無論、勉強するにはとてもいい本だ。
自分がグルグルしていた80年代の思想シーンの枠組みでスピノザを論じてくれていたことは、そして今それをこうやって読めることはありがたい。

だが、スピノザの哲学が「異端」であり「異様」である、という修辞は、はっきりと私にとっては今のところとりあえず「過去」のものになりつつある。
なにか自分が成長した手柄のように言っているのではない。

自分は時代の空気を吸って生きる以外に空気を吸うやり方をしらず、その時代の空気が、スピノザを「異端」「異様」のままにはしておいてくれなくなった、ということがいいたいだけだ。

吉本隆明が親鸞の「異様さ」的なところに瞳を凝らしていたときも、今ひとつ意味が分からなかった。

だが、今ならそれが分かるような気がするのだ。

蓮實重彦の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』から30年。

だいぶ周回遅れでドゥルーズを読み始めた私は、その中でスピノザ読解を進めていくうちに、千葉雅也・國分功一郎という(比較的)若手のドゥルージアンと出会うことになるのだけれど、それはまた別のはなし。

スピノザが「異様」なのはもちろん分かる。
未だに『エチカ』は自力じゃ一行も読めないし……。
でも、書簡集のスピノザはめっちゃ丁寧に「分からなさ」を繰り返してくれるんだよねぇ。
説明になっていないような説明を、あたかも「明快」な説明ででもあるかのように、しかし、分からない人には分からないのだろう、というある種の明るい諦念みたいなものすら感じさせるような調子で。

その粘り強い「わかりにくさ」は、「異様」という言葉だけでは掬い取り切れていない、と思ったのだ。
80年代なら、この上野論文に圧倒されていたことだろう。その手際にも惚れたに違いない。

そういう時代でもあったのです。

(時代のせいとかにするつもりはない。けれど、あのときの「理解」はそういう種類の「理解」でしかありえなかったという意味での「時代」=「思考基盤」が存在したということ)。


上野論文を読んで「へぇーっ」と思う部分は実にたくさんあって、だからぜひにもお薦めなのですがね。

スピノザは意識の価値の切り下げをしている、ってドゥルーズが『スピノザ』で説明抜きでさらっと書くところを、たとえば上野論文ではほんとうに丁寧に、スピノザがその主著『エチカ』の幾何学的秩序において、語りの主体をどれだけ注意深く排除しているか、というアイディアで説明してくれる。

デカルトの説得には「私の語り」が不可欠だが、スピノザはそうではない。
むしろ、主体が生成される差異の欲望の現場を見据えて、その瞳の強靱さをつきつめていったのがスピノザなんだよ、的に説明されると、「おおっ」てなるわけです。

ホッブズとの比較でも、万人の万人に対する闘争という「自然状態」を離脱して秩序が成立するために第三項を排除して高みに置き、そこに権利を委ねるというホッブズの思想展開とはまったく異なり、スピノザは自己の主体が権利譲渡の契約をするなんて話ではなく、「残余の他者」の総和=群衆の力能を意識したとき、すでに主体は一挙に権利の委譲を行ってしまっているのだ、なんて説明されると、むしろ「力学」というか「政治」をそこにヴィヴィッドに感じたりするわけです。

説明がへたくそですいません。本文直接読んで貰った方がずっと分かりやすい。
スピノザの哲学が内包する「構造」の分析としては、素人にとってはもうこれで十分なのじゃないか、ってぐらい書かれています。

ただし、今、スピノザのテキストを読むことからは、ちょっと距離があるかもしれない、とも思うのです。

共に謎を共有して、それを鮮やかに説いてくれる話法は、非常に啓蒙的(でも)あるのですが、そしてだから分からせてもらえる面もあるのですが。

そのあたり、ドゥルーズの「話法」と「上野話法」と、そしてもちろん「國分話法」や「千葉話法」あたりとも比較しつつ、考えていきたい点です。

結論はありません。でも、続く、ですね。




山が見えると落ち着く、という話を

2012年05月12日 15時56分53秒 | インポート
昔誰かがしていた。長田弘(高校時代を福島の盆地で過ごしていたはずだから、吾妻山を見ながらってことになります)のエッセイだったか、友人とのおしゃべりの中だったかそれも覚えていない。

たぶん高校生か大学生の頃の私は、その話にちっとも納得しなかった。
山は所詮山だろう。
その山に囲まれて狭苦しく閉塞感に満ちた盆地が懐かしくなるなんてことが起きるわけがない、そう思っていたからだ。

また、ご多分に漏れず、かつて山に住んでいる若い者がクルマを運転するようになると、「海に行こう」と人を誘うのが基本だった。
たぶん今はそんなことはしないのかな。
私は20代前半の頃、仕事が終わるとそこから深夜にかけて、女の子を誘ったり男の子同士だったりカップルだったりいろいろしたが、実によく「海に行こう」を繰り返していた。

御用達は双葉の海。請戸の海に何度いったことか。
今は警戒区域で行けないし、津波の直撃でほとんど何も残っていないそうですが。


だが、、今になって冷静に考えてみると、ただないものねだりをしていただけで、特別海が好きだったわけでもないような気もする。釣りとか嫌いだったし(笑)。
海によく行ったのは山に住んでいた頃だし、スキーを本格的に始めたのは、海沿いに住むようになってから。
ま、そんなものかもしれません。

でも、さいきん、ちょっと年を取ったせいか、だんだんあの吾妻小富士や安達太良も、そして磐梯山も、故郷福島の山々はなかなかどうしていいもんじゃないか、と思うようになってきた。

風景の中に垂直軸があると、心の構図が安定する。
景色は絵画とは違うけれど、そういうことがあるのかもしれない。

生徒が宮沢賢治の蠍の短歌をメモして持ってきた。合唱曲になっているのだとか。
ちとネットをうろうろしてみただけでも、宮沢賢治は蠍座のアンタレスを「赤い目玉」としていたく気に入っていたようだ。また、その赤を、他者への献身の炎に身を焦がす赤(よだかの星みたいですが)と捉えていたと書いている人もたくさんいた。
老後の楽しみにとってある校本(『宮沢賢治』)を今ひっくりかえしてみる余裕もないが、賢治のお気に入りの一つではあったようだ。

星座も子供の頃全く興味が持てないものの一つだった。
膨大な広がりを、勝手に人間が遠近を無視して平面上にプロットし、しかも恣意的に結びつけた名前など、バカバカしくて覚える気にもならない。
そう思っていた。

今となっては星座に限らず、モノの名前など到底覚えられない。
この前iPodにクラシックの二枚組CDを転送したのだが、手順を間違えて逆順のリストになってしまった。
楽章というかまとまりごとにその曲の名前を覚えたいのに、たかだか10曲程度の音楽とその表題が結びつかない。

名前など恣意的であってもいいのだ、と分かってきたのも最近だ。
「恣意的」かそうでないかを判断するその「思惟」の「恣意」を誰が判断するんだって話でもあるし、そういうグルグルからようやく解き放たれたということでもあるかもしれない。
まあ「恣意的」でないものは、神の意志以外には存在しないのだし。

いや、そもそも神に意志とか意思とかがあるとかないとかって考える必要も元からなかった。
そこにあることが即ち神なのだとすれば。

自然に対する「観照」の態度・姿勢が変わってきたのだ。「意識の価値」とやらの切り下げが、ようやくこの年になって起こってきたらしい。
「おそかりし由良の助、待ちかねた」
って感じだけれど、老後はぎりぎりセーフで豊かに過ごせるかもしれない。

相変わらずその豊かさはボケと取引されたものではないかと、切り下げられてもなお「意識」に固執する「自分」は不安を持ち続けてしまうのではあるが。

とにかく、山も海も空も☆も、自然がすべからく「まったき」姿を示してくれることに感謝しつつ。





集中管理型権力の限界

2012年05月11日 22時45分45秒 | 大震災の中で
オバマ大統領が同性愛婚を支持した、というニュースを見た。
まあ、民主党だし、当然だよね、と思った。この時期に敢えて表明するのは政治的意図があってのことだろうけれど、基本スタンス通りではあるのだろう。
しかし、同時に、じゃあ日本で総理大臣がこんな風に支持することはあるまいな、とも思った。

そういえばサンデルの「正義」本にもこの同性愛の婚姻を認めるかどうか、っていうのが話題に取り上げられていた記憶がある。

話しをしたいのはその当否ではない。
個人的にはホモもヘテロも、脳味噌に操られた「傾向性」だと考えているから、どちらでも心の赴くところに生きるべき場所がある、という感想があるだけだ。

だが、「婚姻」は社会的制度であって、趣味の問題ではない。
公正さ、からいって、ヘテロ婚ばかりが法律で保護されたり優遇されたりするのはどうか?
というけっこう根本的なところから考えているのだろうな、アメリカの人達は、と感心する。
と同時に、国家はかなり以前からそういうところまで「手をつっこんっで」いるのだなあ、ということも実感する。

国家が手を引く、という道はないのかしらん、と私は思ってしまうのだが、権力「作用」というか、「システム」というか、そういうものの作動圏域は、広がりこそすれ、狭まることは難しいのでもあろう。

でも、と思ってしまう。
なんでもかんでも集中管理するっていうのは、かなり無理が来ているんじゃないか。
「婚姻」なんて、全部事実婚でいいんじゃないかなあ。

子育てを支え合うパートナーは、一つがいの雄と雌、とだけ限ったものでもないだろう。
いわゆる夫婦と二人の子供という「標準家庭」の「非標準化」は、婚外子比率が先進国中アンビリーバボーなほど低い日本でさえ、指摘されはじめて久しいのだ。

子育てコストを社会がきちんと背負わず、そのコスト削減の方策としてヘテロ婚が維持されている、なんて状態なら、そんなことは即刻止めて日本はきちんと人口減少の黄昏を選択すべきだ。

無論、すべてを国家が集中管理するなんてことは、婚姻一つ取ったって、原子力発電所の事故一つとったって、できるわけはない。

だとするなら、どこまでコントロールするのか。そしてどこから先は手を出さない勇気を持つのか。

教育だって政治だって(そしてネット)だって、その圏域で考えやすい発想は、誰かがしてくれている。
しかし、その圏域では考えにくい発想は、とことん欠如してしまう。
そんな貧しさの匂いに、私達はそろそろ気づき初めてもいる。
いわゆる「厨房」として、世界を半分だけに縮減した「正しさ」で生きるわけにはいかないものね。

でも、じゃあ世界を全部で生きる、なんて芸当が一体全体可能なのかしらん。
私は最近、「分散」して生きるというスタイルをどこまで現実のものとできるか、がカギになるような気がしてしょうがない。

もちろん、国家やネットワークが提供するインフラは不可欠だ。
その上で動く「OS」だって共有しなければならない。
しかし、全てのアプリケーションをインフラ(ハード)やOS(ソフト)がどこかで面倒みてしまう、というのはナンセンスな話だ。

リスク管理、と簡単に言うけれど、危険は単純なコスト管理の発想とはなじまないのも事実。
滅多に起こらないけれど、起こったら重篤な被害をもたらすものに、いわゆる目先の利害計算は馴染まない。

そういうことに気づかないと、福島県民の多くからみると「やれやれ……sigh……」という風に見える「再稼働」を声高に主張してしまう電気屋さんになってしまう。いや、電気屋さんだって企業だから、目先の利害計算に振り回されるのは株主の手前当然なんだよね。
だから、環境は「管理」されなければならない。
しかしそれは、集中管理型権力、とは一線を画すべきだ。

そういえば「環境管理型権力」については、NHKブックス『自由について』で東浩紀が早い時期に問題提起していた記憶がある。

そこでいわれていた「環境」と、今考えている環境とはちょっと意味が違う気がするけれど、いずれにしても、環境が「提供」してくれる条件をどう考え、どう整え、どうその限界を見極めつつマネージメントするか、が、人間存在の「可能性条件」を問う「哲学」として重要な課題になってきた、ということであるのだろう。

このとき、環境を問う作業では、自然環境と社会環境、が同時に問題になるはずだ。
たぶん、それに加えてもう一つ、存在論的環境(こなれない言葉だ、だがそのあたりのポイントをうろうろしているのです)とでも言うべき視点が必要になるような気がしている。

精神と物質という二元論の枠組みを全部放棄できるはずもない。
でも、哲学って、どれかだけを択一オプションとして選べばいいってものではないようだ、ということがようやくわかりはじめてきた気もするのだ。

私達はともすれば、自然環境ばかりではなく、人間が積み重ねてきた社会環境の中でそれを擬似的自然として「動物化」し、無意識に生きる。
だが、去年のような「人為の裂け目」を目の当たりにすると、今まで依拠していた社会=自然が様相を全く変えてしまい、それに依存した無意識の列車にはもう二度と乗れない、と分かる。

ではどうするのか。
そこでは、「自然」と「社会」、そしてそれを前提として生きる「存在」である人間としての「私」=「私達」の有り様が改めて問われるだろう。

自分の脳味噌が、どんな見取り図で世界を生きているのか、一度じっくり立ち止まって中を見つめておくことが大切なんじゃないかな。
意外にこの自分の脳味噌ってやつ自体が、遺伝的なものに依拠しつつ、物質的なものを前提としつつも、かなり自然や社会によって提供された「環境」と自分との間で長年作り上げてきた『環境of環境』みたいなものになっていて、そこに瞳の後ろあたりから触手を伸ばして脳味噌の中の動きを裏側からなぞってみるみたいなことが面白いのかもしれない、なんて思ったりもする。

藤枝静男だったか『空気頭』というへんてこりんな小説を大昔読んだことがある。
マトリックスのように単純な二元論的反転を前提としてずらすんじゃなくて、もっとフィジカルにそのへんてこりんさを描いている「怪作」だったような記憶だけがあるんだけど、そんな感じかな。

とにかく、細かいレギュレーションをつきつめていくだけじゃ立ちゆかないんじゃないかな。

オバマ大統領同性愛婚を支持、っていういかにも政治的な見出しが、アメリカの政治状況にとっては切実な賭けなのかもしれないけれど、なんだかどうしてもそこを政治が「包摂」するのはいいとして、その先どこまで管理を集中して装われた「公正さ」を演じ続けるつもりなの?といささか心配をしてみたくなる。
いや、もちろん、オバマ大統領(に代表されるアメリカ人)はそういう場所で政治を行っていて、やりきる自信と覚悟があるのだろう。

認めることと包摂することとは違うし、政治の袋に現実が入りきらないって時がどうしたって来るのは自明じゃない?と思ってしまうのだけどね。




連休中、ブログをお休みしていました。

2012年05月10日 23時13分22秒 | インポート
連休中、2度青森を訪れた。
一度目は桜には早すぎ、二度目は満開を過ぎていた(たぶん5月1日か2日が弘前公園の満開だったのかな?)。

それでも十分楽しかった。
津軽平野は私の大好きな場所の一つ。

岩木山という独立峰に惹かれるのだろうか。

周囲をぐるりと巡ってその山を意識しながら走る。
そんなドライブが好きなのかも知れない。
岩木山がそうだし、富士山もそう。阿蘇山もそれに近い。
どちらも屋根を開けて、その山を身近に感じながら走ることができる。いずれも好きなドライブコースだ。

壁のように山が道路の先に立ちふさがっていると、向こう側にいかなきゃならない。
でも、その道は往々にして半年ぐらい道が雪でふさがれていたりする。
山越え、峠越えのドライブもそれはそれで楽しいけれど、ゆっくり流すにはチトきつい。

のんびりとオープンクルージングを楽しむには、どこからみても山を自分の近傍に感じることができるのがいいのかもしれない。

それに、道の駅。
大鰐弘前のI.C.を降りてすぐの弘前の道の駅は「なかなか」のものなのだ。

ゴールデンウィーク過ぎまで、1個50円のサンふじ(りんご)を売っている。
そしてこれが旨い。

地元のおじいちゃんが買いに来る。そして店の人も、
「あと二週間でもうおしまい。買えんならいっぱい買ってぃきな」
なんて地元の人と会話している。

そんな道の駅だから、地元の野菜もいっぱい並んでいる。
品揃えのために他県の野菜も並んでいるが、逆にいえばだから、地域の台所としても機能しちゃう。
一見客向けの観光物産館、じゃないのだ。
青森県にも他にたくさん道の駅があり、それぞれに特徴があって楽しいけれど、いつ行ってもこの道の駅の集客力には脱帽する。

道の駅的な地元産品直売系のお店の売上は、コンビニ顔負けだったりしてね。
私はすっかりリピーターになってしまった。

道の駅は、まりだすとこれはこれでおもしろい。
八峰で買った椎茸は焼いて食べたら美味しかったとか、その弘前の1個50円のサンふじがいいとか、塙の道の駅で売ってた餅つきイベントのお餅が絶品だったとか(長芋もうまかった!)。

今年からは、クルマにシェラフを積んで道の駅ツアーでもしようか、ともくろんでいる。
キャンプとか大げさなものではなく、気軽にたどり着いたところで寝倒れ車中泊の旅、である。

こういうとき、ロードスターのオープンエアーの気持ちよさを取るか、後席フラットで寝やすい快適性のレガシィを取るか、が極めて悩ましい。

オープン2シータ-の決定的な弱点は、人や荷物を積めないことではない。
問題は、クルマで寝るのが極めて難しいことなのだ。
一度福島から松江までノンストップドライブをしたとき、夜中東名高速のPAで仮眠を取ったのだけれど、これが辛かった。
一時間と続けて眠れないし、なにせ身体が固まってしまう。

目的地に着いてからはオープンが楽しいに決まっているんだけどね。

それに対してワゴン車はシェラフとマットがあれば、ほとんど苦にならずに睡眠が取れる。
道の駅ならトイレもあるし、場所を選べば風呂にも入れる。
もっともお風呂は最近、どこでも日帰り温泉サービスをやっているので、存外お風呂には困らないようになってきた。

というわけで、連休中は活字を離れて福島-青森を二往復。

でも、本当は、ドライブにとって目的地が目的、じゃない。
どこでもない場所の「自由」は、走っている最中のクルマの動きの中にこそ、ある。
道の駅は、その中のちょっとした結節点、といったところだ。

息継ぎをしながら、その結節点を跨ぎ越して旅を続けて行く。

最近はまっているレゲエ系?の歌い方をするLecca(烈火の如く、の「レッカ」から由来するネーミングだとか?)の曲にも同じようなテイストを感じる。
スクエアな拍を跨ぎ越して、音楽の「現場」が広がっていくような印象の歌なのだが、ドライブの醍醐味の一つに、その「点を跨ぎ越す」感覚があるように思う。

もちろん、高速道路をひたすら走るだけのドライブよりは、ワインディングロードをひらひら運転した方が楽しいことは間違いない。
でも、一見修業もしくは労働に等しいクルマの道行きにも、実は日常と、そこを離れた遠い目的地との「間」の、どこでもない場所でリズムを刻む楽しみが確かに存在するのだ。

そんなこと、感じない人が多いと思うけどね(笑)。

私自身、もし後部座席に乗っていたら、長距離ドライブは睡眠のための時間に過ぎないかもしれない。
それでも、なお、移動している間のこの感じは、何か心に訴えるものがある。
ゆっくりそんなことも、また考えていきたい。

そんなこんなで、ようやくブログ復帰です。